第15話:院則第五十二条を、ご確認ください
公証院の大広間は、天井まで人の気配で満ちていた。
貴族席には扇と囁き。立見の柵の向こうには、市井の顔、顔、顔。ハンネス親方の腕組みが見える。触れ書き屋の親父が、帳面を構えている。
公開審問。この院で開かれるのは、実に二十七年ぶりだそうだ。
「——静粛に」
上座で、ドロテウス・ハルトゥング副総裁が、金の鎖を鳴らした。柔和な笑みは、今日も完璧だった。
「これより、資格審問を開く。被審者、ユスティーナ・フォン・ヴェッセル。……議題は、免状なき者による公証文書の起草、すなわち名義の偽り。院則の根幹に関わる咎である」
わたしは、広間の中央に立った。黒地に白襟の検認人の装束。停止中の身でも、装束までは取り上げられていない。
壁際に、黒い制服の一団。執行局長ライナルト・フォン・エーベルヴァイン大公が、立会人として、腕を組んで控えている。
(役者は、揃いましたわね。)
「被審者に問う」ドロテウスの声は、蜜のようだった。「あなたは、当主オイゲン卿の名義で、長年、公証の紙を起草してきた。相違ないか」
「相違ございません」
「免状は、お持ちか」
「持っておりません」
広間が、ざわめいた。あっさり認めたことが、意外だったらしい。ドロテウスの笑みが、深くなる。
「ご本人が、お認めになった。免状なき起草は、院則第十二条の禁ずるところ。——これは名義の偽りであり、あなたの書いた紙は、すべて疑わしきものとして、院が検めねばならぬ。ヴェッセル家の記録一切の引き渡しを——」
「副総裁様。まだ、審問は終わっておりませんわ」
わたしは、静かに遮った。
「院則第十二条は、たしかに免状なき者の『単独の』起草を禁じています。ですが、同じ院則の第十九条を、ご確認くださいませ」
「——『登録された検め印を有する起草補助者は、免状ある名義人の監督の下、公証文書の起草に携わることができる』」
わたしは、黒檀の印章を、掲げた。
「わたしの検め印は、この印章。譲渡と登録の記録は、院の登録簿にございます。——十年前の日付で。登録の手続きをなさったのは、先代法伯ゲルハルト。わたしの、父です」
広間が、今度は大きく揺れた。
(お父様。あなたは十年前、院を追われるその晩に、娘の印章を登録していった。)
(わたしが、いつか、正しく紙の道に立てるように。……先回りが過ぎますのよ、本当に。)
「じゅ、十年前の登録など——」ドロテウスの声から、初めて蜜が薄れた。「そ、そのような古い登録が、有効であるものか」
「あら。登録の効力に、年限の定めがございまして? ございますなら——その条項を、ご確認くださいませ」
ドロテウスは、答えなかった。答えられるはずがない。院則を編んだのはこの人だ。そんな条項が無いことは、誰より、この人が知っている。
「登録は有効。名義人の監督下の起草は適法。……わたしの紙に、咎は、ございません」
「——だ、だが!」
ドロテウスが、身を乗り出した。慇懃の仮面に、罅が走っていた。
「監督者たる当主オイゲン卿は、『知らん』と証言しておる! 監督なき起草は、やはり院則違反である!」
「では、その点も、検めていただきましょう」
わたしは、頷いた。ここからが、本番だ。
「わたしの登録が正しいか。わたしの紙が正しいか。すべては、院の登録簿と原本庫が知っております。——よって、被審者として、請求いたします」
わたしは、息を吸った。
「院則第五十二条。『名誉に関わる審問において、被審者は、己の潔白を証すに足る記録の照合を請求できる』。——登録簿ならびに原本庫の、照合を請求いたします」
「き、却下する!」
即答だった。早すぎる、即答だった。
「原本庫は院の心臓! 審問ごときで、みだりに開けてよい場所では——」
「副総裁どの」
壁際から、氷の声がした。
ライナルト様が、一歩、前へ出た。
「先の公開検分の場でも、同じ言葉を聞いた。あのとき扉を開けたら、中から出てきたのは、偽造の証しだった。……執行局は、あの一件以来、公証院の記録の正しさに、重大な関心を持っている」
「照合請求が却下されるなら、執行局長権限で、公開検分を布告するまでだ。——どちらの扉から開けるか、選ばれよ」
ドロテウスの顔が、白くなった。
二重の鍵。わたしの請求と、執行局の布告。どちらを断っても、もう一方が開く。
「……いいでしょう」老人は、絞り出した。「照合を、認める。……何も、出はしませんがな」
(ええ、そうでしょうとも。あなたの帳簿の上では、何も。)
(でも副総裁様。わたし、地図を持っておりますの。)
登録簿が、運ばれた。原本庫の扉が、開かれた。
わたしは、符牒の覚え書きを、検分箱から取り出した。父の手蹟の、小さな薄紙。
「では、一件目。九年前の春、東部のグライフ男爵家の土地の証文」
わたしは、符牒を読み解きながら、指定した。立会人が登録簿をめくり、原本庫の棚を検める。
「……登録簿に、記録あり。正本は——」
沈黙。
「——棚に、ございません」
「二件目。八年前の冬、王都の穀物商組合の取り決め」
「登録簿の記載に……書き替えの痕。日付の上に、削りと、重ね書きが」
「三件目。七年前の秋——」
一件。また一件。父の地図のとおりに、在るはずの正本が消え、無いはずの記録が現れ、登録簿の頁に削りの痕が浮かび上がっていく。
広間は、もう、ざわめきすら忘れていた。
「……なぜだ」
ドロテウスの声が、震えていた。
「なぜ、分かる。抜いた場所が、なぜ……どこにも、記録など、残しておらぬのに……」
「ええ。あなたは、残しませんでした」
わたしは、薄紙を掲げた。
「残したのは、あなたに院を追われた男です。——十年前、あなたの細工を見つけ、告発しようとして、逆に咎を着せられた公証人。先代法伯、ゲルハルト・フォン・ヴェッセル」
「これは父が遺した、あなたの十年の細工の一覧。……父は、負けて去ったのではありません。娘に、地図を託して去ったのです」
老人は、よろめくように、上座の椅子に手をついた。
「登録簿を書き替えられるのは、鍵と裁可を預かる方だけ。原本庫から正本を抜けるのも、同じ。……この十年、その鍵を預かってこられたのは、どなたでしたかしら」
衛兵が、動いた。総裁代理の老公証人が、震える声で宣した。
「——副総裁ドロテウス・ハルトゥングの職務を、停止する。登録簿と原本庫の一切を封じ、王命による検めを請う。あわせて……十年前の、ヴェッセル法伯失脚の件も、検め直すものとする」
引き立てられていく間際、老人は、わたしの前で足を止めた。
柔和な笑みは、もう、どこにもなかった。
「……小娘が。ゲルハルトの、小娘がぁ……」
「副総裁様。最後に、ひとつだけ」
わたしは、淑女の礼をした。完璧な、角度で。
「あなたは十年前、父から紙を奪い、名を奪い、庭を奪いました。ですが、ひとつだけ、お忘れでしたのよ」
「——契約は、涙より正直です。そして紙は、書いた人間の心根まで残す。……あなたの十年も、父の十年も、紙は、ぜんぶ覚えておりましたわ」
老人は、何かを言いかけ——やめた。代わりに、掠れた声で、笑った。
「……検めるがいい、小娘。庫の、いちばん深いところまでな。……この院の闇は、わたし一人の背丈では、届かぬところにあるよ」
その言葉だけを残して、臙脂の官服は、衛兵の間に消えた。
人の引いた大広間で、ミルテが泣きながら抱きついてきた。ベンノ爺が、目頭を押さえていた。柵の向こうで、ハンネス親方たちの拍手が、いつまでも鳴っていた。
ライナルト様が、隣に立った。
「勝ったな。……見事な審問だった。いや」
灰青の目が、わずかに、緩んだ。
「見事な、条項だった」
「恐れ入ります。……ですが殿下、お聞きになりまして? 最後の言葉」
「ああ。——『わたし一人の背丈では、届かぬ』」
わたしは、黒檀の印章を握った。父の名誉回復は、これで動き出す。けれど、原本庫のいちばん深いところには、まだ、誰かの手が届いた痕がある。
(お父様。あと、少しですわ。)
(あなたの名前を、あなたの庭に、返してみせます。)
高い窓から差す光が、大広間の床を、白く照らしていた。
お読みいただきありがとうございます。公開審問、決着です。父が十年前に遺した「地図」と、十年前に登録されていた検め印——先回りの過ぎるお父様でした。ドロテウスは職務停止、父の失脚の再調査も動き出します。
ここまでで、第二の山はおしまい。ですが、去り際の言葉が残ります。「この院の闇は、わたし一人の背丈では、届かぬところにある」——原本庫の、いちばん深いところ。次のアークは、父の名誉回復と、その「届かぬところ」へ。
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