第16話:知らぬ存ぜぬも、署名のうち
公証院の廊下は、朝から人の波で溺れかけていた。
臙脂の官服が一枚、上座から消えただけで、これほど院は揺れるものらしい。書記が帳面を抱えて走り、老公証人たちが柱の陰で額を寄せる。副総裁ドロテウスの失脚から、まだ三日。
「ユ、ユスティーナ嬢」
総裁代理のヴァルター師が、震える手で一枚の書付を差し出した。ドロテウスの下で長く総務を預かってきた、気の弱い老人だ。
「そなたの、嘱託検認人の停止を……解く。院則第十九条の登録は有効と、あらためて認める。……これでよろしいかな」
「恐れ入ります」
わたしは書付を受け取り、末尾まで読んでから礼をした。読まずに受け取る癖は、この十年で、すっかり抜けてしまった。
「——お待ちを総裁代理」
横合いから痩せた院吏が口を挟んだ。ドロテウスに可愛がられていた男の、一人だ。
「登録を認めるのは、よろしい。ですが監督者はいかがか。院則第十九条、起草補助者は『免状ある名義人の監督の下』でのみ、紙を起こせる。……ヴェッセル家の当主オイゲン卿は、先の審問で明言なされた。『姪の起草など知らん』と。監督者なき起草は、やはり無効ではありませんかな」
院の空気が、また、こちらへ冷たく傾いた。罪人の娘、という目はドロテウスが消えても、そう易々とは薄れない。
わたしは顔を上げて、院吏を見た。
「よいところにお気づきですわ。——ですがその理屈、当主ご本人にお伝えになりまして?」
「……なに?」
「叔父は審問で、『姪の起草は監督していない』と証言いたしました。ではお尋ねします。この十年、ヴェッセル家がこの院に登録した契約は、何枚ございましたかしら」
院吏の眉が寄る。
「……数百は下るまい」
「その数百枚、すべて、わたしが起こしました。叔父の名義で。叔父の監督の下で。——ところが当主ご自身が、『監督していない』と公の審問で仰った。つまり」
わたしは一枚一枚、頁をめくるように言った。
「ヴェッセル家が十年かけて結んだ契約は、当主の証言によれば、ことごとく『監督なき起草』。あなたの理屈でいけば、その数百枚が、いますべて無効になりますわ。——地代も借財も婚姻の取り決めも、蔵の証文も根こそぎ」
院吏が黙った。
「叔父の『知らん』は、わたし一人を切るための言葉でした。けれど紙は、放った言葉を、放った本人にも返しますの。……知らぬ存ぜぬも、ひとたび口にして記録された証言のうち。取り消しはきかないのでございますよ」
「そ、そのようなことは——」
「もっとも」
わたしは院吏の狼狽を遮った。
「わたしは、ヴェッセル家の紙を無効になどしたくありません。あの数百枚は地代を払う小作も、蔵で暮らす者も、みな支えている紙ですもの。……壊したいのは、どちらですかしら。わたし? それとも、あなた?」
院吏は口を開き——結局、何も言わずに人波の中へ引いていった。
ヴァルター師が、ほう、と息を吐いた。
「相変わらず……お父上によう似ておられる」
(お父様に似ていると。……それはこの院では、褒め言葉ではなかったはずですのに。)
風向きは少しだけ、変わり始めているのかもしれない。
詰所へ戻ると黒い制服が待っていた。
ライナルト様は、わたしの机に一枚の契約書を置いた。すでに執行局の朱い印が、捺してある。
「執行局付き、検認人。院の名義人がどう転ぼうと執行局が直に嘱する。——これなら、院の内輪揉めに、あなたの目を巻き込ませずに済む」
わたしはその一枚を、最初の行から署名欄まで、たっぷり読んだ。第八条にいつぞや加えていただいた「検認人は理由を書面で示す」の一行が、ちゃんと生きている。
「……よろしいのですか。院に睨まれた娘を、局の名で抱えて」
「ヴェッセル卿の署名は王国の信用そのものだ」
灰青の目は書類を見たまま動かない。
「その娘の目を侮る者は、執行局を侮る者と同じに扱う。——それだけのことだ」
(この方の庇い方は、いつも、業務の形をしていますのね。)
けれどその業務の形が、いまは、どんな優しい言葉より温かかった。
わたしは署名し、黒檀の印章を押した。二つ目の外の仕事。今度はわたし自身の名で。
執行局付き、と聞きつけて、詰所の門前には、市井の紙が積み上がり始めた。「あの偽造を暴いた検認人さまだ」「割符のハンネスとこの命綱を救ったお人だ」——触れ書き屋の刷り物は、封札より速く王都を回ると、以前どなたかが仰った。悪評だけでなく、良い評も、同じ速さで回るものらしい。
ミルテが山と積まれた紙を抱えて、目を輝かせた。
「お嬢様、依頼です! こんなに! ……あの、去っていった皆さんも、また戻ってきて」
「戻ってらしたのね」
「はい! でもわたし、ちょっとだけ意地悪を言っちゃいました。『順番にお並びください』って」
「あら。それは意地悪ではなくてよ、ミルテ。立派な公証の作法ですわ」
その紙の山の間を縫って、見覚えのある家紋の使者が、遠慮がちにやってきた。ヴェッセル家の、鷲と麦穂の紋。
「お嬢様……いえ、検認人さま。当主様がお呼びでございます。バルツァー商会との、材木の契約で……その、火急のご相談があると」
バルツァー商会。
わたしの指がふと止まった。前払いで五千ターレル、納めの期日なし、品を検める定めもなし。——去年の暮れ、叔父が「わし自らがまとめた」「お前抜きでも家は回る」と胸を反らせた、あの一枚。
(叔父様。とうとう、あの紙がご自分に牙を剥く番が、まいりましたのね。)
(忠告は一度だけ、いたしましたわ。……ええ、たしかに。)
院を追われかけた人が、三日で執行局付きの検認人になって戻ってきます。奪われた身分は、返してもらうのではなく、書き替えるものでした。
叔父様の「姪が勝手にやった」という証言、切り札のつもりが、ヴェッセル家の契約すべてを縛る諸刃でした。放った言葉は、放った本人にも返るもので。そして執行局付き検認人という新しい身分と、ライナルトの相変わらず不器用な庇い方。
最後に届いた、バルツァー商会の使い——第12話で叔父様が「黙れ」と退けた、あの期日なしの契約が、動き出します。次話、ミルテが初めて自分の目で嘘を一つ見つけます。あの方の庇い方が回りくどくて口元が緩んだ方は、どうか一押しを。




