三、距離と壁
二、つきあって欲しい からの続きです
恵まれ過ぎている日々というのは、恐ろしい。
わかっている。自覚している。
那月は滅多なことがないかぎり、週末の過ごし方については事前に相談をしてくれる。
そもそも社内恋愛禁止とはいえ、毎日那月の顔を見ながら仕事をすることができている。それだけでも神に感謝していい事案ではある。それなのに。
欲というのは、どんどん増長する。
ひとたび縮まった距離が、離れる時間が耐えられない。こんなに会っていても、日々足りないという気分が増していく。
一応、原因もわかっている。
繰り返すが、これ以上なく恵まれているのは承知の上で。
恋人らしいことがまだ、なにもできていないのがもどかしい。
夏の盛りが過ぎ、暦のうえでは秋に差し掛かっていたが、東の島国の残暑と湿度は容赦なく李汪に襲いかかった。
「暑い……、……」
ある夜のフットサルの帰り道、まとわりつくような湿度で李汪が音をあげると、すかさず那月はコンビニに飛び込んで、チューブタイプのアイスキャンデーを手に笑顔で戻ってきた。絶対コマーシャルに起用したほうがいい今すぐに……と目を見開いていると、ピタリと頬にアイスを押しつけられた。正直それでもヒャアと飛び上がる気にならないくらい、暑い。
「りお、あんま暑いの得意じゃねえんだな」
「……長く住んでた場所が、寒い地方だったから……でなくても、この湿度は……ちょっと、な」
自分の頬熱で融ける前にとチューブを受け取り、先端を口元に運んで吸う。何味、と形容するのが難しい味だがさっぱりしていて美味しくはある。隣でおなじアイスを咥えている那月をチラリと横目で見遣る。今日も顔が良い。どう考えても爽やかアイスCM男過ぎる。この世の全アイスはこの男に宣伝のすべてを委ねたほうがいい。
「おし、わかった。週末は俺が涼しくしてやるよ」
「え……?」
涼しく、とは。
俺があっためてやるよ、ならまだわかるが……いや待てなにを考えているんだ俺はやめろアホか。どうも最近、欲求不満なんじゃなかろうか……。
正直、自分のほうに原因がありそうだとは思う。おそらく李汪が那月のことを異様に好きだということは、本人にもとっくにバレているはずだ。だからといって、気軽に一線を越えられるかと言えば、それはまた別の話になるのだろう。そもそも、那月が俺を相手に越えたい一線なんかあるのか? 俺、俺はもちろん越えたいというか……いやでも、さすがにそこまで望むのは烏滸がましいというか……。
やめよう、この問題について真剣に取り組むにはまだ早い。準備が足りていない。まだ研究に入るには圧倒的にデータが足りていない。
そして訪れた週末は、なかなかベタな展開をみせた。
前回、超微妙な映画を観たのとおなじシネコンで、今度は那月セレクトのを観ようという話になったところからの、これだ。
「夏といえば、コレだろ!」
「あー、成る程な……」
那月が指さした映画のタイトルは『テンダーハート』だが、どうみても文字の背景が人間ではないもののドアップである。
ホラー。ホラーだ、しかもジャンプスケアたっぷりの。それもかなりのB級っぽさ。名前も聞いたことのない監督の、おそらくゴア要素ありのホラー。キャッチコピーは『優しい心、搾りとらせて』だ。
どうしてここのシネコンはこう、立地も品もいいのに毎回映画のセレクトが微妙すぎるんだ? 単館上映系の映画を選ばないと気が済まない担当者がいるのか?
つい真顔になってしまった李汪の反応をどう受け取ったものか、那月が覗き込むように訊いてくる。
「怖いの、嫌か?」
「いや、自分から選ばないというだけで……以前俺もそういう映画に誘ったんだから、今日は、那月の観たいものにしよう」
「うん、きっと涼しくなるぜ」
ホラーで涼しくなろう、というのはなかなか古典的な発想だとは思う。そういうところが那月は可愛いんだが……と思いつつアイスラテをふたつ買った。
「ああそういやジャモーニー監督の新作、来年公開予定ってネットで見たぜ。楽しみだなぁ!」
「……そう、か」
久々にその名前を聞いた。初めてのデートで観た微妙映画『瞳孔あるいはオパルセン星団の憂鬱』の監督、異端児ウェノア・プリネア・ジャモーニー……擦りこみで那月はいまや、お前の新作を楽しみに待つファンのひとりだぞ監督。どうしてくれるんだ監督。たぶん那月の中では「李汪の好きな映画監督」ってことになってるんだぞ本当にどうしてくれる……。
前から12列目、中央ボックスの左寄りに並んで当日券をとる。特に意味のある場所でもないが、たまたま前とおなじ席が空いていたので、そこにした。
「かっこいいだろ、これ」
シアター内に向かう廊下で、例のごとく那月が小声でベージュの真新しいスニーカーを見せびらかしてくる。前回映画を観たときに、一緒に選んだものだ。得意げに胸を反らす仕草に、自然と李汪も笑みが浮かぶ。
「似合ってる」
なんだか照れくさいような空気だが、これまたとても恋人っぽい気がする。しかしせっかくの甘い雰囲気を、始まった映画がすべて蹂躙していった。
「いやー結構怖かったな! 俺けっこうビビってたわ。李汪、全然平気なんだなこういうの」
上映が終わり、観客が一様に青褪めている中でも那月は明るかった。天然南国太陽男だから、輝きが隠せないのは仕方ないが、これは。
「いや、俺だってけっこう怖かったよ」
嘘だ。けっこう、どころではない。めっちゃくちゃにビビっていた。ビビり過ぎて表情筋が死んだだけだ。なんなんだ、この激ヤバ映画は。一見ただのB級ホラーに見せかけておいて、人間の本質的恐怖を抉るような演出をところどころに挟んでいた。この監督は天才かもしれない。もしかしたら後に大出世する可能性がある……。
李汪の感想に対して、嬉しそうに那月が言い募る。
「だよな、やっぱ怖かったよなぁ? なんか俺、夜思い出してまたこえーってなりそう」
「やめてくれ、そんなこと言われると俺も思い出しそうだ」
主人公がひとり暮らしの男、という設定からして、李汪の精神衛生にはよろしくない。那月がケロリとしているのが救いだ。前の席にいた男女のカップルはふたりしてダメージを負っていたので、気の毒だった。
「ビビったら腹減ったな、なに食いたい?」
食欲が衰える様子は微塵もない那月にそう問いかけられ、なんでも、と答えそうになった李汪はいったん口を噤んだ。那月と一緒に食べるなら土でも美味しくいただける自信があるが、そういうことではない。
「スパイシーなものがいい、かな」
「辛いのってどんくらい平気だ?」
「ええと……ピリ辛くらいなら全然平気だ。痺れるまでいくのは、ちょっと」
最近の李汪は、なるべく自分のことを言葉にして語るよう心がけている。他人との距離の詰め方なんてものは、相変わらずよくわからない。基本的には詰めなくていいと思っているし、油断はできない。
ただし、那月との距離だけは話が別だ。
最初は怖くて、近づける気がしなかった。それを少しずつ時間を積み重ね、いまに至っている。自分から壁をつくることをやめて、なんとか好意を正しく伝えたい。恋愛に正解はないのだろうが、近頃はそんなことばかりを考えてしまう。
「おし、じゃあアレにするか」
那月が目をつけたのは、タコス屋である。南大陸を代表するエスニック料理で、トウモロコシの粉で作った皮で肉の煮込みや野菜を巻いて食べる。またしても通りすがりの店だが、今度の店も当たりだった。那月は店選びの才能があるのかもしれない。
「全部美味かったな!」
「本当だな。本格的だった」
ランチというには遅い時間だったが、店内はネイティブの客で賑わっていた。昼でも飲んでいる者が多く、何か国語かで絡まれはしたが、結果的には数時間の滞在を楽しく過ごして店を出た。
「那月はけっこう辛いのいけるんだな。俺のぶんのハラペーニョまで食べてた」
「うまくできててよ、実はカウンターのおっさんがテキーラ一杯奢ってくれたんだ、ここんとこに塩振られて」
ここ、と、那月は手を広げて甲の側の、親指近くを指さした。それからそこを口に近づけて、チュッと吸う真似をした。その仕草が妙に色っぽく、李汪は白目になりそうなのを懸命に耐えた。
「そんでテキーラ飲んでライム食ってってしてたら、なんかすげー全部美味く感じてさあ、辛いのも全然平気みたいな感じだった。テキーラすげえな」
いつの間にそんなことになっていたのか。たしかに店員となにやら楽しげに話しているとは思っていたが。
どこへ行ってもその調子だから、那月は油断がならない。俺はちゃんとLV100鉄面皮で撃退しているというのに、那月ときたら誰にでも愛想がいい。勘違いする奴が続出しても全然不思議じゃない……と、李汪が嫉妬を沸々と滾らせていると。
「なんかまだ早えし、帰るのもったいねえな。でも外ウロウロすんのはあっちいんだよなあ……どっか入るか」
ここだ、とばかりに李汪は意を決し、前々から考えていた提案を口にする。
「う、うし、うちに、寄っていかないか……?」
いやなんでうち、を噛んだんだ俺。ウシは牧場だアホか。肝心なときにいちいち噛むのをやめたい。無表情で誤魔化すのにも限度がある。そんな自嘲を内心で繰り返す李汪に対し、那月は目を丸くし、実に意外な提案をされた、という反応を示した。
「いいのか?」
……おかしいな? と、李汪は内心首をひねる。李汪の想像では「りおんちか! 行こう行こう!」的な、普段の那月らしい気軽な反応がくるはずだったが、那月はどこか躊躇いがちだった。
「ああ。……飲み物ぐらいしか、ないけど」
「いや、お前んちの飲んじゃ悪ぃから、途中でコンビニ寄ろうぜ! 俺が奢る、そんでお前んちで飲む、これならいいよな」
那月がそう言って、急かすように背中に触れた。
……、……。
恋人っぽい。
なんていうか、ものすごく恋人っぽくないだろうか、このやりとり。しかもこれから向かうのは、俺の部屋だ。さらに。
「どうする? 冷てえのがいいよな。俺は……どうすっかなもうちょっと飲みてえかも」
「めずらしいな」
「テキーラ飲んだらなんか勢いづいたっつーか……このへんの軽いのなら、いっか」
そんなことを言いながら那月は度数の低いビールを籠に放り込む。それならばと李汪も軽めのサワーを選んだ。
「無理しなくていいぞ?」
「してない。単に、つき合いで飲みたくなっただけだ」
「マジか」
そう言って那月はなぜか嬉しそうな笑みを残し、レジに向かう。軽率に心臓が止まりそうになるから、やめてほしい。いややめないでほしい。どっちだ。
1LDK二階のひとり暮らしの部屋は、李汪に言わせればかなり狭苦しい。だが、東国の感覚でいうと広めの部屋だという。不動産屋も、おひとり用ならかなりゆったりしています、と説明していたし家賃もそれなりだ。
仕方なく置くものを減らしてせめて広く見えるように暮らしているが、狭い以外は特に不自由していない。基本的に李汪は必要最低限で生きていけるタイプではある。よって、慌てて部屋を片付けなくてはならないような事態にはならなかった。隠さなくてはならないような趣味はないし、散らかしてもいない。ただなにもない部屋だとそう思っている。だが。
「綺麗にしてんな。李汪っぽい部屋だ」
「俺っぽい……?」
「色とか、テーブルとかもめっちゃオシャレだし。俺んちのと全然ちげーし。なんか敷いてあるし」
敷き物くらいは俺でなくとも敷くだろうと思った李汪だったが、那月にだけ見えている「らしさ」があるのだと思うと面映ゆい。
グレーのラグマットの上に置いた黒いローテーブルを挟んで座る。そういえば、と思い出してベッド下の収納から大きめのビーズクッションを引っ張りだした。
「那月。これ、使ってくれ」
「おっ、人間がダメになるクッションてやつだ」
「使ったことがないから、わからないが……家具をまとめ買いしたら勝手についてきたんだ」
「おー、いいじゃねえか。なんか変な感じして気持ちいいぞ」
李汪の趣味ではないもの、それもけっこうな大きさのクッションが勝手に送られてきて、新品で捨てるのもどうなのかと放置していたものが、こんなところで役に立つとは思わなかった。両手で抱えるほどのサイズのクッションにじゃれつく那月はめちゃくちゃ可愛い。クッションのくせに那月にじゃれつかれるのは、ズルい。
グラスを出し、さっきコンビニで買ったものを卓上に並べて、ゆっくりと飲み始める。もはや共通の話題に困る関係ではないので、話は尽きない。会社のことに始まり、フットサルのこと、贔屓のサッカークラブチームのこと、今日の映画のこと……は、お互い怖いのであまり触れない。
「今日、なんで部屋に呼んでくれたんだ?」
小一時間があっという間に過ぎたころにふと那月にそう訊かれ、一瞬噎せそうになる。
「いや、別に……エアコンがあって話せて、あそこからもそう遠くないし、その……深い意味はない」
友達だって家に遊びにくらい来るだろう……と言おうとして、やめた。友達を家に呼んだことなんかないし、そもそも李汪に友達はいない。那月だから呼んだ。それはたしかにそうなのだ。
「そっか。来られて嬉しいぜ」
「……本当になにもなくて、つまらない部屋だけどな」
無趣味人間の弊害である。リビングには本当にローテーブルとソファ以外は仕事関連の書籍の入った本棚とティッシュボックス、あとはPCデスクとルームフレグランスがあるくらいで、テレビすら置いていない。
「なんもいらねえよ。ちょっと話したいことあったし」
ビールの缶を片手に、那月がすこし口調を改める。
「話したいこと……? なんだ」
「まあまだ未来の話だけどさ。……お前とその話ってか、相談、になんのかな……? ちゃんとしようって、ずっと思ってて」
「相談……」
未来の相談。
その響きから、李汪はとっさになにもいい予感が感じとれない。
まさか。
まさかの、いまから…………、別れ話、なのか?
たしかに那月の明るい未来のためには、俺なんかと一緒にいないほうがいい、のかも? だが、この空気からか? デートした後に初めて俺の部屋に来て、ここから別れ話を……?
那月がそんなサイコパスなわけがあるか、という気持ちと、他者に対する拭いきれない不信感とがせめぎ合う。いまはギリギリ那月への信頼感が勝っているが、では相談とはなんなのか。
「すぐに、って話じゃねえんだけどさ……」
なにをそんなに言いづらそうにしているのか。だが、こう見えて那月は案外シャイなところがある。以前、竜が好きだと教えてくれたときも、こんな雰囲気ではあった。いや、ここからどうくるんだなにがくるんだ、全然わからない、とすっかりアホの子になっている李汪だったが。
「りお、りお」
片膝を立てた那月に、チョイチョイと手招きされる。
「……、……?」
渦巻く不安を抱えたまま、李汪は那月のほうへいざり寄る。すぐ傍らで正座し、緊張から握った拳を自分の膝に置いた。
那月は唇に笑みを浮かべ、しばらく楽しそうに李汪の顔を見つめてからゆっくりと口を開いた。
「なあ、俺らって割とうまくいってるって、俺は思ってんだけど……勘違いじゃねえよな?」
「え」
え、なんだ? と、李汪は混乱する。たぶん別れ話ではない。ないが、じゃあ……なんだ? と、脳内会議の準備をしていると。
那月の片手が伸びて、李汪の頬に触れた。体温の高い手のひらと、長い指が。
「え」
頭のなかがぐるぐるまわる。脳内会議場はハリケーンに飲み込まれてしまい、集まっていた李汪たち? は、全員吹き飛ばされた。
そんな、まさか、うそだ。
アルコールの甘ったるい味と、那月の唇。
触れて、一度離れて、もう一度押しつけられる力。那月の形のいい鼻の先が、肉の薄い頬がくっついている。
「……、……」
後頭部に添えられた那月の指の腹がかすかに動いて、すり、と李汪の頭皮をくすぐる。ゾクッと背筋に走る感覚に怯えて、思わず那月の胸を押し返してしまった。
「……っ、お、れに、相談……て、」
変に声がかすれてしまった。鼓動がバカみたいに速い。那月に呆れられてないだろうか。確認したい一心でその目を覗きこんで、余計に身動きがとれなくなってしまった。那月の目が、いつになく熱っぽい。サッカーのときの挑戦的なそれとも違う、なんとも言えない煽情的な色を宿している。
あまりのことに、李汪は思わず手の甲で口元を覆う。
「相談……って、言う、から……」
「……悪ぃ、これじゃ相談にならねえな、たしかに」
心臓が煩すぎて、はっきり声が聞こえない。膜の向こうで那月がしゃべってるみたいだ。
「嫌だったか?」
「……お、驚いただけだ……」
「びっくりさせてごめんな。でも……」
頬が熱い。未練がましく那月の熱を覚えている唇も、どこもかしこもすべてが熱い。キス自体は別に初めてなわけではない。ただ、こんな風に胸の内側を引っかき回されるキスは経験がない。
「なんつうか、そろそろこういうの、あっても……いいのかなあって」
「そ……相談て、もしかして……」
それか? それなのか? だとしたら……と、前のめりになりかけた李汪に、那月が手のひらを広げて首を横に振ってみせた。
「あーいや! さすがにそうじゃねえよもちょっとちゃんとした相談っつか……!」
「ちゃ、ちゃんとした相談……」
「よ、よし、そろそろ帰るか、週明けあれ、出張だしな!」
「あ……、そ、そう、だな。俺はまた、その……同行、できるのか?」
「もちろん同行で届け出してある! あ、じゃあそんとき、ちゃんと話す。マジで相談、させてくれよな……、本当にあるんだ、相談」
「わ、わかった」
そこからはお互いアタフタの相乗効果みたいになってしまった。慌てて立ちあがり、グラスをシンクにさげる那月を可愛いと思うだけの余裕が、いまの李汪にはない。
「じゃあまた、会社でな」
「ああ、おやすみ」
去り際に、那月がすこし切なげに眉を寄せた気がした、のは。
俺の気のせいだっただろうか……。
駅まで送らなくていい、と言われて素直に見送ってしまったが。
ドアが閉まり、階段をおりていく那月の足音が遠ざかる。
それが完全に聞こえなくなるまで玄関に立ち尽くし、呆然としたまま室内に戻る。
ウアアアア。
ウアアアアアアア。
さすがにこの時間に絶叫できないので、すべてを自分の肋骨の内側に響かせている。けど、でも、だけど。
した。
那月と、キスした。
さっきまで、ここにいた那月と。
ここにいて、このクッションにじゃれついてた那月と。
「……、」
那月、が。
ボフリと、使ったことのないクッションに顔を埋める。那月の気配がかすかに残っているクッションに。
「……っ……、」
ダメだ。
興奮が治まらない。相談がなんなのかを具体的に考えようとしても、後頭部の指の感触が思い出されて無理だった。思わず片手で頭を押さえる。あの瞬間腰にゾクリとしたものが走ったのは、あれはどう考えても。
「…………」
本音で言うなら、あのまま続けたかったのに。困惑して那月を押し返した自分が悪かった。空気に水を差してしまった。あのままもし、もっと深いキスを交わしていたら。己の欲のままに那月の首に腕をまわしていたら……。
「……、……」
ていうかよく帰ったなあの場面から? という疑問がある。
なんだ、なんでだ。ものすごく我慢強いのか那月は。それともやっぱり、俺相手にそういう欲求はないってことなのか? 逆にあれか、貞操の危機を感じた? 俺が襲いそうな顔してたからか? 熱帯雨林のジャガーみたいに?
昨日の俺は据え膳だった。間違いなく据え膳だった。正直、発情期の目をしていたという自覚がある。それなのに……帰った、だと? おかしいだろ、こう見えても俺は、顔のいい男だ。顔のいい発情男を部屋に残して帰ったのはなんでだ……?
賢者タイムと呼ぶにはあまりにも欲望丸出しタイムを何度か繰り返してから、李汪はようやく泥の眠りに落ちた。
そして、運命の週明け。
出勤した李汪を、めずらしく憔悴した様子の曖智が出迎えた。
「李汪、急遽ですまんが今日はひとりで行ってくれ」
「……那月になにかありましたか?」
思わず食い気味に訊いてしまったが、曖智は特に怪しむでなく、深い溜息をついて説明してくれた。
「いや、顧客でひとり、気性の荒いというか難しい人がいてな。那月にしかまともに相手ができない……本来は俺が応対するべきなんだが、済まない」
「いえ、どこででもある話かと」
李汪にも経験はある。誰がしても変わらないはずの応対であっても、なぜか先方が指名してくる。
那月はすでに先方の要望で空港に向かっているのだという。那月に出迎えからさせるとは、何様のつもりだ。
「ひとりで行くのは構いませんが、俺は竜炉に降りられません。……そこは問題ないでしょうか」
「いいんだ、それは大丈夫だ。あれはどちらかと言えば、那月のためにやってるみたいな部分もある」
ナインスケイルスは規模のちいさい会社で、メンテナンスしている竜炉も実質的なエネルギーの純利益率の話になると、赤字に近い。那月の竜検もそれを使っての接触メンテナンスも、いまはまだ将来の可能性を示すための実地の段階で、口さがない関連会社からは無駄パフォーマンス、などと揶揄されたりもするらしい。そうした批判の矢面に立つのも那月の仕事の一環であると聞かされ、李汪は眉を寄せた。
「今日ゴネてる奴は、那月のそのパフォーマンスになら出資してもいい、と言ってる数少ない事業主なんでな。こちらとしては無視できないんだ……」
よりにもよって今日か、とこちらも溜息をつきたくはあるが、曖智の疲弊具合をみているとそうも言えない。それに、もしかしたらこれは神の慈悲なのかもしれない。いま那月の顔を見たら、それこそ俺は奇声をあげて走りだす完全な不審者になる可能性があるのだ。
「とりあえず炉に行くだけ行ってくれ。細かい指示は一色さんに送っておく。ついでに手すきがあれば那月が溜めこんでる書類整理を手伝ってやって欲しい。でも全部やるなよ、あいつが自分でやる分もしっかり残しておけ。あんまり甘やかしすぎたらダメだ、いいな」
「了解しました」
どことなく子どもに宿題をやらせるおかあさんみを曖智に感じつつ、李汪は単身特急に乗りこんだ。
車内は相変わらず空いている。那月の分をキャンセルしても隣に誰かが乗ってくることはないと思われたが、どこかで警戒している自分がいる。
学校でも、病院でも、美術館でも、自動車教習所でも、もちろん公共の交通機関に乗っているときでも。いつも誰かに絡まれて揶揄われた。称賛の皮をかぶった嘲笑を浴びるか、一方的な執着を押しつけられるかの二択だと、自分の人生を諦めていた。
でも、いまは違う。違うと思っている。
那月はいったい、俺になにを相談しようとしているのだろう。
未来のこと。さっきの仕事の話に関連することだろうか。そして、那月が描くこれから先の未来に……俺はいるんだろうか。
これまで三回、出張に同行した。その度に那月はなにかしら食糧を買い込んで李汪にも分け与えてくれていた。どんなに言っても代金を受け取ってくれないので、プライベートで食事を奢り返したりしてなるべくバランスをとった。しかし今日はひとりなので、飲み物すら手元にない。こんなちいさなことですら、那月のいない時間の味気なさを感じてしまう。
ぼんやり考えつつふと後ろの席を見遣ると、例の那月の列車友達の中年男性の姿が見えた。普段なら、ようおっちゃん! と那月が明るく声をかけている場面のはずだ。
「……」
那月に代わる存在など、この世にいない。ましてや、自分などでは代わりが務まるはずもない。だが、ほんのちょっとだけ気になるのだ。彼はアルコール依存症から立ち直ってまだ間がないという。那月が声をかけることが、一種の抑止力になっている可能性が高い。ここからだと彼の手元が見えないのがちょっとだけ気になる。本当にちょっとだけ。
「ビールは」
「ひぃッ?!」
突然ヌッと現れて李汪が声をかけたので、氏はかなり驚いた様子だった。数少ない乗客たちに一斉に怪訝そうにこちらを見られて、なんでもありません! と彼が言い訳をする羽目になっていた。
「き、君は……、いつも那月くんといる……」
「ナザ・ハタバ・李汪と申します。飲んでませんよね、ビール?」
「だ、大丈夫、だよ……飲んでない……」
「それならば結構」
那月ならそんな言い方はしない。だがここで突然俺が、えれーぞおっちゃん! などと言おうものなら。それこそホラー映画なのではなかろうか。ともかく確認はできたので、李汪は無表情怪異として大人しく自分の席に戻った。
そしていつもより長く感じる乗車時間が経過し、列車は一時間足らずで目的の駅に到着する。降車デッキに向かう李汪に、アル中おじさん氏が声をかけてきた。
「あの、李汪、くん」
「なにか?」
「ありがとう……ね。気遣ってくれてさ」
そう言って、おじさんはそっと手のひらにおさまるサイズの個包装の菓子を李汪に手渡した。
「……どうも」
一応、李汪のしたかったことは伝わっていたらしい。彼にとって、この列車内での那月からの声掛けはきっと、癒しの力を持っているはずなのだ。李汪の言葉ではとてもそうはいかないが、最低限の役目は果たせた気がした。
天候が崩れそうな兆候は、バス停に着いた時点ですでにあった。午前中だというのにどんよりと薄暗く、ひとりで歩く山道では生ぬるい風が吹きつけていた。
李汪が竜炉こと『峪山第二傳力装填所』の門を抜けたタイミングではギリギリ霧雨程度だった雨が、ここまでの降りになるとは、誰が予想しただろうか。
いつにも増して薄暗く感じる建物の中に入ってしまうと、外界からは遮断される。エレベーターをあがり、いつもの部屋に荷物を置いてから管理人室へ向かった。廊下の途中で、ラジオの音が響いてきていた。
『急激に発達した台風の影響で、全国的な大雨が見込まれます……運休の発表があったのは以下の鉄道で……』
施設管理人の一色が、管理人室の中でラジオのボリュームをあげる。相変わらず施設の中には、一色以外の人間の気配はなかった。
「今日は、お前だけなんだってな」
「はい、よろしくお願いします。詳細は曖智のほうから連絡がいっているかと思うので、ご指示願います」
「……こんなとこまでひとりでよく来たな。そんだけでも上等だ」
ぶっきらぼうにそう言ってから、一色は仕事の説明を始めた。まだ顔を合わせるのは数度目だが、一色は案外李汪のことを認めてくれている、という肌感覚がある。それだけ、この施設を訪れる人間はすくないということなのだろう。
竜炉に降りないなら降りないで、なんだかんだとやることは多い。普段那月が使っている道具入れの整理に始まり、一色がやっている施設管理に関する法令チェックや運営収支の報告書作りの手伝い、また曖智の言っていた通り那月が提出すべき日報等が案外溜まっているのも事実だった。
「……よし」
仕事が多いくらいが今日は丁度いい。リストを作って今日できることはすべてやってしまおう、仕事だけはできるんだ俺は……と、李汪はモードを切り替えた。
パソコンさえあれば作業はどこででもできるので、いつもは那月の降下を見守る、窓の部屋を選んだ。
ただでさえ時間の概念がなくなるような建物のなかで集中していると、驚くほど時間経過は速かった。李汪がそういえば朝から飲まず食わずであったことを思い出し、ようやく車内でおじさんにもらった菓子を口にしたときには、夕刻を過ぎていた。
「帰りのバスは欠便だなこりゃ。諦めな。出張費プラス残業代しっかりつけとけ」
「……さすがにこの降りで、歩いて帰るのは厳しそうですね」
「雑魚寝くらいはできるだろ。部屋は腐るほどある」
「問題ないです。これでも野宿経験は多い方なので、屋根があるだけマシですよ」
「なら天国みてえなもんだな。シャワーまでついてるぞ」
そういえば、いつも那月が竜のところに降りた後に使っているシャワールームがある。タオルはあっただろうか。
そんなわけで、李汪は唐突に帰宅できない身の上になってしまった。
「……」
外が大雨なのだと言われても、なんだか実感が湧かなかった。建物の特性上、壁も天井も雨音が響いて聞こえるような厚さではない。だが不思議と閉塞感はない。閉じ込められている感覚はあまりしなかった。ここにいる竜も、もしかしたらこんな気分でいるのだろうか。
ガラス窓の傍に近づいて、上から竜の様子を見る。大きく動くわけでなし、特別変化は見られなかった。
「……今日は、那月は来てないぞ。寂しいか?」
つい、言葉にしてそう呟いていた。もちろん竜は李汪の言葉に反応したりはしない。ここから見ている分に、彼女は薄灰色の塊にすぎない。
―― 俺、火竜が好きなんだ。あいつらのゆっくり動くとことか、あの優しい目でこっち見たりとか、そういうの、なんでかわかんねえけど心が落ち着く。
成る程、傍にまで降りていける那月でないと、火竜の目が優しいかどうかまではわからないだろう。李汪が知っているのは、その話をしているときの那月の、生き生きとした目だけだ。寂しいのは火竜ではなく自分のほうだと自嘲した、そのとき。
不意に館内に、嫌な警報音が鳴り響いた。
『第四警報です。遮蔽モードにただちに切り替わります』というメッセージを、女性声の機械音がいやにゆっくり読み上げる。本質的な不快さを伴うようにつくられているそれが、延々と繰り返される。PCを閉じて急ぎ管理人室に向かい、モニターに釘付けになっている一色に声をかけた。
「何事ですか?」
「災害レベルの雨量だとよ。俺も初めてきくぞこれは……」
事態は思った以上に深刻かつ不測のことだったらしい。一色はいつこんな局面を迎えても不思議のない環境にいるのだ。せめて自分がいるタイミングで良かったと思う反面、労働環境としてはかなり問題ありだと李汪は思う。
「李汪、これもつけていけ」
渡されたヘルメットをかぶってインカムを耳に押しこみ、李汪は足早に館内を見回る。ここまでの警戒が発令されれば追加で人員が来ても不思議はないが、なにせ立地が悪い。これでは火災やテロなどの本格的な緊急事態にはとても対応できないだろう。
「Bフロア端まできました。目視異常ありません。そちらも画面上問題なければ、Cにあがります」
『管理室、異常なしだ。エレベーターはロックかかってるぞ。階段でいけ』
一色と通信しながら、李汪は館内施設をひとつひとつ確認していく。なにせここは曲がりなりにも発傳所であるから、非常時でも予備バッテリーに切り替わるだけで、いきなり電源が落ちたりはしない。
順にフロアをみて回り、さっきまで自分が仕事をしていた部屋にも立ち寄った。電源などに異常がないことを確認し、窓越しに火竜の姿を見た李汪は、違和感を覚える。
「……一色さん、ちょっと火竜のほうのモニター確認していただけますか?」
火竜が動きまわっている。暴れているというわけではないが、あきらかにいままで見たことのない動きをしている。
『動きがおかしいぞ。なんだ? なにかがあいつを動揺させてる』
薄暗がりに目を凝らし、李汪が原因を探る。違和感のある箇所を、と思うがいきなりライトで照らしたりすれば、火竜を余計動揺させかねない。意を決し、李汪は日頃は足を踏み入れない足場にまで出た。火竜のいる吹き抜けの空気を直接浴びて、初めてバタン、バタンという異音が響いていることに気がついた。
「壁の天板が一部外れてます。おそらく外気が流れ込んでて、上下に動いてる感じです。あれを留めなきゃダメだ」
『高さはどのあたりだ?』
「DとEの間あたりです。フロアでいえば、3階の足場のすこし上あたり……ですかね」
『よりにもよって、そこか……』
一色が唸るような声を出す。短く考えたのち、李汪が言った。
「俺が修理してみます」
『バカいうな。お前じゃ無理だ』
「でもセキュリティ会社に連絡したところで、降りられる人間なんか、簡単に見つからないんでしょう? ここを簡単に直せるのは、那月ぐらいだ」
高所で作業ができる人員はいても、竜炉となると話は別だ。必ずしも竜検持ちを探さなくてはいけないわけではないが、会社から許可をとった人材がそうすぐに見つかるとは思えなかった。
『…………』
「それに、トラブルがこれ以上大きくなるのは避けたい。本社から冷遇される口実を与えてしまうと、また予算が削られかねないんですよね」
一日書類仕事をしてみて、この施設の詳細を知るにつけ、存続が安泰でないことを李汪は知った。すぐに閉鎖とはならないまでも、向こう十年以内に縮小しようという傾向が確実にあった。このままではたった一枚のあの板のせいで、那月が情熱をもって取り組んできた仕事の可能性が縮小されてしまう。
「竜に触らないで、あの板を直すだけなら俺でもいけます。こう見えて運動神経は自信あるんで」
努めて冷静に、自信ありげにそう言ってはみたものの、本当は不安しかない。ある程度運動ができるからこそ、那月のやっていることが離れ業なのだということもすぐにわかる。
できるのか俺に。ロープだけで降りる、なんていう真似が。
ただ、不安だからと退ける局面ではない。那月の大切なものは、俺が守りたい。李汪を突き動かすのは、その一念だけだった。
沈黙の後、一色が低い声で答えた。
『……ツナギを着ろ。金具は持ち込めねえぞ。修理用のボルトも特別製だ、俺が持っていく』
サイズオーバーのボイラースーツを着込み、李汪は那月がいつも立っている足場に立つ。普段自分がいるはずの部屋には一色が入っており、なんだか不思議な気持ちだった。
『いいな李汪、すこしでも無理だと思ったら、すぐに足場に戻れ。おなじ高さに足場は六箇所ある。想像以上に体力が削れるから、油断しないで足場の傍で作業しろ』
「了解です」
ガラス越しに李汪を見ている一色もまた、無茶をしている自覚はあるのだろう。彼もまた、自分の保身以上に那月のことを考えているのだと思われた。
足場から見下ろした竜炉は、高さ15mほどはある。フックにロープをかけ、自身つなぎのベルトループに一周させてから、壁に顔を向けた姿勢で伝い始める。やってみて改めて思うが、那月の体幹はヤバい。ロープの結び目だけでは、どこに重さをかけて、どう力を入れればいいのかがよくわからない。慣れているとはいえ、こっちに手を振る余裕まであったあの男は体幹お化けだ。そして、俺の恋人だ。
下から風が吹き上げる感覚があり、この空間が密閉されていないことがわかる。バランスが難しいが、壁を伝うようにしてなんとか音の発生源に辿り着く。火竜からは距離のある場所だったのは幸いだが、近づくと外の風が入ってきているのがわかる。外気をもろに受けている感じではないが、おそらく外壁にもヒビかなにかが入っている。終わったらそちらの修理だ、と思いつつ、いまは目の前の天板を押さえつけることである。完璧な修理でなくていい。この嵐のような天候の間さえしのげれば、あとはどうとでもなるのだ。
「……頼むぞ、いい子にしててくれ。すぐ直す」
長くこの姿勢がもつわけではない。いちいち足場に降りて腹筋を休ませながら、つなぎの胸ポケットから取りだした特殊なボルトを、おなじく特殊プラスチック製のインパクトレンチを使って天板の端に打ち込んでいく。よく見れば天板そのものも鉄ではない特殊素材でできている。鉄を嫌う竜への配慮、とも取れるし、こんな特殊なものを用意してまで竜をここに閉じ込めておく人類のエゴの象徴とも思えた。
『李汪、大丈夫か……?』
「あと一本です」
つなぎの内側はすでに汗でぐっしょり濡れていた。体力があきらかに削られていたが、これならやり切れる。最後のボルトを打ち込み、インパクトレンチの引き金を引いた。隙間風の音はまだ完全に遮断できていないが、すくなくともバタバタと音が鳴ることはなくなった。
よし、と息を吐いたその瞬間、体がずり落ちる感覚に襲われる。肌を滴った汗がいつのまにか足元にまで到達し、靴の中までをも濡らしていた。そのせいで、ほんの一瞬だけ身体の支えを失った。
「……!」
しまった、と、思ったときにはもう、体が自由落下に投げ出されていた。それはそうだ、ここには空気があって俺は重力には逆らえない。たとえ俺が、どんなにイレギュラーな存在だったとしても、こればかりは。
はずれたイヤホンの向こうで、一色が絶叫しているのが遠くに聞こえる。落下の最中、李汪はたしかに竜の目を見た。
ああ、これか。
那月が言っていた。竜は優しい目をしてる、と。それに皮膚、鱗の色は緑がかっている。これは間近で見ないとわからなかったことだ。単なる薄灰色の塊だった、神聖にして不可侵の竜。
そこに色がついたのは、本当に素晴らしいことだ。




