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二、つきあって欲しい

一、ものすごく顔のいい新人、運命と出会う からの続きです

 

 俺はいったい。

 いったい、なにを。

 なにを言った……。

 なにを言ってしまった、……?

 そして、彼は。那月(なつき)は。

 なんて……、……。

 なんて答えた?


 あの出張からこちら、穏やかに眠れる夜が全然訪れない。

 何度だって、あの日の会話を思い出してしまう。本当にあれは現実だったのか、まだあやふやなままだ。

 あやふやなままなのに、あの日の会話も情景も温度感もなにもかもが脳内に焼きついて離れない。

 やめろ無駄に解像度高いの。

 李汪(りおう)がそう思えば思うほど、脳内モニターが勝手に再生を開始する。具体的に思い出せば思い出すほど、眠気は遠のいていくのに。


「ん? つき合うって、どっか行くのにつき合って欲しいとかそういうんじゃなくってか?」

「恋人になることを前提に親しくして欲しい、という意味だ」

 ものすごく強い声でそう言ってしまった。自ら誤魔化す芽を完全につぶしにいってしまった。どういうつもりだ俺。いやでも妙な誤解を生んでもなんにもならない。俺は正直恋の駆け引きだのなんだの、そういうのは一切ノーサンキューだ。ていうか、できない。やったことない。

 竜炉を後にし、帰りのバスを降りて駅に着いた瞬間の、あの空気。竜のいた、あの不思議な空間と時間が名残惜しいような気持ちと、下界に戻れた安堵感が入り混じった生温い空気。

 なんかメシ食ってくか! といつもの調子で那月に言われたあの瞬間、おそらく李汪はまだ意識をこちらに戻しきれていなかったのだ。

 生の火竜の生き生きした姿、その竜の元に舞い降りていく那月、対して竜の卵が処分される建物の無機質な姿。そういったすべてがあいまって、李汪の感情はかつてなく揺れていた。今日見たすべてが、幻のように消えてしまうのではないか。それが寂しかった。失いたくなかった。

 いやでもだからって。

 だからってなんでいきなり、告白した……俺?

 どう振り返っても、突拍子もない行動だった。それなのに。

 それなのに那月は、驚きに数秒固まったのちいつもの笑顔に戻ってけろりと答えた。

「おう、いいぜ。いま俺、恋人とか特にいないからな」

「いッ……、いい、のか……?」

 明らかに裏返った声を出した李汪に対し、那月は笑ったまま眉を八の字にさげた。

「ああ、よろしくな。ただ一個、問題があってよ……」

 きた。

 問題。

 それはそうだろう。俺みたいなのとつき合うだなんて問題でしかない。顔面が人外だしストーカーだし基本的に友達いないし、他にも色々と……問題の塊みたいな奴なのだから俺は。

 一度受け入れてからのお断りは正直ダメージが大きい。いますぐ走って逃げたい反面、もはや改めてなにを言われるのかが気になる。罪状はちゃんと受け取ってから消えよう……などと一転ネガティブの沼にダイブするが、那月の言葉は李汪に関することではなかった。

「知ってっと思うけど、うちの会社ってか、傳力関連会社って基本、社内恋愛御法度だろ」

 あっ。

 すごい、すごく頭から抜けていた。

 そうだった。

 妙な伝統、因習に近い話だが、傳力を扱う会社には全般に、神聖不可侵領域神話、つまり竜の伝承であるとされている話に基づいてこの『社内恋愛禁止』が根付いている。

 初めて人類に対して竜の力を貸すことに同意したと言われる『一歩目の竜(サクロ・サンクト)』は、人類に己の忠実な騎士であることを求め、清廉潔白な生きざまを求めたという。その求めに応じ竜に忠誠を誓った四大貴族即ちズメイ・ウィエナ家、ハラ・ボルガ家、ズマイ・ラミエルラ家、アジュダハ・フォライエナ各家の領主とそれに連なる者は生涯の純潔・不婚・禁欲を誓い竜に操を立てた……という、どう考えても後付けの伝承だが、実際西国では各家の末裔が各々の傳力会社の重役として幅を利かせていたり、実際に未婚を貫いていたりする。

 ちなみにナインスケイルスはフォライエナ系列の子会社の子会社のさらに子会社の東国支部である。関連会社と言えなくもないが、普通は言わない、言えないというレベルだ。それでも一応、業界共通のゲン担ぎのような風潮で、社内恋愛禁止だけは根付いている。社員同士で結婚する場合でも、形だけはどちらかが一度退社するという手続きを取らねばならない。

「だからその……一応、会社の他の奴らには内緒でな」

 そう言って那月が立てた人差し指を口元に持っていく仕草をした。その瞬間、四大貴族も始祖の竜もなにもかもが李汪の頭から吹き飛んで、目の前の男の顔しか見られなくなった。チャーミングが過ぎる。チャーミング死する。チャー死。なに言ってるんだ俺は。とりあえず融け落ちそうになる頬肉を全力で抑えて真顔をつくる。笑顔は無理だ。とりあえず真顔だ。

「あ、ああ……それは、勿論……」

「そのぶんさ、」

 そのぶん、週末にデートとかしようぜ。


 言った。那月はたしかにそう言った。言ったはず。

 いや本当に言ったか? 俺の幻聴だったんじゃ? 願望か?

 デートって。

 誰と誰が? 俺と? 久しくまともに外出なんてしたこともない俺が? あの那月と?

 絶対、迷惑だろう。仕事ならともかく、俺なんかと私用でいったいどこへ行ってなにをするというんだ。

 一人暮らしの部屋の寝室で、李汪は延々寝返りを打ち続ける。五千回は打っている気分だ。

 だが、どんなに李汪が動揺しようが寝不足になろうが世界は動き社会はまわる。朝がくれば出社せねばならず、そしてそこには那月がいる。

 全身汗だくで起床し、シャワーを浴び直してから出勤した李汪の前に、果たしてその現実が迫ってきた。

「よう、おはよう」

「おはよう」

 よかった。鉄面皮LV100で本当によかった、と李汪は内心胸を撫で下ろす。

 おかげでごく普通に挨拶が返せた。そう、いまの那月はただの同僚だ。ただ単に超かっこよくて超いい奴で超顔がよくて俺の軽はずみな告白を受け入れたというだけの、ただの同僚。いやそんなわけあるか? ていうか本当にこんな男前に恋人がいなかったなんてあり得るのか? あの返事は本当に本当の現実か? 

 顔を見ただけで、一瞬にしてシェイカーで脳みそをシェイクされた気分だった。鍛えに鍛えた無表情で、脳内カクテルを零さないよう垂れ流さないようひた隠す。しかし。

「寝不足みてーだな?」

 しまった。どうやら明らかに俺の顔は寝不足丸出しらしい。まあ仕方ない。本当にほぼ一睡もしていない。さぞ目の下も黒いことだろう。

「無理すんなよ、気分悪くなったら誰かに言えば医務室連れてってもらえるからな」

 さらりと気遣いだけを置いて、那月は去っていった。

「相変わらずタラシだなあ、あいつは」

「まあ、あれで修羅場を切り抜けたこともあるからな。才能だ」

 曖智課長が呆れて言うのを、おなじく先輩のカノウ・フキ・哉(サイ)が笑って拾う。曖智と哉は同期で仲がいいらしい。

 いい会社、いい上司だと思う。那月のような奔放なタイプの社員もあるがままに受け入れて良い部分を正当に評価、その上で竜検の費用なども負担してくれている。また、李汪自身についてもそうだ。結局、驚かれ注目されたのは那月と社内食堂に行ったあの初日くらいで、以降は特に騒ぎが起きることもなく、すくなくとも表向きには穏やかに仕事に集中できている。社内恋愛が禁じられている風潮だけでなく、男女を問わずリテラシー教育が行き届いているらしかった。

 もっとも、李汪の心中は穏やかからは程遠い。誰より大騒ぎしている。

 穏やかならずとも、仕事は増えていく。

 基本的に李汪の振舞いは社会人として「優秀」である。

 与えられた仕事にプラスアルファしないと「顔の割に普通」だとマイナス評価される、という理不尽な環境に身を置いていたせいで、優秀であらざるをえなかった。

 ところが、それが裏目に出た。

「いい成果だ。すこし早いがこれならもう那月のサポートなしでいけるな」

 書類に目を通しながら曖智にそう言われ、李汪は目を瞠る。しまった。それは嫌だ。もう数か月はマンツーマンでついていて欲しい……欲しいが、ここでできないフリをして那月の教育係としての評価がさがるのは、もっと嫌だ。それだけは避けたい。

 逡巡した末、李汪は結局教科書通りのビジネス仕草をしてしまった。

「……まかせて貰えるのならひとりでやります」

「よし」

 曖智は李汪の仕事ぶりを高く評価する、といった旨のことを言ったのち、いくつかのデータベースにアクセスする権限を李汪に与えた。

「マジかよ。そんじゃ俺もうお役御免だな」

「っ……!」

 いつの間にか背後に立っていた那月が、ヒョイと李汪の手元を覗きながらそう言った。呆れ返った調子で曖智が釘を刺す。

「言ってる場合じゃないだろ那月。お前だって提出物溜めてるんだし、再来月には定期検針だってある……」

「わーかってるって曖智先生、やるよちゃんとやる。李汪、昼は一緒に食おうな!」

「あ、……ああ」

 那月がなにも変わらない態度でいてくれるのは、救いだった。やはりあの告白は自分の妄想だったのか? と疑いたくなるほどに、普通である。

 仕事だけは順調に進む。結局、仕事人間として生きるのが一番自分にはあっているのだと李汪は思う。能力だけは無駄に磨いてあるのだし、社会の部品としてゆるやかに摩耗していければそれで……と、これまでの李汪ならば結論づけていたところだった。

 だが、いまは。

 いまは違う。

 仕事の合間の昼食時間に会えるだけで、嬉しい。仕事を終えて帰宅してから連絡がくるのだと思うと、それだけで胸がざわつく。不安定な心を受け入れてでもこの現状を信じたい自分がいる。自分にそんな大切な人間がいる、というのはこんなにも、こんなにもすごいことなのだ。

 その夜、李汪が自室でソワソワしているところに、スマホの連絡ツールの通知音が鳴った。那月からだった。

『週末ヒマだったらどっかいこうぜ』

 きた。ついに。

 デート……、これはデートの誘いだ。どっか、の後になにも続いてないということは、なにに行くかの提案はこちらに委ねられているということだ。あまり間を空けると、行くことそのものに対して否定的だと取られかねない。とりあえず暇だと送ろうかとも思ったが、最短ルートでなにか提案を。デートとかしようぜ、と言われたあの日から頭の中でシミュレーションだけは繰り返していたはずだ。提案、提案だ。決定じゃないし気楽に、気楽に……。

『映画は?』

 王道。デートの王道だろう、映画。そこまで的外れな提案ではあるまい。俺の提案に対し、ナイス! というサムズアップのイラストのリアクション、続いて那月からの返信がくる。

『いいな、なんかおススメあるか?』

 しまった、そう来たか。またしても時間はかけられない。10秒以内に散々迷って、李汪はこう返した。

『ある』

『じゃあそれに行こうぜ。お前のおススメ楽しみだ』

『わかった、チケットは俺が取っておく』

 サンキュ、というリアクションで、今日のやり取りは終わりになった。

 だが、李汪が本格的に悩むのはここからだ。

 センス。もっとも趣味とかセンスが問われる選択をしてしまった。俺としたことが、那月の好きな映画の事前リサーチを怠るとは。いやでも、おススメあるか? と訊かれているのにそちらは? と質問に質問で返す人間だと思われたくなかったし……。

 なにを弱気な。俺にはいままで溜めこんだデータがある。これまでなんのために那月のことを微に入り細を穿ち観察しまくってきたと思っているんだ。いまこそそれを役立てるとき。那月の性格・好みを鑑みて、いま上映中の映画のなかからベストチョイスをしてみせる……!

 しかし。

 最初に映画館の場所選択からして、李汪は慎重にならざるを得ない。まず、客層が若いところは事故が起きやすい。学生、ティーンエイジャー、彼らは無遠慮だ。李汪の顔がいい、というただそれだけの理由で、赤の他人であっても躊躇なく写真や動画を無許可で録りだす。なら逆に、都会のど真ん中、芸能人がウヨウヨいるような映画館ならどうか。良くない。そういう場所には所謂パパラッチもまたウヨウヨしている。基本的に李汪は外出時は帽子にサングラスだが、そういう装いをしていると本物の芸能人に間違われる。どんなに芸能人ではないと説明しても、彼らは金になりそうだと思えばただ顔のいい一般人の写真ですら売り飛ばす輩だ。そのせいで怪しげな芸能事務所のスカウトに目をつけられたことも一度や二度ではない。

 というわけで、近くに大劇場がいくつかある街のシネマ・コンプレックスをチョイスした。この手の街は比較的客の年齢層が高く、芸能人といっても舞台人や大御所が観劇に訪れることが多い。パパラッチも立ち入りを許可されず、ファンも大騒ぎするのではなく静かに見守るマナーのある街。

 では次に、ここの映画館の上映ラインナップをチェックする。

 これだ。

『恋と友情~ぼくが好きなのはきみ~』

『ミスターバッドハンター』

『劇場版キャオキャオチーズぱにっく☆彡今度は土鍋で煮込まれろッ!』

『愛の雄叫びⅡ 千代子編』

『瞳孔あるいはオパルセン星団の憂鬱』

『マイダイアリー・牛との遭遇』

 …………。

 なんだこの、カスラインナップは。控え目に言って、カスだ。

 待て待てもうちょっとないのか、危なげのないチョイスをさせろ。感動名作とは言わないから、70点くらいのやつを。

 まず恋愛映画はナシだ。セオリーでいうならデートで観る映画に恋愛ものを選ぶのは悪くない。でもあまりにもどストレートなものはナシだ。仮に恋愛映画を選ぶにしても、このタイトルの映画を選ぶ人間だと那月に思われたくない。

 消去法でいくならアクションものらしいバッドハンターだが、俳優からしてB級のにおいがプンプンする。次にキャオキャオ。別にアニメをバカにする気はないが、この手の映画は元を知らないと絶対に楽しめない。Ⅱも然りだ。キャオキャオも千代子も誰なんだという状態ではまず選択肢に入らない。残るは牛との遭遇かオパルセン星団……初デート映画で牧場暮らしのドキュメンタリー映画は意識が高すぎる。となると『瞳孔~』になるが、この監督の名前は見覚えがある。ものすごい独創性と癖強演出の、ある意味カルト人気しかない作風なのだ。なんでシネコンで上映されてるんだ。単舘上映で十分だろ……。いやでも最近この監督も年をとってだいぶ丸くなった、というネットの批評もみた気がする。よし、加齢に期待だ。もしかしたらすこしくらいいい話だった、となる芽もある気がしてきた……よし、このチケットを取ろう、と、李汪はウェブの予約ページを開く。席はまだガラガラだが……席、席か。どのへんがいいんだ? ひとりで観るときは一番後ろの列の非常口近くしか選ばないが、デートなのだからもうちょっと真ん中のほうが……いや逆か? でもあまりいじけた席を選ぶのも下心を疑われる気が……フードは……などとやっているうちに夜が明けた。李汪の寝不足の日々は続く。

 

 待ち合わせ当日も、興奮しすぎて早朝に目が覚めた。なにを着るかを迷いに迷ってベッドに入ったのも深夜だったというのに。目立たず、気負わず。でもセンス皆無と思われない服装選びは案外難しい。加えて李汪は外出時は帽子とサングラスが必須である。この顔面のせいでまるで吸血鬼だ……と、あいかわらず呪わしい気分にはなる。

 白Tシャツにオリーブグリーンのチノパン、黒いキャップにサングラスという実に危なげも面白味もないスタイリングで家を出る。気分的には待ち合わせの三時間前くらいから行って待ち構えたかったが、余計なトラブルは避けたかった。場所を選んだとはいえ、他者の目の多い映画館のロビーは油断できない。せっかくの那月との時間を台無しにするようなことは、あってはならない。

 それでも入場開始の十分前にはシネコンに到着した。那月を待たせるなんてあり得ない。ロビーの柱を背にしてなるべく目立たない位置で立つ。なるべく不自然でない俯き加減で顔を隠す仕草は、自然と身に着いた。世の中には私服だと全然気づいてもらえません、なんていう役者や芸能人もいるという。悪目立ちしないためのコツがあるのかも知れない……などと考えていると、りお、と名を呼ばれた。

「待たせたか、悪ぃ」 

 顔をあげる。那月の発音はすこし独特で、李汪、がいつもりお、と短く聞こえるのですぐにわかる。もっとも、那月の声である以上、わからないわけがないのだが。

「なんか新鮮だな、私服」

「……!」

 それはお互い様だ……と、ネズミ発見時のネコよろしく瞳孔を見開きながら李汪は思う。出張のとき以来の前髪の降りた那月だ。今日はあのとき以上にカジュアルなスタイルで、さらりとした素材の水色ストライプのクレリックシャツは那月の首の長さを際立たせているし、濃い色のバギーデニムは純粋にスタイルがよく見える。いや実際スタイルがいいのだ那月は。こんなに元のスタイルがいいのに、日々鍛えてもいるからどんどん進化する。とても目が二個じゃ足りない。複眼になって彼を見ていたい……と李汪が謎のトンボ男になっているとも知らず、当の那月は映画館内を見回してドリンク販売のカウンターに向かおうとしていた。

「なんか飲み物買おうぜ」

 正直李汪としてはさっさと劇場内に入ってしまいたかったが、こういう、一緒に飲み物を買ったりグッズを見たりするのがデートの醍醐味というか内容なのだと思い直した。大体、映画館で那月がなにを選ぶのかを知るチャンスだ。適当にアイスティーを頼んでからじっと那月の動向を見守る。炭酸系かと思いきやアイスカフェラテだったので、まだまだ観察が足りない。

 サングラス越しなのをいいことに、李汪がかなりまじまじと那月を見つめていると、視軸がこちらに合った。ヤバい今日も顔がいい。すごくいい。

「なに見てんだよ。アイスラテがよかったか?」

 へらりと笑って那月がふざけて手を伸ばし、李汪のサングラスを外すフリをした。那月の手が自分に向かって伸びてくる、という絵面だけで呼吸がおかしくなったが顔には出さなかった。那月は細身だが手が大きく、案外指の節が高い。強そうというか、がっしりした手だ。これが実力で竜検合格した人間の手か。正直、手の形として好き過ぎる。石膏像にして部屋に飾っておきたい。

 そんな危険な妄想を、那月の一言が吹き飛ばした。

「今日のやつ、李汪の好きな映画なんだろ。楽しみだな」

「エッ……、……」

 忘れていた。そうだった。

 本日の映画はウェノア・プリネア・ジャモーニー監督作品『瞳孔あるいはオパルセン星団の憂鬱』216分。哲学的視点から人間の深層心理に切り込む映像美と難解ながらも強烈なメッセージ性で、デビュー以来数十年に渡り映画界の異端児ポジションを独占している監督の、最新作。

 これが、俺の好きな映画である、と。

 那月にそう思われる……本当に、それでいいのか?

 とたんにアイスティーが砂の味になった。監督、頼む。奇跡を起こせ……と祈りながら、シアターに続くカーペットの上を歩く。ストローから口を離した那月がなぜか小声で言った。

「李汪のそのスニーカー、めっちゃいいな」

 おそらく周囲がすでに薄暗く、シアター内の空気を読んで那月は小声になったものと思われるが、そんなことをウィスパーボイスで囁かれる身にもなって欲しい。もうちょっとで眼球がサングラスを割るところだった。頑張れ俺の表情筋。保て鉄面皮。必死に己を励ましながら、李汪はさらりと答える。

「ああ、履きやすいんだ。実店舗はないけどたしか近くの商業施設で出店してるはず……」

「マジか、後で見にいこうぜ」

 よかった。これも単なる白スニーカーと言ってしまえばそれまでだが、好きなメーカーではある。すくなくともスニーカーの趣味は褒められた……と、胸を撫で下ろす。どうしてこう、彼の評価を気にしてしまうのか。那月は他人を上から評価するような人間ではない。それはわかっていることなのに。

 それは俺が、彼を……好きだからなのか。

 己の問いかけに、今更ながら心臓を鷲掴みにされた気分だった。

 そうか、俺は。

 彼のことが、好きなのか。

 自分で告白しておいてなんだが、ほぼ目が眩んでいたと言っていい。曇天でしかなかった自分の人生に、突然差した光に目が眩んで、思わず恋人になってほしいなどという願望を口にした。なぜか光はそれを受け止めてくれて、いまこうして薄暗い空間にふたりで一緒にいる。

 突然それが本当にひどく信じられないことのように思われて、李汪は那月の横顔をそっと横目で見た。彼はまだ予告編しか始まっていない画面に集中しており、視線に気づかないでいてくれている。

 このくらいの距離が、一番いいのかもしれない。

 そんなことをふと思ってしまった。誰より近くで見ていたい、それは事実だ。だが、那月の視線がこちらに向くのは怖かった。どんな評価をされるのか、自分は必ず気にしてしまう。なにかに夢中になっている彼の表情を、彼に気づかれぬように盗み見るくらいが、距離としては丁度いい。

 突然湧いたネガティブな感情をシアターの暗がりに溶かして誤魔化すうち、あっさりと216分は過ぎていった。


 結論から言うと、映画自体はものすごく、ものすごく微妙だった。ある意味、この監督の真骨頂だった。

 ジャモーニー監督、ファンからすれば大満足だったろうが今回だけは裏切って欲しかったんだが監督。加齢はお前を丸くしなかった、より一層ソリッドにした。もう監督は一生そのままでいていい……、ただ、目下の問題は。

「なんか……、初めて観るタイプの映画だったな」

 見ろ、この那月の反応を。俺はいままでで一番冷や汗が止まらない。だが消去法でこれを選んだとは言いづらい。映画館も映画も、選んだのは俺だ。この地獄の空気をなんとかしなくては……。

「不可解なところが多いんだ……解釈の幅が、広くて……あと、ちょっと長かった、かな……」

 正直、ほぼ映像を眼球に映していただけの李汪には、体感あっという間だった。意識は九割九分九厘、隣の那月に向かっていたからだ。つまり那月を単独で216分の独房に閉じこめてしまったことになるのでは……と、奇妙な罪悪感すら抱きかけていた。ところが。

「最初のほうでさ、おっさんが窓から椅子投げてたのはなんでだ?」

 しばらく神妙な顔で考え込んでから、那月がそう問いかけてきた。たしかにそういうシーンはあった。

「ああ、あれはメタファーっていうか、この監督のお約束みたいなやつなんだ。人の感情を椅子で表現するっていう……」

 別に李汪もこの監督の映画に詳しいわけではない。実際観たのは一、二本のはずだ。それでも那月の求めには応じたいので、ネットで得た知識の限りで答える。

「んじゃ、なんかドレス着た女が喋ってるとき、ずっとカエルが映ってたあれもその、メタファか?」

「そう、椅子とカエルと青龍偃月刀はこの監督の大好きモチーフなんだ。あと絶対に主演女優とつき合うって噂が絶えなくて……」

「マジか、すげえな。あと最後のほうのなんか……画面に柄がワチャワチャって出てくるとこ」

「あ、ああ……あれか……」

 そう。この監督の名物というか悪癖というか。初期作品から今作に至るまで使われている『なぞのグラフィックが画面いっぱいに現れ、ノイズのように15分くらい入り続ける』という表現。ネットでは強制睡眠パートとか激ヤバアクションなどと揶揄されている演出である。コンピューターグラフィックが一般的でなかった時代にこそ斬新だなんだと言われていたが、技術としてはいまや古典の域だ。

「あれ、面白かったな」

「マジでか!?」

 思わず口調が乱れてしまった。違う、那月のセンスをバカにする意図はない。断じてない。ただ一般に、いきなりこれを面白がるのには割と尖ったセンスが必要なのではないか……と李汪は思うのだが。

「正直よくわかんねえとこ多かったけど、いまお前が解説してくれたから。なんかもっかい観たくなってきたかも……」

「……?!」

 もう一回大声を出しそうになってしまったのを、李汪はかろうじて飲み込む。大事なのは那月が楽しんでくれたという部分だ。せっかく楽しんでくれたのに、李汪の感覚であげたりさげたりする必要は、どこにもない。

「俺、実はあんま映画館で映画って観たことねえんだ。最後に行ったのたぶん、小学校んときとかだ。だから新鮮で面白かった」

 ……。

 監督は、俺に感謝したほうがいい。

 俺のおかげで、世界で一番イケている男がお前の映画を面白がったのだから。ていうか若干許せない部分すらある。那月のほぼ初映画館体験を、この監督に奪わせてしまった。もうちょっといいセレクトがあったはず……。

 表情こそ無を保っているが、李汪の内心は相変わらず揺れている。そんな李汪にふと微笑みかけて、那月が言った。

「やっぱ李汪って面白えな」

「お、面白……?」

「ああ、すげえ面白い奴だよ。俺の知らねえこといっぱい知ってる。お前が誘ってくれなきゃこの映画だって知らなかったし」

「いや、そんな……」

「映画観るのいいな、また来ようぜ」

「それは……、勿論」

 面白い、という、人生でついぞ言われたことのない言葉に、李汪の鼓動はなぜか速くなった。顔のことばかりがついて回って、仲のいい友達すらいなかったから、それこそ新鮮だったのかもしれない。

 面白い。いい響きだ。いままでの自分の人生に、一番足りなかったものではなかろうか。

 その後、李汪が履いているスニーカーのメーカーが出店しているデパートに行き、那月が試し履きをするのを幸せな気持ちで眺めた。こなれた雰囲気の男性店員が、タイミングを見計らって那月に声をかける。

「よろしければ、サイズお出ししますよ」

「あ、27.5っす」

「シティユーズなら28でもよさそうですね、両方お出ししますんで、試してみましょうか」

 成る程足のサイズ、と、こういう那月のデータ集めをしているときが一番心が落ち着く気がする。ただし。

「なあ、どっちがいいかな?」

 不意に那月がこちらを振り向いて、笑顔でそんな風に訊いてくるのが心臓に悪い。こんなのまるでデートじゃないか、と自ツッコミする度に、いやデートだろうが、ともうひとりの自分が拳を振りかざす。いやそんなことはどうでもいい。

「そうだなあ……」

 那月の足元には二足のスニーカーがある。片方は黒で、もう片方はベージュ系のすこし変わった色合いだ。どちらがいいか、今日履いてるのと違う雰囲気にするならこの色だし……、黒ならスーツでもいける……、……違う。そういうのは、店員が言うことだ。もっと面白いことを言え俺。せっかく面白い奴認定をもらったばかりなのだから、なにか気の利いたコメントを……と、必死に考えた末。

「こ……、こっちが、似合うんじゃ、ないか?」

 お父さんか? 年頃の娘の扱いに困ってる中年のお父さんか俺は。違うんだ、那月には正直どっちでも似合う。なんだって似合う。だって180越えのこんなスタイルのいい男に似合わないものなんかこの世にあるか? ない。今日のカジュアルな感じにはベージュが合うからこっちを指さしたが、もっと攻めた色合いだって余裕で似合う。黒は隙がなくなり過ぎる気すらするが、このデザインならすこしはずした雰囲気が出せて可愛い上にかっこいい。正直靴屋は全種、那月に提供したほうがいい。どれも似合う。絶対似合う。履かれる靴に嫉妬すらする……だからってどれでもいいんじゃないか、なんてそれこそお父さんみたいな投げ遣りな返しはしたくない。でも。だが。

 李汪が無表情のまま脳内言い訳に余念がないのを後目に、那月はベージュのほうを試し履きして数歩店内を歩きまわり、鏡の前でバランスをたしかめてから笑って言った。

「よし、じゃこっちにするか」

 そんな、と李汪が固まる。そんな、那月の日常に俺のセレクトが食い込むようなことがあっていいのか? 俺はこの靴を見るたびに、今日のこの時間を思い出すに違いないのに? あとなんていうか、デザインは違えどこれは……。

「ありがとうございます。これでお友達とお揃いになりますねえ。では、お会計は向こうで……」

 熟練の接客業達人にさらっとぶち込まれ、レジに案内される那月の背中を李汪は無言で見送った。


 夜まで一緒にいられるのかどうかがわからなかったので、特に店を探しておかなかったが、通りすがりの店で夕食をふたりで摂った。パスタと他に取り分けで数品を頼み、相変わらず那月は旺盛な食欲をみせた。飲み会では那月は結構な量を飲んでいる、と李汪は思っていたが、今日はアルコールではなく炭酸水を飲んでいる。李汪がノンアルのジュースを選んだせいで気を遣わせたかと勘ぐったが、那月は「酒飲むと身体が重くなるから」と言って笑うだけだった。

 たしかにあのロープワークをしようと思えば、それなりに鍛えた肉体が必要になる。定期的に竜の元へ降りるのだから、派手に太ったり逆に筋肉を萎えさせたりもできない。といって、那月はアスリート体型ではあるが、そこまでストイックに食事制限をしている風でもない。肉も魚もパスタも好きに食べている。

 那月がものを食べている姿は、人が生きている感じがとてもする。今日が明日になるような、陽が沈んでまた昇るエネルギーのようなものを感じる……などと、フォークを片手につい李汪はウットリと視線を注いでしまう。視線に気づかれる前にはずそう、といつも思うのに、結局いつも間に合わない。

「なあ、魚いっぱい食っていいぞ。俺、パスタ多めに食べたから」

「え、ああ。食べてる……」

「頑張れ、でないと俺に全部食われるぞ」

 応援されてしまった。全部食べられても正直かまわないというか、見ているだけでも胸はいっぱいだ。とはいえ気を遣わせない程度には食べなくてはと李汪は皿のものを口に運ぶ。

 そういえば那月の中では、李汪はすっかり「魚好き」の設定になった様子だった。李汪としては無難に栄養摂取ができるから魚を多めに食べる、くらいのもので、特に好きというわけでもない。だが、訂正する気もない。いつか訊かれたときのために、いまのうちに具体的に好きな魚の種類を決めておこうと思う。

 なんやかんやで正統派のデートができた、気がする。

 我ながら今日のは、とてもデートっぽかったんじゃなかろうか。

 食事を終え、そろそろ駅へと言いつつ夜の公園の小径を歩いた。地名を冠した広い公園で、レトロなガス燈のようなデザインの外灯が立ち並んでいる。駅に着くと今日が終わる、と思うのがとても嫌だった。

 そんな李汪の気持ちが伝わったとも思えないが、那月がぽつりと呟いた。

「楽しかったな。なんか、あっとゆーまだった」

「ほ、本当に……?」

 つい口をついてそう訊き返してしまうと、那月は目蓋をまるく持ちあげて驚いた顔をした。

「なにお前、楽しくなかったの?」

「楽しかったに決まってるだろ!」

 思わずムキになってそう言うと、那月は悪童のように口端を持ちあげた。その笑顔があまりにも刺さり過ぎて、自分がどんな表情をしているのか自信がなかった。

「んじゃ、そういうことだ。どっちかだけ楽しいなんてあるかよ」

 続けて那月がそう言うのとほぼ同時、グイと首を引き寄せられた。李汪はカートゥーンアニメのキャラのごとく手足をピンとつっぱらせ、現状を理解しようと努める。

 これは、ハグ……? いや、ちがうか? 那月は、割と誰とでも距離が近いし、たぶんこれは、友愛の証ではあろうが、でも。

「また来週な」

「ま……、」


 どうやって帰宅したのか、記憶にない。

 彼は、那月はいったい。

 いったい、なにを。

 なにが、起きた……?

 そして、俺は。

 どんな……、……。

 どんな間抜け面をしていた?


 思い出すと心臓がもたない。もたないとわかっているのに思い出してしまう。だってあれは。

 酩酊したような心持ちで帰宅し、自分でも知らないうちに寝支度を整えてベッドにいた。寝返りをもはや五万回はしている気がするが、眠気なぞまったくおりてこない。

 いやでも、あのとき俺は。

 なんか、黙ってされるがままみたいな……?

 ウルトラ期待満々みたいな態度だったんじゃないのか。

 そこまでされたら那月のほうだって退くに退けなくなるんじゃないのか単なる冗談のつもりだったにも関わらず。

 距離が近かったぶん、色々感じとるものが多かった。那月の体温と、吐息と、あれは……心臓の音だったんじゃないだろうか。

 この続きは。

「……続き?!」

 無人の部屋で大声を出さずにいられなかった。

 これ以上先があると思っているのか、俺?

 いまが最高潮だとは思わないのか、俺。

 いつからそんな貪欲な人間に成り果てたのか、俺。

 ……。

 いつから、と言われれば那月に出会ったあの瞬間からに他ならない。そう。とても明確にわかる。一目那月を見た瞬間に李汪は、恋をした。

「……、……!」

 待て、改めて脳内に言葉として打ち出すと恥ずかしい。このうえなく恥ずかしい。恋ってなんだ。この俺がか?

 ベッドからガバリと起き上がり、李汪は毛布を握りしめる。

 この場合の「この俺」は、勿論この絶世の美形たる俺が、などというポジティブな意味合いのものではなかった。

 人との関わりに怯えるあまり、妙な壁を建設することにばかり長けて、友達すらいなかった俺なんかが……恋?

 できるとでも?

 勝手に片想いするだけならまだしも、恋人をつくってその……イチャイチャとかできるとでも?

 無理だ。

 きっと俺は、ずっと那月の顔色を伺ってしまう。好かれたくてそうなるならまだマシだ。でも俺は、どうすれば嫌われずに済むか、そんなことばかりを考えてなにも言えなくなって、徐々に空気感をおかしくしてしまう。

 そんなことばかり気にする奴と一緒にいて、那月が果たして幸せになれるのか? 否、なれるわけがない。

 ネガティブすぎる。ダメだこれは。

 やめよう、いったんこの恋、という単語を忘れよう。自分の辞書から消去しよう。もうちょっとマイルドな表現で、なんというか好意がある、というか。親しくする願望がある、とか。心臓に優しめの言葉にしよう。

 しかし改めて考えてみると、李汪がこれまでの人生で無視してきた言葉の数々は、なんだったのか。

 好きだ、愛している、ずっと一緒に、あなたに夢中、もう他のことが考えられない。そんな意味のことを熱っぽく告げられた経験がないわけではない。寧ろ男女問わずそういう熱狂しかなくて、ウンザリしてきた。

 言葉を尽くしてそう訴えてきた人間を、李汪は悉く無視してきたではないか。それを後悔しているわけではない。ただ、心になにも届かなかったから無視したに過ぎない。

 つまり、言葉で気持ちを伝えるというのは、もうものすごくすごく難しいことなのだ。

 どうして自分の気持ちだけが、正しく那月に届くなどと楽観的に考えることができようか。

 ああ。

 さっきまで、あんなに夢見心地だったのが嘘のようだ。落差が激しすぎる。

 サイドテーブルの時計は夜半を示していた。ベッドを降りて、水を飲みに冷蔵庫の傍へ行く。ふと、充電の終わったスマホを見れば、那月からのメッセージが短く届いていることに気づく。

『なんか連続になるけど、フットサル行かね?』

「フット、サル……、……」

 思わず声に出していた。普通の誘いがこんなにも嬉しい。那月が色んなものを埋めてくれる。すがるような気持ちでスマホを手にとり、秒で行く旨を返信した。

 たったこれだけのことが嬉しくて、永遠にこの瞬間であればいいとすら思う。誘われて、当日がくるのを楽しみに待つ。この時間だけが至上だ。


 週半ばの退勤後。会社を出て電車で数駅を移動したビルの屋上に、そのフットサル場はあった。ナイター仕様で白光ライトは明るく、六面あるコートはそれぞれ仕事終わりの社会人チームで満員だった。

「李汪、これ、ビブスな」

「ああ」

「俺ら別にリーグとか参加してるわけでもねーし、気楽にたのしんでくれたらいいからよ」

 そう言って笑う那月はすでに着替えを済ませている。スポーツタイツにハーフパンツにTシャツの上から、李汪に渡したのとおなじ紫のビブスをつけている。炉でのボイラースーツもよかったが、運動着姿になると爽やかさが九割り増しだ。

 人工芝のコートの中央には、すでにおなじビブスをつけたチームメイトたちが待機していた。那月の高校の同級生がふたりと、昔のバイト先の友達がひとりだという。全員一様に李汪の顔を見て驚愕の表情を浮かべたが、李汪に言わせれば、これまで那月という爽やか界の帝王のごとき存在とチームメイトだったくせになにを、という感じである。

 挨拶もそこそこにゲームを開始する。基本5対5なので、今日は本当にギリギリの人数である。対戦相手のチームは人数だけで言うなら倍はいる。交代枠がない分、スタミナ的にも不利だ……と一応状況把握はするが、なにせフットサルは初体験でもある。気楽にやらせてもらおうと李汪がピッチに入った途端に、相手のゴレイロつまりキーパーが大声を張り上げた。

「おい那月コラ! なんやそのイケメンは誰やコラ!」

「うちの新兵器だ、文句あんのかコラ!」

 どうやら那月と親しい間柄の相手らしい。普段よりガラの悪い那月が見られるのは僥倖だが、その関係性は李汪としては妬ましい。しかし、結果として相手チームのギャラリーからも注目を集めてしまった。プレイヤーだけでなく、家族なのか恋人なのか、私服の女性も何人かいる。煌々と照らされたピッチ内では隠れようもない。

「え……待って、なにあれ……」

「は……? 誰? 顔、綺麗すぎない……?」

 みろ、この空気。

 この空気の中で、俺が鈍足だったりダルプレイしようものなら。

 顔がいいだけで運動音痴、顔がいいからって舐めプ、顔がいいからカッコだけはいっちょまえ……等々。絶対そう言われる。顔、顔、顔。全部この呪われた顔面のせいで、俺は己を鍛えざるをえなかった。トレーニングにつき合ってくれた実父にすら、リオは本読むほうが好きなのにな、と同情されるレベルで運動なんて大して好きではなかったというのに。恥をかかないために人並み以上にできなくてはならなかった。これが呪いでなくてなんだ。

 いざプレイを開始してみると、フットサルはサッカーとはかなり勝手が違った。そもそもピッチの広さが全然違うし人数も違う。展開はよりスピーディで、交代も自由。足でボールをゴールに運ぶというところ以外は、寧ろバスケに似ていた。

 那月は常に走り回っている。どのポジションも兼ねるというのはフットサルのこの狭いピッチではありがちなことらしいが、それにしてもよく走る。スタミナにくわえて瞬発力も高い。

 対して、基本的に李汪はあまり走らない。

 走ると、それだけで目立ちたがり認定されるからだ。十代の学生はなんにでもイチャモンをつける天才だ。顔がいいからって調子に乗って走ってる、というのは本当に意味がわからなかったが、実際に李汪が言われた言葉だった。

 結果、李汪が身につけた技術はパスである。パスはなかなかの魔法だ。李汪を妙に目の仇にしていたチームメイトも、なめらかなパスを送って点を取らせてやると、わかりやすく陥落した。ただし陥落しすぎて様子がおかしくなり最終的に執着されたので、封印魔法となったが。

「りお!」

 いまは、那月の望む場所にボールを送ってやるだけでいい。と言うより、那月が走りこむ方に蹴れば、ほぼ確実に点が入った。

「うまいなお前! すげえよ!」

 那月がはしゃいだ声を出しながら近づいてきて、李汪の頭をくしゃくしゃと撫でまわした。地元の少年サッカークラブの練習に嫌々通っておいて本当によかった。チームメイトたちはプロ志望の妙にプライドの高い連中ばかりで全然楽しくなかったが、それでも行き続けた苦労がいま、最高の形で報われている……。

 こういう場での接触なら、李汪もそこまで緊張せずに済んだ。それに、那月を喜ばせることができたのも嬉しかった。

「あの、よかったらうちのチームにも所属してくれないかなぁ……?」

「俺のチームもその……慢性的に人が不足してて……」

「コラぁ! ダメだダメだ! 李汪はうちのレギュラーにすんだかんな! おら散れ、お前ら散れ! 守れ!」

 おなじく興奮した面持ちで近づいてきたチームメイトたちを、那月が一蹴する。那月の腕はずっと李汪の首にまわったままだ。

 20分のピリオド二回、40分の試合を相手を変えて二回やった。相手が変わる度にギャラリーも増えたが、結果的にフットサルは楽しかった。那月はずっと走りっぱなし動きっぱなしだった。ギャラリーからの歓声を浴びることも多く、その度に李汪としては胸の奥にドス黒く渦巻くものを感じた。そう、那月は、モテる。絶対モテる。顔だけじゃなく全身からかっこよさが溢れているのだから、無理もない。

 試合を終え、ピッチでの軽いストレッチをして三時間のコート使用は終了となった。那月が先のゴールキーパーと冗談を言い合いながら会計のやりとりをしているのを、李汪は遠巻きに眺めていた。

「李汪君、奥にシャワールームあるから先に使いなよ」

「ああ、ありがとう」

 那月の元同級生でキーパーをやっていたヤナカ・タツマ・舷に案内されて、李汪はシャワールームへ向かう。その後ろから、あの、と声をかけられた。

 無言で振り向くと、もうひとりのチームメンバーだった男が思いつめた表情で李汪のほうを睨んでいた。睨んで、と言っても彼は別にケンカを売っているわけではない。ああ、と李汪は内心肩をすくめる。この手の視線に李汪は慣れている。

「あの……ごめん、しつこくて。でもマジで連絡、とりたくて……、アカウント交換……だけでも、してもらえないか」

 そう言われた瞬間、反射的に李汪はやってしまった。

 これ以上ないくらい冷たい目を、あろうことか那月の仲間に向けてしまった。

「……、……っ、あ……、ご、ごめん……」

 しまった。

 本当に単に、フットサルチームのメンバーが欲しかっただけなのかも知れないのに。そもそも那月の友達なのだから、良い奴なのに違いないのに。だが、李汪は。

 彼から向けられたその情を、心底うざったいと思ってしまった。

 真剣な気持ち。別に邪なものではないのだろう気持ちであるにも関わらず、反射的に拒絶した。

「悪いけど、来月から忙しくなるんで」

 完全な無表情でそれだけ言い置いて、李汪はシャワールームに入る。中は簡易な個室に分かれていて、誰かが使った直後らしく床は濡れており、栓をひねるとすぐにお湯が出た。備え付けのボディーソープはなんと那月の愛用品、つまり現在李汪が使っているものとおなじ種類だった。

 結局、俺はなにも変わっていない。最近那月と一緒に過ごすようになり、すこしは変われたのではないかと自分では思っていたのに。

 俺は本当に、性格が歪んでいる。

 那月の隣にいる存在としては、下の下だ。

 薄暗い気持ちで汗を流してからフロントのほうに向かうと、いつの間にかシャワーを浴び終えた那月が濡れ髪のまま、例の相手チームのキーパーにヘッドロックをかけられてタップしているところだった。が、李汪の姿を認めるや那月の頭から腕を離し、すごい勢いで走って距離を詰めてきた。

「あ! イケメン、ゴラァ!」

「?!」

 小学生男子のノリだ、と身構えた李汪だったが、横から彼の妻らしき女性が飛び出し、彼の進路をふさぐと素早く腕ひしぎ十字固めをきめた。どう見ても格闘技経験者の動きだった。

「ゴメンね、こいつ野生のゴリラだからイケメンみると興奮しちゃうの! 那月くんまた次よろしくねー!」

 苦笑しつつ女性に早く早くと促され、そっとその場を後にする。さすが那月の周囲は個性的な面子がそろっている。

「良かったのか? その……かなり熱烈に誘われていたが」

 野生のゴリラキーパーは関節をキメられて悲鳴をあげながらも、那月と李汪を含めたチームメンバーをアフター飲みに誘い続けていた。那月が苦笑して説明する。

「ヨシにつき合うとすげえ飲まされんだよ、酒、大ッッ好きだからあいつ。だから次の日仕事のときはさっきみてーに、ちゃんと奥さんがセーブしてくれんだ」

 社会人チームの常で、普段は皆そうそう飲みに行ったりはしないらしい。でも那月に言わせると、今日はなんとなく全員がソワソワしていたとのことだった。

「みんなお前と仲良くなりてえんだなあ。まあそうだよな、すげーパスだった! 俺あれだ、なんかゾワッてなったもんなこのへん、ウワって」

 たぶん、鳥肌が立った的なことを言いたいのだと察しはついた。そこから駅まで歩く間は那月がずっと李汪のプレイを褒めてくれるボーナスタイムだった。かえすがえす、子どもの頃にめげずに練習をしておいてよかった。好きでもないし趣味でもなかったことが、こんな形で花開くことがあるのだ……と、過去の自分に感謝した。

「そういや颯真がなんか、謝ってたぞ。しつこくチームに誘った、って」

「颯真? ああ……いや、こちらこそちょっと……そっけない感じに断ってしまった」

 颯真は間違いなく、シャワールーム前で声をかけてきたあの男のことだろうと思われた。さっきの己の所業を思い出して李汪の胸に翳がさす。

「そっか」

 普段の調子の那月……だと思ったが、かすかに違和感を覚える。

 なんだろう、那月がホッとしていたように見えた。

 いや気のせいだ。俺の欲目が視界を曇らせたんだ。

 那月は俺みたいに妙なことで感情を上下させたりしないし、嫉妬もしない。いつだって穏やかで感じのいい最高で完璧な男だ。

 と、思った次の瞬間。

「あれ? なんか俺いまめっちゃホッとしたな? あれか、ヤキモチ妬いてたんだな」

「え……」

「やっぱさあ、目立つよな李汪は。全然いーけどなんか、やっぱ嫉妬しちゃうモンだな、俺じゃねえ奴とお前が仲良くなりそうになると」

「そんな、ことは……」

 さっきから李汪の心臓はうるさく脈打っている。どこまでが社交辞令なのか、いや那月はそんな薄っぺらいこと言う男じゃない。そう思っていても、那月の口から嫉妬、という言葉を聞いた瞬間、あきらかに嬉しくなった自分がいる。最高で完璧な男が吐露する不完全さに、李汪の胸はガクガクに揺さぶられてしまう。

「つうかあいつら、お前からのパス欲しがり過ぎじゃね?! めっちゃパスパスうるさかったよなあ!」

 そうだっただろうか? 正直、那月しか見ていなかったのでまったく記憶にない。那月が全力疾走する姿が野生の獣のように美しくて、ひたすら目で追っていた。おかげでパス出しは容易だった。

 だが調子に乗るな俺。そう、これはフットサル選手としての俺の話だ。選手としての嫉妬だ。俺という戦力が他のチームに行くのがキャプテンとしては困る、という話に過ぎない。

 だいたい、まだ俺は現状が俺の妄想である説を捨てていない。

 たしかに映画に行ったり食事をしたりと親しくしているが、ぶっちゃけ友達の域を出ていない。俺が勝手に告白して受け入れられたと思い込んでいるだけで、那月のほうは仲良くなった奴のうちのひとり、としか思っていない可能性が高い……、……と、おそるおそる横目で那月を見ると。

「もうちょっとで、俺こいつとつき合ってんだぞ、って言っちまいそうになった」

 飲んでもいないスポドリを噴きそうになった李汪だったが、そこからの困ったような那月の笑顔に釘付けになってしまう。

「でもこれ内緒だもんなあ。たまに会社の奴もフットサル来るし、油断できねえもんな……」

「あ、あの、那月、その……」

「ん?」

「俺はつまり、なんていうか……」

 那月以外の人間には興味がない。いや、それどころか那月以外の森羅万象に興味なんかないんだ、と、つい本音を伝えそうになって危うくとどまった。

 そういうんじゃない、いま伝えるべきはそういうんじゃない、ということだけは李汪にもわかる。ていうか、イメージダウンだ。偏執的な変態だと伝えるのは良くない。

「那月のことが…………好きだから、その、他の、誰かと仲良くなったりは……、しない」

 あってるのか?

 これは果たして、正解の答えだったのか??

 伝えた次の瞬間にはもう不安が押し寄せた。やっぱり気分を害したんじゃないのか。なにも言わないほうが良かった。バカだ。嫌われた。いやでも、黙っていたらなにも伝わらない……。

 ネガティブな感情を払拭してくれたのは、那月の左手だった。

 長い腕が背中にまわり、左手が李汪の肩にそっと乗った。それから、すこし甘えるように頭をコツリとぶつけられる。

「……超安心した。ありがとな。優しいな李汪」

「……、……」

 苦しい。

 不安は消えたはずなのに、まだ苦しい。

 他人を好きになるってことは、こんなに苦しいのか。知らなかった。

 嫌われることとか、好きになれないことだけが苦しいんだと、俺はそう思ってた。

 それでも、人を好きになれる世界とそうでない世界では、色が全然違う。苦しくても、この色のついた世界から離れたいとは思えない。

 しばらく那月の体温を感じながら黙って歩いた。どさくさ紛れに初めて好きだと口にしてしまったが、ちょっと重かったかもしれない。でも、後悔はしていない……ていうか、そもそもこの世界に那月のこと好きにならない奴なんかいない。いたとしても近々絶滅するだろう……などと不穏なことを考えているうちに最寄りの駅が見えてきた。自然と那月の腕が離れていったのを、寂しく感じる反面、ホッとする自分がいる。他人との距離のはかり方は本当に難しい、と、内心溜息をつく李汪に、那月が言った。

「ああそうだ俺、今度から小学校のサッカー部のコーチやることになったんだ。あいつら、熱意がすげえもんだから」

「コーチ?」

 そういえば初めて那月に会った日も、那月は小学校の講演会に行ってそのままサッカーをやって戻ったところだったのだ。突然現れた息を切らせた男に驚いたあの日が、もうずいぶん遠いように感じる。

 聞けば、一昨年から社のプロジェクトとして始めた子ども向けのエネルギー解説講座に那月が行ったときからのつき合いだというではないか。初めて小学校に行ったときに、たまたま転がってきたサッカーボールを蹴り返したことが直接の縁になって、今年もせがまれ、そこから那月の元担任の先生を通して、本気のオファーがきたという経緯らしかった。

 成る程、わからないことはない。小学生からしても那月はメチャクチャかっこいいお兄さんなのだろう。サッカーがうまくて気さくで、でも熱いところもある。しかも一昨年からのつきあいだとは。

 …………。

 ズルい。

 那月にコーチングしてもらうなんて、ズルい。

「俺も…………、嫉妬、してる……っ」

「えっ? だって、こっちは小学生の団体相手の……」

「そういう問題じゃない!」

 李汪がついに声を荒げた。荒げたというより、本音が喉をついて出たというのが正しい。

「た、ただでさえ、那月のことまだ全然、知れてないのに……、また知らない世界をどんどん広げられたら……追いつけなくなる……から……」

 語尾は情けなく萎んでしまった。口に出しながら、自分でもわけがわからないと自覚した。恥ずかし過ぎる。ところが次の瞬間、那月の両手が両肩に置かれ、そしてまっすぐな両の眼に射抜かれる。

「なあ、それなら一緒にやんねえ?」

 顔が、めちゃくちゃ好きな顔が近い。目を開いたまま気絶している気持ちで見つめ返すと、那月の目がキラキラと輝いている。無理だ。なんだこれは。幻か。死の直前に見るという走馬灯か。予約録画で頼む。

「そうだよ、お前めっちゃ上手いからあいつらも喜ぶし、俺も正直ひとりで20人のコーチ不安だしよ、一緒にやれたら最高じゃね? ガッコには俺から話つけるから、それにさ、将来的にりおが講義やれるよーになったらそれもいいし、やべ俺天才だな! そうしようぜ!」

「あ、あぁ……、うん……?」

 ビジュアルが良すぎて話が頭に入ってこなかったが、こんな、こんな南国の陽射しみたいな笑顔で言われて断れる人間が、この世にいるだろうか。いやいない。いたら俺が殴る。


 そんなわけで、翌週の仕事後は那月の出身校だという小学校にふたりして向かうことになった。那月の出身校、というだけで李汪としては世界遺産並みに行きたい場所であるし、前回と違ってふたりだけなので気楽だった。

 職員室に顔を出し、規定の書類署名をして更衣室で着替える。またしてもナイターだが、夜の小学校には独特の雰囲気があった。

 校庭では蛍光イエローのユニフォームを着た子どもたちがすでにボールを蹴り始めている。バスケットゴールほどの大きさの移動式照明器具が三基、その姿を照らし出していた。

「おーし、集合!」

 那月がそう声を張ると、散らばってボールを蹴っていた子どもたちが一斉にダッシュで集まり、整列した。

「きおつけー、礼! おねがいしまーす!」

 こういう躾のよさは、東国独特のものだと思う。プロのリーグを目指すチームでもないのに、行儀がいい。

「今日からコーチに入る、イロー・ジェン・那月と……」

「ナザ・ハタバ・李汪です。よろしくお願いします」

 型どおりに挨拶をすると、拍手に続いて、イケメンだ、イケメンだ、という茶化す声が混じる。チームは男女混合だが、この手の茶化しは主に男子のほうがやりがちである。やれやれと思いつつ、とりあえず無表情で流しておく。所詮自分は那月のサポート役なので、子どもに深く関わる気はなかった。

「おし、三周走ってからシャトルランやるぞ!」

 それにつけても子どもの相手をする那月、というのはまた日頃と全然ちがうよさがある。よさしかない。体育の先生っぽさがある。というのも、李汪は先日と大差ないTシャツにハーフパンツだが、今日の那月はジャージの上下姿なのだ。これはまた、フットサルのときのスポーティさとはまた違う、ルーズな雰囲気があってとてもいい。

「オラ声だせ声ー! 足止まってんぞー!」

 指導する那月に視線をロックオンしたままで、コーンを出したりボールを寄せたりミニゴールの位置をずらしたりと、李汪は主に子どもの相手以外のことを担当した。あとはケガのないようにだけ目を光らせておけば……、と思った矢先、何事か言い合う声がした。そう思ったときにはもう、那月はダッシュでそこに向かっている。

「コラァ佳寿、理介、ケンカすんな! なにモメてんだよお前らは」

「コイツのパス、すげえヘタなんだもん! もっとちゃんと出せよ!」

「出してる! お前がボケっとして受けらんねえだけだろ!」

「なんだとお前がノーコンだから……!」

「ケンカすんなっつってんだろが!」

 襟首をつかみそうな勢いで、那月が仲裁に入る。李汪から見ればどちらも興奮しているだけに見えるし、どちらも大して上手くない。放置でいいんじゃないだろうか……と思ったが、那月はどうやら双方の言い分を熱心に聞いている様子だった。ほどなくして。

「りおー、ちょい、いいか?」

「?」

 那月の手招きに応じて、小走りに子らの輪に近づく。那月はその真ん中で、子どもたちひとりひとりの名前を呼びながら指示を出していた。

「咲良、俺が走ったらカットに入ってくれ。綾は俺の味方役、秋良は咲良の味方役だからな、ちゃんと咲良の動きをみて……」

 李汪が近づいていくと、那月はすれ違いざまに「最後、俺のパスからシュートな」とだけ言ってフィールド中央に向かった。なんとなくゴール寄りで待機しながらキックインを見守ると、那月がしばらくボールをキープし始めた。咲良と秋良と呼ばれたふたりがかりで取りにいくが、さすがに歯がたたない。

「おし、頑張れ。いいぞ、ちゃんとボールにいってる!」

 きちんと指導を入れつつ、那月は足元からボールを離さない。ボール捌きが上手い、と、惚れ惚れと眺める。

「こゆ感じで、咲良も秋良も俺に夢中になってる間に……綾!」

 味方役だと言った子どもに向けて那月は長いパスを出し、すかさず戻せ! と声をあげた。成る程、と、那月のしようとしていることを理解した李汪が空いたスペースに走り込むと、果たしてパスがそこにきた。ダイレクトでトラップし、トンとゴールにボールを流し込む。見ていた子どもたちから、おおーと歓声があがった。コンビネーションに参加した子どもたちをそれぞれ褒めてから、那月は件のモメていたふたりに声をかけた。

「な? 李汪は俺のことめっちゃよく見てっから大体どう動くか予測できるし、俺も李汪のこと見て、どのへんに出したら打ちやすいかとか考えるんだ。どっちかだけじゃダメだ。お互いのこと、よく見ろ」

 たしかに俺は、那月を見ている。めちゃくちゃ見ている。尋常じゃないくらいに見ている。那月が俺を見る倍以上見ている。ただし見ていればサッカーが上手くなれるというわけではないから、せいぜい練習するんだな……などと李汪が思っているとも知らず、佳寿と呼ばれたほうの子どもが甘ったれた声を出し始めた。

「わかった、わかったから那月、ミニゲームやろうぜ! 那月チームと李汪チームに分かれてさぁ!」

 コイツ……反省もそこそこに、那月におねだりだと? と、李汪は無表情のまま苛立った。やはり、子どもは苦手だ。厚かましい。しかも。

「オレ、那月チームがいい!」などと言いながら、那月にまとわりついているではないか。ダメだ練習しろ……と思ったが、那月はチラッと李汪を見てから肩をすくめてこう言った。

「わぁーった、わかったよ、今日だけだかんな!」

 ヤッター! と大きく歓声があがる。ポカンとする李汪に向けて、那月が片目を瞑ってみせた。

 ズルい。そんな顔をされたら俺が絶対に嫌だと言えないとわかってるくせに……。

 そんな流れで結局、10対10に李汪と那月がそれぞれ加わり、11人フルでの練習試合形式になった。

「中盤は7番と10番で。那月には俺がつくから、全員どんどん攻めていい」

「うわ、なんだよそんな指示出しすんのかよ李汪?!」

「やるからには俺は勝つ」

「……はい! 勝ちにいきますっ、李汪コーチ」

 那月には悪いが、佳寿をギャフンと言わせるためだ。と思ったが、どうやら7番咲良と10番秋良のふたりには、なにかが刺さってしまったようだった。なんとなく李汪を見つめる目がキマってしまっている。まあそういうモチベーションもアリだろう……。

 キックオフと同時に、李汪は那月に貼りついた。違う、これはただのマンマークであって、決して趣味で貼りついてるわけじゃない……という李汪の言い訳なぞ露知らず、那月はさっそく細かくポジションを変えて、李汪のマークをはずしにかかる。

「なーんか、乗り気じゃなさそうだったのによ、案外熱くなってんのか李汪?」

 言って那月が、挑発的にニヤリと笑った。そういえば前回は味方チームだったから、こういう姿を見られなかった。那月の負けず嫌いな一面が見られて、正直鼻血が出そうであるが、このテンションに水を差すわけにはいかないと、李汪は丁寧に煽り返す。

「口だけじゃ、俺は振り切れないぞ」

「言うじゃねーか、面白え」

 単純な走力では那月に敵わない。ただ、安易なフェイントをかけたら逆に抜かれてしまう。それにつけてもかっこいい……などとやっている間に、李汪チームのふたりがゴール付近まで攻め込んでいる。先取点になるか、カウンターか、背中で気配を探りながら、視線は那月から離さない。

「やべーなお前、すげえ目すんじゃん……よっ!」

 先に那月がフェイントの予備動作を見せつけてくる。繰り返し、足の速さでは那月のほうが上だと自分に言い聞かせて、李汪は最小限の動きでついていく。

「速攻!」

 背後で声がした。どうやらキーパーにシュートを止められてカウンターがくるらしい。ここで那月にパスを通したら、絶対に先制される。案の定、インサイドで丁寧なパスを出してくる。カットするのは簡単だが、問題は李汪がボールを持った瞬間、那月が確実に奪いにくるということだ。逆に一回那月に通して奪い返す……という手もあるが、ここはひとつ派手にやることにした。

「……?」

 那月のほうを向いたまま、李汪はヒールでボールをひっかけて滑らせ、パスの方向を変えた。のみならず、逆回転をかけておいたので、一度背後に飛んだボールは再度李汪のほうへ戻ってきた。

「! しまっ……マジか!」

 そこで身体をくるっと反転させて、ゴール前の咲良と秋良に向けてロングパスを送る。キーパーを避けるようにしてワンツーからのシュートで、李汪チームはついに先制に成功した。

「やられた! くそ、なんだよすげえ!」

 悔しさのなかになぜか喜色を滲ませて、那月が自分の膝を叩く。

 こういうパフォーマンス的プレイは、実戦ではワールドクラスの超一流選手のなかの一握りだけが成功させるもので、李汪の技術はそれを真似した、ほんの小手先に過ぎない。が、子どもたちのテンションをあげるのには十分だったし、那月の意表を突くこともできたらしい。

「すっげー! なんだいまの!」

「お、俺、つぎ李汪チームいく!」

「俺も!」

 現金な子どもらが、わかりやすく那月を裏切り始める。問題はその中に例の佳寿もいることである。佳寿、お前は本当になんでもいいのか佳寿。

「あっコラァお前ら! 人数のバランスが悪ィだろ! 俺をひとりにすんなぁ!」

 那月がそう叫ぶと、子どもたちが一斉に笑う。なら俺が、俺が那月のチームに行く……と言いたかったが、さすがに大人げないのでぐっと耐えた。

 そこからは終わりの時間まで、ずっとミニゲームになってしまった。まあ初回サービスだな、と那月も苦笑していたが、おかげですっかり子どもたちには懐かれた。おそらく那月は最初からこれを狙っていたのだろう。

 フットサル場とちがってシャワー設備もないので、着替えもせずにジャージのまま小学校を出た。

「悪いな、明日も仕事なのにすっかり遅くなっちまった」

「いや、なんていうか……、た、楽しかった」

 主に本気の那月が見られたあたりが楽しかった、ということは黙っておいた。

「めっちゃなつかれてたなぁ、案外子ども好きなんだな、李汪」

「いや別に子どもは好きじゃない……子どももたぶん、俺のことが好きというよりは単にサッカーの上手い年上が好きなだけで……」

「んなことねえよ。あいつら、案外ちゃんと人のこと見てるからな。お前が全力でサッカーしてくれてんのが伝わったんだ」

「……俺が全力出したら、あんなもんじゃないぞ」

 自然と笑みが零れて、そんな軽口を叩くことができた。那月一瞬はポカンとしたあとに、最高の笑顔を振るまってくれた。那月が全力で笑うと目の端にくしゃっとしわが寄る。李汪の胸の奥に熱いものが湧いた。だが、その直後。

「よし、ラーメン食って帰るか! 今日の礼に俺のおごりだ!」

「ラ……」

 ラーメン。

 この時間に、ラーメン。

 明日の朝のむくみと、青春の一ページ。

 天秤にかけるまでもなく、那月の行きつけだというラーメン屋に連れて行ってもらった。那月は濃厚醤油味の全部のせを頼んでいた。李汪は無駄なあがきとして、トッピングのほうれん草を増やしておいた。

 翌朝、李汪は5時起きで5キロ走って汗を流してから出社した。

 那月の誘いは絶対に断らないが、パンパンになった顔面を那月に見せる気もなかった。顔が武器になるとは思っていないが、だからって一番ブサイクなところを見せていいという話にはならない。

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