一、ものすごく顔のいい新人、運命と出会う
2026.10.4開催のJ.GARDEN60にて頒布予定だった『神聖不可侵インフラストラクチャー』という本が、当方のミスにより印刷不備となり頒布不可能になったので、R部分を抜いた全文を公開します。Rありの紙の本は、再印刷が完了次第メロンブックスフロマージュさんのほうで通販を開始する予定です。あとは次回の来年の秋庭で頒布できることを祈りつつ。当日スペースに足を運んでくださった方には大変申し訳ございません。よかったら読んでみてやってください。よろしくお願いします。
《登場人物》
イロー・ジェン・那月……28歳。株式会社ナインスケイルス社員。誰にでも人当たりのいい男
ナザ・ハタバ・李汪……27歳。ナインスケイルス中途入社。人外レベルに顔が良い。那月に一目惚れする
「えー、杜ノ上小学校の皆さん、こんにちは! 私の名前はイロー・ジェン・那月、ナインスケイルスという会社から来ました」
溌剌とした声で、登壇した背の高い若い男がマイク越しの声を届ける。聞き手である小学生たちは、体育館の床に座ってめいめいにそれを受け取った。じっと耳を傾ける者もいれば、周囲とのおしゃべりに夢中で、担任に叱られている者もいる。
「ええといま現在、わたしたちの暮らしを回しているものはインフラ、そしてエネルギーです。もはや皆さんの生活の中にも当然あるものとしているエネルギーですが、今日はこれについてみんなで勉強するために、話をさせてもらいます。私たちの会社がなにをしているのかは後から説明するとして、まずはその、エネルギーのお話をしましょう」
どこか籠もった空気と黒い緞帳、体育用具が発する埃っぽいにおい。覚えのある懐かしさの中で、那月と名乗った会社員は朗として続けた。
「火、水、土、風。基本はこれ、そしてわたしたちの近代的かつ文化的な日々の暮らしを支えているのは……なんだかわかるひとは、いますか?」
那月がひときわ明るい調子で問いかける。前のほうに座っている低学年の子どもらを中心に、そちこちから元気な声があがる。
「でんき!」
「かみさまー!」
「ガス!」
「おなら!!」
大きな声を出してふざけたいだけの声に負けじと、正解を叫ぶ子どもも少なくない。ただ子どもの間ではおふざけが勝ってしまうもので、ギャハハと爆笑が起きてしまう。
よく通る声で一緒になって笑いながら一頻り騒ぎが収まるのを待って、那月は話を再開する。
「正解! そう、傳気と瓦斯。世界の四大竜の気を大元として、家庭で使える供給魔力として普及したのが傳気です。君たちが家に帰ると部屋が明るいのも、暑いからエアコンをつけて涼しくなれるのも、全部竜がつくってくれた傳気があるおかげです」
まだザワザワと落ち着かない空気を、担任の教師らが注意して鎮める。様子を見ながら、舞台上のスクリーンに大きな図解を映し出すと、子どもたちの視線はにわかにそちらに集まった。
「傳気は元々は竜の体の、主に尾、つまりしっぽの方から発させるエネルギーです。でもそのままだと強すぎて、とても君たちの家で便利に使えるものではありません。ごはんを炊いたりゲームをしたりするためには、エネルギーの強さを調整してから、長い配電線を通して君たちの家一軒一軒に届けなきゃならない……たくさんの人たちが関わって初めて、傳気を安全かつ便利に使えるわけだけど……その肝心の大元の、竜です」
竜の話をするとき、那月の声はひときわ明るくなる。那月は竜が好きだった。太古から存在し、かつては世界のすべてを支配した。いまとなっては、人間が生きるための単なるエネルギー源として認識されるようになって久しいが、那月はそれでも竜に大いなるロマンを感じ、尊敬すらしている。
「竜が健康で健全に魔力を発してくれないと元も子もない。そのために、わたしたちの会社では竜たちの健康管理をしています。君たちも、学校で健康診断したり注射したりするね? あれを竜もしています。それだけじゃない。家でお父さんお母さんおじいちゃんおばあちゃんにごはんを食べさせてもらったりお風呂に入れてもらったり、色んなことをしてもらうみたいなこと。つまり、うちの会社は竜の家族みたいなものなのです……」
いつか、誰かに届くかもしれない。
竜という存在のすばらしさが。この子どもたちの中の誰かに。
この小学校での講演会は、そんな気持ちから那月が自ら企画発案したものである。今や世界をあまりにも当然に支えている竜という存在に、すこしでも興味を持ってもらいたい、という理由で那月の母校である公立小学校から開始して、現在は他の学校からもだんだん希望が多くなり、出向く機会が増えてきた。
竜が放つエネルギーを変換した『傳気』。そしてその骨から発生するガス。このふたつが都市社会を支える基盤となって一世紀が過ぎたいま、竜は環境問題や経済摩擦の中心にその身を据える生き物となった。一般人の目に触れることなく、世界中で粛々と人類に対して恩恵を授け続ける竜。その竜との接し方は、国によりそして人により様々である。
子どもたち相手の講演を終え、職員室の一画をパーテーションで区切っただけの応接室で、那月はペットボトルの中身を一気に飲み干した。そこへ。
「お疲れ様。去年よりは話し方が上手くなったみたい」
五十がらみの、人のよさげな笑顔を浮かべた女性に声をかけられ、那月が声を高くした。
「戸宇乃先生! マジか、今年もちょー緊張したっすよ!」
カイナ・バ・戸宇乃はここ杜ノ上小学校の教師にして、那月の元担任である。綿のパンツにTシャツのラフな姿ではあるが、勤続二十三年になるベテランで、現在は学年主任という役職で生徒にも教師にも色々指導する立場であるらしかった。
「まあ貴方はすこし緊張してるくらいでいいのよ。これ以上リラックスしたんじゃ、きっと子どもらと一緒になって騒ぎ出す」
「だよなぁ~、オレ絶対ガキの頃そっち側だったもんな」
「そうね。注意してた私が言うんだから、間違いない」
フフと微笑むこの穏やかそうな女性が、怒るとどんなにおっかないかを、那月はよくよく知っている。それでもしつこく彼女を煽るようなことを繰り返していたのだから、小学生の自分の無鉄砲さは恐ろしい。などと那月が思い出に浸っているところに、廊下をバタバタ走る複数人の足音が響いた。
「廊下を走らない」
低めた声で戸宇乃が注意するも、三人の少年たちは職員室を覗くや那月の姿を発見し、小走りに寄ってきて言い募る。
「いた! サッカー! サッカーサッカーサッカーやろサッカー!」
ああー、と那月が膝を打つ。たしかに去年の講演が終わった後、すこし時間があったので子どもたちとサッカーをして遊んだのだ。
「お前、覚えてるぞ。去年もオレとサッカーやったな」
「ねえねえねえお願いだから俺たちのチームのコーチになってよ。監督より全然うまいんだ」
この年頃の子どもらしく「サッカーの上手いお兄さん」である那月に対し、彼らは鼻を鳴らしておねだりを始めた。那月のほうも子どもの相手をするのは嫌いではないので、笑っていなしつつも追い払ったりはしない。子どもはそういう気配に敏感だ。常に、正面から話を聞いてくれる相手を求めている。
「監督はサッカーそのものがうまいってより、教えるのがうまい人だからなぁ、仕方ないんじゃねえか?」
「おれらの顧問、教えるのもヘタだよ。すぐキレるしさぁ」
そうだそうだと唇を尖らせ、顧問の悪口大会が始まりそうになったので、那月は慌てて話題を逸らした。
「じゃ、じゃあそうだな、オレに100メートル……いや50走で勝てたら考え……」
那月が言い終わるより先に、少年が叫び声に近い声で言った。
「嘘マジで?! 俺学年で一番速いから! やろやろいますぐやろ!」
「うわヤバマジで!? 佳寿、佳寿なら絶対勝てるよ勝てよ!」
「うっわキンチョーしてきた! オレがキンチョーしてきた!」
カン高い声で興奮丸出しに少年たちが言い合うのを那月は頭をかきながら眺めていたが、言ったからには手抜きはできない。
「ちょっと、あなたたち……」
黙って見ていた戸宇乃が宥めても、騒ぎは収まらない。職員室じゅうの注目が集まり始める中、那月は朗らかに言い放った。
「よっしゃ、そこまで言うなら受けて立つぞ。全力でかかってこい!」
オフィスの中は清潔で明るかった。
住宅街から地下鉄で一本、所謂オフィス街のビルの19階に『株式会社ナインスケイルス』はある。会社の規模としてはそこまで大きいわけではない。国内最大手傳力会社の下請けには違いないのだが本社は海外にあり、李汪も海外在住中に会社の名を知った。
大きな窓から陽光が差しこむ。午後はブラインドなしではとても過ごせないであろうこの季節、ナザ・ハタバ・李汪は今日から出社になったオフィス内をじっくりと観察している。オフィスにしては珍しい、デスクがカフェにでもあるような布張りのソファ型になっていて、配置もカフェのテーブル席のように散らしてある。課長の席はそれらすべてを見渡せる位置の、一番奥の窓際にあり、李汪はいまそこの隣に出されたパイプ椅子に座って、人を待っている。
「すまないな、指導担当が午前中は出張なものだから」
手元の書類から顔を上げ、淡いグレーのスーツ姿の細身の男が李汪に向かってそう言った。年頃はまだ四十前といったところだろうこの男が、この課の長であるハナ・リーラン・曖智氏だ。
「いえ、時間より早く出社したのは私の勝手です。どうぞおかまいなく」
「自由に見てまわってもらいたいところなんだが、そうもいかないのが申し訳ない」
「御社の社規は存じております。オフィスの雰囲気を感じられるだけで十分です」
「今日からは君の社でもある、楽にしてくれ」
「ありがとうございます」
丁寧にそう言って李汪は会釈し、曖智の様子をそれとなくみた。無駄な軽口は叩かない、聡明なタイプ。ただ、態度に出していないだけで李汪の「顔」に関しては一般的な反応を示している。つまり、驚愕と線引きだ。
単純なつくりの美しさに対する驚愕と、この造作の生き物と自分とは別のものだ、という線引き。これまでの人生で、李汪が幾度となく他人から引かれてきた線。李汪はこの慣れた反応に、無表情で応じる。これ以上の惨事を最小限に食い止めるための無表情。
子どもの頃から容姿を褒められがちだった。それが『異常に』というレベルなのだと李汪が気づいたのは、小学校の高学年になる直前だった。特にきっかけはない。ある日ふと、気がついたのだ。毎日校門に数十人もの他校の女生徒が詰めかけているのは、普通ではない、と。しかもその女子たちの集団はまるで軍隊みたいに統率がとれていて、日々李汪を遠くから眺めるのみで満足し、時折代表者が大量の手紙を届けてくるに過ぎなかった。直接的な接触は求められなかったが、無言の圧だけは常に感じていた。
李汪のこの異形に近い容姿の美しさは、間違いなく母親譲りだった。母は当然ながら女性であったため、その苦労は李汪の比ではなかったらしい。ただし、性格が母に似ているとは李汪自身はこれっぽっちも思っていない。よく言えば自由奔放、悪く言えば社会不適合者である母は、自分に執着して追いかけまわしてくる男たちに、最終的にはショットガンを発砲するという方法で対処していた。
正直、ああはなりたくない。なりたくないから、李汪は高校卒業後は居住地を転々と変えた。学生生活というものには否応なくクラスというものが存在し、必然、特定の生徒と毎日顔を合わせる機会が多くなる。どうやら己の顔は毎日見せると他者を狂わせるらしいと気づいた辺りから、李汪はなるべくひとつところに留まらないよう努力した。よって大学は西大陸の北端の国で二年、すこし南下した隣国の街で二年、その後大学院は一年ごとに研究室を変えてなんとか卒業に漕ぎつけた。おかげで無駄に数ヵ国語の会話に困らなくなっていた。
そして、現在。
いま李汪が居を構え生活の拠点にしようとしているこの国は、学生時代を過ごした国々からは遥か東に遠く離れた島国である。ここを職場に選んだのには、いくつか理由があった。
ひとつは、この国には固有種の竜がいること。ここは国土の狭い島国であるにも関わらず、火山が数多く存在していた。それはすなわち、火竜の亜種である地熱竜が存在することを意味する。西の大陸にはほとんどいない種だ。それには興味がある。
ふたつには、あれだけ努力を重ねたにも関わらずやはり李汪の顔に狂ってしまった数名の男女から距離を置く必要があったことだ。所謂ストーカー化してしまった者たちは、陸続きの国境くらいは簡単に越えて追って来る。さすがに海を越えれば逃げ切れるだろうと思う。
そして、もうひとつ。
この東の小国こそが、李汪の母の母国であることだ。
黒い髪に黒い瞳を持つ、黄色人種の国。
といっても、李汪の母親は髪の色も肌の色も瞳の色もなにもかもを気分ひとつで変えていたし、西国かぶれで肌も漂白していたので、特に意識したことはなかった。母のルーツを知りたいとかそういうのもない。あの女にルーツもへったくれもない、と思う。この国の人たちだって、国籍がおなじというだけであの女と並び称されるのは迷惑だろうと思う。
結局はまあなんとなく、である。
どこでもいいのだ、他人に迷惑をかけず、穏やかに静かに生きられるならば。
穏やかに生きて死のう、とだけ李汪は思っている。
李汪のここまでの人生は、実は必ずしも穏やかなものではなかった。この顔の造作の異常さ故に、男女問わず狂気めいた執着を浴びることが数度あった。人並みに恋愛をしたり恋人を作ってみようかと思ったこともあったが、その度に予想外の大騒ぎになった。
中でも学んだのは、嫉妬は恐ろしい、ということだった。固定の恋人を作ろうとすると、その相手に迷惑がかかってしまうのだ。
特に厄介なのは、男の嫉妬だ。
十七歳のとき、李汪がおなじクラスの金髪の読書好きのおとなしい女の子とつき合おうとしたときに、陰湿に邪魔をしてきたのは一学年先輩の男子生徒だった。始めはその女の子のことが好きで横恋慕をしてきたのだと思っていたが、どうやら違うと徐々に気づいた。彼の異様な執着が己に向いているのだと察したときには遅く、李汪は彼にサバイバル・ナイフを突きつけられて寮の屋根裏部屋に監禁されていた。なんとか切り抜け、泣きわめく彼を警察に突き出すことに成功したが、もうそこでウンザリしたのだ。
お前の顔になりたい、お前の顔を見ていたいお前の顔に見られたいお前の顔を飾っておきたい、顔が、顔に、顔を、顔、顔、顔。
ウンッッッザリだ。嫉妬なのかなんなのかすらわからない。
顔は顔だろう。目があって鼻があって口がある。眉毛もあろうが所詮は顔。それ以上でも以下でもない。ただの顔だ。
そもそも失礼じゃないか。顔以外はどうでもいいのか……という言葉を李汪はこれまでずっと飲み込んできた。実は他は普通だからだ。身長も高いわけではないし、筋肉隆々というわけでもない。顔だけが突出してしまっている自覚はある。
というわけで、在籍男女比が同じくらい、あまり派手でない業種、営業に回される懸念もない、というざっくりした観点で選んだ職場がここだった。関連会社で携わっていた業務に比べると比較的緩やかで、失礼ながら業績的にも大したことはない。ここなら数字に追いまわされることもなく、突然黴の生えた王族や貴族が権利を振りかざして嘴を挟んでくる心配もないと思われた。
勿論、仕事は全力でやる。無責任なことをするつもりはない。ただ、人に妬まれるような華やかな仕事ではなく、裏方に近いものを選んだつもりだ。エネルギー源泉竜の健康管理、とはまた裏方中の裏方である。そこがいい。古の時代には、竜は選ばれた者だけが乗れる神聖な生き物であるとされたらしいが、現代ではただの熱源扱いになっている。火の番人、とでも言えばしっくりくるかも知れない。
よく磨かれた窓の外に視線を移す。そこには見飽きた己の顔が映る。顔の造作の差など、ちょっとしたことだ。少しばかり目が大きく睫毛が長く鼻筋が通り、唇が赤く色が白いというだけで。寧ろ男にしては中性寄りで、取り澄まして見えるのが感じが悪い気すらする。正直そんなにもてはやすものでもなかろう、と思う。
互いに顔を見ずに済む、ネットワークゲームの世界に他者との繋がりを求めたこともあった。だが、行きつく先は同じこと。仲が深まれば一度お会いしましょうとなり、ネット上でセルフプロディースした李汪像と実物とのギャップで、相手を一層狂わせてしまった。
結局のところは鉄面皮を装って、自己陶酔者かこの世のすべてに無関心みたいな顔をしているしかない。自己陶酔はどう頑張ってもできる気がしない。これはビールだと思って水を何杯飲もうが酔えないのと同じだ。なら無表情、無関心が一番楽だ。波風の立たない日々を今度こそ送ろう。
そんなとりとめのないことを考えていると、オフィスには似つかわしくないバタバタと駆け足の足音が響いてきたかと思うと、勢いよく入り口のドアが開いた。
「遅いぞ那月。待たせてるんだ」
「悪ィ! あいつら離してくんなくってさ、かけっこの後サッカーやるやるって大騒ぎでよ……お、お前が新人くんだな!」
ネクタイとワイシャツの前ボタンを盛大にはずし、申し訳程度に作業着の上着をひっかけた上背のある男は、ゼイゼイと荒い呼吸を押し殺しつつ、まっすぐに李汪のほうに歩み寄ってきた。
「お前の教育係につく、イロー・ジェン・那月だ。よろしくな!」
弾む息を押さえた心底明るい声が、そう言った。陰のない声。喩えるなら、陽の差す公園のような明るさとさわやかさだった。
李汪に対してこういう屈託のない声を出す人間に、李汪は初めて出会った。大体は驚愕からの好奇心、またはそれを隠すための無機質。だがこの声はどちらでもない。ただ、正面から李汪を見ているだけ。正面から李汪の話を聞いているだけの男。ただそれだけなのに、なぜか心が揺れた。
そして、さらなる驚きが李汪に襲いかかる。
正面から見据えた男の、顔。
え、う、嘘、だろ……?
か、顔……。
顔、が、……いい…………?
これか、これが誰かの顔に見惚れる気持ちというやつなのか……? ちょっと待ってくれ眩しい。つらい。いや顔だけじゃないのか? もう全身から太陽の光みたいなのが出てる気がするんだが。いや、顔が整ってるっていうだけじゃない。整っているのは間違いないんだが、それだけではこの魅力には説明がつかない。
波風がドブンドブンときたない音を立てている胸の内を抑え込んで、李汪は小声で挨拶をする。
「あ、……ナザ・ハタバ・李汪と申します。……よろしく」
「綺麗な顔してるんだなあ、お前」
もはや言われ慣れた言葉だが、この那月という男の声で言われると、なんだかいつもと違う気がする……胸の奥がむず痒い。なんなんだこの感じは。一体どういう……?
自分の中に湧き上がる感情に惑乱する李汪の様子をどう受け止めたものか、上司の曖智が那月を窘めた。
「那月、そういう明け透けなのはやめろ。彼がそれを言われて気分を害さないとは限らないんだ」
曖智が慎重に李汪の様子を観察しながら言葉を付け足す。彼は一般的に本当にいい上司だと思う。言われた那月もまた、素直に詫びの言葉を口にした。
「あ、そうか。悪い。思ったまんま言っちまった」
「いえ。お気に……なさらず」
頬が赤くなったりはしていないだろうか、と内心案じつつ、それでも李汪は無表情を保つ。無表情経験値だけ無駄に高くて本当によかった。俺はいま人生最高潮に気が狂いそうになっている……と薄く唇を噛みしめていると、曖智がさらに声を続けた。
「こう見えて、那月はうちの課じゃ一番長いんだ。なんでもコイツに訊いてくれ」
那月から発せられるフレッシュさの故か、古株なのはすこし意外な気がしたが、たしかこの会社はまだ設立から十五年しか経っていないはずだ。見た感じ、那月は李汪と年はそう変わらないようだから、さすがに創立メンバーというわけではあるまいが。
いかん、つい。
つい、彼の、那月の顔を見てしまう。されて嬉しいものではないと、誰よりも知っているはずの自分が。
それこそ彼の気分を害する前にと李汪が視線を逃がそうとした瞬間に、かち合った。捕まった、と言ってもいい。どちらかと言えば切れ長の那月の黒い瞳が際立って見えるのは、それを取りまく白目部分がいやに白いせいかも知れなかった。
澄んでいる。成人男性とは思えないくらいに光が澄んでいて怖しい。まるで無垢な赤子だ……と李汪が固まっていると、那月の明るさ爆弾の如き声が飛んでくる。
「よし李汪、じゃまずは昼飯行こうぜ!」
え?
いきなり? いきなり教育係とふたりきりで昼食を?
いや願ってもない。という気持ちと、己が暴走しないとは保証しきれないいまの気持ちとがせめぎ合う。
助けてくれ上司、とばかりに李汪が首を巡らせるも、曖智は薄い笑顔を返したのみでこう言った。
「そうしろ。李汪もだいぶ待ちくたびれただろうからな」
「なに食いたい? カレーか、そばか? 他でも全然いいぜ。このあたりの店なら大体知ってっからよ」
まずい。本当にいきなりふたりきりだ。こんな経験は初めてかも知れない。李汪はものすごく緊張していた。那月は恐らく誰に対してでも、この雰囲気でグイグイ距離を近づけるタイプなのだろう。そう頭で理解していても、ここまで屈託のない態度をとられるとどうしていいのかわからない。決して不快ではないし、なんなら気を抜くと顔がニヤけてしまいそうになるくらいだった。顔面の全筋力を駆使して無表情を装っていると、那月が畳み掛けてくる。
「どうする? なんでも良けりゃ俺の贔屓の店に連れてくが」
どうしたものかと李汪は脳をフル回転させる。させたが、カラカラ音が鳴るくらいでなにも思いつかなかった。出会ったばかりの光り輝く男に、ランチに誘われている。
「さ……魚が、好きかも、知れない……」
かろうじてそれだけ言い返した。那月はニコリと笑って、弾むような足取りで廊下の反対に方向転換した。
「なんだ、それなら社食だ! おし、窓際の席とるか!」
呆然とした気分のまま、李汪は彼の後に続いた。オフィスのフロアよりも二階上にある社員食堂は、これまた窓は大きく明るいカフェテリアといった風情で洒落ていた。昼のピークはすこし過ぎた時間帯だが、ざっと見た限り三十人ほどがめいめいに食事を楽しんでいる。
「今日なんか混んでんな……まあ誰かしら食い終わる奴がいるからよ。心配すんな。あ、ほらないたいた」
軽くフロア内を見渡していた那月が、窓際の一方向へ早足に近づいていく。
「よお、伊豆御、波都。食い終わったらそこいいか?」
「おう那月」
「こいつうちの新人だ、李汪」
「ナザ・ハタバ・李汪です。よろしくお願いします」
トレイを持ったまま李汪が定型通りに名乗ると、席に座っていた男女ふたりの表情が驚愕に固まってしまった。李汪としては、これが初対面の相手からの一番慣れた反応ではあるので、安心感すらある。
「男前でビビッたんだろ」
ケラケラと楽しげに笑う那月の声が李汪の耳に心地よく響く。なんだろう、彼が言うと珍獣扱いされている気にならない。
サッタ・ケイ・伊豆御と、ミマタ・オリノコ・波都は礼節を保って名乗り返しながらも、明らかに動揺を隠せていない。
「いや、ビビ……ったわ、正直……おま、男前とかそんなレベルじゃ……」
と、戦慄きながら那月に声をかけているのが伊豆御で、波都という女性社員は李汪に向けておずおずと詫びを口にした。
「あ、の……失礼な反応して……ごめんなさいね……、謝ります……」
「お気になさらず」
「あ、あ、えっと、ここどうぞ?」
「ええ。ありがとうございます」
波都に軽く会釈し、李汪はいったん席に腰をおろす。付近のテーブルにいた社員たちからも視線が集まり始めたのを感じるが、こんなことはもはや慣れている。もうすこし以前、大学のカフェテリアではひどいときには死刑囚でも見るような、あからさまな好奇の視線が集中することも別に珍しくなかった。
そう。この反応は珍しくない。どちらかと言えば。
「おし、行こうぜ李汪。あっちのカウンターで口頭注文、で、会計はあそこの機械で……」
すでにこの顔面に慣れたばかりか、まるで昔からの友人のように接してくれる那月のこの態度のほうが、李汪にとってはよほど新鮮であり珍しい。まだ呆然としているふたりを後目に那月はテーブルにポイと社員証とスマホを置き、李汪を急かす。社内とはいえあまりにも不用心では? と案じつつも、李汪は素直に彼の後に続いた。
「かえでちゃん、めっちゃ腹減らしてきたぞ。世界一の定食出してくれ!」
「遅い昼だね那月。こないだ気に入ってた回鍋肉丼があるよ」
「俺それで! 今日はなぁ新人も一緒なんだ、こいつ李汪。なあ、なんにする? 今日の分はオレの……っていうか、課からのオゴリだからよ。遠慮すんな」
そう言って那月は指の間に挟んだプリペイドカードのようなものをピッと李汪に向けて構えて見せた。課の方針ということらしいが、今時には珍しい。
「ええと……じゃあサワラの西京焼きをひとつ」
かえでちゃん、と那月に親しげに呼ばれた年配の女性に向かって李汪がそう告げると、彼女もやはり電流でも走ったかのような表情になって固まってしまった。つくづくややこしい顔だ、と、思うが那月が気にせず注文会計してくれているのが救いである。
席に戻ると、当然のように那月のスマホはそこにある。社内の治安がいい証拠なのか、この国ではこれが普通なのかはまだわからない。テーブルを挟んで向かいに李汪も腰をおろす。食堂の窓の外の景色はごく当たり前のオフィス街で、強いて言うなら西国よりは緑がすくない気がした。西国は都市の緑化に躍起になっている部分があるが、こちらはより無機質であることを目指しているような印象を受ける。
「別に眺めがいいってほどじゃないけど、結構色々見えるんだぜ。ほらあっちに楚山と、ミヤコタワーと、それから……あ、冷める前に食おうぜ。いただきまーす!」
景色を見せたいし食べたいし喋りたいしと、那月は忙しない。だが決して落ち着きがないわけではない。むしろどこかどっしりと構えているようにすら李汪には感じられる。
「……」
箸を手にとる那月の様子に、思わず李汪は視線を奪われる。手が大きくて骨っぽい。手まで輝いて、その手に持たれた味噌汁の椀が美しく見える。そうか、食事のときは最初に味噌汁から食べるタイプなんだな……次は、大きなボウル型の器に盛られた肉のおかずを一口。割と一気に頬張っているが、食べ方に品のない感じはしない。旺盛な食欲が表れていて、小気味よい。
李汪がボンヤリと箸をとらずにいると、口の中のものを飲み下した那月が笑いながら李汪のトレイを顎で示した。
「やべーなかえでちゃん、めっちゃ小鉢つけてくれてんじゃねえか。気に入られたなぁ」
「え?あ? ああ、なんか、多いな……? たしかに」
なんだ。なんなんだ、この男のこの笑顔は。この機嫌のよさは。もはやそっちが気になりすぎて、自分のトレイの上が小鉢に埋め尽くされていることに李汪は気づいていなかった。どこに魚の皿があるのか見失うレベルで、小鉢がギッシリと乗っている。李汪はそのうちのひとつに箸を伸ばし、野菜の煮つけのようなものを口に運ぶ。
「うまいか?」
「ああ、うん。味付けが濃くて……美味しい」
これは嘘ではなかった。学生時代にときどき行っていたダウンタウンの食堂を思い出す。なにが入っているのかわからないスープと固いパンと、ものすごく塩辛いだけの魚のフライのセットだったが、疲れているとたまらなく美味しく感じた。世界のどこにもこういう味は存在するのだと思うと感動すらするが、いや。
いや、いまはそれどころではない。
「わかる、めっちゃしょっぱいよな、いくらでも米が食える! かえでちゃんはそういう天才なんだ」
目を細めて子どもみたいにそんなことを言ってくる、目の前の男が眩しい。目がつぶれそうだった。オマケに那月は食べるのが異常に早い。あれだけ喋って笑顔を振り撒きながら、いったいいつ器を空にしたんだ、この男は。
見れば見るほど那月は、李汪にとっては初めてのオーラを放つ人物だった。目が離せない。どうしてだ。自分でも理解できない。
他人に対して、こんな気持ちになる日がくるなんて。
おかしい。
絶対に昨日から俺はおかしい。
結局あのあと、飲み会にまで誘われて俺は。
ノコノコ那月について行ってしまった。
いままでだったら100パーセント断っていた、職場の飲み会に。
それも来て早々の、なんて。色んな人の好奇の目に晒されるのに決まっているというのに。その煩わしさを知らないわけでもないというのに。
それでも俺は行ってしまった。なぜか。
……知りたかったからだ。
那月がなにを食べなにを飲みどんな風に酔うのか。「紹介される新人」という立場をフルに利用して那月の隣の座敷席を陣取り、彼の手元をガン見した。最初はジョッキのビール、合間に枝豆を摘まんでいたが豆腐には手をつけていなかった。その後もう一杯ビールを飲んでから鶏肉の揚げたやつを、これはどうやら那月の好物らしく立て続けに三つ食べていた。その後はサワーという飲み物のレモン味を頼み揚げ鶏肉をもう一つ食べ、レモン味をおかわり。この間に数人に話しかけられた気がしたが、観察が忙しくてあまり覚えていない。昼にも思ったが那月はよく食べる。そもそも食べるのも速いが、汚らしい感じは一切しない。アルコールには強いようでそれなりの量を飲み顔も赤くなっていたが、陽気さは特に変わっていなかった。それどころか、馴染みの店の店員のために皿を重ねて渡してみたり、酔った社員らが興奮して大声を出すのをうまく宥めたりと、細やかに場の空気に気を配っていた。
その後なんと、カラオケにまで行った。正直俺は、人前で歌を歌う趣味がない。そう、実は生まれて初めてカラオケというものに行ったのだ。なぜか。知りたかったからに決まっている。那月がなにを歌うのかどう歌うのか歌うときの声がどうなるのかを。
あんな狭い空間にひしめき合って歌を歌い合う、というのはなかなか不可思議ではあったが、ここでも俺はしっかりと那月の隣の席をキープした。数人に話しかけられた気もするが引き続きなにも覚えていない。
那月が歌った曲は、所謂懐メロの部類に入るかなり古い歌だったらしい。またそれかよ、などと茶化す者もいたが、俺は初めて聞くので邪魔しないで欲しかった。
那月の歌はとても良かった。どちらかと言えば低音で、すこしだけ鼻にかかった甘い声が、歌うとそれはそれは伸びやかだった。正直音程とかはどうでもいい。彼の喉仏が動くのを思わず凝視してしまい、慌てて目を逸らした。立ちあがってとても楽しげに、マイクが要らないくらいの大きな声で一曲を歌い上げた彼の姿がとてもなんというか……尊くて、思わずボンヤリしてしまった。
俺が我にかえったのは、ドサッと隣に彼が戻ってきた重さでだった。曲を選ぶためのタブレットを俺のほうに差し出しながら、すこし額に汗を滲ませたまま那月が笑う。
「お前もなんか歌うか?」
「え、あ。いや、遠慮する。俺はあんまり……得意じゃないんだ」
「そっか。なら無理すんなよ。人の歌聞くのも楽しいしな」
「あ、ああ。楽しんでるから、心配しないでくれ」
努めて笑顔を返したつもりだったが、おそらく引き攣っていた。ダメだ。俺の作り笑いの醜さに対して、那月の笑顔のなんと眩しいことか。他人の苦手なことを強要せず、楽しんでいるならと笑ってくれる。
感じの良さの爆弾か?
この男の歌なら一晩中聞いていられる。
生まれて初めてのカラオケの感想はそうなった。
そうして俺は本能に従い彼の、那月のことを可能なかぎり把握しようと思い立った。
まずはリストアップする。那月の行動パターンを、だ。
出勤時間のサンプルをとって中間平均を出す。仕事の前に持参のマグカップで飲み物を用意することもある。その規則性がどこから来るのかを解析する。
ネクタイの種類はいまのところ四種類まで観測している。
シャツは大体三種四枚を着まわしている様子だが、既製品ではなく見たことのないブランドのものだった。
香水は使っていない。シャンプーもボディーソープもごく当たり前の市販品だと思われた。飲み会後にドラッグストアに寄って、それらしいものをいくつか購入して検討して特定したからおそらく間違いない。整髪料もごく普通、化粧水などに至っては使ってすらいない。それであの肌艶と輝きを維持しているのだから恐ろしい。否、彼の輝きはそういう表層的な部分から来ているものではない。どんな高級エステで磨いたところであの感じにはならない。寧ろ唇なんかはすこし荒れているくらいだが、それすらざっくばらんな彼の賦質をあらわしているようで、好ましく感じる。
知りたい。
彼のことを知りたいだけだ。
そうして李汪は毎朝定時の一時間半前に出社して、この作業に、イロー・ジェン・那月のすべてを知るための研究に没頭するようになった。ここ一週間の彼の出退勤時間の平均を出し、他人との会話の端々から朝晩どこに立ち寄ってどの駅を使っているかを割り出す。研究とは人類の知識の総量を増やすことである、とゼミの教授が繰り返し言っていたが、李汪としては他の人類とこの知識を分かち合うつもりはない。まったくない。皆無だ。
勉強だけは真面目にしていてよかった、と李汪はパソコン画面に集中する。学校の成績というもので苦労した記憶はあまりない。ないが、無駄に目立つ顔をしているというのは損なものだ。勉強ができればできるで「なんでもできて調子に乗っている」と言われ、成績を落とせば「顔はいいのにバカ」というレッテルを貼られる。どっちでもない適度な位置を確保し、独自の研究レポートのみに腐心して就職先にだけは困らないようにしておいた自分を褒めたい。火竜関係なら食うには困らないだろう、くらいのつもりだったが、おかげでここに就職できた。
目的を明確にし調査分析を計画し、実地で調べる。学生時代は飽き飽きするほど繰り返し言われたことの重要性が、いまここで身に沁みてわかる。なにがどこで功を奏するかわからないものだ。
そんな自負も手伝って、おそらく無意識のうちに李汪は浮かれていた。普段なら己に近づいてくる者の気配には人一倍敏感なはずだった。それなのに。
「おっ? なんだこれ、俺の通勤路?」
心臓。
心臓が、飛び出た。いや飛び出してくれたならどれだけ良かったか。飛び出してそのまま車にでも轢かれてくれれば潔く死ねたものを。李汪は残念ながらまだ体内でバクバク脈打っている心臓を、片手でそっと押さえた。彼の人生でトップクラスのバクバクだった。ゆっくり振り返ると、そこには背後から李汪の手元の画面を覗き込む那月がいた。
ここで慌てた様子を晒すのは悪手だ、と、李汪は全力で心臓の鼓動を押さえ込む。いまならどんなポリグラフ検査でも捩じ伏せられる勢いで鉄面皮を装着し、あくまでもこれは「見られてまずいものではない」という風を装って口を開いた。
「おはよう那月。早いな」
「お前こそ。仕事してんのかと思ったけど違うのな。これ、俺が駅から歩く経路か?」
那月の口調は特に李汪を追及するわけでも攻める風でもなく、比較的のんびりして、なになになに描いてんの見せて、とノートを覗くくらいのノリである。
もうここはこのまま力で押し切る、そう決めて李汪は口を開く。
「趣味だ。人の通勤経路調べるのが趣味なんだ」
ふてぶてしいまでの調子で李汪はそう返事をした。どんな趣味だ、変態じゃないか、という脳内ツッコミをする自分にもパンチを食らわせて平静を装う。
「へえ、おもしれーなお前」
「そういう君の趣味は、なんだ」
盗人猛々しい、とはまさにこのことだ。この局面にも関わらず俺は那月の趣味を知ろうとしている、最悪だ、居直り強盗じゃないか。こんな横柄なヤツに返事してやる必要なんかない、突き放すなら突き放してくれ那月…………と、李汪が脳内で静かに人生最大のパニックを起こしていると。
「え、俺? 趣味……趣味か、俺の趣味? えっとそうだなあ……そう言われてみると趣味ってなんだ? 釣りもサッカーも好きだしじいちゃんと囲碁とかもやるし、あとは漫画読んだり映画みたり……そういうのじゃねえのかな」
那月はすこし目をぱちくりさせてから、腕組みして考えながらそう言い連ねる。重大ストーキング行為を誤魔化せた、という安堵もそこそこに、入ってくる新鮮かつ豊富な情報量に李汪は飛びついた。
釣りにサッカーにイゴに漫画に映画。釣りはあれだろうか渓流釣りいやこの国なら海釣りもあり得る。ルアーフィッシングかそれともサビキ釣り……。サッカーの彼のポジションはどこだ。性格的にはボランチだろうが足が速いらしいからストライカー? いやキャプテンの可能性を考えると……イゴ、イゴってなんだ。イゴは知らんが……。
目をひそかにギラつかせ脳をフル回転させて貪欲にデータをインプットする李汪のその耳元に、低い声が囁かれた。
「ところでな、俺にはいいけど他の奴にそれ、やるなよ。怖がる奴もいるからな。俺だけにしとけ」
一瞬フリーズしてしまった李汪の脳が、ゆっくりと那月の言葉を理解する。
彼の通勤経路を地図化してデータ化していることを、完全にスルーされたわけではなかった。那月はきっちり李汪のしていたことを把握した上で、軽い注意に留めようとしている……?
いや怖がるに決まってるんだ普通の人間は。普通怖いだろうこっそり通勤経路を特定されたら。ストーカーだストーカー。寧ろお前はどうして怖がらないんだ。いますぐ人事どころか警察に突き出されても文句の言えない事案だ、そんな甘いことじゃ、今後お前はもっと危険な目に遭うかもしれないぞ……と、白い靄のむこうで叫ぶ自分自身を感じつつも、いまの李汪は全身ほぼ耳になっていた。
声が。
輝きの権化の声が。
俺の耳元に。
「俺だけにしとけ」っていう、口説き文句みたいな声が。
涼風みたいなあまやかな声が、耳元に。
ええ……、……?
違う、悦んでいる場合じゃないのはわかってる。わかってるんだ。でもその、なんだこの。耳だけ極楽にイッたみたいなこの感じ。ファッファになってしまった感覚器官をシャットダウンして、口だけをかろうじて動かして返事をする。
「あ、ああ……、それは、約束する」
「俺のは別に調べてもいいからな? 趣味なんだろ、通勤路調べ……」
「サッカーも実は趣味なんだ」
趣味イコール通勤路調べの汚名をかき消すべく、李汪が食い気味かつ強い口調でそう言うと、案の定那月はぱあっと表情を明るくした。
「マジか!? じゃあ今度俺のフットサルチームで一緒にやろうぜ! ポジションどこだ?」
言わずもがな、サッカーは李汪の趣味などではない。李汪に趣味はない。すくなくともない、と本人は思っている。ただ、できる。おそらく人並み以上にはできる。好きでやったわけではないが、学校での立ち位置を確保するのにサッカーは便利だった。だがいまその技術が那月との接点になるというなら、最大限利用してやろうと思う。
「キーパー以外なら、どこでもひと通りはやったことがある。そっちは?」
「俺もそんな感じだ。社会人チームだからよ、毎回人数集めるのに苦労すんだ。いっつも誰かしら残業だのトラブル対応だのでよ、どっか足りねえからそこにに入ってる。たまにキーパーもやるけどな!」
それは最高に良いことをきいた、と李汪は内心ほくそ笑む。なにせ俺には仕事以外に特にすることがない。那月のフットサル練習は今度から必ず行く予定としてスケジュールに組み込むことにしよう……。
「ああでも俺の、趣味……、か」
たった今しがたの己の失態も忘れ、ウキウキと心のスケジュール帳を開いていた李汪だったが、ふと那月が呟いた声にグイン! と首を巡らせて反応する。
「他にもなにか趣味が?」
「ある。ちょっと、特別なのがな」
めずらしく、すこし含んだ言い方を那月はした。当然李汪がそれを聞き逃すはずもなかった。
知りたい。
知りた過ぎる。
いやがっつくな俺。いま俺はまだ執行猶予中のストーカーだ。そんな、あからさまに那月と距離を詰めるような厚かましい発言をする資格はない。そう、全然ない。わかってる。
「それは……どんな?」
口が勝手にそう言っていた。わかってなかった全然わかってなかった。図々しいにも程がある……と思うものの、那月からなんとなく訊いて欲しそうな気配を感じてしまってどうにもならない。はにかんで言い澱む彼の様子は、こう言ってはなんだが可愛らしくすらあった。
顔が良くてかっこよくて感じも良くてしかも可愛いとは。完璧すぎて怖い。この男の前では自分の顔などなに一つ価値がない……と、李汪は現在進行形で本気でそう思っている。
「うん。ええとそうだな、じゃあ明日、教える」
焦らすじゃないか!! と叫びそうになったがさすがにこれ以上は詰め寄れない。それにぼちぼち他の社員たちも出社しだす時間になっていた。さりげなくパソコンの画面を閉じ、業務の準備にかかった。以降は那月も李汪もなにかと忙しい日で、別の課に顔を出しての挨拶をひと通り済ませて李汪が気づいたときには終業時間を過ぎていた。
翌日。出社した李汪に課長の曖智から、衝撃の一言が告げられた。
「今日は那月とふたりで出張だ、李汪」
那月とふたりで。
ふたりきりで?
朝から心臓に悪い言葉だ。一日のスタートとしてはハードすぎる。という本心を鉄面皮に隠して、李汪はそっけない調子で返した。
「……出張ですか」
「そうだ。火竜の検診に行ってくれ」
「……? 検診を、この時期に?」
一般に、竜の検診は種別に関係なく全世界共通で、傳力消費のすくない季節を選んで設定される。そろそろ本格的な暑さの到来するいまは、エネルギー源である竜の『稼働』は増える時期だから、ケアはそれを過ぎてから、というのが業界の常識である。まさかそれを曖智が知らないはずもないので、李汪はおとなしく彼の説明を待つ。
「年二のやつとは別で、うちが独自に月一でやってるメンテナンスだ。それに同行してもらう」
月一、という響きに驚きを隠せない。これがこの会社のキモではあると李汪も認識はしていたが、月一とはまた。
竜の扱いには、実は世界共通の規定は存在しない。
巨大なコンクリート製の建物を傳力炉として建ててその中に竜を棲ませる、というところまでは概ね共通していても、建物の大きさや内部の環境、竜の生命維持に関する細かい数値は法的に規定されていないのが現状である。
西国の巨大な傳力炉などは、膨大な発傳量を維持するためにほぼ竜を生き物として扱っておらず絶えずエネルギー精製を行わせているため、虐待だ、という問題提起がもうずっとなされている。にも関わらず、実態は公開されていない。なかなか闇深い問題ではあるが国ぐるみで隠蔽されていて、誰も切り込めずに現在に至っている……という見解が一般的である。
一方で、ここ東国の発傳量は世界的に見ると微々たるものに過ぎない。それ故に「小さな発傳炉で効率的に発傳量を増やす研究」が熱心になされる傾向があり、この会社はその一環として竜に対する丁寧なケアを担っている。その丁寧さの顕著な例が、月に一度という高頻度のメンテナンスということである。
「成る程、了解しました」
「まあこれに関しては那月に一任してるんだが、お前を連れて行く許可をくれと昨日の終わり間際に言われてな」
「…………」
那月が。
この俺を?
…………まあ、俺は新人であり、彼は教育係だ。
そこになにか特別な感情があるとは思えない。落ち着け俺、彼は俺になにか新しい業務を教えようとしているだけだ。
「珍しいんだこんなのは。基本的にあいつが独自でやってる部門だから。なにかお前に特別感じるものがあるのかもな」
やめ。
やめてくれ上司。俺はいま勘違いしないようにめちゃくちゃ必死に心を抑え込んでいるところなのに。そんな風に俺を調子に乗せるようなことを言わないでほしい。揺れる気持ちを鉄の顔面で隠して、李汪は生真面目な新人を装う。
「では、彼についてその出張先に向かいます」
「もう那月は駅に行ってるから、詳しくは合流してきいてくれ……って言ってもまあ、見学だな今日は」
そう説明され、曖智に教えてもらった合流地点に李汪は向かう。
継東セントラル・ステーションは首都圏最大のハブ駅で、在来線はもちろんのことあらゆる地方に向かう特急までもがこの駅に集まり、毎日百本以上が往復する。当然、待合も旅行者や出張のビジネスマンを狙った物販もかなりの数があり、賑わっている。
改札も、中央口と一口に言っても中央南、中央北、中央東、中央東南口、中央南通路口……と、人を迷わせる気しかないように李汪には思えた。が、なんとか中央北口南通路口前のジュース屋の近くの売店で、那月の姿を発見することができた。すぐに声をかけるべきかと思ったが、遠目に観察できる貴重な機会だ。
那月は普段とおなじくスーツ姿ではあるがラフな印象を受けるのはまず髪型のせいだと思われた。普段はヘアワックスで幾分オールバック気味だが、今朝はなにもつけていない。シャツの前ボタンを開け、黒のシンプルなデイパックを肩に引っかけるようにして立っていると、那月はまるで学生のようにすら見える。学生時代はきっと那月はモテたに決まっている。それも俺みたいな珍獣扱いじゃなくて、呼び出されて告白されてつきあって別れてまた別の子に告白されて……みたいなキラキラ眩しい青春を送ったんだろう。待て、彼は告白されるとどんな顔をするんだ? 照れるのか、それとも微笑むのか、はたまたクールな顔をするのか……見たい。その顔が見てみたい。だがいま、目の前でどこの誰とも知らない女が那月に告白なんかしようものなら、全力で邪魔してしまう気がしてならない。俺の直感がそう言っている。よくわからないことを叫びながら近づいて行って怯えさせて追い払うくらいのことはしてしまう気がする……。
そんなことを妄想しながらフラフラと近づいていった李汪の姿を認めるや、那月は片手をあげて満面の笑みとともに口を開いた。
「よう! 来たな、待ってたぜ」
なんてことだ。これではまるで、待ち合わせみたいじゃないか。それも場所が場所だけに……旅行。そう、ふたりで旅行に行くかのようだ。どんなご褒美だ……。
そんなことを考えてまだボンヤリしている李汪の肩口に、ポン、と手の甲が触れた。
「特急券もうあるから、行こうぜ」
那月の言葉の通り、彼の手の中には二枚の特急券があった。そのまま那月は李汪の肩に軽く手を添え、急かすように改札内に向かう。
え、なんか。
距離、近いな? 普段より近い、俺の気のせいだろうか。
いや会社でも那月は割と誰にでも距離は近いが、今日はこう、ボディータッチというか……肩抱くみたいな、こんな。ここまでだっただろうか?
勘違いしないでくれ、嫌なんじゃない。嫌なわけがない。寧ろいい。嬉しい。俺としては役得だ。
ただ、ちょっと急に近いのでこれはいったいどういうことなのか、半分以上浮き足立ってしまっている脳みそでは理解が追いつかなかった。
答えは改札を抜けてすぐにわかった。
李汪より頭半分は上背のある那月が、眉間にシワを寄せて李汪の顔を覗き込みつつ言った。
「驚いた。お前ってやっぱり、人の多いとこだと目立つんだな」
「え?」
「嫌だろ、ああいうの」
「え……。あ、ああ」
一瞬、本気でなにを言われているのかわからなかったが、いつもの珍獣扱いだとようやく理解する。すれ違いざま、或いはもうすこし離れていても、李汪の顔面は人目を引く。慣れた現象だし、社内でも発生した事案であったが、さすがに駅という公共の場でのことに那月は驚いたらしかった。
「気分よくねえだろうなって。なんか……すげえ好奇心丸出しみたいに、みんなお前のことジロジロ見やがってよ」
「いや、まあ……もう慣れてるから」
「ダメだろあんなん! いくらお前の顔が綺麗だからって、勝手に見て好き勝手言っていいわけねえんだ」
なんということだ。
彼は、那月は李汪の為に憤慨し、その好奇の目から自分を遠ざけるべく足を急がせてくれたのだ。
どうやらいつも通り、主に若い女性などからの感嘆の悲鳴に混じって、人形みたいだの濃すぎてキモいだのといった悪口雑言までが瞬時に湧いていたらしい。そのあからさまさに那月は驚き憤慨してくれている。正直なところ、李汪本人はほぼその声も視線も眼中になかった。那月を見つめるのに忙しかったのだ。
ていうか、こんな爆裂イケメンがすぐそこに立ってたというのに、俺の顔なんか見てる奴らの目は節穴なのか? 俺なんか消し飛ぶ勢いの爽やか好男子がいるのになんなんだ。世間の価値観はおかしい。絶対、那月のほうがかっこいいじゃないか……おかげで那月が守ってくれたみたいになったのには感謝しかないが。
その爽やか好男子は、ひとしきり憤慨してから李汪を先導し、ホームに待機停車している特急に乗りこんだ。あとに続いて指定の席に向かう。ベージュのひじ掛け付きの指定席は使い込まれた雰囲気で決して豪勢なわけではなかったが、シートはそれなりに広く、窓も広くて明るい。ナチュラルに窓側を勧められ、李汪は素直に奥に腰をおろす。座り心地も悪くなかった。乗るのは初めてだが、なぜか懐かしいような気がした。
平日だからか、満席にはならぬまま列車は動き出す。それとほぼ同時、那月がどこからともなく取りだしたビニール袋をガサガサいわせ始めた。
「特急、五十分しか乗らねえからな。早いとこ食っちゃおうぜ」
楽しそうにそう言いながら那月が長い腕を伸ばし、素早く李汪のシート横からスライド式の小型テーブルを引っ張り出した。そしてその直径30センチほどの丸テーブルの上に、ひょいと紙パックの弁当らしきものを置いた。
「電車で駅弁食うの、最高に美味いからよ、出張の醍醐味ってやつだ。李汪、魚好きなんだろ。魚系の一番人気のやつにしといたぜ」
あまりの展開の速さに李汪が目を丸くしている間に、那月は自分の分の弁当の包みを開けて割り箸を割っていた。車内の他の客の中にもいそいそと食事を始める者がおり、長距離の列車移動はあまり経験がない李汪には馴染みがなかったが、そういう文化なのだと理解した。
「あ、ああ。ありがとう。代金を……」
「そんなん気にすんな、いいから食えって!」
何故こうも、この男からの善意を自分は素直に受け取ってしまうのか。李汪はまだ自分の感情の揺れが受けとめきれていない。押しつけがましいとか、朝はもう食べてきたとかそんな気持ちに微塵もならない。用意しておいてくれたことが素直に嬉しいし、なにより一緒に食事の時間を共有できるのが嬉しい。旺盛な食欲で、すでに彼の弁当が半分以上なくなっていることすら好もしい。
こっそり視軸を那月にロックオンした状態で、李汪は自分の手元の包みを開く。木目を模したプリントの施されたプラ製の弁当箱に、炊き込みご飯が敷き詰められ、その上に何種類かの魚の身をほぐしたものがたっぷり乗っている。サイドに野菜やきのこの煮付けなど細々したものが入っていて、李汪の感覚だとテイクアウトのものとしてはとても凝っている。一口箸で口に運んでみると、たしかに味もいい。
いいが、そこで食べることに夢中になれるほど李汪は無邪気ではなかった。こんな絶好の那月ウォッチの機会を逃すわけにはいかない。
勢いよく食べる割には那月の箸の運びは綺麗で、きちんと躾けられた感がある。実はお坊ちゃんという空気ではないから、いったい彼のルーツはどういう……などとつい考え込んでしまって、気づけばあからさまに那月を見ていた。李汪の視線に気づいた那月が、手にしていた弁当を軽く持ち上げて笑顔で問う。
「俺の肉のやつも、一口食ってみるか?」
「え、え?! い、いや、いい……」
「あ、そうか。こういうのも、ダメな奴はダメなんだっけ。悪い」
しまった。俺が妙な声を出したばっかりに、那月の眉を八の字にしてしまった。正直その困った笑い方めちゃくちゃグッとくるが、そんな顔をさせるのは申し訳ない。
「俺、けっこう無神経だからよ。いつも曖智が注意してくれんだ」
違う。全然違うんだ無神経とかではない。潔癖なほうではないし、寧ろ那月の好意を無下にするとかそっちのほうがよほど無神経だ、でもそんな。さすがに踏み込み過ぎだ。そんな、那月の皿から一口貰うなんて。まだ早い。違う。なにを言ってるんだ俺は。違うんだ。俺はお前に、那月に気持ち悪い思いをさせたくない、ただそれだけだ。自覚はあるんだ。俺はいま、自分が気持ち悪い男になっている自覚はある。だからこそ、めちゃくちゃ気を遣わなくてはならない。那月にキッショと思われるくらいなら、なに考えてるかわからない謎キャラでいるほうが百倍マシだ。かと言って、俺が那月をキッショと思っている、という誤解もされたくない。絶対にされたくない。そもそも俺は……いやいまは俺のことはどうでもいい、とりあえずなにかフォローしなくては。
焦りに迷走する脳内を完全無欠の顔面で覆い隠し、李汪は口を開く。
「あ、あの……次、買うときは、俺もそっちを、試したい……から、その、た、楽しみに、とっておく……」
無様だ。我ながら無様な言い訳を……と正直恥ずかしさで顔が赤くなるところだったが精神力で耐えた。
ところが那月は一瞬目を丸くしたかと思うと、口角を持ち上げて悪戯っぽく笑った。その笑顔も初めて見る……と、李汪が心のアルバムを更新していると。
「ズルいぞお前、んな顔してカワイイこと言うな」
そう言って、那月は李汪の肩口にトンとごく軽いタックルをかます。
…………。
ハァ??
どっちが??
そんなカワイイことしといてどの口が??
そこからの記憶は、若干曖昧だった。
那月がゴミを捨ててくる、と席を立ち、残された李汪はひとりシートで手足を投げ出して、ボケーっと列車の天井を見つめている。
肩。
肩トン。
なんだこの特別な感じは。いや普通、普通なのかこれは。どっちだ。でもこんな、ちょっとじゃれるみたいな接触。しかも向こうからの接触だからこれは不可抗力だ。俺からいったわけではない。こんなのもう……好きになるのでは? 違うそういうのがキショいと言っている。那月にとってあれは普通のコミュニケーションだ。マウンテンゴリラ相手でも、席が隣同士だったらああいう仕草をするのだ彼は。勘違いするな俺。普通だ、ごく普通のことなのだ。
脳内でめまぐるしく感情を捏ねまわしていた李汪の視界に、隣車両から戻った那月の姿が映る。遠目にもスタイルがいい。たしか前回健診結果で182.8㎝だったと言ってはずなので、俺よりも7㎝は大きい。腕も長いし細身ながら筋肉がしっかりついていて、体格としてバランスがとてもいい。フットサル以外にもなにかスポーツをやっている可能性が……などと考えていると。
「おっちゃん、まだ行きだからな。ビール禁止だぜ?」
不意に那月の声がした。いったい誰と喋っているのだ、と思わず李汪が首をもたげると、車両最後部の席の人物と会話をしている姿が見えた。
「あ、あぁ……。勿論だよぉ、那月」
「頑張ってんなあ、偉いぜおっちゃん」
そう言うと那月は親しげな様子で中年男性の肩を叩いた。誰だ。誰なんだ。どう見てもくたびれたおっさんだ。すくなくとも友達ではなさそうだし、仕事関係にしてはフランクな……、と李汪が無表情のまま悶々としていると、那月がようやく席にもどってきた。
「知り合いなのか」
さっそく李汪がそう訊ねると、特急友達だ、と那月は笑った。
「ここでしか会わねえんだけどさ。あのおっちゃん、前はいつも朝からビール飲んでたんだよ。仕事前なんじゃねえのかなって思って話聞いたらさ、普通にアル中で止めらんねえんだって泣き出して」
「え……」
「俺のじいちゃんの友達もアル中で、断酒の会みてーのに行って治ったって知ってたからよ、そこに繋いだんだ。したらちゃんと酒止めれて、仕事にも復帰してって感じでな」
まず、仕事に向かう特急のなかで、見知らぬアル中のおっさんに声をかけるか普通? というところから李汪には信じられなかった。全体どんなコミュ力してたら朝から電車でビールかっ食らってるおっさんに話を聞こうという思考になるのか。おっさんもおっさんだ、なにを甘えて泣き出しているのか。いやそれも那月の人誑しパワーのなせる業なのか……、いやなによりも。
ズルい。
那月に励ましてもらうなんて、ズルい。
俺もアル中になって、そういう風に背中を叩いて励ましてもらうべきか?
アホなことを考えている間に、列車は目的の駅に到着した。体感五分くらいの特急の旅を終えて到着した駅は、特に観光する場所があるわけでもなく、駅併設の売店の他にはロータリーとちょっと離れたところにコンビニがある程度の、実に鄙びたところだった。
「案外近いな。炉のあるところなんてずっと山奥だと思っていたんだが」
駅前を見渡して李汪がそう言うと、那月が苦笑して答える。
「実際山奥だよ。こっからが遠いんだ」
言いながら彼の指さすほうに従い、古びたバス停に向かう。
「なんせバスが二時間に一本しかねえからよ。そんでバス停からは徒歩しかなくてなあ」
バスは列車の到着十分後に発車予定が組まれている。列車がダイヤ通りに運行すれば、アクセスとしては悪くないのかもしれない……と思ったが、着いたバス停からけっこうな山道を三十分、それもあまり手入れされていない林道を抜けての行程であったから、お世辞にも便がいいとは言えない。
しかしそんな悪路も、周辺に誰一人いない状況での那月との会話時間になるので、李汪にとってはさして苦にならなかった。とはいえ一応、仕事で来ていることもあり、道すがらは案外真面目な話をした。李汪が長年住んできた国とこの国とではエネルギー事情が違うことや、竜炉の扱いの話。那月はそれらを熱心に聞きたがった。聞かれればなんでも話すが、それとは別に李汪は観察に忙しい。
那月の歩幅や、背筋の伸び方、歩き方からして過去に腱断裂などの大きなケガをした様子はないと思われた。この山道に慣れているせいもあるだろうが、やはり日々なにかしらの運動をしている、アスリート寄りの身体つきである。
「平気か? きつかったら休憩するから言えよ」
那月がそう気遣って声をかけてくれるのが、心の中に沁みわたる。なんだか優しい部活の先輩……といった雰囲気だ。そういえば学生時代のことをあまりまだ聞けていない。何部所属だったのだろう。まあ普通に考えればバスケかサッカー、陸上大会に助っ人で行くタイプだろう。
対する李汪のほうも、実はまだ全然余裕があった。
なにせ顔のせいで、李汪は学生生活らしい学生生活はほとんど送れたことがない。結果、暇をもてあましてすることと言えば、身体トレーニング、それも、住んでいた家が山に近かったせいで、実質トレイルランみたいなことばかりやっていた。
この程度の山道なら、なんということもない。
だがせっかく、那月が案じてくれているのだ。親切心は素直に受け取りたい。
「ああ。たしかにきついが、まだ平気だ」
「そっか。無理すんなよ」
那月のほうでも李汪が決して強がりで言っているわけではないと理解したらしく、軽い調子で流して先を急ぐ。
那月は、ちゃんと俺のことを見たうえで話をしている。
適当に気遣うフリをしているだけでもなく、変にひ弱扱いしてくるわけでもない。大雑把に見えて、きちんとこちらを観察している。観察、という言い方は俺の穿ちかも知れない。俺は常に他人を観察しているから、でも。
那月は違う。観察ではなく、誰にでも人として真摯に向き合うのが通常になっている。彼の感じのよさはそこからくるものなのだろうか……。
と、相変わらず観察・考察をしながら歩き続けた李汪だったが、その目の前の木立の隙間に、コンクリートの無機質な建設物が現れた。
「ここか。思ったより新しい施設なんだな」
「ああ。うちの会社の設立とおなじ年にできたんだ」
峪山第二傳力装填所、と彫られた石板が、立派な門の横に掛かっている。門を抜けたところにある警備室で名前を記載し、渡された古びた社員証を首にかけて中へ進んでいく。正面に見えるタワー型のコンクリートの建物の鉄製のドアを開け、中に入ると、無骨で薄暗い廊下が続いていた。
巨大な建物だが、人の気配はほとんどない。まるで休日であるかのようだった。若干の不気味さすら感じるが、那月は慣れた調子でカードキーを使って扉を開け、先へ先へ進んでいく。
「この奥の部屋が、俺らが使っていいとこな」
そう言いながら、那月が開けたドアの先には、簡素な部屋があった。会議用の長テーブルが二本置かれていて、その上に薄汚れたポットが置いてある。窓はなく、どこか息苦しさのある部屋だが、そもそもこの施設は全体的に窓はほとんどない。正直、不気味さは否めない。
ただ李汪にとっては気になることではなかった。建物に入ったあたりから、那月のテンションが明らかにあがったからだ。いつも以上に機嫌よさそうに、鼻歌でも歌いそうな勢いで先を急ぐ男がいるだけで、薄暗かろうが息苦しかろうがどうでもよかった。
「椅子、そこの納戸みてーなとこに入ってっから、出してくれ」
言われて、備え付けの物入れから李汪はパイプ椅子を二脚取りだした。振り返ると、那月がいない。
「……那月?」
いまのいままでそこにいたはずの男の姿がない、と一瞬思ったが、別室へのドアが奥にあることにすぐ気づいた。
「いまいく」
と、そちらの部屋からくぐもった那月の声が聞こえた。しばらくゴソゴソと動く気配がしたのち、ドアが開いて現れた那月の姿に、李汪は言葉を失う。
浅葱色の続き服、いわゆるボイラースーツと呼ばれるつなぎを身に着け、白いヘルメットをかぶり軍手をした姿があまりにも。
あまりにも、似合い過ぎていてかっこよかったからである。
変な声が出そうになるのを全力で押さえて、冷静な声で李汪は言う。
「……なんだ、その姿は」
「カッコイイだろ、俺の作業服だ」
「まさか……、那月が降りるのか?」
「へっへー、俺、実は持ってんだよ。竜検」
「えっ!!」
さすがにこれには李汪も声をあげて驚いた。【神聖不可侵域介入許可貸与検定】sacred and inviolable range allowed by God asking通称『竜検』は、全世界で三百人ほどしか保有していない資格のはずである。もちろん、李汪も持っていない。
「つってもまあ、実技枠のほうだけで取れたようなモンだけどな。試験は全然だ。だって問題がタイラグ語出題とかさ、あれは無理だろ。基本俺あんま頭よくねえし」
「いや、実技のほうもかなり難しいはずだ。クライミングの経験でもあるのか?」
「俺のじいちゃん大工だからよ、ガキのころから高いとこ登ったり下りたりしてたんだ」
大工。鳶職人、というやつだろうか。
鍛えた身体つきだとは思っていたが、やはり那月の運動神経は常人離れしている。
「昨日、ちらっと言っただろ」
そう言って、那月は自信満々の笑顔から、昨日のあのはにかんだ表情に変わる。言っとくけどその顔最高だから。声に出しては言えないけど最高だからな……という気持ちを全身全霊抑え込んで、李汪は口を動かした。
「ちょっと特別な趣味、っていうのは……もしかしてこれのことか」
李汪の言葉に、那月はさらに照れくさげに微笑んで頷いた。
「仕事っちゃ仕事だけどよ。俺、昔から火竜が好きなんだ。どうやったら一番近くで火竜見られるか、って考えたら、この資格に行きついたんだよな。取るのに四年くらいかかってさ」
成る程、と、李汪は様々な方面で納得した。
まず竜検はたしかに超難関の資格だが、取るのに費用も時間もかかる。その割にはイコール高額報酬の就職、というわけではないので、この業界であってもかなりマイナーな資格になっている。それを、東の島国の子会社の、いち社員に過ぎない那月が持っている、というのは言ってしまえば酔狂なことではある。西国ではおもに一部の貴族が、嗜みだとか家名云々で取っているイメージがあり、つまり、金の心配もなく時間に追われて働く必要もない者たちが見栄で取るような資格だ。すくなくとも李汪はそう認識していた。賄賂で資格を取るだけ取って、竜になど一切近づかない。それがほとんどである。
一方で、那月はこの資格を『好きな火竜に近づきたい』一心で取った、という話なのだ。彼の実家が特別富豪というわけではなさそうなところから考えて、会社が資格取得の費用を負担していることは想像に難くない。もちろん会社としては、将来的なビジネスへの投資の一環としてのことではあろう。ただし。
エネルギービジネスは、取り扱いが難しい。
世界共通のインフラを担う竜の「傳力」は、利権を常に世界中が争っている。
大元は、竜に連なる西国貴族の家が独占していたエネルギーである。それが何度かの戦争と革命を経て、世界で分け合って使うようになった……という名目ではあるが、結局いまでも偏りはある。ここ東国は特に、元から棲息している竜の数がかなりすくない。まったくいないわけではないが、そもそもこの国は変傳設備からなにからを西国の模倣でやってきていて、火竜も貸与されている個体である。今更独自のエネルギー開発を、とは言い出しづらい立場にあるのだ。
それでも、発傳量のすくない国だからこその利点もある。それこそが、竜の待遇問題だ。丁寧な飼育環境下でなら、竜は個体そのものが大きくなくとももっと効率的な発傳が見込める、と証明することができれば、世界のエネルギー開発環境を揺るがす事態になるかもしれない。
もっとも、そこまで持っていくには膨大なデータと論文、それに実績が必要になる。何十年もかかる壮大なプロジェクトになるだろう。那月はもしかすると、そのきっかけを担う人物になるのではないだろうか。
「……すごい人なんだな、君は。好きな気持ちだけでこの資格を取れる人間はなかなかいない。尊敬に値する」
気づけば李汪の口からはそんな言葉が出てしまっていた。しまった。なんか……空気を読まない発言だったかも知れない。固いし。どうしてもっと気の利いたコメントができないのか。本当になんというか、感動してしまってつい。すると。
「ば、バカ、照れんだろ。そんな……キラキラの目で見られたらよ」
那月は満更でもない顔で、うっすら頬を赤くしていた。キラキラの目……、もしや、無駄に目立つばかりで自分を不幸にしてきたこの顔面が、正しく役立つ日が来たのか? いやそれはさすがに厚かましいか? いやでも初対面のときに綺麗な顔って言われたし、いけるか? ダメか? いやそもそもなにをどうしようとしてるんだ俺は?
「よし、とにかく見せるから来てくれ! こっちだ」
グイと那月に手を引かれ、廊下に飛び出した。軍手越しに、しかも一瞬のことであったのでまごつく暇すらなかったのが李汪には幸いだった。そんな、青春まっさかりの中高生じゃあるまいし。27にもなって、ちょっとした手の触れ合いで気絶しかけている場合ではないのだ。正気を保て俺、と、李汪は表情を普段の無に戻す。
作業服姿の那月に続いて廊下を歩き、エレべーターで三階ほど上がる。この建物は、中央が吹き抜けになっており、各階にぐるりとそれを囲む楕円のドーナツ型の通路がある。それが、上階に行くほどドーナツが小さくなる。外から見ると普通の長方形の建物で、内側だけが上に行くほど狭くなる特殊なつくりである。人間にとっては息苦しいことこのうえないが、火竜にとっての居心地を研究した結果、この形になったのだという。
「あ……っ」
奥の部屋に入室し電気を点けた途端、李汪は思わず声をあげた。
部屋の奥側の壁にあたる部分がすべてガラス張りになっている。歩み寄ると、果たして分厚いガラスの向こうは吹き抜け部分が見えるようになっており、そこには発傳を担う火竜がいた。
「……!」
竜を見るのは初めてではない。李汪も一応、西国で竜の研究分野にいた身である関係で、もっと巨大な個体を見たこともある。でもここはいままで見たどの炉とも違う。西国の竜炉は、個体の大きさギリギリを取り囲む、押しこめるようなつくりをしている。身を翻すことすらできないのが普通だ。でもここは違う。
「生育スペースがかなり広いんだな……」
「だろ。これくらいだとストレスがだいぶすくないはずなんだ」
那月の声はどこか嬉しげだった。
「じゃあ俺ちょっと降りるから。見ててくれよ」
そう言い残して、那月は鉄製の扉をくぐって行ってしまう。カンカンと足音が響き、ほどなくして機械音とともに那月の姿がガラスの向こうに現れる。李汪から見てちょうど那月の身長分ほど上にある足場に彼は立っており、特殊なゴム素材でできた黒い足袋のようなものを履いているのがよく見えた。そのまま那月はロープの先の結び目を壁のフックに繋ぎ、壁に足をつけてひと蹴りし、リズムよく壁を伝って降下し始めた。
ガラス面の前を通過するその瞬間、李汪は見た。
たしかに那月が、自分に向かって片目を瞑ってみせたのを。
ヤバい。
カッコよすぎて息絶えそうだ……。
嘘だろう、なんのご褒美だこれは。
ツナギ姿でロープ降下する那月の、なんという凛々しさ美しさ。
動画、動画に残したい。せめて静止画……ああ、こんなすごいショーを俺だけで見られるなんて信じられない。最高過ぎる。
この資格を最高難易度たらしめている要素として、金属製品を一切使えない、というルールがある。ジュラルミン製のカラビナもワイヤーも不可、己の身体とロープワークのみで竜に対峙せよ、という古の教えに従わなくてはならない。実際のところ、別に竜はやわらかい生き物ではないので、そこまで神経質になることはないはずだというのに。そういう部分が無駄に難易度ばかりが高いと、この竜検が揶揄される所以である。
だが贔屓目抜きにしても、那月の技術は素晴らしい。いや本当にしてない。贔屓なんか全然してない。ロープの結び目はもちろん、体幹がガッチリ安定している。脚の運びや竜に対してのポジション取りもタッチングも完璧、そしてなによりも。
「……、……」
彼の所作から、竜に対する深い慈しみを感じる。
いまや暮らしになくてはならない竜ではあるが、その竜を生き物として慈しむような人間に、李汪は会ったことがなかった。
うっとりと陶酔した心持ちでガラスにべったりはりついていると、デスクの上のスピーカーからブザー音が鳴った。備え付けの受話器を取ってみると、那月の声がする。
『李汪悪い、いっこ頼みが』
「どうした、那月?」
『カード提出忘れてたのいま思い出した。デスクんとこに置いてあるだろ、名刺くらいのサイズのカードで俺の名前書いてるやつ。クリーム色の』
「ああ、あるな」
『一階下の管理人室に出してきてくんねえかな。この時間だと誰もいねえかもだけど、とりあえずポストに入れておいたらいいから。出さねえで降りると叱られんだよ。頼む』
「了解だ」
本当は一分一秒が惜しいが、那月の頼み事を断るなどありえない。後ろ髪引かれる思いでカードを手に部屋を飛び出して李汪は階下に向かう。さっさと放り込んでふたたび鑑賞に戻らねば……と、勢い込んで階段を駆け下りる。窓口のある小部屋がすぐに現れ、ポストの位置もすぐにわかった。そして不在のはずの管理人もいた。強面の中年男性は、李汪の姿をチラリと見て低い声で呟いた。
「なんだ那月の奴、もう降りてると思ったら……連れがいたのか」
那月、と彼が言ったのを勿論聞き逃すはずもない。反射的に危なげのない挨拶を返しつつ、李汪は目の前の男をじっと見た。
「初めまして。ナインスケイルスより参りました、ナザ・ハタバ・李汪と申します」
「…………」
初老と言っても過言ではない年齢と慣れた佇まいから、長くここの管理人を勤めている人物なのだろう。李汪の容姿に関しては所謂一般的な反応を示しているが、言葉に出さないあたりは理性的である。そして礼を守って李汪相手にアオ・ニゴン・一色と名乗った。
「新入りか。いきなりこんなとこに来させられたんじゃあ、ビビったろ」
「驚きはしました。ですが興味深いです」
向こうは向こうで、李汪のことを観察している。危なげのない返事しかできていないが、嘘も言っていない。
「にしても、アイツが人連れてくんのはめずらしいな。もしかして、お前も竜検持ちか」
「いえ、そういうわけでは」
「だろうな。あんなモン持ってる奴、そうそうお目にかかれるわけじゃない。よっぽどの変人でもなきゃな」
キタ、と李汪は内心で拳を握る。この言い草から察するに、一色氏は那月のことをよく知っている人物なのだ。速攻で戻って那月の作業を眺めたいという願望はあるが、ここでしか聞けない話がある。そう確信して李汪は慎重に言葉を続けた。
「彼は……那月は、そんなに変人なんですか?」
「あんな奴は他にはいない。ここに来た社員はお前が二人目だ」
「え……」
那月がここをいつもひとりで訪れている、とは聞いたが他に誰も来ていないとまでは思わなかった。
「あいつはな、この会社で唯一、火竜のことを友達だと思ってる奴だ」
「友、達……?」
たしかに那月は友達が多そうだ。特急列車に乗り合わせたアル中中年のことすら友達と呼んでいた。でもさすがに、竜が友達とは……? と、首をひねった李汪だったが、そう言われると納得もいくのだ。
那月がああも楽しそうに竜の傍に降りていくのは、友達に会いに行っている感覚だからなのか、と。本人は趣味だと言っていたが、それ以上に友達なら、しっくりくる。
流れ込んでくる情報を噛み砕こうと沈黙する李汪に、一色はさらに畳みかける。
「あいつは入社する前からずっとここに通ってきてた。で、散々竜を眺めたあと、おれの『作業』まで見ていくんだ」
「……作業?」
「そうだ。気持ちのいいモンじゃねえが」
言いながら一色は古式ゆかしい鍵の束を手に、管理人室から出てきた。並んで立つと背丈は李汪と同じか低いくらいだが、肩幅と体の厚みがあり、存在感があった。短く刈り込んだ髪に四角い顎が、思わず『狩人』とでも呼びたくなる雰囲気を醸し出す。
一色の先導で、李汪は屋上に案内された。他の扉やエレベーターはすべてカードキーで制御されていたが、屋上に続く扉だけが、手動の鍵で施錠されている。コンクリートばりのフェンスで囲まれた屋上には所狭しと室外機が設置されており、のんびり景色を眺める場所、という雰囲気ではなかった。
「あそこだ」
一色が指さす先には、白い建物がある。排煙口らしきダクトの先端が空に向かって伸びており竜炉本体施設に比べればかなりちいさい。
「作業は向こうの棟でやる。火竜の卵の処分だ」
「……卵の、処分?」
李汪は思わず眉を寄せる。火竜の卵は個体数管理の関係で、国家ぐるみでかなり厳重に管理されるものであって、失礼ながら極東のいちサラリーマンが処分していいような代物ではないはずだ。李汪の言わんとすることを察した一色が続ける。
「ここの竜はたまに無精卵を産むんだ。生理現象に過ぎんがな」
ああそれならと納得しかけたが、李汪には別の驚きが湧き上がる。雌が無精卵を産むには日照が不可欠のはずで、つまりこの竜炉での竜の飼育環境は、朝陽が昇るころには太陽光が当たり、夜になったら眠るという自然に近いものということになる。竜の生命力の強さをいいことに生産性のみを重視し、ストレスを与え続けている大国の炉とは雲泥の差である。
ただ一般論として、竜にストレスを加えて100万世帯分の発傳を促す炉と、竜をストレスなくのびのび飼育してその十分の一を得る炉、どちらが高く評価されるか、という話だ。一色もそのあたりを重々承知しているからこそ、己の仕事に肩を竦めてみせるのだろう。
「竜の卵を寝てる隙にかすめ盗って、処分する。ある時、作業を終えて出たとこに那月が仁王立ちになって俺を待ち構えてた」
まだ高校を出たばかりの那月は、おっちゃんはどういう気持ちで竜の卵を潰すんだ、と、いきなり一色に噛みついたのだという。
「変なガキに絡まれたと思って、ただ事務的に処理してるって答えたよ。そうしたらアイツはそれは嘘だ、おっちゃんも心の奥で竜を可哀想がってる、なんて抜かしやがった。最初はブッ飛ばしてやったよ」
この場合のブッ飛ばす、は、どうやらなにかの比喩でもなんでもなく本当にぶん殴ったという意味らしかった。その手のコミュニケーションのほうが、那月には理解しやすいのかもしれない。
「それでも奴はその後もここに来た。そんでちょっとずつ話すようになって、俺の作業も見せた。で、いまの社会にとって竜がどんな位置にいるのかを自分なりに考える、とか言って……ついに竜検までとっちまった。さすがに呆れたが、まああいつの勝ちだ」
話はそれだけとばかりに、一色がジャラリと鍵を鳴らしながら踵を返す。つい取り繕うことも忘れて、さっきから頭の中に残って仕方ないことを李汪は口に出していた。
「竜が……友達……」
一色が足を止め、わずかに李汪のほうを振り返って言った。
「言っとくが、竜のほうがどう思ってんのかはわかんねえぞ。那月の奴がそう思ってやがるってだけだ。変人だろ?」
「ええ、でも……彼はいい人です、とても」
「そこは否定しねえよ」
管理人室に戻り、当初の目的であったカードを提出してから一色に礼を告げ、李汪は猛ダッシュで元いた部屋に帰る。ガラスの向こうでは、まだ那月が竜の傍らで作業をしていた。その姿をじっと見つめていると、気づいた那月が片手をあげてくれた。彼と竜との尊い時間を邪魔してはいけないと思いつつも、嬉しさに負けて李汪もまた手を振って応じた。
日の暮れる直前、行きとおなじバスの最終便に乗り、李汪と那月は駅へと引き返した。ほぼ貸し切り状態の車中で李汪は今日のことを振り返り、普段の自分にしてはかなり口数多く語った。もちろん、つなぎ姿がメチャクチャカッコよかったとか体幹がすごかったとかそのあたりは伏せた。ミーハーだと思われるのはよろしくない。
竜のこと、那月のこと。一色氏の言っていたこと。
「俺は今日たぶん……興奮したし、感動、した、気がする……」
感動したのは嘘ではない。竜のつくるエネルギーに携わる仕事をしていても、竜との接し方や竜そのものについて考える機会など、これまでなかった。そういう意味のことを自分なりに、あまり理屈っぽくならないように言葉にすると、那月は終始それを嬉しそうな顔で聞いてくれてから照れくさげに答えた。
「俺、火竜が好きなんだ。あいつらがゆっくり動くとことか、あの優しい目でこっち見たりとか、そういうの、なんでかわかんねえけど心が落ち着く」
「……竜を友達と呼ぶというのは、さすがに驚いたが」
李汪がそう言うと、一色さんか、と那月が苦笑した。
「……あんま火竜を生き物としてみる奴はいないし、俺だって、その傳力売った金で給料貰ってんだからもしかしたら矛盾してんのかもだけど……なるべく火竜を大切に扱ってやりてえんだ」
普段の朗らかさとは違う、訥々と語る那月の声は、彼がこの仕事をどれだけ大切に思っているかの証左であるかに李汪には思えた。那月という人間の根幹に関わる大事な部分を見せてもらえたようで、胸が暑くなる。そう思っていると。
「なんか、勘だけどお前にはこの感覚、解ってもらえる気がしてたんだ。それで今日連れてきたんだけど……よかったよ」
そう言われて、李汪は目を丸くして那月を見る。
自分のどこになにを感じてくれたのかはわからない。わからないが、選んでくれたのは嬉しい。那月の思いを正しく理解できているのか自信はないが、それでも距離が少し近づいた気がして。
「あの、那月」
「ん? どうした」
「俺と、つきあって欲しい」
「……ん?」




