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終、神聖不可侵

 そうして。

 そうして俺は。

 あれからなんやかんや色々あっていま。

 那月とふたりきりで、某地方都市のビジホの一室にいる。


 なんやかんやの一言でまとめるのは乱暴なくらい、色々だった。自分でも混乱しているので、整理するのに時間がかかったし、いまの状況はまだ受け止めきれていない。

 まず、竜炉の壁の修理を無事に終えた瞬間、俺は足を滑らせて下に落ちた。これは事実だ。それから半日経たずにどうして恋人とふたりでホテルにいるのかといえば、俺の個人的事情とその他、色々ある。

 自動チェックインでとりあえず入った部屋は、狭苦しくも真新しくて小綺麗なツインルームである。

「……心配かけてすまなかった。こんなことなら那月にだけでもさっさと話しておけばよかった」

「……」

 そう告げて、李汪は薄水色のカードをケースから引っ張りだして、サイドテーブルの上に置いた。

「タイラグ語……? なんて書いてあるんだ」

 那月が怪訝そうな顔でそのカードを凝視する。タイラグ語は竜検を受けるときに使われる超難解な古代語だから、那月には見覚えがあったのだと思われた。ただし内容までは読み取れなかったようで、それも当然だろう。このカードの保有者である李汪にだって、具体的にはなにが書いてあるのかはさっぱり読めない。

「アンシエント。直訳するとまあ……古代種、って感じだ」

 那月が目を丸くして李汪の顔を見る。それはまあ、そういう反応になるだろう、とは思う。なにせこれは。

 李汪が普通の人間ではない、という証明証なのだ。

「お前が、その、古代種だ、ってことか?」

「そう。骨格とか筋細胞が常人よりも頑丈で、特に瞬間的な衝撃に強い。不老不死への手がかりだとかで、研究してる学者もいる……らしいが、俺もそこまで詳しくは知らない」

 一番気の毒だったのは、なにも知らなかった一色だった。

「李汪!」

 李汪の落下の瞬間を目撃してしまった一色は血相を変えて階段を駆け下り、竜炉の最底辺フロア、つまり火竜のいる階の扉を開けた。普段なら管理人が立ち入ることは許可されないが、非常事態だったのは間違いない。

 一色は覚悟していたのに違いなかった。全身を複雑骨折しているか、最悪落ち方が悪ければ首や頭蓋骨が折れていた可能性も、普通の人間ならばあったからだ。

 なので、李汪がムクリと床から起き上がったとき、一色はいままでに見たことがないくらいに取り乱していた。ヒィッと情けない声まであげて腰を抜かしていた。リアルゾンビに見えたのだろうから、まあ無理もない。

「一色さん落ち着いて。とりあえず移動しましょう。火竜を驚かせるのはまずい」

「え、い、いやお前、だって……救急車……」

「呼ばなくて大丈夫です。ていうか、いま呼んでも来られないですし、救急車は本当に必要な人のところに行ってもらわないと」

 李汪自身はもちろん、自分がアンシエントであることは認識していた。でも、実感するのは初めてだ。あなたはアンシエントですよと言われたからとて、当然ながらわざと高いところから飛び降りたり、電車に突っ込んだりする趣味は李汪にはなかったからだ。

 全世界に400人だとか、もっとすくないとか言われている古代種は、古代から生きている人間、というわけではない。親から引き継ぐ場合もあれば、ごく普通の両親からアンシエントが生まれる可能性もある、まだまだ謎に包まれた特殊体質である。血中に特殊なタンパク質が含まれていることと、骨密度検査、その他いくつかの定義を満たしているとこの判定が出る。李汪の場合は父親がこのアンシエントであり、エレメンタリーにあがりたての頃に雪山で行方不明になった際、救出後に無傷の李汪を怪しんだ父のたっての要望で検査を受けて判明したものであった。

「この通りです。どこも折れてないし痛いわけでもない。そういう人種なんです。だから、事故が起きたとは言わない。診察も不要です」

 まだ青褪めている一色にそう声をかけながら扉を出て、とりあえず管理人室まで連れて行った。そして李汪がタオルを借りてシャワーを浴びている間に、一色が那月に連絡をとって彼の知るところとなった。

 電話口で取り乱す一色に対して、那月はさらに取り乱したらしかった。「李汪が竜炉に落ちた、でもなんでか生きてる。元気だ」を繰り返された那月は、わけのわからないまま異常事態であることだけを察した。例のややこしい顧客を曖智に丸投げし、自分で車を借りて竜炉まで来ようとした。だが台風のせいで山道は封鎖、這ってでもそこに行く、と言い張るのを一色と李汪ふたりがかりでなんとか説得し、駅前のホテルで待機させた。朝になって道路が開通し、動き始めたバスで駅前に戻ってきた李汪がそこに合流した……というのが、現在の状況である。

 那月だって気の毒だ、と、李汪は半ば諦めた気持ちで考える。恋人が事故に遭ったと思ったら、実はマトモな人間ではありませんでした、などと聞かされれば、それは混乱するに決まっている。

「人間か人間じゃないかはまあ、個人の認識で異なる。俺は……これまで大きなケガなんかもしたことがないし、一応、ただの人間だと思って生きてきた」

 那月の視線が怖くて、李汪は下を向く。

「別に、秘密とかそういう……大袈裟なものじゃないんだ。ただ、言う機会もなくて」

 ウジウジしている。俺はいま、絶賛ウジウジしている。

 なんでこんなに湿った気分になっているのかといえば、せっかく那月と積み上げた所謂『普通の恋人同士』の関係性が、一瞬で崩壊してしまった気がしているからだ。

 那月は、まっすぐ李汪を見ていた。怒っているわけではなさそうだが、眉間に力が入っているのがわかった。

 まあ仕方がない。俺がどんなに普通だ、と訴えても、他人からどう見えるかまでは決められない。確定死刑囚の気分でベッドに座ったまま床を見つめる李汪の隣に、那月が座る。それから、左手で肩を抱き寄せられた。

「なあ、まず……まずお前が無事でよかった、って言わせてくれよ」

 その声がついぞ聞いたことのない潤み方をしていることに、李汪は驚きを隠せない。

「な、……、」

 那月が泣いてる。混乱する。だって、そんな。そんな風に涙声を出されたら。

「まるで那月が、俺のこと好きみたいじゃないか……」

 ボンヤリと夢うつつを彷徨いながら李汪がそう呟いた瞬間、今度こそ那月に怒鳴られた。

「お前バカか?! 好きに決まってんだろ! 今さらなに言ってんだよすげえ心配したんだぞ!」

 ズビッと子どもみたいに鼻をすすりながら、那月がそんなことを言う。いやでも、ずっとひとりでネガティブなことを考えていたせいで、認識が若干おかしくなっている。急にそんな、俺に都合のいいことを言われても……と、まだグニャグニャしている李汪の両肩を、那月がつかんで揺さぶった。

「なあちょっと待て、俺ら、つき合ってるってわかってるよな? やっぱ頭とか打ったか? 忘れちゃってないよな、俺のこと?」

 焦った様子で那月は李汪の両肩を捕まえたまま、視軸をあわせようとする。李汪は手こそ振り払わないものの、眼球のみを泳がせて逃げを打つ。

「無理だ……俺に都合がよすぎる。夢だこれは……」

「なんでだよ。お前、ずっとそういうとこあるぞ! なあおいりお、ちゃんとこっち見ろ」

「う……、ぇ……え」

「もっかい訊くぞ。俺らつき合ってるよな?」

 ついに両の頬を手のひらで挟まれて、真っ直ぐに見据えられて目があってしまった。好き過ぎる顔が目の前に、本当に目と鼻の先にある。

「つ、つ、つき合って……もらっ、てる……」

「ほらぁ、そゆとこだっつってんだよ! もう今日はこの際、お前の本音全部きくからな!」

「あ、あの、でも、もともと俺がいきなり……不意討ちで、言ったから……こ、断り、切れなかっただけなんじゃないか、って……ずっと、不安、で……知れば知るほど、那月は、いい奴で……俺なんかとは全然、釣り合ってなくて……」

 ああダメだ、今度はこっちが泣きそうだ。でも大丈夫だ、なにせ俺は鉄面皮LV100の男だ。泣いたりはしない。

「でも、毎日楽しくて……いままで、こんなに生きてるって感じたことなんか、なくて」

 情けない姿を見せるのは嫌だったが、一度堰を切った想いはぽろぽろと素直な言葉になってこぼれていく。

「ここまできて……得体のしれない奴だ、って思われて……嫌われるのが、怖かった」

 そう言った唇が、若干震えているのを自覚する。ああ、自分は本当に、本当に那月を失うことに怯えているのだ、と。

「李汪お前って……頭いいのにバカなんだなあ……」

「ば、バカは否定、しない……」

「俺だって嫌だったら嫌ってゆうし、つき合ってて楽しくなけりゃこっちから誘わねえよ」

「でも……それは、気を遣って……」

「俺って、そんな気遣いばっかしてる奴か?」

「……そこは、たしかに疑問が残るな? 優しくていい奴ではあるんだが、たまに無神経でもあるし。割と好き嫌いは明確だし」

 真顔で思ったままを口にする李汪に、那月が溜息まじりに言う。

「どっちだよ。褒めてんのか貶してんのか……」

「でも、でも俺は……アンシエントだぞ。なんだかよくわからない生き物だぞ、気持ち悪くないのか」

「ねえよ! おかげで生きてんだろ感謝しかねえよ!」

 一喝された瞬間、李汪のまわりにまとわりついていた靄が吹き飛んで、いまのこの状況が現実なのだとじわじわ李汪を包んでいく。那月は俺の恋人で、俺たちは相思相愛だ。それが現実だ。ウソみたいだけど、現実だ。

 那月はその李汪の変化を見届けて、口元に弧を描く。

「やっとちょっと目が優しくなったな。さっきまで、会った初日みてえだった」

「う……、」

「お前ってさ、無表情つくってるときってわかりやすいんだよ。普通にしてるときと全然ちげーから」

「え……っ」

 それは正直、初耳だ。だって俺はLV100なのに? 表情を消せば誰も近寄れないはずなのに。

「普通にしてっと穏やかでなんか……可愛いんだ」

「か……、」

 可愛いとは。突然なにを言い出すのかこの男は。子どもの頃こそそれは言われまくったし、そのせいで誘拐されかけたりもした。だが大人になってからはさすがにこの顔面を可愛いと言われた記憶はない。イケメン、彫刻、AI、そんなところだ。那月にしか見えていない俺がいるにも限度がある……と思うが、那月の表情はあくまで真剣そのものだ。

「……、俺、お前の顔も好きだからさ。褒めたりしてえんだけど、気分悪くさせたくもねえし」

「気分悪くなんか……顔だけ見られるのが、嫌なだけで……」

「俺は全部見てる、お前のこと」

 そう言って、那月は親指の腹で李汪の両頬を撫でながら首裏に手をまわし、ぎゅうっと強い力で抱きしめてくれた。背中に回った手は子どもをあやすように上下し、安心感に李汪は目を閉じる。しばらくそのまま、那月の体温に甘えていると。

「そういやお前って、俺のどこが好きなの?」

「顔……」

 半分まどろむような気分でいたせいで、うっかりそう即答してしまった。那月の手が再度李汪の両肩を掴み、怪訝そうな八の字眉が李汪を睨む。

「……顔だけ?」

「ち、ちが、最初は、そうだったってだけで……あとは」

 一目惚れとしか言いようがないが、那月の顔を見た瞬間、本当に李汪のなかのなにかが動いた。顔が好きで声が好きで笑い方と食べ方が好きで、一分一秒一緒にいるごとに好きなところは増えていった。でもそれをそのまま伝えるのはさすがに恥ずかしい。考えた末、李汪は小声で言葉を紡いだ。

「……ちゃんと俺のこと、見てくれる、とこ……」

 ダメだ本当にバカだ。顔が熱い。恋愛経験値が低すぎる。しかし。

「やべーなお前。超かわいい」

「……、……」

 こんな笑顔の男にそう言われても、ピンとこない。正直那月の笑顔のほうが五億倍は可愛い。

 その笑顔を崩さないまま、那月の唇が李汪のそれに重なった。二度目のキスの甘さとやわらかさをうっとりと受け入れる。そのうちに那月が、顔の角度を変えて、それから。




 満たされた。生きてきて、こんなに満たされた気持ちになったことはない。ただシーツにくるまって寄り添って、また昂揚したらお互いのものを擦り合った。挿入はせずに、お互いの溜めていたものをひたすら発散させた。朝から散々それをくりかえして、やっと落ち着いたころにはまさかの夕方になっていた。ふたりして調子に乗り過ぎたと反省し、那月のスマホには曖智からの悲痛なメッセージが溢れていたが、後悔はなかった。

 戻ったら曖智に謝った上で、色々説明しなくてはならない。一色のことも考えると、李汪がアンシエントであることを報告した上で、改めて上層部にかけあう必要もなりそうな気がしている。

 だがその前に、帰りの特急でいよいよ那月の『相談』の内容をきいた。それは李汪が想像もしていなかった、驚愕の内容だった。

「竜検とってからこっち、毎月竜のところに通ってたけど……だんだん俺が降りる度に、予算が削れてくのがなんとなくわかってさ」

「ああ、それは……」

 それに関しては、李汪もなんとなく察していた。

 あそこの竜炉の運営は、どう考えても無理がある。発傳量に加えて、立地の問題、予算の問題。今回ひとりで行って施設をなんとなく見回しただけでも、問題は山積みだった。ただそれでも、存続には大いなる意味がある、と李汪は結論づけた。

「だからな、俺……転職しようと思ってる」

「……、……えっ?」

「この会社を辞める、ってことだ」

 いままでで一番のパニックに陥り、李汪は全力で那月を説得し始めた。たしかに、現状では西国のような発傳は望めないこと、だが那月の竜に対する考え方は決して間違ってはいないこと、寧ろ世界は、時間をかけてでも西国の歪みを正さなくてはならない局面を迎えるだろうということ……そうしたことを李汪は滔滔と説いた。

「なにより……那月は竜が好きなんだろう? ジリ貧なのはたしかだが、金なんかどうとでもなる。俺は今回初めて竜の目を見て……お前の言ってた意味がちょっとだけ、わかったんだ」

 本当に一瞬だったし、おそらく火竜は李汪のことなんか見てはいなかったのだろう。ただ、その目がどうにも優しく見えて、李汪の目の裏に焼き付いた。

「お前のやってることは正しい。すぐに結果なんかでなくても、長い目で見れば絶対間違ってない。どうして那月が辞めるっていう結論になるのか、俺にはわからない」

 しばらく李汪が必死に話すのを、那月は最初こそすこしさみしげな笑顔を浮かべながら聞いていたが、だんだんと真剣な表情に変わっていった。

「ありがとうな。お前のその気持ち、すげえ嬉しい。……嬉しいから、俺はいまから、お前にすげえでかい頼み事をする。たぶんこれは、俺の一生の借りだ」

「俺に……頼み?」

「……竜検、取ってくんねえか」

「竜検?! 俺が?!」

「ナインスケイルスから竜検持ちがいなくなるってのは、正直対外的にけっこうまずいと思う。自分でいうのもなんだけど、会社そのものの象徴だからな」

「それは、そうだろうが……待ってくれ那月、本当に本気で辞める気か? その……俺を、置いて?」

 我ながら悲痛な声を出してしまった。でも李汪としては寝耳に水の話だし、那月とのいまの時間を手離さなくてはならないのかと思うと、あまりにも胸が重い。おなじ時間におなじ課に出勤して昼を一緒に食べ、月に一度はふたりで出張に行き週中にはフットサルかサッカー、週末は映画を観たり食事に行く生活がこれからも続くのだと、李汪はそう思っていた。

 ところが。

「……、……えーと、そのへんに関してな、こっからが具体的な相談に、なるんだけど」

 すこし照れくさいようなバツの悪いような顔をして、那月はしばらく口籠もってからぼそりと言った。

「……一緒に、住まねえ? 俺たち」

「ど、う……っ、?!」

 思わず妙な声をあげてしまった。同棲……これはつまり、那月との、同棲の申し込み……ということ、では?

「俺いま、社員寮とじいちゃんちの行ったり来たりなんだけどよ。まず辞めたら社員寮は出なきゃなんねえ。立場でいうなら実家に住むべきだろうけど、いちお貯金もあるし、資格取る勉強しながらバイトもするし……」

 俺が養うからなにも問題ない、と口にしそうになったが、かろうじて踏みとどまった。そうじゃない。別に那月はヒモになりたいと言っているわけではない。本気で自分の将来、未来の話を考えながら、そこに李汪を巻き込んでくれたのだ。

 かくして李汪は、那月の『頼み』を引き受ける。

 まずは上層部を説得して、李汪の分の竜検予算を引き出すことから始めなくてはならない。やってみてわかったが、李汪の場合はまず実技頼りでの合格は望めない。代わりに、タイラグ語の筆記試験で稼ぐ目があった。といっても那月よりはマシ、という程度に過ぎない。数か国語が話せる李汪だが、さすがに難解言語タイラグ語となると、ものすごく勉強しないかぎり絶対に受からない。時間はかかるし金もかかる。そもそもあれは貴族のヒマ人がファッションで持つ資格……という李汪の認識は、いまや塗り替えられている。那月が夢見るような、竜と人が共存していると思えるような、インフラストラクチャーをつくる。何十年もかかるだろう壮大なその計画の一端を担うには、必須の資格であると思われた。

 なによりの殺し文句は、これだった。

「あと……俺が辞めたら、社内恋愛じゃなくなるからよ。そしたら、色んな奴らに俺らつき合ってるって、はっきり言えるだろ」

 こんなことまで言われて、断れるわけがない、というか、断る気なんか毛頭ない。ミリもない。那月の未来に居座るためなら、世界最高峰難易度の資格くらい楽勝で取ってみせる。

「ちなみに那月は、なにに転職するつもりなんだ」

「教員になろうと思ってる」

「教員? 学校の先生ってことか?」

「そうだ。俺の代でできなくても、もっと先の未来、竜のこと真剣に考えて傳力の会社に行ってくれて……できたら、そのうえで竜のこと好きになってくれる奴を増やしたい。そういう授業できる先生になれたら、いいなって思ってよ」

 照れたようにそう言う那月に向かって、李汪は口元だけでニコォ、と笑ってみせた。その胡散臭さに、思わず那月が眉を寄せる。

「……まさかと思うけど……嫉妬してんのか?」

「してない」

「小学校の先生だぞ?」

「だから、してない」

 そう言って、李汪はもう一度口だけで笑った。鉄面皮の代わりの、作り笑顔LV50である。

 かくして夏は終わり、冬が過ぎて翌年の春に、那月は株式会社ナインスケイルスを退職し、同時に教育大学に入学した。そのタイミングではさすがに李汪はまだ竜検に受かっていなかったが、元いた西国の社のコネと全力のプレゼンをもって上を説得し、那月の退職を早めることに成功したのだ。

 李汪が朝の出勤をするタイミングで、那月は大学に行く。朝食だけはなるべく一緒に摂るようにしているが昼は別、夜は夜で那月は飲食系のバイトを入れ、李汪は竜検のためにスクールに通う。以前に比べれば生活は格段に忙しくなってしまったが、疲れて倒れ込んだベッドに、那月がいてくれる。あるいは李汪が先にベッドにいれば、那月は必ず両手を絡ませて、李汪を抱きしめて眠る。我慢できずにそのまま身体を繋げてしまう日もあれば、どちらも疲れ果てていてキスだけで眠ってしまう日もある。慌ただしい朝も煩雑な昼も刻々と変化する夜も、全部この場所に帰ってきさえすれば完結する。

 とある朝、パンとバナナで簡単な朝食を済ませ、バタバタと玄関に向かう那月に向かって李汪が声をかける。

「鍵は俺が」

「うん、悪いな。今日は先に行く」

「那月」

「……ん? どうした?」

「大学生の友達、できたのか」

 お父さんか、と、いつぞやぶりの自ツッコミをしつつ李汪が問いかける。

「ああまあ、チラホラくらいな……」

「ふうん?」

 李汪がジロリと視線を送ると、ベージュのスニーカーに足をつっこみながら那月が顔をあげて笑う。

「大学生からみたら、俺なんかもうオッサンだよ、心配要るかよ」

 だが、俺は知っている。

 絶対そんなことない。絶対大学でも男女問わず誑し込んでる……だって那月は世界で一番顔がよくて爽やかで感じのよさの権化だから。

 おとうさんからは程遠い嫉妬心を滾らせながら、ものすごく顔のいい男の朝が過ぎていった。


                            神聖不可侵インフラストラクチャー/終

お読みいただきありがとうございました。ご興味あれば本になったものをお手にとってやってください。

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