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凋落貧民街の鮮血花火  作者: 廿浦 黄泉
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Episode3.怪物

「…この貧民街の二つの伝説について、聞いたことはあるよな?」


 シアンは突然、マゼンタに訊ねた。


「【スカベンジャー】と【カラーレス】でしょ?散々聞いた事あるけど…」


 この貧民街にはとある伝説が二人存在する。


 【スカベンジャー】と【カラーレス】。どちらも生ける伝説であり、貧民街を牛耳っている二大巨頭。


 【スカベンジャー】は孤高の狼。貧民街全域で、軽く屠るかの如く盗みと殺しを働いている。【スカベンジャー】が通った道には屍すら残らないという噂まで立っている。


 だが最近になって目撃証言が逓減し、【スカベンジャー】の存在は少しずつ忘れ去られている。


 一方【カラーレス】。誰もその姿を知らない筈なのに、その名だけが貧民街に轟いている未知の怪物。


 目撃情報0という肩書が印象に残り過ぎているのか、人の頭から【カラーレス】の存在が消える事は無い。


 二人とも、この世界に生きて存在している、化物。もしも対峙してしまえば、99%の確率で死に至るだろう。


 …だが、生ける伝説と雖も、あくまで伝説的な存在。出会す可能性はほぼ0に等しい、と殆どの人間は思っている。マゼンタも、その一人である。


「そうだ。【スカベンジャー】は獰猛な野生の獣、【カラーレス】は正体不明の怪物…どちらも、お前では絶対に敵わない化物だ。だから、牙を向けられたら一目散に逃げろ」


 シアンの目は真っ直ぐに、マゼンタの目を見つめていた。


「う、うん…分かった」


 その目には、逆らえなかった。


 ──なんて目をしてるんだろう。


 マゼンタへの心配の様子を宿した瞳だった。〝死んで欲しくない〟という、武運を祈る視線。


 一体、何がシアンをここまで心配させるのか。どうしてシアンは斯様に、自身を気にかけてくれるのか。


 マゼンタはそれについてずっと熟考しながら、移動を続けていた。


◇◆◇◆◇◆


 日がかなり昇り、物の輪郭が誰にもはっきりと見えるようになった。


 この時間帯で動く者は少ない。余程の強者か、あるいは余裕の無い者。


 弱い者は狡猾に、奇襲が可能な夜の闇に紛れるのが常套的。


 そんな中で、シアンとマゼンタは歩いているのだ。


「…中々人と会わないね」

「当然だ。この時間帯に出歩く奴の大半は馬鹿と言って良い」

「じゃあシアンも馬鹿だ」

「〝大半は〟だ。私は例外だ」


 そう軽口を交わす。お互いの表情は僅かに綻んでいた。僻地に生えている儚い、徒花のように。その時だけの為に美しく咲いている。


 ──だが、その時間は非常に短い。


「──止まれ、マゼンタ」


 シアンがマゼンタの前に腕を出すと、マゼンタは直ぐに足を止めた。


「…どうしたの?」


 状況を把握出来ていないマゼンタが、訊ねる。


「…拠点だ。構えろ」


 その言葉で、マゼンタの全身が強張る。シアンの言葉を、かなり重く受け止めたのか。


「…そういえば、武器は持ってるか?」

「あ、えっと……ワイヤー、だけ…昨日までナイフもあったけど…」


 【オクタアース】との交戦中、ナイフを落としたところで拷問を受け、そのまま気絶したマゼンタが現在持っているのは、錆びている金属ワイヤーのみ。グリップはしっかりしているが、フックが酷く脆そうだった。


「…そうか。なら、コレを持っておけ」


 シアンはマゼンタに、つい昨日見せた新品のナイフを差し出す。


「…良いの?」

「貸すだけだ」


 そう言いながら、シアンはマゼンタに押し付けるようにナイフを渡す。受け取ったマゼンタは、軽く振る。


 それなりの重さで、空気を斬る音も悪くない。


「…ありがとう」

「礼は良い」


 シアンは気恥ずかしいのか、視線を逸らし、切り換える。


「──マゼンタ…これからお前は、此処の住民と闘う機会が増えるだろう。何度も死にかけるかもしれない」


 シアンは表情も声色も変えずに、思った事を口にしていく。


「だから、私は言っておく──無茶だけは、するなよ」

「………」


 マゼンタはこの貧民街で無茶をした事は一切無かった。その言葉の指す〝無茶〟がどの程度のものか、知る筈も無い。


 無茶とはどの程度の事なのか、無茶とはどの程度の範囲なのか。このマゼンタという少女は、知らない。


「分かった」


 その場の雰囲気でそう告げたが、全く以て理解していなかった。


◇◆◇◆◇◆


 拠点というのは、かなり分かり易かった。というのも、堂々と【ジボルタ】という組織名の書かれた看板が立て掛けられていた。


 余程警戒心が無いのだろう。自殺願望じみた行動をしている異常者か、斯様な行動を取っても問題無く生き延びられている大物か。二つに一つだ。


「……」

「……」


 拠点と思われる建物の扉を、ゆっくりと開ける。


 今回の組織は建物に拠点を構えているタイプだった。組織によっては【オクタアース】のように外に拠点を構えるのも珍しくはないが…【ジボルタ】という組織は、屋内だ。


 シアンとマゼンタは音を殺して歩く。呼吸も、靴も、衣擦れも。何一つ音を出さないよう、最大限注意して移動する。


(……二人、かな…)


 マゼンタが目で確認出来る人数は、たった二人。


 ボロボロのソファの上で、ナイフの手入れをして寛いでいる男と、何やら荷物の整理をしているらしい女だけだ。


 女が詰めているのは、シアンとマゼンタからは確認出来ない。しかし、硬質な音と若干の火薬の臭いから、恐らく火器だと考えた。


「……」


 マゼンタはシアンから受け取ったナイフを構える。


 ──殺すつもりは無い。これは、牽制のナイフ。自分自身にそう言い聞かせ、ゆっくりと機会を窺う。


 ふと、マゼンタは横目でシアンを一瞥した。


 ──何も構えていなかった。


(どういうつもり…?)


 シアンの心は凪いでいた。恐ろしい程静かで、冗談みたいに気配が無い。居ると分かっていなければ、絶対に気付けない。


 発汗も見られない。マゼンタは緊張から少し発汗しているが、シアンにはそれが無い。修羅場を潜り抜けてきた証拠である。


「……」


 ──どうした、行け。


 シアンが、目で訴えてきていた。


「……」


 マゼンタは、ナイフを握り直す。固く、絶対に離さないように。


 ──そして。


「ッ!!」


 刹那、二つの銀の条(すじ)が室内で暴れ回った。


「ッ!?」

「くっ!」


 流石の反応速度で敵意と攻撃を察知し回避する二人だったが、思いの外マゼンタのスピードが速かったのか。現在マゼンタは室内の壁や家具を蹴って跳び回っているが、二人は反応に一歩か二歩遅れている。


「ッ!」


 マゼンタの攻撃は、当たっている…だが、全てギリギリで外している。当たった攻撃が、ない。


 ──まだ本人の中で、迷いが生じているのだ。


「ッチ!カッパー!」

「ふっ!」


 男が女の名前を呼ぶと女は男の許へと寄り、荷物を詰め込んでいる袋の中から、大量の刃を室内に投げ撒いた。両刃でボロボロの刃物が、家具や壁に容赦なく突き刺さる。


「くっ…!?」


 マゼンタの動きが止まる。下手に跳び回れば、刃がマゼンタの肉を裂く、或いは抉る。そうなれば勝ち目が無くなる。


 それを恐れ、マゼンタは咄嗟の切り換えで、男へと斬り掛かる。


「はぁっ!!」


 裂帛の気合いが、室内に轟いた。


「ッ、ぶねぇ…!」


 だが…止められた。既(すんで)のところで、男はマゼンタの姿を捕らえ、手首を掴んだのだ。


(しまっ──!?)


 手首を掴まれれば、当然マゼンタの長所であるスピードが意味を成さない。


「ッ、放してッ…!」

「誰が放すかよ…!ッ!おらぁっ!」

「あ゛──っ!?」


 男の眼光がマゼンタを射貫いた直後。マゼンタは自身を男の許へと引き寄せられ、腹部に強烈なアッパーを入れられた。マゼンタの胃から吐き出す物体は何も無い。マゼンタは空気を勢い良く吐いた。


 ──更に、それだけでは止まらない。


「だらぁっ!」

「ゔっ…!?」


 二撃目、側頭部への蹴り。これは腕で防御する事が出来たが、自身よりも高い筋力により、マゼンタの腕に途轍も無い痛みが走った。


「ふっ!!」

「づぁ゛あ゛っ!?」


 三撃目、頭突き。マゼンタは二撃目の蹴りの防御で意識を逸らされていた。男の頭突きに気付く事が出来ず、マゼンタは諸に攻撃を受けてしまった。


「ぐっ…ぁ゛あ゛っ…!!」


 脳震盪、からの悶絶。上手く立てない。


「いっつつ…」


 だが、それは男も同じだった。脳震盪までは行っていないが、痛みで膝を突き、頭を押さえている。


「大丈夫ジンク!?」

「あ、ああ…大丈夫だ…」


 女が男を心配しながら、マゼンタを睨みつける。


 マゼンタはまだ悶えていた。余程先の頭突きが堪えたのだろう。


「このクソガキ…結構すばしっこかったな…」


 軽く息を吐く男。


「だが、他がお粗末で良かったな。お陰で楽に殺せる…死ねぇ!!」


 男は先程まで手入れしていたナイフを、マゼンタの脳天に向けて振り下ろす。


 マゼンタのピンチ──しかしシアンは全く動いていない。ただじっと、マゼンタを見ている。今にも死にそうになっているマゼンタを、ただ傍観している。


 マゼンタを見捨てた訳じゃ無い。マゼンタに愛想を尽かした訳でも無い。


 シアンはただ、信じているのだ。


 痛みに苦しみながら──それでも未だ、ナイフを手から放していないマゼンタを。


「ッ、ふっ!」

「なっ──!?」


 振り下ろされるナイフを、床を転げて回避する。そして、無防備になった男を。


「ッ…はぁっ!!」


 ──銀閃が走った。マゼンタが、ナイフを振るった。


「……………あ」


 それと同時に、不快な臭いと感触、そして味。


 マゼンタの薙いだナイフは、男の手首を斬り付けていた。


 決して斬ろうと意識したわけではない。ナイフを、弾こうとしただけ。しかし、本気でナイフを振るった事の無いマゼンタにとって、そのナイフは些か重すぎた。振るった瞬間にナイフを握る力が弱まり、肩が震え、手許が狂い…こうなった。


「ぁ…?ッ、ぐぁ゛あ゛あ゛ぁ゛──っ!?!?」

「ジンク!?!?」


 男は悲鳴を上げた。手首を斬られたショックと、手首に伝わる異常な熱に、精神が支配されそうだった。


「ッ!?はぁっ…はぁっ…」


 マゼンタは痛む頭を押さえながら、ゆっくりと立ち上がった。


 ──脚が震えている。人を斬ってしまった。


 この貧民街では、生き残る為に当然で、必要な事。この貧民街という世界は、殺すか殺されるか…そんな世界。それは、理解している。


 ──しかし、やはり納得は出来ない。


 今、自分は何をした?生き残る為、死なない為とはいえ、間違ったとはいえ、他人を傷付けた。それが、どれだけ酷い事なのか。


 貧民街の風潮に染まり切っていないマゼンタは、傍から見れば〝面倒臭い〟の一言で片付けられるような、そんな事を自問していた。


「ジンク!しっかりして!ジンク!」

「手がぁっ──俺の゛手があ゛ぁ゛あ──ッ!?」


 今、目の前の光景を、どう形容すれば良いのか。悲惨か、悲愴か、あるいは悲劇か。


 その答えを握っているのは──見物を決め込んでいる、シアンだ。


(──敵にダメージを与えた。私からすれば、ただそれだけ。この貧民街の住人なら、先ず喜ぶだろうな)


 人の心を捨て去っている此処の住人に、加害による後ろめたさなどありはしない──殆どのゲームと同じだ。考えず敵を倒して、物資を手に入れる。そこに敵のバックボーンなど考慮する筈も無い。殺す選択肢が一番楽だから、殺すのだ。そして、それがいつか快楽に変わっていく。


「ッ、この…!」


 女は激昂し、袋から拳銃を取り出し、マゼンタに銃口を向ける。黒く光る、ゴツゴツとした、重い金属の塊の威圧感が、マゼンタの注意を奪う。


「ッ!」


 咄嗟に、射線から逃れる為に身を屈めた。パンッ!と破裂音が鼓膜を強く刺激する。


 マゼンタは間一髪、その発射された弾頭を回避する事が出来ていた。迷っている暇は無いと悟ったのか、ナイフを再び固く握り締める。


(動きを止める──!)


 女の持っている拳銃を弾こうと、ナイフを振るう。


 先の過失致傷により、マゼンタの身体は震えていた。周りが酷く静かで、心臓が酷く五月蝿いような感覚。


 冷静さを失ったマゼンタのナイフは、先よりも遥かに単調だった。


「くっ…!」


 相手側もそれを読んでいる。怒りで冷静さを失う訳でも無く。勝つ為に、負けない為に丁寧に。


 両者のぶつかり合いは一見互角に見えた…だが。


「ッ、しま──!?」


 マゼンタが、体勢を崩す。慣れないパフォーマンスで脚が縺れた。


 ナイフと拳銃。近距離の間合いで優位なのは言うまでもないが、それを埋めるのは単純な実力と経験の差だ。


 スピードでは明らかにマゼンタが優っているが、それ以外は何もかも女の方が上。不利な盤上での勝利を経験してきた分、女の方が何倍も強かった。


 しかし、それだけではない。今のマゼンタの動きは、自分でも気付かないくらいに調子が悪かった。見えない鉛、あるいは呪いを、無意識の内に背負わされていたのだ。


 ──パンッ!と銃声が鳴り響くとほぼ同時。飛礫がマゼンタの大腿部を射抜く。


「…あ゛ぁ゛っ゛!?ぐ…っ…!?」


 鋭く迸る高温の痛み。四散する血の色は、昨日までとは少し違う。


「ッ…!」


 ──それでも、マゼンタは怯まなかった。


「な──ッ!?」


 脚を強引に動かし、女の手から拳銃を落とす。それはガコン、と重い音を立てて、床を転がっていった。


 女は直ぐに袋から別の武器を取り出そうとしたが──元より、マゼンタの行動がの方が迅速だ。


「う゛っ…!」


 女を押し倒し、首を絞める。頸動脈を遮断して、気絶に持っていく心算だ。


「が…ぁ──放、し…たすけ…」


 掠れる声で。


 懇願しているのか。生を乞う女の目には、涙が溢れていた。


 …殺すつもりはない。ただ、意識を奪おうとしただけ。


 だが、マゼンタは甘かった。


 首を絞めていた手の力が弱まる。あと数秒で、気絶させられていたというのに、甘さが出てしまった。


「らぁっ…!!」

「──がっ…!?」


 その瞬間、マゼンタの後頭部に衝撃が走った。


 先程手首を斬られた男が、マゼンタの後頭部に蹴りを放ったのだ。


 マゼンタは重力に従い、その場に伏せる。女は首から手が離れた瞬間、即座にその場から無理な体勢で飛び退いた。


 意識を手放しかける…だが、それは直ぐに止められた。


 男がマゼンタの髪を掴み上げ、壁に押し付ける。ゴンッ!と鈍い音が響く。


「はぁっ…はぁっ…よ゛くも、やってくれたな゛ぁ…!」


 先程までの男とは思えない程、今の男は異常だった。


 その目に宿るのは、底なしの殺意。自身を傷つけられた事によって芽生えた、自己中心的な黒い感情。


「…ぐ…ッ…!」


 マゼンタは痛みで動けない。


「ふざげや゛がっでぇ゛え゛え゛──っ!ころ゛してや゛る゛ぅ──!ぜったい゛に゛ころ゛してや゛る゛ぅゔ──!!」


 発汗、落涙、出血。目の充血、自傷行為になり得る程の歯軋り。男は、もう正気の沙汰ではない。


 男はナイフを構えた。片手が斬られているというのに、器用に。


「死ね゛ぇ゛ぇ゛え゛え゛────ッ!!」


 ナイフを振り被る。揺らめく銀の反射に、自分の酷い顔が映った。


 ──もう、駄目だ。


 そう思った瞬間。


「………………ぁ゛……?」


 乾いた音と共に──男の顳顬に、穴が空いた。


 男が力を失い、倒れる。見るまでも無い…即死だった。


「ぇ……」

「う、そ…」


 最初にマゼンタ、次に女が声を発する。どちらも、〝何が起きた?〟という表情だった。


 しかし、直ぐにその疑問は解決する。


「──全く…甘さを捨てれば、私もお前も、ソイツを殺さず済んだというのに」


 シアンが物陰から、姿を現した。重々しい口調とは裏腹に、足取りはやけに軽快だ。


 手には…拳銃。どうやら、シアンも所持しているらしい。


「大丈夫か、マゼンタ」


 シアンは恐ろしい程落ち着いた声だった。


 ──人を、殺したのに?


「ジ…ジンク…?」


 女が、呆然としている。男が銃撃された事を、まだ完全に理解していないのか。あるいは、理解を拒んでいるのか。


 …だが、直ぐに現実として受け止める事になるのが必定だった。


「ッ!ジンクっ!!」


 男の元へと駆け寄る女。自身が先程まで首を絞められていたのにも拘らず、重い身体を引きずり、潰れかけた喉も動かす。


「ジンク!しっかりして!ジン──」


 …刹那、女の声がプツリと途切れた。


 マゼンタが瞬きした頃には──女の首が、刎ねられていた。


「──五月蝿い。会話の邪魔をするな」


 マゼンタから見て、首を刎ねられた女の向こう側。


 ──シアンが、立っていた…さっきまでマゼンタが持っていたナイフを片手に。


 視えなかった。残像を捕らえる事すら、出来なかった。


 いつナイフを盗った?盗られた感覚は一切しなかった…これじゃあまるで、幻じゃないか。


 マゼンタはそう思ったが…数秒後。今になって突風が巻き起こり、仄かに煤の臭いがした。その事実が、そうでない事を示唆する事となった。


「……………」


 マゼンタは、何も言う事が出来なかった。


 それはシアンの動きが速過ぎた事についてでも、ムカついたから殺したという理由についてでも無い。


 ──あまりにも、殺しに躊躇が無かった。


 殺すと決めたら、一瞬で殺す。そう決めた瞬間、遊びの入る余地が全くと言って良い程存在しない。


 ──野蛮で、凶暴で、まるで猛獣。


 そう、シアンは獣だった。本能のままに動き、敵を屠り、喰らい、力をつける。宛ら、獣。


「…どうした、マゼンタ」


 シアンがマゼンタの方へと振り返る。


 …シアンの身体には、返り血がべっとりと付着していた。


「おい、マゼンタ──」


 シアンがマゼンタに近付く。本人に悪気は無い…しかし。


「近付かないでっ!!」


 ──怖いものは、怖い。


 シアンが…人が、人を殺す瞬間を、初めて見た。しかも、凄くあっさりと。


 マゼンタは自分の身を守るよう、両腕でしっかりと自分の身体を抱いている。目に、忌避を宿して。


 武器は腰の許にあるワイヤーのみ。戦って勝てる道理はまるで無いが、生存本能が告げている。〝生きろ〟ただその三文字を。


「……」


 シアンは呆気に取られた後、哀しそうな表情をした。


「な、何…」


 シアンはその質問に何か答えるでもなく、ただマゼンタの隣に腰を下ろした。マゼンタの忌避は、関係無い。


「別に、私を怖がるのは良い。その反応は常人ならば至極当然な事だ──怖がるなら、とことん怖がれ」


 シアンの口を衝いて出たのは、弁明の言葉では無かった。拒絶を受け入れるという、一見矛盾じみた反応だったのだ。


 その反応が、逆にマゼンタを狂わせる。


「なんでそんな…私にだけ…」


 マゼンタの目頭が熱くなる。


 何故そんなに、自分に優しくするのか。何故そんなに、自分以外に冷徹であるのか。


 その人殺しに特化した技術を、何故自分に向けないのか。


「…なんでなの」


 マゼンタはシアンを責める事が、出来ない。どれだけ他人を傷付けようと、自分を大事にしてくれた者に恩を仇で返すのは、マゼンタにとって正しくない行為なのだから。


 知ってか知らずか、シアンはマゼンタの弱みに付け込んでいる。前者でも後者でも、質が悪い。


「さあな。ただの気紛れ、としか言いようが無い…私は気分屋だからな」


 その言葉には確かな真実味が含まれている。重く、深く。


 マゼンタは顔を伏せて。


「…意地悪」


 そんなマゼンタの呟きがシアンに届いて。シアンは二度瞬きをした後、口角を僅かに上げた。


「安心しろ。お前が悩む必要なんて無い…責任は全て、私が負う」


 そんな思い切った事を、完璧に言い切ってみせた。


 …マゼンタはその言葉に、何も返さなかった。


◇◆◇◆◇◆


 どれだけ、何もせずに居ただろうか。外は暗くなり始めている。


 マゼンタは完全に落ち着いた。隣に屍体はあるが、動悸は収まっている。


「そろそろ行くか」


 シアンが立ち上がる。辺りを見回すと少しだけ顔を顰め、それを取り繕うように気丈に振る舞う。


「マゼンタ、立て。そろそろ移動しないと、こんな目立つ場所だと逃げ場が無くなる」

「…分かった」


 マゼンタも立ち上がった。周囲には目も呉れず、足早に出入口へと向かう。


「…そうだ、マゼンタ」


 シアンがマゼンタを呼び止める。マゼンタが振り返ると、シアンはマゼンタの手に何かを置いた。


 その何か、とは。


「…あれ、ナイフ?」


 先程のナイフだった。気付かぬ内にシアンに取られ、男の首を斬った、あの新品のナイフ…否、恐らく〝新品だった〟が正しい。


 戦闘の前までは「貸すだけだ」と言っていた筈だった。しかし、今こうしてナイフを差し出している。


「まあ、なんだ…それなりに頑張った褒美だ」


 外方を向いて、シアンは言った。


「…何それ、変なの」


 マゼンタは微かに笑みを浮かべながら、優しくソレを受け取った。先程受け取った時よりも、僅かに軽い気がした。


「それじゃあ、行こっか」

「…ああ、そうだな」


 そうして、二人は【ジボルタ】の拠点を後にした。


 扉を閉め切った後。二つの屍体の、死臭が立ち篭めた。


◇◆◇◆◇◆


「ほら、食え」


 建物の陰にて。


 シアンは干し肉をマゼンタに投げ渡す。マゼンタは落としそうになったが、ギリギリで掴む。


「…凄く久し振りに真面な食事かも」

「コレが真面な食事って相当だな…」


 干し肉は貧民街ではそれなりに希少だ。外の残飯から入って来るが、保存が利くので数はかなり少ない。外の人間が、態々残して捨てるメリットが無いからだ。


 だから、この廃れた街において、干し肉の需要は高い。身体に害が少ない、味も悪くない、劣悪な環境でもそれなりに保存が利く。


「…美味しい」


 最悪な食物を貪り続けていたマゼンタには、それが酷く美味しく感じたのだろう。目を大きく開けている。


「そうか、良かったな」


 シアンは横目でマゼンタを一瞥し、直ぐに視線を元に戻した。


 暫くはマゼンタの咀嚼音のみが響いていた。いつもの事ではあるが、シアンとマゼンタにとっては、今まで以上に静かに感じた。


「…ご馳走様」


 マゼンタは満足そうな顔をしていた。恐らく貧民街に入ってから、一番の。


「食べ終わったか。体力は大丈夫か?」

「うん、大丈夫」

「そうか。なら、もう少し歩く事にしよう。安全な場所に、移動する」


 マゼンタは〝安全な場所〟という言葉に疑問を抱いたが、直ぐに「うん」と頷き、シアンに付いて行く。


 シアンの目指す所を、信じて。


◇◆◇◆◇◆


 歩き続ける事、数十分。日は落ち、視界はほぼ完全な闇に閉ざされる程に、暗くなっていた。今日の空は曇っている為、月明かりも無い。


 そんな中、シアンとマゼンタが辿り着いたのは。


「…此処は…?」


 この隔離されている貧民街の、更に外れ。見るからに異質な雰囲気を醸し出している建物が、マゼンタの目に飛び込んできた。


 積まれたコンテナ、並ぶ陶器。建物には庇が付いていて、そこから雨水らしきものが滴り落ちている。


 此処だけ、貧民街とは程遠い。そういった印象が、植え付けられた。


「相変わらず、嫌な空気だな…」


 シアンはその空気を悪いと言った。姿勢を少しだけ低くし、眉間に皺を寄せ、口鼻を腕で覆い、嫌悪感を全面的に表している。


「…なんで此処来たの?」


 〝嫌ならば来なければ良いのでは?〟という意で、マゼンタは訊ねた。


 シアンは目頭を押さえながら、呆れたように。


「言わなかったか?安全だからだ。安全でなければ、こんな所来たくもない」


 シアンの返答は、マゼンタの脳内に疑問符を増やすだけだった。これ以上訊ねても理解出来ないと悟り、マゼンタは質問を止めた。


「とにかく、さっさと入るぞ」

「うん」


 そして、扉を開けた。


「──え」


 マゼンタはただ純粋に、声が出た。


 室内は、驚く程に──豪華絢爛だった。


 先ず、どこから流れてきているかも分からない電気。照明が、眩しい程に視界を埋め尽くし、瞳孔が収縮する。


 次に、皮革製のソファが目に入ってきた。この貧民街に似つかわしくない、綺麗なソファ。ただ、座りたいとは思わなかった。


 最後に、奥の方に綺麗に並べられてある、本棚と大量の本。こちらは古ぼけているものばかりだったが、その多さが目に留まった。


「…五月蝿い部屋だ」


 シアンが悪態を吐く。見るからに不機嫌そうだった。


 ──と、その時。


「酷いな〜。豪華で神聖さある部屋でしょ?」

「ッ、誰!?」


 頭上から、男か女か判別しづらい、中性的な声がした。マゼンタは咄嗟に上を向き、姿を確認しようとした。


 …しかし、頭上には誰も居ない。雲散霧消の如く、気配すら消えていた。


「まあまあ、そんなに騒がなくっても」

「──」


 今度はマゼンタの前方から声がした。気配も前方だ。


 恐る恐る、見てみると…。


「驚かせちゃってごめんね〜。でも僕、驚かせるの好きだから」


 中性的な容姿をした人間が、立っていた。


 混じり気の無い、純粋な黒い髪と瞳孔。背丈はシアンより少し大きい。服装はかなりラフで、良い生地だろう。手首には幾つもミサンガを着けている。


 それに対し、雰囲気は闇。気付けない程に静かで、それでも認識すると存在感が浮き彫りになってくる、そんな闇。


 だからこそ、強い気配なのに警戒出来ない。マゼンタにとってはまるで、シアンが二人居るようなものだ。


「初めましてマゼンタちゃん。僕はキー、宜しく」

「…え、なんで名前…」


 〝キーが自分の名前を知っている〟。その事に対し、マゼンタは驚愕を面に出した。


「そこはほら、僕情報屋だし。この貧民街に居る人は全員把握しているからね」


 キーはケラケラと笑いながら、手許のミサンガを弄っている。


「キー、御託は良い。今日は此処で休ませろ」

「ありゃ…そっか。まあ良いけど、値段の方は忠実にやらせて貰ってるよ?」

「分かっている…ほら」


 シアンは態とか。腕に力を込めてあるものを投げた。マゼンタには何を投げたか、少しの視認も出来なかった。


 だがキーはそれを顔色一つ変えず、空気を掴むように軽く手で受け止めた。


 キーは手を開き、ソレを見た。そして既に上がっている口角を、更に少しだけ吊り上げる。


「ふむ、これまた珍しいものを…」

「馬鹿を言え。ただの鉄の塊だろう」

「それが珍しいんじゃないか。こんな場所に、鉄の塊が単体で落ちている事自体が。普通は落ちてないし、落ちていたとしても直ぐに盗られているよ」


 キーは笑みを絶やさず鉄の塊を懐に仕舞い、パン、と手を叩く。


「良いよ、泊めてあげよう。隣の建物を使ってくれ」


 快諾の声が、辺りに響いた。


「マゼンタ、行くぞ」

「え?ぁ、うん…!」


 この空間に一秒でも長く居たくないのか。シアンはマゼンタの腕を掴んで、この空間を去っていく。


「……また来る」

「うん、待ってるよ」


 その言葉だけ交わし、ガタンと扉の閉まる音が響いた。


 それを見送った後、キーはソファに腰を下ろす。身体がゆっくりと沈み込む中で足を組み、肘置きに容赦無く肘を乗せ、頬杖を突く。


 大きな溜息を吐いた、その後に。


「──次があるかは君達次第、なんだけどね」


 そんな不吉な予兆が、シアンとマゼンタに聞こえたかどうかは、定かではなかった。


◇◆◇◆◇◆


「やっぱりこっちの方が落ち着くな」


 隣の建物は、ボロボロとはいかずとも簡素な作りだった。


 冷たい床、毛布は二枚。置かれているのは普通より濁っていない水と趣味の悪い絵画、それと古びたナイフ。外の世界の、少し貧民層に居る人間が使うような内装。


 だが常にそれ以下の環境に身を置いている二人にとっては、これくらいの贅沢が丁度良い。キーはそれが分かっていたのか。


「…なんで昨日此処に来なかったの?」


 此処はそれなりに良い場所だ。最低限の環境が整っている。しかし、昨日は物置で一緒に寝た。狭い物置に拘らなくとも、此処ならばもっと良いだろうに、と。


「対価が必要になるんだ。そう不用意に泊まるものじゃない」

「でも今日は泊まるんだ」

「…まあ、単なる気分だ」


 単なる気分では無い事は、マゼンタにも分かっていた。


「…良いの?あの鉄の塊、結構大きかったけど…」


 手に収まる大きさとは言え、希少な物だった。簡単に手放してしまったシアンに、マゼンタは疑問を抱いていた。


「?ああ、良いんだ。私が扱えるような物じゃないからな」

「そっか…」


 詮索は止めておく事にした。意味も無さそうだったからだ。


 シアンはマゼンタに向けて毛布を一枚、優しく放り投げた。


「わっ、とと…ありがとう」


 マゼンタは直ぐに毛布に包まった。自身の体温は決して高くなかったが、篭もった熱が身体を温めてくれた。


「あったかい…」


 その温もりに満たされている中、マゼンタの瞼がだんだんと重くなっていき…そのまま、意識を手放した。


「全く…よく寝る奴だ」


 シアンはマゼンタのその様子を見て言ったものの、自身にも眠気が襲ってきていた。


 シアンも布団を被り、横になった。数秒後、シアンの寝息が音を立てた。

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