Episode2.善悪と強弱
前回の一話で誤字報告を頂きました。ありがとうございます。
「…シアン?」
マゼンタはその名前を、なんとなく口にする。
「…どうした、私の名前がそんなに気になるか?」
不審に思ったシアンが訝しげに、マゼンタに訊ねる。
「…いや、なんでもない…かも」
「なんだその曖昧な返事は…まあ良い」
シアンは徐に立ち上がる。端正な顔立ちとは裏腹に所作はやや粗暴で、マゼンタはそれについて少し気になったが、詰るのは止めておいた。
「──移動するぞ」
「え…一緒に行動するの?」
「嫌なら着いてこなくて良い…だが、この貧民街がどういう場所かは、知っておいた方が良いぞ」
そう語るシアンの顔には、ほんの少し焦燥の色が見えた。
マゼンタは、シアンの事を良く知らない。だが、先にマゼンタが一瞬で背後を取られたのを見ると…理解の範疇の外に居るという事は、感覚で察した。
そんなシアンが、現状に焦っている。それが一体どういう意味を指すのか。
「…分かった」
マゼンタがそれだけ口にすると、シアンは無言でマゼンタを誘導させるように歩いていった。マゼンタはシアンの後を追う。
「さっさとしろ。死ぬぞ」
シアンが軽く警告すると、マゼンタの気が引き締まった。速歩きとなって、足音は静かになる。
…そして、数十秒歩いて。
「──え…何、これ…」
マゼンタは驚愕の光景を目の当たりにした。
それはマゼンタが日常的に見ない光景。シアンにとっては日常だが、マゼンタにとっては非日常な光景。
──辺りに、大量の屍が転がっている。
悲痛な顔をして、動かなくなっていた。マゼンタの五感全てが悲鳴を上げている。
「……お前に拷問をしていた奴等だ。【オクタアース】という小規模組織…手頃だったから、私が殺った」
淡々と、さも当たり前であるかのように、シアンは言った。
別にこの行動は間違いでもなんでもない。殺すか、殺されるか。それがこの貧民街のコンセプト。
…しかし。
「ッ、何も、殺す必要はっ…!」
マゼンタには、それが分からない。
夙くから思慮分別のあったマゼンタには、人殺しが〝正しい〟とも〝間違っていない〟とも思えなかった。
マゼンタにとっては、ただただ〝間違い〟である、と。それ以外も、それ以上も。正しい答えが見つからない。
「……マゼンタ、お前それ本気で言ってるのか」
シアンの声が低くなり、マゼンタに怖気が襲う。
「この貧民街において、その考えは自滅を招く。殺さなければ殺される…此処は、そういう街なんだ」
シアン本人はただ、優しく諭しているつもりだった。しかし、マゼンタの視界に映るシアンは、野蛮に支配された狼そのものだった。野蛮という呪いに罹った、捕食者。
「私がアイツ等を殺していなければ、死んでいたのはお前だ…それとも、自己犠牲をお望みだったのか?」
「………」
その言葉に、マゼンタは何も返せなかった。
正論だった。此処は、善悪の分別でどうこうなる次元を超えている。
マゼンタ自身の都合を、相手が遵守する筈も無い。自身が殺さないからといって、相手が殺しにこないとは限らない。寧ろ、確実に殺しにくる。
この貧民街にルールは無い。権力者も居ない。権力者の敷く、主観的な正義の思想が反映されたレールは存在しない。
無法地帯。何をしても法で裁かれず、それを良い事に、狂気を秘めた殺人鬼が逓増し、跋扈している。
故に、マゼンタの浅慮で浅薄な思想を、シアンには理解出来るが、容認するのは難しい。
既に、そんな甘い考えは夙昔に棄てているから。
「この貧民街では、誰もが自身を殺そうとしてくる。例外は少ない…私がお前を殺さないのもただの気分だ」
シアンはマゼンタに対してナイフの刃先を向ける。マゼンタは一瞬だけたじろぐ。
「理解したか?生き延びるには殺すしかない。死にたくないなら、死ぬ前に相手を殺す。殺せないなら、殺せる程に強くなる。それが道理で、最も効率的なやり方だ」
有無を言わせぬ物言い。矢継ぎ早に放たれるシアンの〝教訓〟に、マゼンタが反駁する余地は無かった。
目の前に突きつけられていたのはナイフの刃先ではない。ただただ、絶望的で非人道的な現実だった。
「……でも──」
マゼンタが何かを言いかけた刹那。
「──それ以上何かほざくなら…本気で殺す」
ただの言葉、ただの威圧。しかしそれには、殺意が乗っていた。
強者はいつでも好きなように弱者を屠る事が出来る、弱者は強者の気分によって生かされている。
シアンの言った言葉が、マゼンタにとって現実味を帯びてくる。
「………」
──自身は喰われる側だ。そう認識するのに、殆ど時間は掛からなかった。
目の前に居る存在は、自分を捕食の対象としか認識していない…それは、自身の存在を一切脅威の対象として見ていないという事だ。
取るに足らない存在…だから、殺す意味が無い?
マゼンタの中で…地底の奥底で煮え滾り、やがてとあるものに昇華した。
「私が……あなたを殺せないとでも?」
自分で言って、驚いた。まさかそんな言葉が、自分の口から衝いて出るなんて思わなかった。
言った後に、全身が冷えた──私は何を口走ってしまった?何をしようとしている?
そんな言葉で、マゼンタの頭は埋め尽くされていた。
…だが、シアンは特に何も感じていなかった。さっきまで放っていた殺意も、嘘みたいに消えている。
そのシアンの態度が、マゼンタの悩んでいる事を、嘲笑われているように感じた。
「…なんで」
シアンのその様子が、マゼンタの感情の昇華を止めた。
決して睨まれた訳でも、恐れをなした訳でも無い。嗤われたのだ。普通なら、マゼンタは憤っても良い。
…その筈なのに。心の靄は、もう荒れてはいなかった。
「お前に私は殺せないだろう。その理由も、その度胸も無い」
「何、知ったような事──!」
「分かるさ…何故ならば」
シアンはマゼンタを優しく見据え、言った。
「──お前は、私に少なからず恩義を感じているから」
「──」
何か言い返したかったが、言葉に詰まった。自身も、気が付いている。
マゼンタは中途半端な善人だった。殺しはしないが、窃盗はする。中途半端に、曖昧に…偽善。
自身の正義の在り方がどっちつかずで、酷くいい加減。根っからの善行も、振り切れた悪行もした事が無い。
その経歴が、自身の首を絞めていた。
「本当に甘いな、お前は」
シアンは少し深めに溜息を吐く。
「今飛び掛かれば武器の一つや二つくらい、簡単に盗めたというのに」
「…どうせ盗んだら直ぐに取り返されるし」
「分かってるじゃないか」
シアンは大人びた微笑を浮かべ、長い髪を意味も無く払う。
「さっきのはちょっとした冗談だ、安心しろマゼンタ。殺しを強要はしない」
マゼンタの目を見て、少し表情が和らいだシアンは、〝冗談だ〟と。確かにそう言った。マゼンタには、とても先までのシアンではないように感じた。
「…良いの?」
「言っているだろう。ただの冗談だ、と」
「執拗いな」と、歳が近いのにも拘らずマゼンタを子供のように扱うシアン。
「…本当に?」
「諄いぞ。次同じ内容を口にすれば…」
「…口にすれば?」
「………」
「………」
互いに、沈黙。啻に時間が流れていく。
シアンは、その後に続く言葉を考えていなかった。
「…………ま、まあ、とにかく。此処がまだ危険地帯だという事を忘れるな。さっさと移動するぞ」
(……もしかして、シアンって意外と優しい?)
そんな一抹の疑問を抱きながらも、マゼンタは大人しく指示に従って移動していく。
◇◆◇◆◇◆
「そういえば、傷がそんなに痛まない…なんで?」
移動中、マゼンタはそう口にした。
死を感じる程の痛みに苛まれ、動けない程であったのに、マゼンタは普通に動けている。
「ただの鎮痛薬だ。一時的なものだから、暫くしたらまたぶり返すだろう」
「嘘だ」と、マゼンタは言いかけたが、口を噤む。
ただの鎮痛薬で、こんなに動ける筈が無い。鎮痛薬や医療用麻薬はあくまで痛みを和らげるもので、腱を斬られても動かせるようにするものでは無い。
しかし新品のナイフといい、何かと言えない事情があるのではないかと思ったマゼンタは、不用意に口を突っ込んで良いものかと悩んだ末、やはり訊かない方が良いという結論に至った。そもそも訊いたら後悔しそうだった。
しかし、シアンはマゼンタの言いたい事を見透かしたのか、視線で〝賢明な判断だ〟と言っているのが伝わった。マゼンタは今一度シアンに畏怖を抱いた。
「お前が一命を取り留めたのは【オクタアース】が情報を欲しがる奴だったからだ。お前を殺さず、暫くの間拷問を続けていたからだ。運が良かったな、私が強くて、そんな私に助けて貰えて」
シアンは立ち止まって、マゼンタの方を振り返った。
「うわ、恩着せがましい…別に、感謝してるけど」
ぷいっ、と顔を背けるマゼンタは年相応の表情を浮かばせていた。もっと清潔な場所で、裕福な暮らしをしていれば、その魅力が引き立っただろうに、この場所では汚らしい雰囲気とミスマッチで不気味に見える。
「──ふっ」
それでもシアンは優しい笑みを浮かべた。
「…何」
不機嫌そうに訊ねるマゼンタ。シアンは慈しみ、安堵…そして懐旧の色を順番に浮かべていた。
「いや…ちょっとな」
「?」
「安心したんだ……この崩壊した貧民街に腰を据えるのは、どいつもこいつも〝宿痾〟そのものだったんだ。欺瞞、間諜、謀反…救いようの無い、厄災だった」
シアンは拳を強く握る。
爪を立てているのか、一筋の血が地面に滴り落ち、ポツ、という小さな音がやけに大きく聞こえた。
怒っているのだろうか、と訊く事すら出来ない。
「だけど、まだ錆び切っていない奴が居るようで良かった」
「何その独特な言い回し…」
「伝われば良いんだよ、伝われば」
シアンは数回首を横に振った。何本か髪の毛が抜け落ち、一瞬月光を反射して、やがて風に流される。
三秒後、顔を上げたシアンは──
「…移動しているのに、こうやって話してたら時間が足りないな。さっさと仮拠点で──」
「後ろッ!!!!!!」
背後から、暗闇に紛れた何かに襲われた。
◇◆◇◆◇◆
…………。
「は…?」
マゼンタの目の前に、にわかには信じ難い光景が現れた。
鮮血が飛び散り、マゼンタの頬に付着する。生温かく、粘つく不快な感触。付いているだけで不快で、喉元が酸い。
──シアンが刺された。
………の、ではなく。
「が………ぁ………?」
不意討ちで飛び込んで来た男の腕が、断たれていた。深い闇の中で衣服を纏った細長い肉が宙に舞い、ゴトッと地面に落ちる。その腕が血の池を作り、蹈鞴を踏む男がぴちゃりと音を鳴らし、瞬間的に血の冠を作った。
「あ゛ぁあ゛あ゛あ゛ぁ゛あ゛──!?!?ぐ、あ゛ぁ゛ぁ゛あ゛あ゛ッ!?!?」
男は悲鳴を上げ、驚愕と堪えきれない苦痛に精神を狂わされ始める。
惨めに血を吐き、のたうち回る。激痛を紛らわせようと地面に頭を打ち付け、その衝撃で頭からも血が垂れる。残った片腕の伸び切った爪で皮膚を掻きむしる。皮を剥き、肉を削ぐ程の力は、その箇所にも出血を促す。
「ォ゛マ゛エ゛ェ゛エ゛ッ──!!よ゛く゛も゛ぉ゛お゛ッ──!!」
荒れに荒れ、ありとあらゆる所から血液と体液を噴き出した男が、醜悪に満ちた顔で、いつの間にかナイフを握っていたシアンを見つめる。
それは怨嗟。自身の腕を断ったシアンへの怨恨の感情。泥濘のように黒く、重く、不快。男が既に正気でないのも相俟って、その怨みは加速している。
「…う゛、っ……!」
マゼンタはその様子を見ていられなかった。既に昇っていた胃酸を堰き止めていたダムの決壊。ただでさえ軽い身体が、更に軽くなった。だが、体感は先よりもずっと重い。
…しかし、そんな中、シアンは平常だった。
「──被害者面か?」
そんな、冷たい一言。
「は…?」
アドレナリンの分泌により少し落ち着いたように見える男が、呆けた声を出した。純粋に、理解出来ないという声だった。
「私はただ、私を殺そうとしてきた奴を迎撃しただけだ。本来ならば殺した方が良いんだろうが──」
シアンは青褪めて嘔吐しているマゼンタを横目で一瞥し、直ぐに視線を戻す。
「生憎と、今の私は気分が良いからな。腕を断つだけにしておいた。寛大だろう?」
「ふ…ふざげ──ぐぁ゛あっ!?」
口答えをしようとした男の頭を、シアンは踏み付ける。男の口内に残っていた血が絞り出すように吐かれる。
「──話を聴いていなかったのか?私は今気分が良いんだ…だが、騒がれると耳が痛い。不機嫌になれば──」
酷く低く、冷たく、硬質な声音で。
「──お前、死ぬぞ?」
そう言い、男にナイフを向ける。シアンの目に宿っているのは…〝無〟だった。
塵を見る目や、怨みをぶつける目では無い…ただ、存在そのものを否定されるような、無機質で何も感じない視線。
「ひ、っ……!?」
男は地に伏せながら、シアンの目を見てしまった。
──駄目だ、勝てっこない。
自身のような下卑を、理不尽な実力で叩き潰す。圧倒的強者のみが許される、最大の享受。そんなのに、自分が敵う訳が無い。
研ぎ澄まされた本能により、それが犇々と男に伝わっていた。
「──理解したな?したなら、とっとと失せてくれ。それとも、自殺をお望みか?」
シアンは男を踏む足を退け、男に逃亡を促す。
「ぅ…ゔぁ゛ああ゛あ────ッ!!!!」
男はみっともない叫び声を上げながら、先の無い腕を押さえて去っていった。
あれだけ叫べば、他の貧民街の人間に標的にされ、死ぬ。シアンも、それは分かっていたが、敢えて言わなかった。
「──ふぅ…」
軽く一息を吐き、ナイフを懐に納めた後、シアンはマゼンタの様子を確認する。
マゼンタは目に涙が浮き出て、胃酸をほぼ全て吐いていた。酸素も欠乏し、顔が段々と褪めている。
それが、シアンにとって。先の男の光景より痛ましかった。
「…立て、マゼンタ。いつまでもそこで蹲っていると簡単に殺されるぞ」
「ううっ…おぇっ…」
「ったく…吐くんじゃない」
「え、うわっ…!?」
シアンはマゼンタを抱き抱える。シアンの細い腕に、マゼンタの小さい身体がすっぽりと嵌まった。
「汚いから口に残っている胃酸は飲み込め。吐き散らされたら困る。何より私が死にたくなる」
(言い方悪過ぎでしょ…!)
マゼンタは口内の胃酸を戻す。吐くよりも何倍も酸く、更なる吐き気を催すが、マゼンタは歯を食いしばって押し留める。
「悪いな…だが、時間は金と同義だ。この貧民街においては、特にな」
シアンはゆっくりと歩き出して。
「──さっさと仮拠点で、英気を養うぞ」
先程言いそびれた言葉を、言った。
「シアン…」
マゼンタは少し歪んだ視界の中、自身を抱えているシアンの顔を見て。
「………だったら走った方が良いんじゃ?」
「…私の負担を強いておいて言う台詞か?それ」
「あと、煤臭い」
「ぶん殴るぞ?」
◇◆◇◆◇◆
シアンがマゼンタを抱き抱えて歩く事、約十分。
殆ど同じ景色を歩んでいた。まるで夜間の森のように、方向感覚もままならなかった。
唯一の標は月。方角だけは、月が示してくれる。
シアンはそれを見て、迷う事無く路を突き進んでいた。
「…これ、何処に向かってるの?」
シアンの腕の中に居るマゼンタが少々不安に思い、シアンに訊ねる。シアンはマゼンタに視線を呉れずに答える。
「知らん」
「えぇ…」
「そういうものだ。大体、計画は他者にバレて破綻しやすい…思考を読む事が大切なこの貧民街では尚更だ」
〝思考を読む〟という言葉。先程から見せているシアンの読心の能力が高いのは、それが必要な事だからだと、マゼンタは自然に結び付けた。
「マゼンタ、お前は相当分かり易い。真面に特訓してこなかっただろ」
「五月蝿いなぁ…!」
「言われたくないならせめて少しは強くなる努力をしろ。思考が読み易い奴に、世辞でも強いとは言えん」
「ぐぬぬ…」
正論を言われ歯噛みするマゼンタ。
確かに、マゼンタは御世辞にも強いとは言えなかった…寧ろ、信じられない程に、弱い。下手をすれば、平和ボケをした外の人間よりも弱いかもしれない。
自分は弱い…それも最弱だ。マゼンタも、それは分かっている。だから、何を言われようが甘受するしかやる事が無い。
言い返す強さも勇気も、対抗心も一切無い。肉体面でも精神面でも、甚く怠惰だった。
黒く濁った悍ましい感情は、自分の中で消化する。だからこそ、マゼンタには余裕が無い。吐き出せる場所が、存在しないのだから。
「…そういう事か」
シアンはマゼンタのソレを超予測で大凡察した。まさかそこまで読めるのか、と驚愕したが、マゼンタは顔には出さなかった。
「…まあ、私に目を付けられたからには、嫌でも強くさせるがな」
「うげ…鬼じゃん」
「誰が鬼だ」
シアンが軽くマゼンタの頭を叩くと、マゼンタは「うっ」と呻いた後に叩かれた所を大袈裟に押さえた。
「いたたた…何するの」
「余計な事を口にしたお前が悪い。反省しろ」
「…分かった、次からは思うだけにする」
「……反省してないだろ、それ」
そんな軽口が、移動中ずっと続いた。静まり返った貧民街で小さくない声量で話していたというのに、全く誰も襲い掛かって来る気配は感じられなかった。そもそも…人の気配すら。
マゼンタにとってそれは不可解で不可思議で、経験した事が無かった。陰と光が同じ場所に同時に存在しているような、そんな違和感を覚えた。
──そして、数十分後。
「着いたぞ。此処だ」
シアンに連れて来られた場所に、マゼンタは瞠目した。呼吸が少し浅くなり、拍動も加速した。
「…壁が近い…」
この貧民街を隔離する為だけに隔てられた、巨大で、白く、硬く、冷たい壁。この貧民街という箱庭の中の、一番外側に属するエリア。
「……壁を近くで見るのは初めてなのか?」
「いや、四年前に一回だけ…」
「……四年前…か。その時は、こんな形じゃなかっただろう?」
「うん。もっと低かった…筈」
「記憶が曖昧なのが気になるが…まあ良い。壁については、今はどうでも良いからな」
シアンはマゼンタを降ろす。マゼンタは蹌踉めき、地面に手を着ける。
「わっ、とと…」
「目の前のコレが仮拠点だ。私が昨日使用していたものだ」
マゼンタの目に映ったのは、現代では殆ど見られない小さな建物…否、物置場。外見的な広さは約2畳と、一般的な納戸と同程度。
「…取り敢えず、今日は此処で私と一緒に寝る事にしようか」
「…狭そう」
「文句を言うな…そこらより安全で、そこらより快適な方なんだ。我慢しろ」
シアンは言いながら扉を開錠し、その物置場にマゼンタを押し込む。
「うわっ!?」
そしてシアンは、周囲を確認して、自分も物置場へと入り、物置場の扉を閉め、施錠する。ギーギーという錆の耳障りな音と、カチャリという錠前の心地良い音が響いた。
「…ちょっと、何す──いった!?」
扉を閉め切って更に光が届かなくなった物置場の中で、マゼンタは何かを頭にぶつけてしまった。鈍い痛みがマゼンタを襲う。
「何やってるんだ…」
シアンは懐からオイルライターを取り出し、火を点ける。心許無いが、この狭い空間では充分過ぎる光量だった。
「いたたた…って、そのライターどうやって手に入れたの…」
「企業秘密だ」
「企業じゃないでしょ…」
秘匿主義者なのか、シアンは何も情報を与えようとしない。いくら大事なものとはいえ、マゼンタはそれを良くは思わなかった。
「…そんな顔しても、教えられないものは教えられない」
「別に…知りたいとか思ってないし」
「お前なぁ…顔が全てを物語っているぞ。もう少しポーカーフェイスというものをだな…」
シアンは溜息を吐く。マゼンタの心理戦における弱さが想像以上だったのか、深く長い溜息だった。
「…良いから、もう寝ろ。安心しろ、見つかる事は無い」
「は〜い…」
どちらもそれぞれ懈怠の声を出し、会話はそこでプツリと途切れた。
「「……………」」
会話の無い物置の中に響くのは衣擦れと水滴の音のみ。マゼンタは牢獄に放り込まれた気分になったが、牢の内側が安全であるのも事実だったので、なんとか理性を失わずに済んでいた。
そして、マゼンタに眠気が襲ってきた。マゼンタ自身も、それに少し驚いていた。
貧民街の住人など、普通信頼出来ない。いつ自分を殺そうとするか、分からないから。
…だが、マゼンタはシアンに対して酷く無防備で居る…つまり、それだけ信頼しているという事だった。
──なんで?短い時間でそんなにも信頼を得られる理由が分からない。なんで、こんなにも…。
そういう風に考えている内に、マゼンタの意識は遠のいていった。
そして…シアンはマゼンタの寝顔を見て顔を綻ばせた。
「どれだけ信用しているのかは分からんが…まあ」
シアンはマゼンタの頭をそっと撫でて。
「──マゼンタ。お前は強いよ」
先程とは酷く矛盾している言葉を、優しい声音で告げるのだった。
◇◆◇◆◇◆
「ああ?んだよコレ。潰されてんじゃねえか」
夜も更けに更けてきた頃。【オクタアース】の拠点に、六人組の男女が足を踏み入れた。
しかし、【オクタアース】の拠点は荒らされていた。屍体があちこちに転がり、鉄錆の臭いを放っている。甚く、酸鼻。
「…あちゃ〜…酷い殺され方してるわね…」
月光の下で、屍を前にしているとは思えない程に軽快な声が響く。
「【オクタアース】は精鋭揃いだと聞いていたが…それが壊滅したのか?」
「あぁ?見りゃ分かんだろインディゴのおっさん」
口の悪い緑髪の男が、屍体を躊躇いもせず弄る。
「…お、あったあった。それなりに良いモン食ってやがる…間違いねえ、この屍体共が【オクタアース】だ」
腹に穴が空いている屍体から出てきた、消化されていない血塗れの食糧を手で持ち上げて、緑髪の男はそう断言した。
「グリーン…あんまり屍体を荒らさないでくれないかな」
青髪の男が、溜息を吐きながら緑髪の男にそう催促する。
「あぁ?んだよブルー。別にどうでも良いだろうが」
「見ていて気持ちの良いものじゃない。だから、止めてほしいな…それに、検死はインディゴさんの役割だからね」
「ッチ、わーったよ」
緑髪の男は屍体漁りを諦め、手に付着した気持ちの悪い液体を高速で振り払い、立ち上がる。
「ブルー、あんまりグリーンに突っかかるんじゃない。下手すればこの組織が二分しかねない」
「…分かったよ、レッド」
緑髪の男に聞かれては困るからと、小声で話す青髪の男と赤髪の男。
その一方、藍色髪の男と橙髪の女が会話をしている。
「…取り敢えず、仕事は失敗だろうな。キーにどう報告すべきか…どう思う、オレンジ」
「ま、大丈夫じゃない?キーが言ったのはあくまで【オクタアース】の偵察だし…死んでたら死んでた、で良いでしょう?」
「…まあ、そうか」
藍色髪の男は、周囲の使えそうな物資を回収した。意外に使えるものが多かったのか、荷物がかなり嵩張っていた。
「回収完了だ」
「そうかよ。んじゃあ、こんなクソみたいな場所からとっとと出るぞ」
緑髪の男の一言で、緑髪の男を含む五人は踵を返し、その場を後にする。
──しかし、その中で動かない少女が一人。
「おいイエロー、何してんだテメェ」
緑髪の男が呼ぶのは、虚ろな目と儚げな黄色の長髪が特徴の、少女。
ただじっと、目の前の屍体を見つめている。
「…………」
「おい、イエロー!とっとと行くぞ!」
「──あ…うん!」
緑髪の男の大きな声で、黄色髪の少女はボーッとしていたのか、突然ハッとして、直ぐに彼等を追った。
「…さて、何処のどいつか知らねえが──」
緑髪の男は口角を上げながら、高らかに宣言する。
「──この【ヘプタレイン】の仕事の邪魔をしたんだ。ただで済むと思うなよ」
◇◆◇◆◇◆
「……んっ…?」
マゼンタは身体に何かをぶつけ、その衝撃で意識が覚醒した。
これでもかという程に、熟睡してしまっていた。誰かに襲われる心配など微塵もせず、ただただ安心して寝ていたのだ。
──やっぱり、何か変。
マゼンタの中での違和感は、少しずつ加速している。
「……ぅっ…?」
突如、側頭部に少しの痛みが走った。
マゼンタは一瞬、その事について理解出来なかったが…それは、一人の女の声によって解決した。
「マゼンタお前…なんでこんなに寝相が悪いんだ…この…」
マゼンタに下敷にされていたシアンが、マゼンタの頭を蹴っていた。
そう、マゼンタは相当寝相が悪かったのだ。今回の場合、眠りに就いてから起きるまでに、足を向けている方角が真反対になっていた上、シアンを乗り上げていた。
シアンは苦しそうにしながら、マゼンタの頭を蹴り続けている。
「痛っ!ちょっとシアン、痛いって!」
「だったら離れろ、暑苦しいッ!」
閑話休題。
シアンは物置の鍵を開錠し、扉を開ける。マゼンタとシアンの視界には、どんよりとした灰色の曇り空が、視界に入ってきた。
僅かな風の流れと共に聞こえるのは鳴禽類の美しい囀りではなく、烏の短い鳴き声。
「曇天で分かりづらいが…どうやら朝のようだな」
シアンは周囲を確認する。誰も居ない事を確認して、マゼンタに手で合図を出した。
マゼンタは寝起きで上手く機能しない身体を無理矢理動かしながら、ゆっくりと外に出る。
「よっ、と…」
外に出て直ぐ、マゼンタの視界に飛び込んで来たのは、夜に見た大きな白い壁だった。
「…やっぱり、大きい」
「だろうな。普通、此処まで近くに来る事なんか滅多に無いしな…だから今の内に見ておけ」
「なんか、観光に来た気分」
「実質観光みたいなものだろう」
余裕のありそうな雰囲気の中、シアンは咳きをして、本題に入る。
「…さて、マゼンタ。お前がやるべき事…分かってるよな?」
「え?ええっと…何?」
「本気で言ってるのか…強くなる事だろう。いざという時に自分の身も守れないでどうするんだ」
呆れ顔で言うシアンに、マゼンタは反論する。
「でも私、別に闘わないし…逃げ足だけは自信あるし…」
しかし、シアンは正論で攻める。
「…つい昨日、死にかけの状況で逃げられなかったのは何処のどいつだったか」
「うぐ…」
ぐうの音も出ない、という具合に、マゼンタは顔を歪めた。
シアンは続ける。
「備えあれば憂いなし、だ。もし昨日みたいに、逃げられない状況に陥ったら闘うしかないだろう?」
「それは…そう、だけど…」
「それともなんだ?そんな状況になったら迷わず死を選ぶのか?」
最早、有無を言わせぬ物言いだった。マゼンタはそれに気圧され…やがて。
「…〜ッ、分かった…!分かったよ…!」
「ふっ、それで良い」
完全に〝してやった〟という表情のシアンに、マゼンタは〝してやられた〟という表情で返した。
「…まあ、やる事はただの拠点潰しだ。今までと何も変わらない。お前は殺しをしなくても良い。ただ生き残る術を磨け」
「ぁ、そっか…」
それについて少し安心したのか、マゼンタはホッと一息吐く。
それを見て、シアンは補足した。
「…まあ、何度か死ぬ程の目に遭う可能性はあるが」
「えぇ…」
再び絶望顔に戻る。
「安心しろ。その時は私が守ってやる」
「本当?」
それを聞いて、マゼンタの顔が再び明るくなった。
「表情がコロコロと変わる奴だな…本当だ。私が居る限り、お前を死なせはしないさ」
その言葉には確かな無謬性があった…しかし、その他に、何かが含まれている。
マゼンタはそれを感じ取っていた…が、それが具体的に何を指すのかは分からなかった。
しかし──信頼出来る。
「…さて、移動するぞ。長居は無用だ」
「分かった」
そうして、二人は歩いていく。
それぞれの目的を、抱えながら。
名前が完全に戦隊モノのやつ。次回の更新は7/26です。




