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凋落貧民街の鮮血花火  作者: 廿浦 黄泉
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Episode1.無法の監獄

お久しぶりです。

 低音を響かせて駆動する古い機械。金属が擦れ合って発生する耳障りな音。


 漏れ出たオイルによって充満する不快な臭い。時折立ち篭める、死魚の死臭を含んだ黒煙。


 目が痛くなる程に浮かぶ煤。煙によって遮られる視界。更には警戒を続けて重くなる瞼。


 その中で息を潜める小柄な体躯の少女が一人。継ぎ接ぎの服、硬くなった少し長い、濁った赤紫色の髪の毛。蒼白に染まった肌と唇、目の下で目立つ隈。


 そんな少女は手にボロボロで鈍い光を放っているナイフを持ち、腰にボロボロで細い金属ワイヤーとボロボロで古びた革袋を携えている。


 ナイフを持つ手は微かに震えていた。少女の視線はナイフに反射する自身の顔に向いている。


 みっともない顔だ、と少女は胸中で呟いた。鏡の役割をしているナイフがボロボロであるからか、それとも自身がボロボロであるからか。あるいは、その両方か。


 そう考えている内にも、心臓の拍動がアップテンポしていき、額から汗が滲む。


 少女に余裕は無かった。軽く触れれば一瞬で砕けてしまうような、脆くて繊細な状態。一歩踏み外してしまえば頭から落ちて絶命するような、危なっかしい状態。


 それでも、少女は動かなければならない。


 動かなければ、どのみち死んでしまうから。


「ッ!」


 少女はナイフを懐に仕舞い、意を決して飛び出した。ただ一台、食糧が置かれているテーブル目掛けて。


 幸い、辺りに人は居ない。しかし、安堵する暇は無い。


 少女は腰にある革袋を慣れた手付きで取り出し、慣れた手付きでその食糧を盗んでいく。出来るだけ多く、革袋に収まり切らない程に。


 音を立てずに、次々と革袋に入れていく。やがて、革袋は食糧で満たされた。


「ふぅ…」


 少女は軽く息を吐く。後はこの場を後にするのみ。


 音を立てないよう、重心を滑らかに移動させる。


 糸が緩めば、切れれば綺麗な音色を奏でられないのと同様、気が緩めば、注意が途切れれば思い描く理想にはならない。


 少女はより一層、細心の注意を払って足を動かしていく。


 ──しかし、予想外の出来事には対応が出来ないものだ。


「…ぁ…!?」


 少女の口から、小さな声が出た。


 監視の視界を遮る為に、壁伝いに移動していた少女だが、丁度そこに立て掛けていた木板にぶつかった。


 木板はゆっくりとバランスを崩して、そのままバタンッ、と音を出して倒れた。土埃が舞う。


 当然、そんな音が出て周囲が不審に思わない訳も無く。


「…!侵入者だ!引っ捕らえろ!」


 少女は呆気なく見つかってしまった。


 木板が音を立ててからたった三秒。されどこの貧民街において、自身の命を左右するのは一秒でも長い。


 見つかった瞬間反射的に、少女は監視の懐を潜って、そのまま通り過ぎていく。


「はぁっ、はぁっ…!」


 緊張から来る激しい息切れと発汗が少女を掻き立て、感覚を鮮明にさせる。


 パンッ!という激しい音と、同時に超高速で放たれる金属にも惑わされず、最短で安全なルートを迷わず選択する。


 曲がり角が多い道では、銃は追跡と確保には向いていない。小柄で身軽である少女ならば、追手を振り切る事が可能である。


 少女は革袋を大事に抱え、脚を回す。


「絶対逃がすなっ!」


 そんな声が聞こえたが、それは少女のかなり後方だった。


 最早追手が少女に追い付く事は叶わず、少女は更に加速していく。


◇◆◇◆◇◆


 十分程走って、走り続けた。


 脇目も振らなかった、一瞥も呉れてやらなかった。ただ、少女自身が逃げ延びるために、前だけを見て走り続けた。


 追手を撒いた事を確認した少女は、緊張が解けてその場にへたり込む。


「はぁ、はぁ…生きた心地が、しないっ…」


 少女の顔は青褪めていた。ただでさえ顔色が悪いが、体内に充分な酸素が行き届いていないのか、更に酷い顔色になっていた。


 少女は息を切らしながらも、革袋の中身を確認する。


「良かった、落としてない…全部持ってる」


 逃亡中に食糧を落とす事が無かった事に安堵した。


 この貧民街では、食糧を一つ失うだけでも致命的だ。そもそも、満足出来る程の食糧が、この街には無いのだから。


 資源には限りがある。だからこそ、奪い、殺すのだ。それが、この貧民街で生活する者の運命なのだ。


 この少女もその内の一人だ。少女は先程、小規模の組織から食糧を奪った。組織となると無法地帯であるこの場所では危険率も高いが、食糧の供給率も高い。


 少女は先程まで、食糧が尽きて途方に暮れていた。奪った食糧は、今の少女にとっては有難い利益である。


 少女は革袋の中から、黴の生えたパンを手に取る。


 貧民街で手に入る食事はまともなものではない。大体は外の街から捨てられるものだ。


 だが、それ以外に食べられるものは無い。だからこの貧民街の住人は、残飯でも腐敗した食べ物でも、生きられるなら喜んで食べる。


 …だけど数に限りがあるから、いつも争奪が繰り広げられる。


「…美味しくない…」


 少女は口では悪態を吐きつつも、それとは裏腹にパクパクとパンを食べ進めていく。食べなければ餓死してしまうから。


 しかし、文句は止まらない。


「固いし、モサモサだし…黴生えてる所は変な感じするし…最悪だよ、もう…!」


 そのまま飲み込む。一瞬、それが食道を虫が這うように通る感覚がした。胃酸が昇ってきたが、なんとか無理矢理引っ込める。


 少女は少しの間、咽る。苦痛を必死に悶えながら堪えている。顔は少女と思えないくらいに歪んでいた。


「うぅっ…!おぇっ…」


 胃酸こそ吐き出さなかったものの、少女の身体には相当な不快感が残り続けている。


 少女の腹は唸るようにギュルギュルと響き、今直ぐ排泄しろと訴えている。身体が拒絶しているのだ。


 暫くの間、少女は蹲っていた。腹痛と吐き気に苛まれ、意識すら朦朧としていた。


 …だが山場を乗り越えたのか、その不快感は落ち着いていった。


「…はぁっ…はぁっ…キッツい…」


 何も今回だけに限った事では無い。少女だけでなく、この貧民街の住人は、食する時には今のような身体の影響を受ける事が屡々ある。


 今回はこれだけで済んだが、下手をすれば数週間以上、体調不良に苛まれる事もある。少女は過去に、それを三度経験している。


 それは身体の内側から鈍器で殴られ、臓器がごちゃ混ぜになる感覚。それを知っている少女は、苦しみにはそれなりの耐性がある。


 …が、しかし。やはりキツいものはキツいのだ。痛むのは変わらない上に、どうしても慣れない不快感が付き纏うから。


「っ、ごくっ…ぅっ…」


 濁った水を飲む。ザラザラとした感触が少女の喉に張り付き、呼吸がしづらくなる。


「けほっ、ごほっ…!」


 再び咽る。先程よりは酷くないが、それでも常人ならば目に涙を浮かべるくらいには苦痛だ。


「はぁっ…っ、と…」


 喉奥に痞えるものを我慢しながら、少女は立ち上がる。


「キツいけど…移動しないと…」


 少女に縄張りは無い。常に孤独だった少女は、その身を転々としていた。


 いつも孤立無援、いつも極限状態、いつも死と隣り合わせ。


 されど、今日までこの貧民街で生き延びてきた。それだけ、この少女は知恵を振り絞っている。


 少女は革袋を持ち直し、廃れた街を進んでいく。


◇◆◇◆◇◆


「…此処なら、暫くは誰にも見つからない筈…」


 少女は身を隠すスポットを見つけ、そこに身を置くことにした。


 身を隠す為に必要な要素…それは当然、見つかりにくい場所である。ならば、見つかりにくい場所とは何処か。それは人が普通立ち寄らない場所である。


 普通より遥かに暗く、汚く、臭い場所。少女が居るのは、この数年、使われた形跡の無い建造物の室内だ。


 埃を被った部屋。光は殆ど無い闇。鼻を突く腐敗の臭い。


 居るだけでも相当しんどいが、少女はそれと死を天秤に掛けた場合、前者の方がマシだと感じたので、この場で休息を取る事にした。


 少女は壁に背中を預ける。


「──もう、閉鎖されて四年か…」


 譫言のように、ボソボソと呟く。


 ──この貧民街は四年前、外から完全に隔絶された。賤民や没落した貴族を隔離する場所として扱われるようになった。


 区別という名の差別。隔離という名の排斥。


 今でも、この貧民街と他の街の境界線に分厚くて高い壁が隔たれている。今でも、内側に取り残された人間はずっと、この貧民街で生活している。


 外の人間は、のうのうと生きているというのに。


「今も私達は、無法の監獄の中…」


 掠れ、震えた声。


 少女の言う通り、此処は監獄だ。内側に入った人間が、万一にも外に出られないようにする、檻。


 閉鎖されてから四年間、この貧民街から出られた者は居ない。それを監獄と言わずして、どのような表現の仕様があろうか。


「このまま過ごしていったら、いつ頃死ぬのかな…」


 少女は常に、死の事について考えている。


 死ぬなら、どのような死に方が良いか。殺されるなら、それまでに何かしておきたい事は無いか。


 普通は、常時思考する事は無い。だが、死というものはこの貧民街では日常茶飯事。逆に言えば、此処で誰かが死なない日は無い。


 死が身近にある以上、どうしても意識してしまうのだ。


 …自分の、死について。


「…んっ…少し、眠いかも…」


 少女の瞼が少しずつ閉じていく。しかし今もその瞬間に、死が脳裏に覗く。このまま寝てしまえば、いつの間にか死んでいるかもしれない、と。


(まあ、そんな事、どうでも良いか…)


 〝今はとにかく、眠い〟…少女は現在、睡眠を欲しているのだ。


 少女の瞼が完全に閉じた。目の前は当然のように真っ暗で、何も見えなかった。


 ──これが死後の世界に見る景色なのだろうか。


 そう考えている内に、少女の意識は彼方へと沈んでいった。


◇◆◇◆◇◆


 …熟睡とは行かず、凡そ二時間後。少女は自然と起きた。ぼやけた目を擦る。合わないピントと、はっきりとしない色彩。


「死んでない…」


 微睡みから覚醒し、周囲を一眄した後。少女は少し安心したが、同時に〝このまま此処に居続けたら危ないかもしれない〟という根拠の無い不安感から居ても立っても居られなくなり、立ち上がる。


「誰かが来る前に移動しないと…」


 少女のこの焦燥感は、一種の精神病のようなものだ。この不浄の環境に身を置き続けているが故か、寝起き限定だが斯様に焦りが出てしまう。


 余裕が無いのは全員同じだが、この少女は殊更異常だった。それはこの症状によるものだ。


 それ故、この貧民街で生活する人間の中では、他人よりも衰弱が早く、他人よりも多くの食糧・水分を必要とする。それは同時に、地獄を見る回数も多いという事である。


「誰も居ないよね…?」


 少女はゆっくりと扉を開け、外を確認する。


 既に太陽は沈んでいた。もう辺り一帯は、暗闇。


「…少しでも、移動しないと」


 少女は闇の中を突き進んでいく。


 懐中電灯を点けるのは、自身の居場所を知らせる事になる為デメリットしかない。


 夜の貧民街で頼れるのは、太陽光を反射する月明かりだけだ。闇に包まれた自身が信用出来るのは、満月で0.2ルクスという、辺りを非常に暗く照らしてくれる月だけだ。


 陰に潜むなら闇夜。それはこの貧民街で燻っている誰もが識る、普遍で周知の事実。


 少女は息を殺し、身を屈め。出来るだけ、人が五感で拾える情報を排除する。


 たった一秒が、数分、あるいは数十分にも感じられる。命が幾つあっても足りないような状況。


 静かにしたいのに鳴り止まない心臓の音が、そんな筈も無いのに辺りに残響となって出てくる。身体から奏でられる筋肉の軋む音が、ピンと張られた粗悪な弦を擦るように大きい。


 夜目が利いてきたからか、少女の目には自身の姿がはっきりと見える。最初は安心出来た暗闇も、時間が経てば一気に不安要素となってくる。


 持ち上げる革袋がやけに重い。少女は今一度しっかりと持ち直す。


 嫌な汗が少女の頬を伝う。その感覚に気が付いた瞬間、落ち着いて手で拭う。


 長く、長く、長い時間。歩いた先にあったのは──


「…嘘」


 少女は殆ど声にもならない声で驚愕を呟く。


 …小規模な拠点。少女の目の前に映るのは、間違い無く貧民街の住人が数人は存在する拠点だ。


 固まっている時間は一切無い。少女はより一層息を潜め、近くにある壁際へと寄る。


 壁越しに聴こえるのは、古びた時計が秒針を刻む音と、複数の異なる鼾の音。それを認識した瞬間、加速度的に鼓動が大きくなる。


 少しでも大きな音を立ててしまえば、直ぐに気付かれて少女の人生は終焉へと向かう。そんな前提を理解している少女の目には、焦燥感が映し出されているかのように焦点が合わなかった。


 握り締める両の手には、嘘のように汗が滲んでいる。呼気と吸気は酷く少ない。身体中に伝わるのは妙な悪寒、汗で濡れ濡った服の所為なのかもしれない。


 …〝さっき隠れた場所に戻りたい〟。そう思ったが、それは絶対にしてはいけない事だと分かっている。もしも痕跡が残っていれば…その先は言うまでもない。


 つまり、少女が今取るべき選択肢は二つ。


 一つ、この場の人間を全て殺害する事。一つ、この拠点の包囲網を掻い潜り、向こう側へ行く事。


 前者は却下。少女の戦闘能力の低さは、少女自身が分かっている。


 貧民街に捨てられて直ぐ。食糧を分けてくれと懇願する少女に、貧民街の連中は暴力を返した。少女は反撃を試みたが、一切反撃の余地も無く、最終的には運良く生き延びた。


 少女が信じられるのは幸運のみ。故に、正面衝突では敗色濃厚。


 よって、後者が、現在の少女にとって最も生還率が高い、最善策。


 音を立てないよう、歩く。世界の法則を欺くように、一切の音を響かせない、気配を感じさせない。


 言うなれば、ただの〝隠れんぼ〟。見つからないよう、気付かれないよう、この窮地を乗り越える為の児戯に過ぎない。


 …ただ、本物の命が懸かっている、子供のお遊び。


「…グゥ…」


 一瞬だけ、寝ている誰かの呼吸が止まった。


 気付かれたと思った少女は一瞬の動揺によって蹈鞴を踏んだ。しかし、直ぐに重心を安定させ、足音は最小限に留めることが出来た。


 少女は周囲を見る。


 目覚めた人間は誰一人確認出来なかった。皆、地面で死んだように寝ているだけ。


 それに安堵した少女は、歩を進める速度を上げる。少しだけ、心の何処かで余裕が出てきたからだろう。


 …しかし…僅かだが、衣擦れの音が、大きくなった。


「────」


 …少女の右頬に、鋭い痛みが走った。それと同時に、少女の顔のスレスレを通り過ぎるものが一つ。


 少女は痛みのした部分を右手の指でなぞる。少しの痛みとともに、手には粘つく液体のような感触が伝わる。


 カン、と。軽く硬いものが、壁に当たったような音がした。そしてその直後、ソレが地面と衝突して、更に音を響かせる。


「…えっ?」


 その音で、少女は自身が置かれている状況を漸く認識した。


 ──今、少女は誰かに殺されかけた。


「…ぁ?なんだ?」


 何かが衝突した音か、あるいは少女が発した声か。どちらかは定かでは無いが、周囲の人間はその音を聞いて、次々と眠りから醒めていく。


「っ、ぁ…」


 恐怖。


 少女の中で際限なく湧き出るのは、底知れぬ絶望だった。汗がつう、と顔の輪郭をなぞり地面に滴り落ちる。その打ち付ける音が、先程の音よりも相当大きく感じた。


「アンタ、ずっとコソコソと動き回って…何者だ?」


 嗄れていて男勝りな口調だが、どちらかといえば女っぽいハスキーな声が、少女の背後から聞こえた。


 少女は背後の気配と自身の位置の関係を想像した…恐らく、背後に居る人間が、少女の頬に傷を付けたものを投げた張本人なのだろうと、察した。


 少女は背後を振り返る。夜目の利いた視界に映ったのは、元は白かったであろう黒く汚れている、細い身体に合わないサイズのシャツを着た女だった。


 手にはナイフが一本、腰にはナイフが視認出来るだけでも十本以上。どれも斬れ味は悪そうだった。


「気付かれてないとでも思ってたか?悪いが、オレは気配にゃ人一倍敏感なんだ…少しの音も逃さねえよ」


 その女はナイフを固く握り締め、少女に刃先を向けた。刃身は月の光を反射し、ギラリと揺れ動いている。


 少女は震える。


 …今、少女は冥府に引き摺り込む為の死神の鎌を、首元に突き付けられている。逃れられない。


「…先ずはその革袋を置け。そうしたら、楽に殺してやる」


 …少女は今までに斯様な絶体絶命の危機に、何度も遭遇していた。危機回避の能力に関しては頭抜けていると自負している程に。


 そんな少女が思った事はたった一つ。


 ──詰んだ。最早、打つ手は無い。


 ただ、それだけ。


 少女が優れているのは、あくまで〝盗み〟と〝逃げ〟のスキル。人と闘わない、人を殺さない、〝生存〟のみに特化したスキルだ。


 少女に戦闘のセンスも無ければ、殺しのセンスも無い。故に、道理も無い。直接戦闘で勝てる道理も、暗殺で勝てる道理も。


 少女は〝盗人〟を生業としているだけ。だがこの貧民街の住人は、少女のような非戦闘の人間ではない。


 日常的に闘い、日常的に殺し、日常的に奪う。そんな、狂気の沙汰の行動を、平気でするような連中ばかり。


 …つまり、少女に勝機は無い。一対一の戦闘ならばいざ知らず、多対一なのだ。たった一人の素人が、数多のプロフェッショナル相手に無策で勝負を挑んでも、必ず敗北の二文字を刻まれる。かと言って、逃走を図る事も、この数では不可能だった。


「……」

「革袋を置けと言っている。三度は無いぞ…次にこの命令を聞かなかった場合…苦しんで死んでもらう」


 …もう、少女はどうしたら良いのか分からなかった。


 ──このまま革袋を置いて、生を諦めて楽に死ねば良いの?それとも、革袋を置かずに、生に執着して、苦しんで足掻いて死ねば良いの?


 逡巡する少女に、もう〝生存〟という可能性は露へと消えていた。最早、そんな事を考えるまでもなく、詰んでいたのだ。


「これで最後だ──革袋を置け。さもなくば、徹底的に痛ぶって殺してやる」


 命令の冷酷さも加速。


 次に同じ命令は来ない。この命令に逆らって仕舞えば、ありとあらゆる方法で苦しまされる。


 眠りから醒めた周囲の人間達も、少女に向けて武器を構える。撃鉄を起こす音。普段からこの貧民街で生活していなければ、聴き馴染みの無い音だった。


 少女は何かを口にしようとした。何かを丐う言葉か、あるいは怨嗟か。しかし恐怖で口が上手く動かせない。


「…安楽死の意志は無いか。ならば──苦しんで死ね」


 女は左手を掲げた。少女含め、全員がその手に視線を向ける。


 数秒後、その手を一気に振り落とし…それは告げられた。


「お前等…殺れ」


 その瞬間。


「ッ!?」


 少女は立ち竦む脚をなんとか動かすと脚が縺れ、そのまま転けた。直後にパンッ!と大きな音が背後から響く。


 視界の端で捕らえたのは、高速で放たれた火花の閃光。それは丁度、先程まで少女の顔があった場所を通過していた。


 僥倖だった。脚を動かしていなければ、転倒していなければ…少女は後頭部から撃ち抜かれていただろう。


「ッチ…外した」


 背後の男はそう吐き捨てる。どうやら弾は一発しか回転式弾倉に込められておらず、それを外したことに苛立ちを覚えていたようだ。エジェクターロッドを押して排莢し、スピードローダーで高速装填する。


 普通ならそれでも時間が少し掛かるが、この男は僅か二秒足らずでそれを完了させた。


「くっ…!」


 少女はハッと我に返り、倒れた身体を起こし、敵の数の少ない方向へと逃げていく。


「逃さねえぞ?」


 しかし、それでも敵が全く居ない訳では無い。工具を持った男と、鞭を弄ぶ女に、少女の退路を阻まれた。


「退いてっ!!」


 鈍く光るナイフを腰から引き抜く。普段手に持たないからか、少女の手が一気に重くなった。


(──殺す…!?)


 その選択が脳を過ぎった瞬間、何かが胸に纏わり付いた。同時に、脳が拒絶し、動きが鈍くなる。


 殺す、或いは傷を付ける。生還する為には、避けては通れない道。少女もそれは分かっていた筈だった。


 …しかし。少女は今日まで、殺人すらしてこなかった。いつも逃げて、闘わずに暮らしてきて。そして今、初めて〝殺す〟という言葉を自身の脳から引き摺り出した。


 初めて人を殺そうとするのに、躊躇いが無い訳が無かった。


 コンマ数秒。少女はナイフを振り翳しながら、殺すか殺さないかの選択肢を選べなかった。


 その場の勢いで、迷いのあるブレブレのナイフを振り下ろす。


「…ハッ!」


 男が嗤い飛ばした直後。


 カンッ!という音。男が右手に持っているレンチを前方に突き出し、少女のナイフを受け止めた。火花が散り、周囲を照らす。


「ッ…このッ…!」


 少女は衝突による腕の痺れを堪え、両手でナイフの柄に込める力を増していく。鳴り響く金切りの悲鳴が耳障りでも、構わずに。


 …しかし拮抗、いやその前段階までしか辿り着けない。


「チビの割には意外と膂力あんじゃねえか、だけどな…」


 男は僅かに照らされた口許を緩ませる。直後。


「ッ!う゛っ!?」


 少女は攻撃を往なされ、態勢を崩された。そこを狙い、男は左手に持っていたハンマーで、少女の肝臓目掛けて殴った。バキッ!と、嫌な音を鳴らす。


「──甘ェんだよ、何もかも」


 少女の持っていたナイフが手から離れ、少女はそのまま地面に突っ伏した。


「ぁ、ああ゛っ…!」


 悶絶。少女は起き上がる事が出来ない。呼吸すらままならなかった。


「上出来ねオウカー」

「ハッ、コイツが弱ェだけだ。こんなのテメェでも殺れる」

「へえ、まあどっちでも良いけど」


 鞭を持つ女と工具を持つ男が話している。少女はそれを、ただ呻きながら聞く事しか出来ない。


「…なんだ。オレは不要だったか…」


 先程のナイフの女が、両手で二本のナイフを持て遊びながら少女に近付く。


「まあ良い。一応、所属している組織を吐かせておくとするか」


 ナイフの女はそう言い、ナイフを逆手に握る。


 そして、目の前で倒れている少女の脹脛に、容赦なく刃を突き刺した。


「あ゛ぁ゛あ゛あ゛────ッ!?!?」


 間欠泉の湯が噴き出るように四散する血、脚から身体全体へと伝播する異常な熱。脳が警鐘を鳴らす。


「わ、うるさ… たいちょー、その子の口塞いどいて…眠い」


 遠くから、騒がしいのが苦手そうな女がナイフの女にそう伝えた。


「悪いが我慢しろ。無理なら遠くに行ってろ」

「ケチ…んじゃあ、向こう行く」


 気怠げな女は不貞腐れながら、この場をゆっくりと離れていく。


 その間にも、少女への拷問は続いていた。


「さっさと吐け。お前は何処が管轄している」

「あ゛ぁ゛っ…!ぁ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛っ!?」


 皮膚を裂く。軽く痛みを感じるように、皮膚を軽く斬り刻む。


 肉を削ぐ。ナイフが皮膚に食い込み、裂かれた皮膚を通り抜け、肉を抉る。


 爪を剥ぐ。元の生活でボロボロだった爪は脆く弱く、簡単に剥がせる。


 臓器を穿る。死なない程度に、地獄を見せられる。


「ぁ゛──あ゛…」


 少女の声は掠れていた。もう、声帯を震わせる程の呼気は殆ど無い。


「ちょっと隊長、もう死ぬわよこの子…」


 鞭を持つ女は情報を引き出せない事を危惧してか、ナイフを持つ女の拷問を止める。


 しかし女は酷く冷静に。


「…これだけやっても吐かないならば、相当口が固いか、或いは無所属だ。前者であろうと後者であろうと…吐かないならば生かすリスクの方が大きい。殺しておく方が無難だ。吐いたらラッキー程度に思っておけ」


 そう口にした。


「あ〜、はいはい…分かったわよ。遊び過ぎないでよね」


 少女はその一連の会話を、途切れ途切れの意識の中、しっかりと耳で拾っていた。


 ──ああ、このまま死ぬ。


 希望も無く、ただ絶望的に苦しみを与えられて、最終的に死ぬ。


 少女が一番嫌な死。少女が一番危惧していた死。


 …選択権は、自身になど無かった。


 少女の意識が途絶えるまで、あと少し。死を目前に、少女はふと心の中で思った。


(──少しで良いから…友達…欲しかったなぁ…)


 そんな小さな願い。年相応の、純粋な願い。だがその願いは、届かない。


 そして…少女の視界は闇に閉ざされていく。


 完全に視界が闇に染まる、ほんの直前。


 ──パァン!という乾いた音と共に複数の叫び声が上がった事には、少女は気が付けなかった。


◇◆◇◆◇◆


「…ん、んっ…?」


 パチパチという心地の良い音が聞こえ、少女は目を覚ます。


 目を開けると、目の前には焚き火があり、周囲を明るく照らしていた。


「…死んで、ない…?」


 死を悟った少女にとって、それは驚きだった。あの瞬間、少女は自身が死に近付いている感覚がはっきりと分かっていた。


 身体が急速に冷えていき、血の巡りが悪くなる感覚…それが、はっきりと分かっていた。分かっていたからこそ、少女は自身の今の状況を理解出来なかった。


 自身が、死を迎えていないという状況を。


 自身の身体を確認する。


(包帯…?雑に巻かれてるけど…)


 誰かに手当てされた証拠。


 周囲を見渡す。少女にとって、全く見覚えの無い場所だった。


「──起きたか」

「ッ!?」


 少女の背後から聞き覚えの無い、矢鱈と落ち着きのある女の声が響いた。


 少女は息を呑む。寝起きとはいえ、全く気配を感じられず、簡単に背後を取られていた事実に、発汗が止まらない。


「誰ッ!?」


 バッ、と後ろを振り返る…しかし、背後には誰も居なかった。


 一瞬困惑していると…今度はその後ろから、先程と同じ女の声が聞こえてきた。


「騒ぐな…耳に響くだろう」


 ──どうやって背後に回ってるの…?


 少女は驚愕の連続だった。つうと、汗が背中をなぞる。


 …今度はゆっくりと振り返ってみた。すると…。


「──重要参考人かと思って捕まえてみたが…どうやらそうでもなさそうだな」


 女が、立て膝で座っていた。


 水色に近い、青緑色の長い髪。この貧民街の環境に似つかわしく、ボロボロで汚らしい筈なのに…何故だか妙に惹かれてしまう。


 目は切れ長で、凛々しい顔付き。傷一つ無い、綺麗な顔。


 肉付きは普通で、凹凸も然程無い。一般の女の体躯。


「だ…れ…?」


 若干萎縮しながらも、少女は勇敢に訊ねる。


「ただの此処の住人だ。それ以上もそれ以下も存在しない」


 しかし、軽く受け流された。優位性は少女の目の前に座る女の方にある。


「…私を襲った人達は…?」


 その質問に、女はたった一言。


「さあな」

「…殺したの?」


 震えた声でしたその質問だったが、女は無言を貫いた。代わりに、〝そんな質問をして何になる?〟という鋭い視線が返ってきた。


「私を…どうするつもり…?」


 それでも少女はなんとかして食い下がろうと、別の質問で訊ねる。


 女の目は冷たい目だった。その双眸に、一切の温かみは無い。冷徹で、冷酷で、冷血な瞳。


 そんな女から、返ってくる返事は。


「さあな、答える義理も無い。ただ──探り過ぎると死ぬぞ?お前」

「え?」


 少女がその短い困惑の声を上げた瞬間。少女の視界から女の姿が消えた。


 動いたと認識した時には、少女の首筋に鋭い痛みが走っていた。


(ッ!?いつの間に背後にっ…!?)


 思わず振り返ろうとしたが。


「動くな。死にたいのか?」


 その忠告で動きが止まる。


 首筋に、冷たいものが強く押し当てられている。そこから妙に生温かい液体が滴る。 


 下手に動けない、下手に口を出せない。


「単刀直入に訊ねよう…お前は何処の所属だ」


 先のナイフの女のように、その質問をしてきた。相違点と言えば…〝抗う隙すら与えられない〟という事だけ。


 妙な動きをすれば、即行で首を掻っ切られる。絶対に逃げられない。


 先までなら、もし一対一ならば逃げる事は難しく無かっただろう。しかし、今回は一対一であろうと、絶対に逃げ切れない。


 それだけの実力差、それだけの威圧感。


「何処に、も…所属…してっ、ないッ…」


 生物的本能。生きて、種を繁栄させる為の当然な本能であり、それには危機を避ける為の〝回避〟の本能も存在する。


 被捕食者が捕食者に目を付けられた時。被捕食者は捕食される事を当然のように避ける。何から回避するのかはそれぞれだが、その根幹は〝危ない〟という直感が働く時に発動する。


 少女が恐れているのは死だ。それを回避する為に最善の行動を取る必要があった。即ち〝質問に正直に回答する事〟。


 少女は下手に嘘を入れてしまい、勘繰られる事を危惧した。尤も、少女自身が嘘が得意では無いと自覚しているからでもある。


 嘘を吐くメリットも無い。虚偽でも、所属を吐けば最終的には殺される運命だ。


 だから、一見嘘のような回答でも〝無所属〟だと正直に答える必要があった。


「それを指し示す証拠は?」

「……無い」

「なら悪いが信じられないな。近い将来、私を脅かす戦力になっても迷惑だ…さっさと正直に吐くのが利口だが?」


 悪魔の証明。存在しない事を証明する事は誰であっても不可能だ。


 世の中には無限の概念や可能性がある。故に、人間の誰しもが予想出来ない事は無限大に存在する。その中で、存在しない事の証明など出来はしない。


 この状況は、そのほんの一部。


「どうやら答える気が無いらしい。そんなに主人が大事か?」

「主人も何も…本当に所属してない…」


 ……………。


 長い沈黙の後。


「…はぁ」


 そんな溜息を漏らし、女は少女を放した。


 少女は止めていた呼吸を再開する。詰まっていた空気が外の空気と共に体内に流し込まれ、一気に緊張を冷やす。


「…どうやら、本当に何処の所属でも無いらしい──馬鹿か?こんな無法地帯で、誰かと徒党を組む事も無いとは…」


 心底呆れた、という様に、女は頭を抱えた。


 少女は女の右手に握られていた物を確認する。


(…新品のナイフ…?)


 この貧民街において。新品のナイフは珍しい。外から塵として入ってくるナイフは、どれも古びていたり折れていたり、酷いものならば錆びていたりする。だからこそ、新品はそれなりに珍しい。


 新品は、それなりの材料と技術を持った鍛冶が得意な住人が、此処では希少な金属を集めて、丁寧に製造するしかない。それにはかなりの時間と労力を要する。


 ──だったら何故、ナイフであるのか。


 基本的にナイフは身軽に動けるが、拳銃などに比べると見劣りする性能だ。それに刃毀れしているナイフならば、拷問にも扱える。先程のマゼンタがされていたように。


 態々ナイフである理由が、シアンには存在するのだろうか。


 と、少女が訝しんでいた時。


「──悪いがそれについては教えられない。どうしても必要なら呉れてやるが、代価は払ってもらうぞ」

「え…私、声に出してったっけ…?」

「出していない。あまりにも分かり易い顔だったからな」

「えぇ…」


 少女は自分の腹の中を探られた様な気がして良い気分はしなかった。


「…というか、殺さないの?」


 少女は純粋な疑問を零す。


「その質問に意味はあるのか?下手をすれば気が変わってお前を殺すかもしれないというのに」

「いや、ただ単純に気になったから…」

「…意外とユニークな奴なんだな──殺さない。殺すメリットは今のところ存在しない」

「食糧もあるのに?」

「足りている。それに殺して奪う程困っているなら、誰かを奴隷として持って来させた方が良い」

「…随分えげつない考え方」


 理に適っているとは雖も、此処の住人とは思えない思想。少女にとっては、考えもしなかった事だ。


「……お前、名前は?」


 突然、女は少女に訊ねた。


「…言わないといけない?」

「…成程。意外に肝が据わっていると見える。殺されるかもしれないこの状況で、反抗的な態度を見せるとは…」


 女は暫し悩む素振りを見せる。


 脅して聞き出すか、殺すか。あるいは、別の手を使うか。それらで悩んでいた。


 …しかし、少女は考えを読んだのか、少々不気味に思い、いつの間にか自身の名を口にしていた。


「………マゼンタ」

「…なんだ、答えてくれるのか」


 まさか答えるとは思っていなかったのか、女は瞠目する。


 しかし少女──もといマゼンタとて、情報を開示したまま終わる訳では無い。


「あなたの名前は?」


 意趣返しの如く。鋭く、その質問を口にした。


「…言いたくない、とは言えないか…」


 女は軽く息を吐き、答える。


「──私はシアン。マゼンタ、一先ず停戦といこう」

次回の更新は7/12予定です。それからは隔週(二週間に一回)日曜日更新予定にしておきます。都合があったり、余裕が出てきたりすればずれるかもしれません。マイペースになりますが、何卒お願いします。

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