第6話|その一皿の香りに、記憶が残る
柔らかな木漏れ日が、芝の上にまだらな影を落としていた。
初夏の風は穏やかで、葉擦れの音とともに、草と土の匂いを運んでくる。
アマーリエは、侯爵家の別邸にある森にほど近い湖の畔で、しっかりとした厚みのある柔らかな敷物を広げていた。
過度に飾り立てることはないが、質の良さがひと目で分かる布地だ。
「お姉様、ここでいい?」
マリアンネが楽しそうに周囲を見回す。
「ええ。日差しも強すぎないし、風も通るわ」
傍らでは、専属メイドのクララが手際よく籠を下ろしていた。
いつの間にか、その視線は、すでにアマーリエの動きに釘付けになっている。
アマーリエは迷いなく、包みを解き、中身の材料を出して下ごしらえを始めた。
鶏肉に軽く塩を振り、刻んだ香草を散らす。
ローズマリーとタイム、ほんの少しの胡椒。
この世界の食材は、前世のそれと驚くほど似ていた。
「……お姉様、本当に慣れてる……」
マリアンネは目を輝かせた。
火を起こし、包み焼き用の薄い葉に包んで置く。
じゅ、と小さな音がして、ほどなく香ばしい匂いが立ち上った。
同時に、小鍋では色鮮やかな野菜が煮込まれている。
茄子、ズッキーニ、トマト…。
素材の水分を活かした、素朴なラタトゥイユ。
「……アマーリエ様」
クララが、とうとう堪えきれずに口を開く。
「どこで、このような……?」
「昔、物語で読んだの」
アマーリエは手を止めず、淡々と答える。
「異国では、火と香草だけで、こういう料理をするって」
それは、前世の記憶を“過去の物語”として語る、彼女なりの距離の取り方だった。
誰にも明かすつもりはない。
今は、まだ…。
「すごい……」
マリアンネは、羨望を隠しきれない声を漏らす。
そのときだった。
――不思議な香りだ。
森の奥、鍛錬を終えたばかりの男が、ふと足を止めた。
風に乗って届いた香りは、野営で嗅いだものにも似ている。
だが、粗野ではない。
整っていて、どこか思考の奥に触れてくる。
香りを辿り、しばらく歩くと視線の先、湖の畔の木陰に三人の女性の姿が見えた。
貴族の令嬢だろうが、過剰な装いも気取りもない。
(……料理、か)
火の扱いは慣れている。
だが、軍で覚えたやり方とも、王宮のそれとも違う。
必要なものだけを選び取り、静かに重ねていく手つき。
肩書きよりも、考え方が先に目に入る令嬢。
そんな存在を、彼は知らなかった。
飾り気はない。
だが――だからこそ、その佇まいは妙に目を引く。
男は、しばし迷った末、歩み寄った。
「……失礼、少しいいだろうか。香りに誘われて、ここまで来てしまった…」
アマーリエは顔を上げ、穏やかに一礼する。
「どうぞ。よろしければ…お裾分けに、お一ついかがですか?」
差し出された包み焼きと、温野菜。
男は一瞬だけ逡巡し、それから受け取った。
口に運び、静かに目を細める。
「……随分、食に詳しいようだ…」
「詳しい、というほどでもありません」
アマーリエは微笑みもしない。
「身体は、食したもので出来ておりますから…。
考えれば、自然なことですわ」
その答えに、男は思わず息をついた。
「なるほど……理にかなっている」
短くそう言ってから、彼は包みを持ったまま、軽く頭を下げる。
「ご馳走になった。礼を言おう」
名も、身分も聞かない。
彼女も、問わない。
「私はこの近くの伯爵家の者でね。
王弟の側近であるフェリクスという男がいるだろう? その者の母の実家の、遠縁にあたる…。」
それだけを告げると、男はそれ以上の説明を避けるように踵を返した。
「また、どこかで…」
湖畔に残されたのは、再び穏やかな風と、香草の香り。
だが、この一皿と、この言葉は――
確実に、誰かの記憶に深く刻まれていた。
風が、もう一度、香りを遠くへと運んでいった。
屋敷へ戻る道すがら、レオンハルトはふと気づいた。
剣を振った後に残っていたはずの重だるさが、いつの間にか消えている。
呼吸は深く、頭も冴えていた。
——気のせい、ではない。
「……妙だな」
ただ食事をしただけだ。
それも、豪奢な料理ではない。
だが、体は確かに軽い。
(あの令嬢……ただ食に詳しいだけでは、ないのか?)
そう考えてから、彼は小さく首を振った。
まだ判断するには早い。
だが——
“健康”という言葉が、消えずに残った。
閉ざされた室内は重たいカーテンが引かれ、午後の光は細く遮られていた。
香を焚いたはずの部屋は、なぜか息苦しい。
ローザリアは、姿見の前に立ち尽くしていた。
白磁のような肌、丁寧に整えられた髪。
――どこを見ても、完璧なはずなのに。
(……どうして)
爪が、ぎゅっと掌に食い込む。
学園で囁かれている噂。
令嬢たちのお茶会で、ひそひそと交わされる評価。
――体調を整える助言をしたらしい。
――特別な薬も使わず、食事だけで。
また、令息達の中でも話題なっているらしい。
――派手さはないのに、不思議と印象に残る令嬢だ、と。
そして、今日耳にした、最も腹立たしい一言。
(……王妃様まで、気になさっている、ですって?)
胸の奥で、黒い感情がゆっくりと泡立つ。
(ただの食事でしょう……?
ただの、飾り気のない何の取り柄もなく、面白みのない女…!)
自分は、社交も、振る舞いも、努力して磨いてきた。
それなのに――
“自然体”というだけで、話題にされる存在。
理解できない。
だからこそ、許せなかった…家格だけが、あの女の唯一の取り柄なのに。
その時ーー
「ローザリア?」
背後から、呑気な声。
振り返る間もなく、腕を取られ、腰を引き寄せられた。
オスカーだ。
「どうしたんだい?
今日はずいぶんと静かじゃないか…」
彼は何も知らない。
学園での噂も、令嬢たちの視線も、ましてや彼女の胸の内に渦巻く感情など。
「……少し、考え事をしていただけですわ」
ローザリアは、はっとして表情を整える。
完璧な微笑みを、即座に貼り付ける。
「そうか。無理はするなよ」
それ以上踏み込まず、オスカーは彼女の肩を抱いた。
その腕の中で、ローザリアは一瞬、我に返る。
――今の自分は、醜かった。
(……いけないわ)
けれど、胸の奥で、別の声が囁く。
(見ていなさい)
唇の端が、ほんのわずかに歪む。
(王妃様の関心も、噂も……すべて、わたくしの方へ引き寄せてみせる…)
嫉妬の炎は、静かに形を変える。
衝動ではなく、計算された執着へと。
ローザリアは、オスカーの胸に頭を預けながら、誰にも聞こえない決意を、心の内で繰り返した。
——次に、話題の中心に立つのは、わたくしですわ。




