第5話|噂と、慎重な手のひら
学園の廊下では、同級生たちが小声で話し合っていた。
「アマーリエ様、体調はもう大丈夫なのかしら……?」
「階段から落ちたって聞いたけど、本当に無事だったの?」
「犯人は誰なの? 許せないわ……」
クラスメイトや学園の生徒たちは、心配と憤りを滲ませながら、自然とアマーリエの名を口にしていた。
事件そのものだけでなく、彼女がその後も静かに学園へ戻ってきたことが、かえって強く印象に残っている。
そんな中、ひときわ小さなざわめきが起きた。
「ねえ……あの子、顔色、良くない?」
声の先にいたのは、以前から不眠を訴えていた女子生徒だった。
目の下にはうっすらと影があり、授業中もぼんやりしていることが多かった生徒だ。
「最近、眠れなくて……朝も食欲がなくて」
そう打ち明けられた時、アマーリエは大げさな言葉を使わなかった。
ただ静かに、
「夕食は、少し軽めにしてみて。
それから、寝る前に温かい飲み物を」
考えるように視線を上げ、静かに続ける。
「ホットミルクや、刺激の少ないハーブティーもいいわね。それと……白湯もおすすめよ」
「白湯?」
聞き返され、アマーリエは小さく頷いた。
「水を一度きちんと沸騰させてから、人肌より少し温かいくらいまで冷ましたものなの。
何も加えていない、ただの温かい水のことよ」
言い聞かせるような口調ではなく、あくまで淡々と。
「体を内側から温めてくれるし、胃腸にも負担が少ないわ。巡りも良くなるから、体質の改善や老廃物の排出にも効果があるの」
少し間を置き、穏やかに付け足す。
「無理に全部やらなくていい…。できそうなものを、続けられる形でやれば良いの。」
それだけ言うと、アマーリエはそれ以上踏み込まなかった。
けれど、その言葉は確かに相手の中に静かに残っていた。
ーー数日後。
その生徒は、以前よりも明らかに顔色が良くなっていた。
「……久しぶりに、ちゃんと眠れたの。朝も、少しお腹が空いたのよ」
それを聞いた周囲の生徒たちは、思わず息を呑む。
「え、薬でもないのに?」
「それだけで?」
驚きと、わずかな羨望。
誰もが、アマーリエをちらりと見る。
彼女は特別なことをした様子もなく、いつも通りの静かな佇まいだった。
一気に広がるわけではない。
だが、気づけば周囲に染み込んでいる。
小さな変化が、日常の奥へと静かに根を張っていく。
その噂は、やがて別の場所にも届く。
オスカーは、廊下の端でその話を耳にし、足を止めた。
胸に浮かぶのは、困惑と焦り。
「……そんなことまで、できたのか?」
元婚約者のオスカーは、噂を耳にし、わずかに言葉を失った。
かつて「つまらない」と切り捨てた相手が、静かに評価を集めている。
その隣で、ローザリアは表情を強張らせる。
(なによ……あんな女……)
(私の方がずっと……ただの家格だけの女じゃなかったはずでしょう?)
ローザリアは何も言わず、静かに唇を引き結ぶ。
オスカーもまた、視線を逸らしたまま、口を開こうとはしない。
二人はただその場で、噂を遠巻きに眺めるだけだった。
一方、王宮では、王弟殿下付きの側近であるフェリクス・フォン・ラインハルトが、書簡に目を通していた。
王弟が確認する各貴族の領地収入や状況は、必ず事前にフェリクスが精査する。
そんなフェリクスの脳裏に、先日立ち寄ったヴァイスベルク侯爵家での出来事が、ふとよぎった。
医療でも、薬でもない。
たった一つ――「食事」。
理知的な眼鏡の奥で、視線が細まる。
(偶然にしては、筋が通りすぎている)
フェリクスは、その違和感を簡潔に王弟へ報告することを、心の中で決めていた。
さらに、侯爵家の屋敷では、使用人たちの間でも最近の変化が話題になっていた。
「マリアンネ様、最近お顔の色がいいわよね」
「朝食も、前よりきちんと召し上がっていらっしゃる」
厨房では、料理人たちがひそひそと声を交わす。
アマーリエは決して命令口調ではなく、
「少しだけ、こうしてもらえる?」
と、あくまで提案の形を崩さない。
そのため、誰の気分を害することもなかった。
一人の使用人が、爪先を指でなぞりながら言った。
「そういえば最近、手荒れも酷くなく、爪も欠けにくいんです」
「前は、少しぶつけただけで割れていたのに……」
厨房にいた年配の使用人が、思い当たったように頷く。
「最近の献立、鶏肉が増えましたよね」
「ほうれん草も、よく使うようになりましたし」
「ナッツも刻んで入ってます」
「玄米パンの日もありましたね」
「果物も、前よりちゃんと出るようになって……」
別の使用人が、湯気の立つカップを手に取り、ふっと笑う。
中身は白湯だ。
「それに、アマーリエ様が
“水分も忘れずに。喉が渇く前に飲むのよ”って」
誰かが、小さく感心したように息をついた。
「特別なことじゃないのに……」
「でも、ちゃんと効いてるんですね」
爪の欠けにくさ。
手荒れの減少。
疲れにくさ。
どれも些細で、言われなければ見過ごしてしまう変化だ。
けれど――毎日使う体だからこそ、その違いは確かだった。
使用人は、もう一度自分の手を見下ろす。
「……体って、正直なんですね」
その言葉に、誰も否定しなかった。
側近であるフェリクスからの報告を聞き終え、王弟レオンハルト・アルベルト・フォン・アウレリアは、しばし黙考した。
「実に……興味深いな……」
それだけを呟き、指先で机を軽く叩く。
その先にある名前が、まだ呼ばれることはない。
「君に……いつか、出会えるだろうか……」
まだ見ぬ相手――
そんな彼女に思いを馳せながら、レオンハルトは精悍な面差しの頬を、わずかに緩めた。




