第4話|静かな確信と、過去の影
朝の光が、レースのカーテン越しに柔らかく差し込んでいた。
アマーリエは窓辺に立ち、庭の木々が風に揺れる様子を、静かに眺めている。
屋敷は、昨日までと変わらず整っている。
使用人たちの足音も、いつも通り規則正しい。
――それでも。
(確かに、何かが動き始めている)
昨日の食卓。
父の胃の重さ、母の冷え。
どれも大事には至らないが、長く見過ごされてきた違和感だった。
ほんの少し、食べ方を変えただけ。
量を抑え、温かいものを選び、負担を減らしただけ。
(……それだけのことなのに)
アマーリエは、胸の奥に残る感覚を確かめるように、そっと指を握る。
――知っている。
――こういう小さな積み重ねが、確実に人を立て直すことを。
理由は、分かっていた。
(私は、また同じことをしている)
意識しなければ波立たない記憶。
けれど、ふとした拍子に顔を出す、前世の断片。
名前は、思い出せない。
それでも、献立表の文字の並びや、食事記録の紙の感触は、今もはっきり覚えている。
二十一歳で栄養士になり、
産婦人科、大学病院、介護施設、学校、保育園――
場所を変えながら、人の「食」と向き合い続けてきた。
(特別なことをしていたわけじゃない)
(ただ、少し整えるだけ)
それで救われる人がいることを、何度も見てきた。
結婚はしなかった。
その代わり、推しの声に癒やされ、物語に没頭し、ゲームに夢中になった。
忙しくて、それなりに満たされていて――後悔は、少なかったはずだ。
(それなのに)
なぜ、ここにいるのか。
なぜ、また十七歳として、生きているのか。
答えは、まだ出ない。
アマーリエは小さく息を吐き、視線を庭へ戻す。
(……今は、考えなくていい)
気づいてしまった以上、知らなかった頃には戻れない。
だからこそ、やるべきことは明確だった。
(まずは、食から)
(静かに、ひとつずつ)
その眼差しは、すでに次の一歩を見据えていた。
――そういえば。
王弟殿下付き側近は、王宮の廊下を歩きながら、ふと思い出していた。
先日立ち寄った、ヴァイスベルク侯爵家での出来事を。
書簡の受け渡しだけの、短い訪問。
それ自体は、特別なものではなかった。
ただ――
廊下を進んでいた時、使用人たちの間に、わずかなざわめきがあった。
「今朝は、旦那様がお加減を崩されていたとか」
「ええ……ですが、もう落ち着かれたそうです」
それだけなら、よくある話だ。
侯爵家ともなれば、体調の波もある。
――気になったのは、その“理由”だった。
「お嬢様が、食事を少し変えられたそうで……」
医師の名も、薬の話も出なかった。
ただ、「食事」。
若い令嬢が、父の体を“整えた”という表現。
(……珍しいな)
医学に傾倒する令嬢は、珍しくない。
だが、結果が伴うことは、さらに少ない。
側近は足を止めることもなく、そのまま聞き流した。
あの時は、深く考えもしなかった。
――けれど。
今になって、ふと胸に引っかかる。
(偶然、か……)
眼鏡の奥で、静かに視線が細まる。
(あるいは……)
答えは出さない。
ただ、その名だけが記憶に残った。
アマーリエ・フォン・ヴァイスベルク。
それだけだった。
朝の食卓での一件から、数日が過ぎていた。
侯爵である、父の胃の不調はすっかり落ち着き、以前のように執務へ戻っている。
母もまた、厚着を手放し、穏やかな表情で過ごす時間が増えていた。
けれど――
アマーリエには、まだ一つだけ気にかかる存在があった。
「……マリアンネ?」
廊下で妹の後ろ姿を見かけ、声をかける。
マリアンネは振り返り、いつものように明るく微笑んだ。
「なあに? お姉様」
その笑顔は変わらない。
だが、歩き出した瞬間、わずかに身体が揺れた。
ほんの一瞬。
本人も気づかないほどの、小さなふらつき。
(やっぱり……)
アマーリエは何も言わず、自然な動作でマリアンネの腕に手を添える。
「急がなくていいわ。一緒に行きましょう」
「大丈夫なのに」
そう言いながらも、マリアンネは素直に歩調を合わせた。
その様子を見て、アマーリエは胸の内で小さく息をつく。
(無理をしていて自覚がないのが、一番やっかいよね)
――その日の朝食。
マリアンネの前には、いつもより少しだけ量を抑えた食事が並んでいた。
重たい料理はなく、卵料理と柔らかいパン、色の濃い野菜。
そして、小さな皿に切り分けられた果物。
「今日は少し軽めね」
マリアンネが首を傾げる。
「食欲はある?」
「うーん……あるけど、たくさんは要らないかも」
「それでいいわ」
アマーリエは淡々と答えた。
「まずは、よく噛んで。急がなくていいの」
理由は言わない。
説明もしない。
ただ、マリアンネの向かいに座り、同じように食事を始める。
しばらくして。
「……なんだか、今日は食べやすい」
ぽつりと、マリアンネが呟いた。
「…そう?」
「うん。いつもより、頭がふわっとしない気がする」
アマーリエは、何事もないように紅茶に口をつける。
(すぐに実感できなくていい)
(体は、ちゃんと積み重ねを覚えている)
食後、マリアンネは席を立ち、いつもより足取り軽く部屋を出ていった。
その背中を見送りながら、アマーリエは静かに考える。
(貧血は、急には治らない)
(だからこそ、毎日の“少しずつ”が大事)
スープに頼る必要はない。
特別な薬も要らない。
必要なのは――
気づいて、整えて、続けること。それだけだ。
アマーリエは窓の外を一瞥し、静かに決意を新たにした。
(……次は、もう少しだけ踏み込んでもいいわね)
小さな変化は、確かに始まっていた。




