表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約者を奪われましたが、前世の知識で幸せを取り戻します  作者: 絵宮 芳緒


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/23

第6話|その一皿の香りに、記憶が残る

柔らかな木漏れ日が、芝の上にまだらな影を落としていた。

初夏の風は穏やかで、葉擦れの音とともに、草と土の匂いを運んでくる。


アマーリエは、侯爵家の別邸にある森にほど近い湖の畔で、しっかりとした厚みのある柔らかな敷物を広げていた。

過度に飾り立てることはないが、質の良さがひと目で分かる布地だ。


「お姉様、ここでいい?」


マリアンネが楽しそうに周囲を見回す。


「ええ。日差しも強すぎないし、風も通るわ」


傍らでは、専属メイドのクララが手際よく籠を下ろしていた。


いつの間にか、その視線は、すでにアマーリエの動きに釘付けになっている。


アマーリエは迷いなく、包みを解き、中身の材料を出して下ごしらえを始めた。

鶏肉に軽く塩を振り、刻んだ香草を散らす。

ローズマリーとタイム、ほんの少しの胡椒。


この世界の食材は、前世のそれと驚くほど似ていた。


「……お姉様、本当に慣れてる……」


マリアンネは目を輝かせた。


火を起こし、包み焼き用の薄い葉に包んで置く。

じゅ、と小さな音がして、ほどなく香ばしい匂いが立ち上った。


同時に、小鍋では色鮮やかな野菜が煮込まれている。

茄子、ズッキーニ、トマト…。

素材の水分を活かした、素朴なラタトゥイユ。


「……アマーリエ様」


クララが、とうとう堪えきれずに口を開く。


「どこで、このような……?」


「昔、物語で読んだの」


アマーリエは手を止めず、淡々と答える。


「異国では、火と香草だけで、こういう料理をするって」


それは、前世の記憶を“過去の物語”として語る、彼女なりの距離の取り方だった。

誰にも明かすつもりはない。

今は、まだ…。


「すごい……」


マリアンネは、羨望を隠しきれない声を漏らす。


そのときだった。


――不思議な香りだ。


森の奥、鍛錬を終えたばかりの男が、ふと足を止めた。


風に乗って届いた香りは、野営で嗅いだものにも似ている。

だが、粗野ではない。

整っていて、どこか思考の奥に触れてくる。


香りを辿り、しばらく歩くと視線の先、湖の畔の木陰に三人の女性の姿が見えた。

貴族の令嬢だろうが、過剰な装いも気取りもない。


(……料理、か)


火の扱いは慣れている。

だが、軍で覚えたやり方とも、王宮のそれとも違う。

必要なものだけを選び取り、静かに重ねていく手つき。

肩書きよりも、考え方が先に目に入る令嬢。


そんな存在を、彼は知らなかった。

飾り気はない。

だが――だからこそ、その佇まいは妙に目を引く。


男は、しばし迷った末、歩み寄った。


「……失礼、少しいいだろうか。香りに誘われて、ここまで来てしまった…」


アマーリエは顔を上げ、穏やかに一礼する。


「どうぞ。よろしければ…お裾分けに、お一ついかがですか?」


差し出された包み焼きと、温野菜。

男は一瞬だけ逡巡し、それから受け取った。

口に運び、静かに目を細める。


「……随分、食に詳しいようだ…」


「詳しい、というほどでもありません」


アマーリエは微笑みもしない。


「身体は、食したもので出来ておりますから…。

考えれば、自然なことですわ」


その答えに、男は思わず息をついた。


「なるほど……理にかなっている」


短くそう言ってから、彼は包みを持ったまま、軽く頭を下げる。


「ご馳走になった。礼を言おう」


名も、身分も聞かない。

彼女も、問わない。


「私はこの近くの伯爵家の者でね。

王弟の側近であるフェリクスという男がいるだろう? その者の母の実家の、遠縁にあたる…。」


それだけを告げると、男はそれ以上の説明を避けるように踵を返した。


「また、どこかで…」


湖畔に残されたのは、再び穏やかな風と、香草の香り。


だが、この一皿と、この言葉は――


確実に、誰かの記憶に深く刻まれていた。


風が、もう一度、香りを遠くへと運んでいった。





屋敷へ戻る道すがら、レオンハルトはふと気づいた。


剣を振った後に残っていたはずの重だるさが、いつの間にか消えている。


呼吸は深く、頭も冴えていた。


——気のせい、ではない。


「……妙だな」


ただ食事をしただけだ。

それも、豪奢な料理ではない。


だが、体は確かに軽い。


(あの令嬢……ただ食に詳しいだけでは、ないのか?)


そう考えてから、彼は小さく首を振った。


まだ判断するには早い。


だが——

“健康”という言葉が、消えずに残った。





閉ざされた室内は重たいカーテンが引かれ、午後の光は細く遮られていた。


香を焚いたはずの部屋は、なぜか息苦しい。


ローザリアは、姿見の前に立ち尽くしていた。

白磁のような肌、丁寧に整えられた髪。


――どこを見ても、完璧なはずなのに。


(……どうして)


爪が、ぎゅっと掌に食い込む。


学園で囁かれている噂。

令嬢たちのお茶会で、ひそひそと交わされる評価。


――体調を整える助言をしたらしい。

――特別な薬も使わず、食事だけで。


また、令息達の中でも話題なっているらしい。

――派手さはないのに、不思議と印象に残る令嬢だ、と。


そして、今日耳にした、最も腹立たしい一言。


(……王妃様まで、気になさっている、ですって?)


胸の奥で、黒い感情がゆっくりと泡立つ。


(ただの食事でしょう……?

 ただの、飾り気のない何の取り柄もなく、面白みのない女…!)


自分は、社交も、振る舞いも、努力して磨いてきた。


それなのに――

“自然体”というだけで、話題にされる存在。


理解できない。

だからこそ、許せなかった…家格だけが、あの女の唯一の取り柄なのに。


その時ーー

「ローザリア?」


背後から、呑気な声。

振り返る間もなく、腕を取られ、腰を引き寄せられた。

オスカーだ。


「どうしたんだい?

今日はずいぶんと静かじゃないか…」


彼は何も知らない。

学園での噂も、令嬢たちの視線も、ましてや彼女の胸の内に渦巻く感情など。


「……少し、考え事をしていただけですわ」


ローザリアは、はっとして表情を整える。

完璧な微笑みを、即座に貼り付ける。


「そうか。無理はするなよ」


それ以上踏み込まず、オスカーは彼女の肩を抱いた。


その腕の中で、ローザリアは一瞬、我に返る。


――今の自分は、醜かった。

(……いけないわ)


けれど、胸の奥で、別の声が囁く。

(見ていなさい)


唇の端が、ほんのわずかに歪む。


(王妃様の関心も、噂も……すべて、わたくしの方へ引き寄せてみせる…)


嫉妬の炎は、静かに形を変える。

衝動ではなく、計算された執着へと。


ローザリアは、オスカーの胸に頭を預けながら、誰にも聞こえない決意を、心の内で繰り返した。


——次に、話題の中心に立つのは、わたくしですわ。



登場人物




アマーリエ・フォン・ヴァイスベルク

(17歳)

侯爵家ヴァイスベルク家の長女で、正式な跡継ぎ。

婿入り前提で婚約していたが、婚約破棄をきっかけに前世の記憶を思い出す。

前世は50代独身の栄養士。

感情に流されず、現実的で観察眼が鋭い。

料理と体調管理の知識を活かし、領地と人を立て直していく。

見た目は落ち着いた美貌だが、内面はかなり肝が据わっている。




レオンハルト・アルベルト・フォン・アウレリア

(26歳)

現国王の弟で、国内外から一目置かれる存在。王位継承権第三位。

武勇と知略を兼ね備えた人物だが、私生活は驚くほど質素。

必要以上に己を飾らず、物事の本質を見る目を持つ。




マリアンネ・フォン・ヴァイスベルク

(14歳)

侯爵家ヴァイスベルク家の次女。

アマーリエの妹で、姉を素直に慕っている。

婚約破棄後も変わらず姉の味方。

年相応の明るさと、貴族令嬢としての教育を受けた聡明さを併せ持つ。




フェリクス・フォン・ラインハルト

(30代前半)

王宮から派遣された、王弟殿下付きの側近。

理知的な眼鏡をかけ、常に無表情を崩さない。

感情を交えず、事実と結果のみで物事を判断する合理主義者。

侯爵家に書簡を届ける役目で訪れた際、

アマーリエの在り方と屋敷内の変化に、静かな違和感を覚える。




オスカー・フォン・グラーツ

(17歳)

侯爵家グラーツ家の次男。

跡継ぎではなく、立場を主人公の家に頼る形で婿入り予定だった。

自尊心は高いが実力が伴わず、

甘言に弱く、楽な方へ流されやすい性格。

自分が「選ばれる側」だと思い込んでいた。




ローザリア・フォン・ベルク

(17歳)

ベルク子爵家の令嬢。

美貌と愛想を武器に、オスカーに近づいた張本人。

向上心は強いが、現実の身分差や貴族制度を甘く見ている。

自分の行動がもたらす結果を、深く考えないタイプ。




クララ

(年齢:20代半ば)

ヴァイスベルク侯爵家の専属メイド。

落ち着いた所作と実務能力の高い女性で、アマーリエ付きとして仕えている。

感情を表に出すことは少ないが、主の体調や変化には人一倍敏感。

アマーリエの指示を疑問なく実行に移す柔軟さを持ち、「命じられる前に動く」タイプの有能な使用人。

主人を支える立場をわきまえつつも、

内心ではアマーリエの変化と才覚を強く信頼している。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ