一足先に、やくそくのおそろしい歌
【ねこなでごえ】
猫撫で声とは猫を撫でた時のような優しく媚びを含んだ甘ったるい声のこと。
ほうほう。
俺は人間が何かわかった時のように「ふむふむ」と頷いた。
今日の俺は人間のにーとだ。
そして、今はせんせいの“じゅぎょう”の最中である。
俺はついこないだアカに教えて貰う事の出来なかった言葉の意味をせんせいに教えてもらった。
せんせいはすぐに答えてくれた。
「せんせいは本当に物知りだねぇ」
「ふふー!辞書があれば何でもわかるよ!」
そう言ってせんせいがらんどせるから取り出したのは、とても分厚い本だった。
表紙には大きな字で、俺のまだ読めない“かんじ”が書いてある。
どうやら、これを使えば分からない言葉の意味がすぐに分かるらしい。
いつもの公園のいつもの木の椅子に座った俺とせんせい。
せんせいは「他に何か知りたい言葉はありますかー?」と俺に向かって言うと分厚い本を開いてにこにこになった。
俺は考えた。
知らない言葉はたくさんある。
けれど、それはまだ俺が知らない言葉だから知らない。
わからない意味の言葉うんぬんよりも、俺は知らない言葉を知らないのだ。
「んんんんー」
「なーんでもいいんだよ!」
俺は頭をひねって考える。
知りたい言葉が何かと言われるというのは、こんなにも困る事だったのか。
そこまで考えて、俺はハタと一つの考えに思い至った。
「えっと、何か他に“猫”のつく言葉が知りたいなぁ」
「えっ?猫のつく言葉……?」
俺がポツリとそう言うと、せんせいはどこか困ったように開いた辞書をパラパラとめくった。どうしたのだろうか。
俺は何か間違ったのだろうか。
「えっと、猫、猫のつく言葉……」
「何か俺ちがった事言った?」
「んーと、辞書はね、知りたい意味の言葉がわからないと使えないんだ。だから、猫のつく言葉を何かをまず探さないと」
「……えっと、俺わからない」
猫のつく言葉を他に知りたいのに、猫のつく言葉を探せと言われるとは思わなかった。
どうやらせんせいの手にある“じしょ”は猫のつく言葉が何かは教えてくれないらしい。
ちょっと、残念である。
俺は最近ようやく“ひらがな”を読めるようになってきた。
書くのはまだ“まぎょう”までしか書けないが、読むのは大丈夫になった。
でも、“まぎょう”はもうひらがなの最後の方だから、もうすぐ全部のひらがなを覚えられる。
だから、できれば俺もその“じしょ”を使ってみたかった。
「わかったよう。俺が先生に猫のつく言葉が何か無いか聞いてみるよ」
「せんせいに?せんせいはせんせいでしょ?」
俺は“せんせい”の言う“せんせい”という言葉に首を傾げた。
せんせいというのは目の前に居る人間の子供の名前ではないのか?
「先生は先生だよ、俺はにーとのにーちゃんの先生だけど、俺にも先生が居るの!学校に!」
せんせいの言葉に俺の頭はいよいよグルグルになってきた。
どうしよう、せんせいの言っている意味がわからない。
「あれ?せんせいはせんせいって名前じゃないの?他にもせんせいって名前の人が居るのか?」
「はぁ?もしかしてにーとのにーちゃん、俺の名前を“先生”だと思ってたの?」
「ちがうのか?」
俺がそうやって目をぱちぱちさせると、突然せんせいは腹を抱えて笑い出した。
にこにこし過ぎて、目から水が出てくるほどだ。
俺はどうやら何か間違っていたらしい。
「っははは!ちがっうよう!“先生”って言うのは何かを教えてくれる人の事だよ!“おまわりさん”と同じようなもの!“おまわりさん”は“おまわりさん”って名前じゃなくて、悪い人を捕まえる仕事の人の事だろ?それと同じで“先生”は人に何かを教えるのが仕事の人の事だよ!ニートのにーちゃんは本当になーんにも知らないんだな!」
「知らなかった……」
「ニートのにーちゃん、これじゃいつまでたっても0点ばっかだぞ!×ばっかだ!」
「うう……」
てっきり俺はこの男の子の名前が“せんせい”なのだとばかり思っていた。
“せんせい”は名前ではなく人に何かを教えるのを仕事にしている人の事をまとめてそう呼ぶらしい。
そう言われると俺はやっと納得した。
あぁ、またしても俺はれいてんのばーつだったわけだ。
俺はいつになったらひゃくてんのまーるになれるのだろう。
「えっと、それじゃあ。せんせいは“俺の”せんせいだったんだね?」
「うん!そう!俺の名前は“蛭池ゆうき”だよ!」
ひるいけ ゆうき
俺はこの時初めてこの目の前のかしこい子供の名前を知った。
今まで呼んでいた“せんせい”というのは名前でなく仕事のこと。
言われてみれば“せんせい”なんて名前はちょっとおかしい気もする。
「ひるいけゆうき」
「んー。ゆうきって呼んでもいいけど、俺はにーとのにーちゃんの先生だから……俺の事はやっぱり先生って呼んでよ!ぜったい!」
「わかった!せんせい!」
俺がそう言って改めてせんせいを呼ぶと、せんせいは小さなほっぺたをポッとピンクにしちた。
人間も猫も小さいのはかわいいと思う。
俺も今更せんせいを“ひるいけゆうき”と呼ぶのは難しいから、凄く助かった。
「俺の家ねー、お父さんもお母さんも先生なんだよー」
「せんせいの親もせんせいなんて凄いね!」
「ふへへ」
せんせいは人にモノを教えてくれる人のこと。
そして、俺のせんせいは目の前のひるいけゆうき。
そして、ひるいけゆうきの親もせんせい。
せんせいばっかりで少し混乱してきたが、ともかくせんせいはやっぱり物知りで凄いと思う。
「だから、俺が次にニートのにーちゃんに授業するまでに猫のつく言葉を調べとくから、にーとのにーちゃんはそれまでに“ひらがな”を全部書けるようになること!」
「…えっと、できるかな?」
俺は突然目をきらきらさせ始めたせんせいに頭の毛がぴーんとなるのを感じた。
この顔は俺が初めてせんせいを“せんせい”と呼んだ時の目と似ている。
次までにひらがなを全部書けるようになるなんて。
そんなぁ。
「できるかな?じゃなくてやるの!早くカタカナをしないとニートのにーちゃんはいつまでたっても×のまんまだぞ!」
「うっ」
それは嫌だ。
いつまでたってもばーつのれいてんでは人間の大人として恥ずかしい。
よし、今日渡瀬神社に帰ったら50回ずつ“まぎょう”の後を書こう。
渡瀬神社にはせんせいに貰ったお手本の紙もあるから大丈夫だ。
きっと、大丈夫だ!
「わかりました!せんせい!俺、がんばります!」
「よーし!がんばれ!ニートのにーちゃん!カタカナはもうすぐだ!」
そう言って手をグーにしたせんせいはグーの中から小指を一本突き出してきた。
よく分からなかったが、俺も真似してぐーにして小指を突き出す。
そんな俺にせんせいは自分の小さな指と俺の大きな指をからませて、そして。
うたった。
「ゆーびきりげーんまん」
「ゆーびきりげーんまん?」
せんせいの言葉の後に続けて俺もうたってみた。
すると、せんせいはにこにこしたまま頷く。
ゆびきり、げんまん。
「うーそついたらはりせんぼん」
「うーそついたらはりせんぼん?」
ウソついたら、はりせんぼん。
「のーますっ!指きった!」
そうせんせいが歌い終わった瞬間、俺とせんせいの絡んでいた指はとれた。
また新しい歌を覚えてしまった。
短いからこれは簡単だ。
(ゆーびきりげんまん、うそついたらはりせんぼん、のーます!ゆびきった!)
ほら、もう完璧だ。
俺は心の中でせんせいの歌った歌を繰り返すと、なんだか自分が物覚えがよくなった賢い人間のような気がして嬉しくなった。
こんなの“ひらがな”に比べれは簡単だ。
らくしょう、らくしょう、だ。
「これは約束の歌だよ」
「うん!もう覚えたよ!ゆーびきりげんまん、うそついたら、はりせんぼんのーます!ゆびきった!でしょ?かんたんだよ!」
「じゃあ、ニートのにーちゃんは“ひらがな”も簡単だな?」
そう、笑って問いかけて来る先生に、俺はなんとも自信を持って返事が出来なかった。
いや、歌は好きだから覚えられるけど、ひらがなは難しいからな。
けど、50回書いたら多分大丈夫だろう。
「う、うん。大丈夫さ」
「もし、ニートのにーちゃんが約束破ったら、ニートのにーちゃんは針を千本飲まないとダメなんだ」
「ええっ!?針を!?千本も!?」
「そうだよ?そう言う歌だもん」
「…………」
俺はなんて事なさそうな顔で言ってのけるせんせいに開いた口が塞がらなかった。
そうか、確かに「ウソついたら針千本飲ます」と言っている。
楽しい音なのに、なんて恐ろしい歌なのだろう。
いくら大変な人間の俺でも針を千本も飲んだら死んでしまう。
人間は、時々とても恐ろしい事を考える。
「ニートのにーちゃん!がんばれな!」
「……う、うん」
俺は恐ろしい歌をうたった張本人であるせんせいのにこにこ顔を見ながら頷いた。
またひとつ、人間の歌を知った。
“ねこふんじゃった”に続く、恐ろしい歌だ。
針千本なんて、なんて事だろう。
なんだか体がぶわぶわする。
また、眠れなくなったら歌の言葉を変えよう。
『ウソついたら、しろのふれんちとーす千個飲ます』にしよう。
あ、なんだか少し怖いのが無くなった。
「ふふふ」
俺が一人で千個のふれんちとーすとを想像して笑っていると、隣で帰る準備をし始めたせんせいが「楽勝だなぁ」と笑っていた。
その後、俺はせんせいと互いに手を左右に振ってお別れした。
この手のフリフリは「さよなら」の時の動き。
もうすっかり使うのも上手になったと思う。
「んーっ!」
さて、どうしよう。
今日はせんせいと約束したように早目に渡瀬神社に帰って“まぎょう”の後のひらがなを50回ずつ書く練習でもしようか。
そう、俺がどうしたものかと考えながら道をフラフラと歩いて居る時だ。
「な゛ぁぁぁ。な゛ぁぁぁ」
俺の背後から、なんとも低い、けれども優しく媚びを含んだ甘ったるい声が聞こえてきた。
あれ、もしかしたらこれは「ねこなで声」ではなかろうか。
俺がそんな事を思っていると、声の主はいつの間にか俺の足にピトッとくっついていた。
「ふふ。こんにちは、ぼす」
「な゛ぁぁぁ」
普段では考えられないような、それこそねこなで声で俺にすり寄ってきたのは紛れもなく“ぼす”であった。
なにやら、その口には何かが咥えられている。
『ほら、テメェの飯を取ってきてやったぜ』
「………」
ぼすの口には大きな鼠が咥えられていた。
キラキラときらめくその大きな目を見て俺はなんだかとても遠い昔を思い出してしまった。
(兄貴!ほら!これ兄貴の為にとってきたんだぜ!大きいだろ!?)
「な゛ぁぁぁぁ」
はぁ。
俺は自然と漏れた溜息に、どうしたものかとぼすの咥えたごはんを見つめるのだった。
できれば“ふれんちとーすと”が良かったなぁ、なんて思いながら。




