第9話 変装した騎士
煙突街の闇は、光を吸い込む泥のように粘りついていた。
昼間の熱気が冷え切らぬまま、重たい石炭の粉塵と湿った川霧が混じり合い、石畳の窪みに淀んでいる。軒先から垂れ下がる無数の洗濯物の隙間を縫うように、ユーグ・アルマンは足を運んでいた。
擦り切れた鳥打帽を目深に被り、煤と油で汚れた作業着の襟を立てたその歩みは、普段の彼が練兵場で見せる完璧な直進とは違っていた。肩をわずかにすぼめ、足元を確かめるように重心を低く保つ。軍靴の硬質な踵を鳴らす癖を殺し、擦り減った短靴のゴム底で泥水をそっと押しつぶす歩法。
徹底的な訓練によって叩き込まれた潜入工作の技術が、彼を「煙突街の無骨な日雇い労働者」の輪郭へと完全に嵌め込んでいた。
だが、肌のすぐ下を流れる血の冷たさだけは、軍服を脱ぎ捨てても変わらない。
作業着の内ポケットに忍ばせた、小型の手帳と短い鉛筆の芯。その平たい感触が、胸骨のあたりを硬く圧迫している。
(……異様だな)
すれ違う男たちの様子に、ユーグは鳥打帽の庇の陰から鋭い視線を走らせた。
日雇いの人夫、港湾の荒くれ者、擦り切れかけた前掛けを締めた職人見習い。普段ならば、疲労困憊して路地裏の溝にへたり込んでいるか、安酒場の前で泥酔して怒鳴り散らしているはずの連中が、申し合わせたように同じ方角を目指して足早に歩いている。
その顔には、一日の重労働を終えた気怠さなど微塵もなかった。
何か恐ろしい熱病に冒されたような、血走った眼。唾を飲み込み、互いに口を利くことすら惜しむように、早足で狭い路地へと吸い込まれていく。
まるで、見えない笛の音に引き寄せられるネズミの群れだ。
やがて、前方の角を曲がったところで、人の流れがピタリと止まった。
路地を完全に塞ぐ人の壁。
錆びついた真鍮の看板――酒杯の上で丸くなる黒猫のレリーフが、かすかなガス灯の明かりに鈍く浮かび上がっていた。
地下酒場〈黒猫座〉。
地下へと続く狭い石段には、すでに人が折り重なるようにひしめき合っていた。
「押すんじゃねえよ!」「俺が先だ、銀貨なら持ってるぞ!」「いいから詰めろ、階段の途中でいいから入れさせろ!」
怒号とも懇願ともつかない喚声が、地下の冷たい空気の底から吹き上がってくる。
ユーグは息を潜め、男たちの脂ぎった背中の隙間に身体を滑り込ませた。
衣服と衣服が擦れ合い、生々しい人間の体温と汗の臭気が鼻腔を直撃する。名門貴族の邸宅では絶対に嗅ぐことのない、生きるための濁った匂い。ユーグは眉根をぴくりとも動かさず、押し寄せる群衆の圧力に身を任せて、一段、また一段と地下の闇へと降りていった。
樫の木の重い扉をくぐり抜けた瞬間、叩きつけられたのは、濃密すぎる熱気の塊だった。
「…………っ」
思わず、肺腑が拒絶反応を起こしかけた。
定員五十人ほどの空間に、優に百人を超える人間が詰め込まれている。
酸欠寸前の店内。換気用の小窓からは煙突街の煤煙すら入ってこず、充満するのは焦げた安煙草の紫煙、安酒のツンとしたアルコール臭、そして男たちの皮膚から蒸発する汗の蒸気。
それは酒場というより、密閉された巨大な蒸気機関のボイラーの底だった。
誰もが肩をぶつけ合い、身動き一つ取れない。腕を組むことすら難しく、息をするたびに隣の男の胸板が自分の背中に当たる。
カウンターの奥では、太い腕に刃傷の痕を持つ女主人――マルゴ・デルーが、怒声とともに酒のジョッキを次々と滑らせていた。
だが、酒を飲んでいる客は半分もいない。
男たちの視線は、酒杯ではなく、店舗の最奥に設置された粗末なステージへと一筋に注がれていた。
酒樽を解体した板を敷いただけの、膝の高さほどの粗末な台。
その上に、埃まみれのアップライトピアノが一台、うずくまるように置かれているだけだ。
何もない。舞台装置も、華やかな天蓋も、照明すらもない。
それなのに、群衆の瞳には、熱に浮かされた狂信者のような異様な光が宿っていた。
(……これが、噂の吹き溜まりか)
ユーグは人波の最も外側、壁際の冷たい石積みに背中を押し当て、身を潜めた。
周囲の熱気に巻き込まれぬよう、意識して呼吸を浅く整える。
彼は作業着のポケットの中で手帳を開き、親指大の鉛筆を握り締めた。手元は見えないが、指先の感覚だけで文字を刻む訓練は受けている。
『――地下酒場〈黒猫座〉。店内は収容限界を著しく超過。避難経路の確保なし。火災または将棋倒し発生時の危険性極大。……客層の九割は港湾労働者および下層民。未公認の集会としての違法性は明白』
手帳に刻まれる冷徹な文字。
これだけで、店主を拘束し、店舗を即時封鎖する法的な口実は十分に揃う。
あとは、今夜の「歌い手」が公の秩序を乱す扇動を行っている証拠を押さえるだけだ。
反体制的なアジテーション、教会の教理を冒涜する明確な言辞、あるいは暴動の教唆。それらを一言でも口にすれば、即座に治安維持法違反の現行犯として処理できる。
鉛筆をポケットの奥へ戻そうとした、その時だった。
ふっ、と。
店内の天井から吊るされていた、数少ない油ランプの芯が、カウンターのマルゴの手によって絞られた。
炎が小さくなり、薄暗い琥珀色の光が急速に闇へと沈んでいく。
一瞬で、店内の空気が変わった。
さっきまでジョッキを叩き、怒鳴り合っていた荒くれ者たちが、まるで示し合わせたかのように、ぴたりと口を噤んだのだ。
百人を超える人間が密集している空間から、物音が完全に消え失せる。
残ったのは、不揃いな荒い呼吸の音と、壁の隙間から滴り落ちる水滴の音だけ。
(……何だ?)
ユーグの背筋を、冷たい針のようなものが走った。
軍隊の閲兵式でも、これほどの統制を一瞬で取ることは難しい。命令を下す将校も、号令をかけるラッパもない。ただランプの光が落ちたというだけで、この粗暴な男たちが、自発的に自らの喉を締め上げて沈黙を選んだのだ。
ギィ……と、古い板が軋む音がした。
ステージ脇の薄汚れたカーテンが押し開けられ、ひとつの影が上がってきた。
続いて、ボサボサの黒髪を揺らした男が、気怠そうにピアノの前の丸椅子へと腰を下ろす。
ユーグのヘーゼル色の瞳が、ステージの中央に立った人影を捉えた。
「…………」
思わず、胸の中で嘲るような吐息が漏れた。
あまりにも、矮小だった。
スポットライトもない薄暗闇のなか、ぼんやりと浮かび上がったのは、粗末な濃紺の木綿ワンピースを纏った、痩身の小娘に過ぎなかった。
歳は十八か、そこらか。
化粧気のない青白い顔。後ろで無造作に束ねられた黒髪。胸元も腰回りも肉が薄く、どこにでも転がっている貧民街の孤児と何ら変わりがない。
着ている服は仕立ての悪い安物で、裾のあたりが擦り切れている。
これが、港湾の荒くれ者を泣かせ、帝都警備隊を警戒させた「悪魔の歌姫」だと?
(ただの小娘ではないか)
ユーグは冷ややかに口元を引き結んだ。
馬鹿馬鹿しい。
飢えと過酷な労働で神経を摩耗させた下層民どもが、年端もいかない娘の哀れっぽい身の上話に感極まって、集団催眠にでもかかっているだけだ。
聖歌庁の審問官たちも、こんな路地裏の児戯に怯えて警備隊を動かしたのか。
呆れ果てた溜息を吐き出し、即刻この茶番の記録を締めくくろうと手帳を握り直した――その刹那。
ステージの上の少女が、ゆっくりと顎を引いた。
すぅっ――。
彼女の薄い胸郭が、わずかに広がった。
息を吸い込んだのだ。
ただ、それだけのことだった。
マイクを握ったわけでも、楽器を構えたわけでもない。ただ少女が、歌うために一度、深く空気を肺へと取り込んだ。
その瞬間。
ドクンッ、と。
酒場中の空気が、物理的に一段階、収縮したような錯覚がユーグを襲った。
「…………!?」
ユーグの指が、手帳の上で凍りついた。
何が起きたのか、頭では理解できなかった。
だが、周囲の空間から、完全に「私語」が消滅していた。
いや、私語どころではない。隣の男が息を止めた。前の男が唾を飲み込む音すら飲み込んだ。
酒場を埋め尽くす百人以上の人間が、少女が息を吸い込んだその一瞬、彼女の肺の中に自らの命の空気までも吸い取られてしまったかのように、金縛りに遭っていたのだ。
異様だった。
異常だった。
それは軍隊の規律などという生易しいものではない。
檻の中に放り込まれた無数の野犬が、暗闇の奥から姿を現した一頭の猛獣を前にして、本能の恐怖によって喉を干からびさせたかのような、絶対的な支配。
少女の黒い双眸が、薄暗闇の中でギラリと光った。
光など届いていないはずのその瞳が、闇そのものを反射して、底知れぬ夜の輝きを放っている。
見下ろされている。
壁際に身を潜めている自分までもが、その冷徹で傲慢な視界の底に、逃れようもなく捉えられている――そんな根拠のない悪寒が、ユーグの背骨を冷たく駆け上がった。
(……来る)
ユーグが身構えた。
昨夜の報告にあったような、床を揺らすストンプと、耳を聾する絶叫の嵐が吹き荒れるのだと、無意識に全身の筋肉を硬直させた。
だが。
ピアノの前に座る男――ノアの指先が、鍵盤の上へと静かに降ろされた時、鳴り響いたのは爆音ではなかった。
ポロン……。
暗闇に落ちた一滴の水滴のような、澄んだ、しかし酷く歪んだ音だった。
続いて、低く、引きずるような左手の和音。
ドォン……ズズン……。
それは、跳ねるようなスウィングのリズムではなかった。
重く、遅く、一拍ごとに胸の奥へと沈み込んでいくような、極限までテンポを落としたスロー・ブルース。
長調でも短調でもない。
教会の純正律が絶対に認めない、短三度の濁りを孕んだ、哀愁の塊のようなコード進行。
ノアの指先が鍵盤を撫でるたびに、ピアノの木製の胴鳴りが、すすり泣くような倍音を吐き出していく。
激しい怒りでも、暴力的な熱狂でもない。
そこに漂い始めたのは――寒々とした夜の底で、ただ一人、誰にも届かない叫びを抱えて立ち尽くすような、痛切極まりない「孤独」の気配だった。
ユーグの喉が、知らず知らずのうちに小さく鳴った。
冷徹な観察者としてここに立っていたはずの彼の理性が、そのピアノの第一声によって、外側から薄皮を一枚、静かに剥ぎ取られたような感覚。
そして。
ピアノの哀愁を帯びた前奏が、静寂の底へと溶け入るように途切れた――その息を呑む一瞬の間隙に。
レア・ヴィットの唇が、静かに開かれた。




