↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
10/34

第10話 剥ぎ取られた鎧

静寂の底に落ちた最初の一音は、言葉にすらなっていなかった。


「…………Mmm, nobody knows……」


低く、気怠く、濡れた湿り気を帯びたハミング。

それは、教会の石造りの天井へ向けて放たれる澄み渡ったソプラノとは、およそ対極にある音だった。

肺の底の澱みをそのまま掬い上げたような、ざらついたエッジボイス。半音下へと気怠くぶら下がり、床の鋸屑(のこくず)を撫でるように漂うブルーノートの旋律。

マイクもなければ、音響を補助する魔導具もない。

ただ、酒樽の板の上に立った痩身の少女の喉が、生身の肉体の内側で震えているだけだ。


だが――その第一声が地下酒場〈黒猫座〉の淀んだ空気を切り裂いた瞬間、壁際に身を潜めていたユーグ・アルマンの呼吸が、喉の途中でピキリと凍りついた。


「…………っ」


何かが、胸の真ん中に触れた。

指先でそっと、しかし容赦のない力で、胸骨の最も柔らかい隙間を押し広げられたような感触。

ユーグは無意識に、作業着のポケットの中で手帳を握りしめた。

記録しなければならない。

手帳に鉛筆を走らせ、この歌の違法性を、風紀を乱す煽動の文句を、治安部隊の将校として冷徹に書き留めなければならない。

そう命じる己の理性が、脳の片隅で確かに叫んでいた。


だが、指が動かない。

鉛筆の芯を紙に押し当てようとする右手の筋肉が、石のように硬直し、鉛を流し込まれたように重く麻痺していた。


「――Nobody knows the trouble I've seen……」


レアの唇から、言葉が紡ぎ出される。

昨夜の狂乱を呼び起こしたような、床を揺らすストンプも、耳を聾する咆哮もない。

テンポは極限まで遅く、重く、引きずるようだった。

ノアのピアノが、低音の濁った和音を一つ、また一つと、心臓の鼓動よりも遅い間隔で落としていく。不協和音の残響が、煙草の紫煙を震わせながら、地下の石壁にじわりと染み込んでいく。


歌われているのは、ただの「孤独」だった。


誰にも見向きもされず、冷たい雨の夜に一人で膝を抱えていた記憶。

助けを求めて手を伸ばしても、誰もその手を握り返してくれなかった絶望。

寒さに震え、飢えに苛まれ、それでも誰にも弱音を吐くことを許されず、唇を噛み締めて耐え忍んできた、魂の奥底の疼き。


なぜだ。

ユーグの額に、冷たい汗が一筋、つうと垂れ落ちた。


(なぜ、この私が……こんな下層の、見知らぬ小娘の歌に……)


彼が生まれ育ったのは、煙突街のような泥の吹き溜まりではない。

帝都第二区、緑豊かな並木道に面したアルマン子爵家の広大な屋敷だ。

飢えたことなど一度もなかった。凍える夜に暖炉の薪を惜しんだこともなかった。

だが――。

レアの擦れた低音が、気怠く、痛切に揺れるたび、ユーグの脳裏に押し殺してきた過去の記憶が、鮮血のように噴き出していた。


――「お前はアルマン家の人間だ。弱音を吐くことは許されない」


幼い日、厳格な父が放った冷酷な声。

長男は領地を治め、三男は神に仕える。次男である自分に課せられたのは、一族の武勇を示すための「完璧な駒」であることだけだった。

痛くても泣いてはならない。

悔しくても叫んではならない。

友と笑い合う時間も、己の感情に溺れる自由も、すべては「軍人としての名誉」という冷たい鉄の枠組みの中に押し込められ、削ぎ落とされてきた。

士官学校の寄宿舎で、熱を出してうなされた夜のこと。

誰にも知られぬよう毛布を頭から被り、歯を食いしばって震えていたあの暗闇の冷たさ。

痛みを訴えれば、「軟弱者」と切り捨てられる。

立ち止まれば、「出来損ない」の烙印を押される。

だから、鎧を着たのだ。

感情を殺し、規律を神と崇め、帝国の法という名の分厚い鉄板で己の心臓を何重にも取り囲んで、生身の人間であることを辞めたはずだった。


それなのに。


「――Sometimes I'm up, sometimes I'm down……」


レアの歌声が、その分厚い鉄板の隙間へと、するりと滑り込んできた。

音階がわずかに崩れ、掠れ、微かな湿気を帯びて震える。

それは、教会の純正律が「悪魔の揺らぎ」と忌み嫌う、人間そのものの体温だった。

息を吸う音。声帯が軋む音。

生きている人間が、傷口を晒して「痛い」と泣いている、その生々しい響き。


ユーグの胸の奥で、カチリと、何かが外れる音がした。


(やめろ……)


胸が痛い。

締め付けられるように、息が詰まる。

これまで十数年間、一度たりとも顧みることのなかった己の内側の空洞――誰にも抱きしめられず、誰にも認められず、ただ「従順な道具」として生きることを強いられてきた少年の孤独が、レアの声によって乱暴に抉り出されていく。


(やめてくれ、そんな声で……私を、呼ぶな……!)


心の中で悲鳴を上げながらも、ユーグの身体は金縛りに遭ったように微動だにできなかった。

目を逸らすことすら許されない。

薄暗いステージの中央、粗末な木綿のワンピースを纏い、目を閉じて歌う少女。

その姿が、まるで暗闇の底で燃え盛る唯一の光のように、彼の視界を焼き尽くしていた。

周囲の荒くれ者たちも同じだった。

百人を超える屈強な男たちが、誰一人として物音を立てない。

息をすることすら忘れ、ただ少女の喉から零れ落ちる痛みの滴を、全身の皮膚で受け止めている。

酒場全体が、巨大なひとつの「祈りの場」へと変貌していた。

大聖堂の冷たい神殿には決して存在しない、傷ついた者たちだけが分かち合う、泥まみれの聖域。


ノアのピアノが、静かにコードを展開していく。

沈み込むようなスロー・ブルースの底で、重たい不協和音が次第に密度を増し、熱を帯びていく。

テンポがわずかに前のめりになり、低音のベースラインが地鳴りのように床を揺らし始めた。


そして――。


レアの黒い双眸が、カッと見開かれた。


その瞳が、客席の最も暗い隅――壁際に立つユーグの姿を、真っ直ぐに射抜いたような錯覚。

違う。彼女がユーグ個人を認識しているはずがない。

だが、その眼差しには、この場にいるすべての人間が抱える偽善と欺瞞を、一網打尽に焼き尽くそうとする獰猛な炎が宿っていた。


レアの喉仏が、大きく跳ね上がる。

胸郭が極限まで広がり、彼女の骨という骨が、目に見えない共鳴板となって空気を震わせた。


「――OH, YES, LORD!!」


炸裂。


静寂を切り裂いて放たれたのは、地底のマグマが噴き出すような、凄絶極まりないシャウトだった。

裏声ではない。

地声のまま、声帯の限界を打ち破って放たれた、魂の咆哮。

掠れ、歪み、オーバードライブのかかったその絶叫は、音という概念を超えて、物理的な衝撃波となって客席を薙ぎ払った。


「ッ――!?」


ユーグの全身の毛穴が、一斉に逆立った。

頭蓋骨の芯が痺れる。

背骨を通じて、凄まじい電流が脳天へと駆け上がっていく。


「――ALTHOUGH YOU SEE ME GOIN' 'LONG SO――!!」


レアは叫んでいた。

孤独の底から、絶望の淵から、泥水を跳ね上げて立ち上がる者の咆哮。

私はここにいる。

私は傷ついている。

だが――私は決して膝を屈しない。誰の指図も受けず、誰の愛玩物にもならず、この痛みを抱えたまま、私の足で生きていくのだと。


その叫びを浴びた瞬間。

ユーグの胸の中で、何かが完全に砕け散った。


パリン、と。

硝子が粉々に吹き飛ぶような感覚。

彼を守っていたはずの、分厚い「規律の鎧」。

軍人としての誇り。

名門アルマン家の名誉。

感情を殺し、私心を捨てて築き上げてきた、冷たく完璧な自己防壁のすべてが、レアの一撃の咆哮によって、跡形もなく粉砕されたのだ。


「あ…………」


ユーグの口唇から、情けないほど微かな吐息が漏れた。

手から力が抜けていく。

ポケットの中で握りしめていたはずの鉛筆が、指の間から滑り落ち、ポケットの底へと転がった。

任務?

違反行為の摘発?

秩序の維持?

そんなものが、この圧倒的な魂の奔流の前で、一体何の役に立つというのか。

あまりにも下らない。あまりにも薄っぺらい。

自分が信じてきた世界のすべてが、砂の城のように崩れ去っていく。


そして。

ユーグは、自らの頬に、生温かいものが伝い落ちるのを感じた。


(……え?)


呆然としながら、右手を頬へと伸ばす。

指先に触れたのは、濡れた感触だった。

一滴。二滴。

止まらない。

大粒の涙が、彼のヘーゼル色の瞳からとめどなく溢れ出し、煤で汚れた頬を洗い流して、顎から作業着の襟元へとポタポタと零れ落ちていた。


泣いている?

この私が?

一度たりとも人前で涙を見せたことのなかった、帝都警備隊の冷徹な小隊長が、下町の薄汚れた地下酒場の片隅で、子供のように泣きじゃくっている。


(なぜだ……なぜ、涙が止まらない……!?)


悲しいのではない。

悔しいのでもない。

胸を締め付けていた鉛の枷が粉々に砕け散り、生まれて初めて、肺の底の底まで本物の空気を吸い込めたような――息が苦しくなるほどの、狂おしいまでの「解放感」。

痛みを認めていいのだと。

叫んでいいのだと。

生きていることそのものを、全存在を懸けて肯定されたかのような、暴力的で、甘美極まりない救済。


「――I have my trials here below, but I’m ALRIGHT――!!」


レアの歌声が、最後の頂点へと駆け上がる。

ノアのピアノが激しく鍵盤を叩き、二つの音が絡み合って地下の空間を満たし尽くす。

ユーグは壁に背中を預けたまま、動くことができなかった。

呼吸が乱れ、肩が激しく震える。

思考は完全に麻痺していた。


恐怖だった。

自分がこれまで築き上げてきた人生のすべてが、この少女の声一つで根底から覆されてしまったことに対する、底知れぬ恐怖。

だが――それ以上に。

その恐怖を遥かに凌駕する、背徳的で、熱烈な「至福」が、彼の全身の血液を沸騰させていた。


(悪徳だ……。これは、世界を破滅させる悪徳だ……)


理性が最後に、弱々しく警告を発する。

こんな歌を許してはならない。

こんな感情の劇薬を街に放てば、秩序など一瞬で灰燼に帰す。

取り締まらねばならない。今すぐこの場に踏み込み、少女の手首に冷たい手錠を嵌めなければならない。


だが――。

ユーグの瞳は、ステージの上のレアから、一ミリたりとも離れることができなかった。

魅了されていた。

魂の芯まで、骨の髄まで、彼女の放つ熱狂の毒に侵され、完全に屈服していた。

堅物な模範的騎士の抜け殻の底で、いま、抑圧されていた一人の男の生身の魂が、産声を上げるように激しく脈打っていた。


ガァァァンッッ……。


ノアのピアノが、重く引きずるような最後の和音を響かせた。

レアのハイトーンのロングトーンが、かすかな震えを伴いながら、静かに、ゆっくりと夜の底へと溶けていく。


歌が、終わった。


静寂。

だが、その静寂のなかで、ユーグはただ茫然と立ち尽くしていた。

頬を伝う涙を拭うことすら忘れ、乱れた息を吐きながら、ステージの上の少女を見つめ続ける。

彼の中にあった「秩序の番人」は、いまや完全に音を立てて崩壊していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。