第10話 剥ぎ取られた鎧
静寂の底に落ちた最初の一音は、言葉にすらなっていなかった。
「…………Mmm, nobody knows……」
低く、気怠く、濡れた湿り気を帯びたハミング。
それは、教会の石造りの天井へ向けて放たれる澄み渡ったソプラノとは、およそ対極にある音だった。
肺の底の澱みをそのまま掬い上げたような、ざらついたエッジボイス。半音下へと気怠くぶら下がり、床の鋸屑を撫でるように漂うブルーノートの旋律。
マイクもなければ、音響を補助する魔導具もない。
ただ、酒樽の板の上に立った痩身の少女の喉が、生身の肉体の内側で震えているだけだ。
だが――その第一声が地下酒場〈黒猫座〉の淀んだ空気を切り裂いた瞬間、壁際に身を潜めていたユーグ・アルマンの呼吸が、喉の途中でピキリと凍りついた。
「…………っ」
何かが、胸の真ん中に触れた。
指先でそっと、しかし容赦のない力で、胸骨の最も柔らかい隙間を押し広げられたような感触。
ユーグは無意識に、作業着のポケットの中で手帳を握りしめた。
記録しなければならない。
手帳に鉛筆を走らせ、この歌の違法性を、風紀を乱す煽動の文句を、治安部隊の将校として冷徹に書き留めなければならない。
そう命じる己の理性が、脳の片隅で確かに叫んでいた。
だが、指が動かない。
鉛筆の芯を紙に押し当てようとする右手の筋肉が、石のように硬直し、鉛を流し込まれたように重く麻痺していた。
「――Nobody knows the trouble I've seen……」
レアの唇から、言葉が紡ぎ出される。
昨夜の狂乱を呼び起こしたような、床を揺らすストンプも、耳を聾する咆哮もない。
テンポは極限まで遅く、重く、引きずるようだった。
ノアのピアノが、低音の濁った和音を一つ、また一つと、心臓の鼓動よりも遅い間隔で落としていく。不協和音の残響が、煙草の紫煙を震わせながら、地下の石壁にじわりと染み込んでいく。
歌われているのは、ただの「孤独」だった。
誰にも見向きもされず、冷たい雨の夜に一人で膝を抱えていた記憶。
助けを求めて手を伸ばしても、誰もその手を握り返してくれなかった絶望。
寒さに震え、飢えに苛まれ、それでも誰にも弱音を吐くことを許されず、唇を噛み締めて耐え忍んできた、魂の奥底の疼き。
なぜだ。
ユーグの額に、冷たい汗が一筋、つうと垂れ落ちた。
(なぜ、この私が……こんな下層の、見知らぬ小娘の歌に……)
彼が生まれ育ったのは、煙突街のような泥の吹き溜まりではない。
帝都第二区、緑豊かな並木道に面したアルマン子爵家の広大な屋敷だ。
飢えたことなど一度もなかった。凍える夜に暖炉の薪を惜しんだこともなかった。
だが――。
レアの擦れた低音が、気怠く、痛切に揺れるたび、ユーグの脳裏に押し殺してきた過去の記憶が、鮮血のように噴き出していた。
――「お前はアルマン家の人間だ。弱音を吐くことは許されない」
幼い日、厳格な父が放った冷酷な声。
長男は領地を治め、三男は神に仕える。次男である自分に課せられたのは、一族の武勇を示すための「完璧な駒」であることだけだった。
痛くても泣いてはならない。
悔しくても叫んではならない。
友と笑い合う時間も、己の感情に溺れる自由も、すべては「軍人としての名誉」という冷たい鉄の枠組みの中に押し込められ、削ぎ落とされてきた。
士官学校の寄宿舎で、熱を出してうなされた夜のこと。
誰にも知られぬよう毛布を頭から被り、歯を食いしばって震えていたあの暗闇の冷たさ。
痛みを訴えれば、「軟弱者」と切り捨てられる。
立ち止まれば、「出来損ない」の烙印を押される。
だから、鎧を着たのだ。
感情を殺し、規律を神と崇め、帝国の法という名の分厚い鉄板で己の心臓を何重にも取り囲んで、生身の人間であることを辞めたはずだった。
それなのに。
「――Sometimes I'm up, sometimes I'm down……」
レアの歌声が、その分厚い鉄板の隙間へと、するりと滑り込んできた。
音階がわずかに崩れ、掠れ、微かな湿気を帯びて震える。
それは、教会の純正律が「悪魔の揺らぎ」と忌み嫌う、人間そのものの体温だった。
息を吸う音。声帯が軋む音。
生きている人間が、傷口を晒して「痛い」と泣いている、その生々しい響き。
ユーグの胸の奥で、カチリと、何かが外れる音がした。
(やめろ……)
胸が痛い。
締め付けられるように、息が詰まる。
これまで十数年間、一度たりとも顧みることのなかった己の内側の空洞――誰にも抱きしめられず、誰にも認められず、ただ「従順な道具」として生きることを強いられてきた少年の孤独が、レアの声によって乱暴に抉り出されていく。
(やめてくれ、そんな声で……私を、呼ぶな……!)
心の中で悲鳴を上げながらも、ユーグの身体は金縛りに遭ったように微動だにできなかった。
目を逸らすことすら許されない。
薄暗いステージの中央、粗末な木綿のワンピースを纏い、目を閉じて歌う少女。
その姿が、まるで暗闇の底で燃え盛る唯一の光のように、彼の視界を焼き尽くしていた。
周囲の荒くれ者たちも同じだった。
百人を超える屈強な男たちが、誰一人として物音を立てない。
息をすることすら忘れ、ただ少女の喉から零れ落ちる痛みの滴を、全身の皮膚で受け止めている。
酒場全体が、巨大なひとつの「祈りの場」へと変貌していた。
大聖堂の冷たい神殿には決して存在しない、傷ついた者たちだけが分かち合う、泥まみれの聖域。
ノアのピアノが、静かにコードを展開していく。
沈み込むようなスロー・ブルースの底で、重たい不協和音が次第に密度を増し、熱を帯びていく。
テンポがわずかに前のめりになり、低音のベースラインが地鳴りのように床を揺らし始めた。
そして――。
レアの黒い双眸が、カッと見開かれた。
その瞳が、客席の最も暗い隅――壁際に立つユーグの姿を、真っ直ぐに射抜いたような錯覚。
違う。彼女がユーグ個人を認識しているはずがない。
だが、その眼差しには、この場にいるすべての人間が抱える偽善と欺瞞を、一網打尽に焼き尽くそうとする獰猛な炎が宿っていた。
レアの喉仏が、大きく跳ね上がる。
胸郭が極限まで広がり、彼女の骨という骨が、目に見えない共鳴板となって空気を震わせた。
「――OH, YES, LORD!!」
炸裂。
静寂を切り裂いて放たれたのは、地底のマグマが噴き出すような、凄絶極まりないシャウトだった。
裏声ではない。
地声のまま、声帯の限界を打ち破って放たれた、魂の咆哮。
掠れ、歪み、オーバードライブのかかったその絶叫は、音という概念を超えて、物理的な衝撃波となって客席を薙ぎ払った。
「ッ――!?」
ユーグの全身の毛穴が、一斉に逆立った。
頭蓋骨の芯が痺れる。
背骨を通じて、凄まじい電流が脳天へと駆け上がっていく。
「――ALTHOUGH YOU SEE ME GOIN' 'LONG SO――!!」
レアは叫んでいた。
孤独の底から、絶望の淵から、泥水を跳ね上げて立ち上がる者の咆哮。
私はここにいる。
私は傷ついている。
だが――私は決して膝を屈しない。誰の指図も受けず、誰の愛玩物にもならず、この痛みを抱えたまま、私の足で生きていくのだと。
その叫びを浴びた瞬間。
ユーグの胸の中で、何かが完全に砕け散った。
パリン、と。
硝子が粉々に吹き飛ぶような感覚。
彼を守っていたはずの、分厚い「規律の鎧」。
軍人としての誇り。
名門アルマン家の名誉。
感情を殺し、私心を捨てて築き上げてきた、冷たく完璧な自己防壁のすべてが、レアの一撃の咆哮によって、跡形もなく粉砕されたのだ。
「あ…………」
ユーグの口唇から、情けないほど微かな吐息が漏れた。
手から力が抜けていく。
ポケットの中で握りしめていたはずの鉛筆が、指の間から滑り落ち、ポケットの底へと転がった。
任務?
違反行為の摘発?
秩序の維持?
そんなものが、この圧倒的な魂の奔流の前で、一体何の役に立つというのか。
あまりにも下らない。あまりにも薄っぺらい。
自分が信じてきた世界のすべてが、砂の城のように崩れ去っていく。
そして。
ユーグは、自らの頬に、生温かいものが伝い落ちるのを感じた。
(……え?)
呆然としながら、右手を頬へと伸ばす。
指先に触れたのは、濡れた感触だった。
一滴。二滴。
止まらない。
大粒の涙が、彼のヘーゼル色の瞳からとめどなく溢れ出し、煤で汚れた頬を洗い流して、顎から作業着の襟元へとポタポタと零れ落ちていた。
泣いている?
この私が?
一度たりとも人前で涙を見せたことのなかった、帝都警備隊の冷徹な小隊長が、下町の薄汚れた地下酒場の片隅で、子供のように泣きじゃくっている。
(なぜだ……なぜ、涙が止まらない……!?)
悲しいのではない。
悔しいのでもない。
胸を締め付けていた鉛の枷が粉々に砕け散り、生まれて初めて、肺の底の底まで本物の空気を吸い込めたような――息が苦しくなるほどの、狂おしいまでの「解放感」。
痛みを認めていいのだと。
叫んでいいのだと。
生きていることそのものを、全存在を懸けて肯定されたかのような、暴力的で、甘美極まりない救済。
「――I have my trials here below, but I’m ALRIGHT――!!」
レアの歌声が、最後の頂点へと駆け上がる。
ノアのピアノが激しく鍵盤を叩き、二つの音が絡み合って地下の空間を満たし尽くす。
ユーグは壁に背中を預けたまま、動くことができなかった。
呼吸が乱れ、肩が激しく震える。
思考は完全に麻痺していた。
恐怖だった。
自分がこれまで築き上げてきた人生のすべてが、この少女の声一つで根底から覆されてしまったことに対する、底知れぬ恐怖。
だが――それ以上に。
その恐怖を遥かに凌駕する、背徳的で、熱烈な「至福」が、彼の全身の血液を沸騰させていた。
(悪徳だ……。これは、世界を破滅させる悪徳だ……)
理性が最後に、弱々しく警告を発する。
こんな歌を許してはならない。
こんな感情の劇薬を街に放てば、秩序など一瞬で灰燼に帰す。
取り締まらねばならない。今すぐこの場に踏み込み、少女の手首に冷たい手錠を嵌めなければならない。
だが――。
ユーグの瞳は、ステージの上のレアから、一ミリたりとも離れることができなかった。
魅了されていた。
魂の芯まで、骨の髄まで、彼女の放つ熱狂の毒に侵され、完全に屈服していた。
堅物な模範的騎士の抜け殻の底で、いま、抑圧されていた一人の男の生身の魂が、産声を上げるように激しく脈打っていた。
ガァァァンッッ……。
ノアのピアノが、重く引きずるような最後の和音を響かせた。
レアのハイトーンのロングトーンが、かすかな震えを伴いながら、静かに、ゆっくりと夜の底へと溶けていく。
歌が、終わった。
静寂。
だが、その静寂のなかで、ユーグはただ茫然と立ち尽くしていた。
頬を伝う涙を拭うことすら忘れ、乱れた息を吐きながら、ステージの上の少女を見つめ続ける。
彼の中にあった「秩序の番人」は、いまや完全に音を立てて崩壊していた。




