第11話 共犯者の銀貨
魂を抉り取るようなスロー・ブルースの余韻は、そのまま荒れ狂う暴風雨のようなアンコールへと雪崩れ込んでいた。
客席の男たちは、もはや理性を保つことなど完全に放棄していた。
すすり泣いていた荷揚げ人夫も、拳を握りしめていたスリも、互いの肩を組み、足を踏み鳴らし、耳を聾するほどの絶叫でレアの名を呼び続けていた。それに応えるように、ノアのピアノは再び激しいスウィングを叩き出し、レアは汗に濡れた前髪を振り乱しながら、肉体の限界を嘲笑うように更なる咆哮を重ねた。
二曲、三曲。
地下酒場〈黒猫座〉の狭い空間に満ちた熱量は、もはや人の身が耐えうる限界を超えて沸騰し、石壁の結露が湯気となって立ち上るほどだった。
そして――。
最後の一音が、叩きつけるようなドラムロールじみたピアノの連打とともに放たれ、ついに熱狂の宴が幕を下ろした。
ドォォォォンッ……!
残響が引いていく。
直後、客席から噴き出したのは、割れんばかりの歓声と、雨あられと降り注ぐ銅貨の金属音だった。
「うおおおおおおおおっ!」
「持ってけ! 俺の小銭だ、全部くれてやる!」
「レア! レア・ヴィットォッ!」
男たちが我先にとステージへ殺到し、ポケットの底から掻き集めた硬貨を投げ入れる。
ジャラララ、チャリン、カツン。
油と汗に塗れた粗末な帝国の銅貨が、酒樽を並べただけの粗末なステージの上に散らばり、跳ね、うずたかく積まれていく。それは、泥水をすすって生きる男たちが、今夜の生きている実感と引き換えに差し出した、剥き出しの命の破片だった。
その狂乱の坩堝の片隅で。
壁際の冷たい石積みに背中を押し当てたまま、ユーグ・アルマンは、ただ立ち尽くしていた。
(…………っ、は…………)
荒い呼気が、唇の間から小刻みに漏れる。
鳥打帽の庇の下、ヘーゼル色の双眸は虚ろに見開かれ、全身の筋肉は酷使された弓の弦のように硬直していた。
頬を伝った涙の筋は、冷たい地下の空気に触れて乾き始めていたが、その跡は火傷のように熱く肌を焼いていた。
胸が、痛い。
激痛だった。だがそれは、肉体を傷つけられた痛みではない。
十数年ものあいだ、彼を守り、彼を縛り付けてきた「規律」という名の冷たい鉄の鎧が粉々に砕け散り、剥き出しになった心臓に、熱い血液が直接注ぎ込まれているような痛み。
耳の奥で、まだあの声が鳴り響いている。
掠れ、震え、泥の底から天を仰ぎ見るような、あの圧倒的な絶唱。
自分は取り締まる側だったはずだ。
帝都の治安を司る警備隊の小隊長として、この不浄な吹き溜まりを、風紀を乱す悪徳の巣窟を、冷徹に観察し、記録し、断罪するために潜入したはずだった。
それなのに――。
(……私は、何をしていた?)
ユーグの視線が、ステージの中央へと吸い寄せられる。
そこには、肩で息をしながら、足元に降り注ぐ銅貨の山を見下ろす少女の姿があった。
汗に濡れそぼった黒髪。胸元が激しく上下する、安物の濃紺のワンピース。
華奢なその背中は、しかし、周囲のどんな大男よりも巨大で、尊大で、美しかった。
男たちの歓声を浴びながら、彼女は媚びるような笑顔を一切見せない。ただ傲慢に顎を上げ、自らの喉で客席のすべてをねじ伏せた者だけが浮かべる、冷徹な勝利の笑みを唇に刻んでいる。
その姿を見つめた瞬間、ユーグの胸の奥底で、得体の知れない衝動が鎌首をもたげた。
――差し出さなければならない。
思考ではない。理屈でもない。
魂の最も深い場所から湧き上がった、抗いがたい強迫観念だった。
あの少女に、自分の存在を差し出さなければならない。
この胸の防壁を打ち破り、自分に息の仕方を思い出させてくれたあの歌声に対して、相応の代価を、己の魂の重みと同等の何かを、捧げなければならない。
気付いた時には、ユーグの右手は作業着の内ポケットへと滑り込んでいた。
指先が触れたのは、先ほどまで握り締めていた手帳ではない。
そのさらに奥、隠しポケットに収められていた、上等な仔牛革の財布だった。
指が震えながら、革紐を解く。
中に入っていたのは、下町の労働者が日銭として使うような、黒ずんだ銅貨ではない。
帝都の第一区、貴族や豪商たちの間でしか流通しない、純白の輝きを放つ大粒の硬貨。
帝立造幣局の刻印が燦然と刻まれた、最高純度の「白銀貨」。
下層民の一家が三ヶ月は豪遊できる額面であり、若手将校の月給の半分に相当する、ずっしりとした銀の塊。
ユーグは、その銀貨を指先でつまみ出した。
冷たい金属の感触。
理性が、耳元で悲鳴を上げた。
何をしようとしているのか。そんなものをここで放り投げれば、自分が平民ではないことが一発で露見する。潜入任務の規則違反であり、軍人としての破滅だ。
だが――ユーグの指先は、理性の静止を嘲笑うように動いた。
スッ、と右腕が振り上げられた。
雑踏の頭上を越えて。
人々の怒号と熱気の隙間を縫うように、彼の手首がしなやかにスナップを利かせた。
放たれた一枚の銀貨が、薄暗い地下酒場の空間を、緩やかな放物線を描いて飛んでいく。
天井の煤けたランプの光を浴びて、一瞬だけ、白銀の閃光が宙を走った。
カキィンッ――!
澄み渡るような、高らかで硬質な音が響いた。
散らばる何千枚もの銅貨の鈍い擦れ合いを、一瞬で切り裂くような、純銀特有の凛とした響き。
それは酒樽の板の上、荒い息を吐いていたレアの足元、わずか数寸の場所へと正確に落ち、くるくると回転しながら、鈍く光を放って止まった。
「……あ?」
最前列で銅貨を投げていた男が、怪訝そうに目を丸くした。
「おい……今、何か光らなかったか?」
「銀……? いや、あれは――」
周囲のざわめきが、わずかに色を変えた。
だが、その場の誰よりも早く反応したのは、ステージの上のレアだった。
レアの切れ長の黒い瞳が、足元に落ちた銀貨を捉えた。
煤と油で黒ずんだ銅貨の海の中に、ぽつんと落ちた、不自然なまでに白く輝く一枚の硬貨。
帝立造幣局の紋章――双頭の鷲の浮き彫り。
平民が手にするような、銀の含有量を落とした粗悪な小銀貨ではない。貴族や高官が懐に忍ばせる、正真正銘の「純白銀貨」。
レアは、ゆっくりと膝を折った。
荒れた床の上に片膝をつき、細い指先を伸ばす。
冷たい銀の感触を確かめるように拾い上げ、手のひらの上で転がした。
ずっしりとした重み。
銅貨数百枚に匹敵する、圧倒的な価値の塊。
(……誰が投げたの?)
レアは顔を上げた。
狂乱する客席。手を振り、叫び、酒を煽る荒くれ者たちの群れ。
その混沌とした人の波を、彼女の鋭い視線が、獲物を探す鷹のように素早く走査していく。
そして――。
客席の最も端。
薄暗い壁際に、背中を預けて立ち尽くすひとつの人影で、レアの視線がピタリと止まった。
「…………」
男は、煙突街の労働者が着るような、薄汚れた作業着を着ていた。
頭には鍔の曲がった鳥打帽を目深に被り、頬には煤が塗りたくられている。
一見すれば、港湾で石炭を運ぶ日雇い人夫のひとりにしか見えない。
だが、レアの目は欺けなかった。
三年間、帝立聖楽院という貴族の巣窟で、息を殺して周囲を観察し続けてきた彼女の観察眼は、男の纏う異質さを瞬時に見抜いていた。
まず、立ち姿。
どれほど猫背の真似事をしようと、その背骨の芯は、定規で引いたように真っ直ぐに伸びていた。長年の軍事訓練によって叩き込まれた、骨格そのものに染み付いた規律の残滓。
次に、腕の位置。
腰のあたりに自然と添えられた右手の指先。人差し指と親指の付け根に刻まれた、硬く盛り上がった独特のタコ。あれは、重い荷物を担ぐ労働者の手の平ではない。サーベルの柄を、何千時間も握り締め続けてきた者だけが持つ、剣士のタコだ。
そして何より――鳥打帽の庇の奥から覗く、その双眸。
ヘーゼル色の澄んだ瞳。
そこには、下層民の持つ飢えや荒廃とは全く無縁の、高い教育と厳格な倫理観を思わせる知性の光があった。
しかし今、その瞳は、激しい羞恥と、恐怖と、そして抗いがたい熱狂によって、痛々しいほどに揺れ動いていた。頬には、涙の流れた跡が白く筋を作っている。
(……見つけたわ)
レアの喉の奥で、ぞくぞくとするような愉悦が跳ねた。
(体制側の人間ね。……憲兵か、それとも警備隊の士官かしら)
身分を隠し、下層の吹き溜まりの内偵に来たはずの堅物なエリート。
秩序を守るべき立場の男が、よりによって、自分の歌声に魂を打ち砕かれ、人目も憚らず涙を流し、あげくの果てに軍服の下に隠していたはずの高額な銀貨を、自らの手で投げ入れたのだ。
これほど滑稽で、これほど痛快な見世物があるだろうか。
自分を「悪魔の節回し」と罵り、泥水の中へ叩き落とした貴族社会。
その手先であるはずの騎士が、いま、自らの足元にひざまずき、魂の対価を差し出している。
レアの唇が、ゆっくりと吊り上がった。
三日月の形を描く、酷薄で、妖艶極まりない嘲笑。
彼女は立ち上がると、拾い上げた白銀貨を、親指と人差し指で高く掲げた。
そして、壁際に立つユーグから決して視線を逸らさないまま――。
チュッ、と。
銀貨の冷たい表面に、自らの濡れた唇を、これ見よがしに押し当てて見せたのだ。
「――っ!?」
壁際のユーグの息が、喉の奥で詰まった。
心臓が、破裂しそうなほど激しく跳ね上がる。
見られた。
気づかれた。
自分が何者であるかを、あの少女は完全に見抜いている。
その上で、少女は自分を糾弾するでも、怯えるでもなく、銀貨に口づけをして見せたのだ。「よくできました、私の信者様」とでも言うかのように。
血が逆流するような感覚。
耐え難い屈辱。
だが――その屈辱の奥底から、全身を焼き尽くすような、甘美で暴力的極まりない「背徳の快楽」が、怒涛の勢いで押し寄せてきた。
魂を暴かれた。
あの傲慢な歌姫の、共犯者にされてしまった。
「う……、くっ……!」
ユーグは耐えかねたように、壁を蹴った。
踵を返し、密集する群衆の肩を乱暴に押し退けながら、出口へと向かって突進する。
「おい、押し出しゃがって!」「何だアイツは!?」と怒号が飛ぶが、耳に入らない。
逃げなければならない。
この場に一秒でも長く留まれば、自分の中にある「騎士ユーグ・アルマン」という存在が、跡形もなく溶けて消えてしまう。
階段を駆け上がり、重い樫の扉を突き破るようにして外へ飛び出した。
ヒョオォォッ……と、冷たい夜風が吹き抜けた。
雨は上がっていたが、煙突街の夜気は氷のように冷たかった。
冷気が、汗と涙で濡れたユーグの顔面を容赦なく叩く。
ユーグは狭い路地の壁に手をつき、胃の中のものをすべて吐き出すかのように、激しく嘔吐きながら息を吸い込んだ。
「ハッ……、ゴホッ……、ハァッ、ハァッ……!」
心臓が、肋骨を内側から叩き割らんばかりに暴れている。
震える指先で、自らの顔を乱暴に拭った。
手の平に、煤と涙の混ざった黒い汚れが付着する。
汚れている。
外側も、そして内側も。
自分は取り返しのつかない一線を越えてしまったのだという戦慄が、足元から這い上がってくる。
だが――。
震える足取りで路地を歩きながら、ユーグの脳裏に蘇るのは、怒りでも後悔でもなかった。
あの歌声。
骨を揺らす重低音。
そして、自分を見据えながら銀貨に口づけをした、あの少女の冷酷で美しい笑み。
身体の芯が、麻薬の禁断症状のように熱を帯びて疼いていた。
(……狂っている)
ユーグは歯を食いしばり、夜の闇を睨みつけた。
自分が狂ってしまったのか、それとも世界が狂っているのか。
答えなど、出るはずもなかった。
◇
それから一時間後。
帝都第二区、帝都警備隊中央本部。
宿舎の個室で、ユーグは泥と煤にまみれた作業着を脱ぎ捨て、冷水で顔を何度も洗い流していた。
鏡に映る自分の顔を、穴が開くほど見つめる。
髪を撫でつけ、再び紺青の詰襟軍服に袖を通す。
第一ボタンを留め、第二ボタンを留め、銀の飾緒を肩に掛ける。
腰に、傷一つない指揮刀を佩く。
完璧な騎士。模範的な小隊長。
冷徹な仮面を、自らの皮膚の上に無理やり貼り付け直す。
だが、軍服の布地を通して伝わってくる心臓の鼓動は、以前の規則正しいリズムを失っていた。
深呼吸を一つ。
ユーグは背筋を伸ばし、第三執務室の扉をノックした。
「第3小隊長、ユーグ・アルマン。内偵の報告に戻りました」
「入れ」
部屋の中には、副連隊長が一人、書類の山に埋もれてパイプを燻らせていた。
ユーグが入室し、机の前で完璧な角度の敬礼を捧げると、副連隊長は眼鏡を押し上げて視線を向けた。
「戻ったか、アルマン。……どうだった」
ユーグの喉が、わずかに上下した。
全身の神経が張り詰める。
今、この瞬間に言うべき言葉は決まっていた。
――『違法な集会を確認しました。公序良俗を著しく乱し、民衆を煽動する危険な歌唱が行われております。即刻、憲兵隊と合同で部隊を突入させ、店舗を封鎖し、首謀者を拘束すべきです』。
そう言えば、すべては終わる。
あの不快な熱狂も、自分の心をかき乱す悪魔の歌姫も、帝国の規律という名の巨大な鉄槌によって、明日には跡形もなく粉砕されるはずだった。
だが。
ユーグの唇から零れ出たのは、全く別の言葉だった。
「……報告いたします」
自分でも驚くほど、冷静で、感情の籠もっていない声だった。
「現場を直接確認いたしました。……結論から申し上げますと、摘発の必要は認められません」
「何?」
副連隊長が怪訝そうに眉を跳ね上げた。
「集会は確かに混雑を極めておりましたが、暴力的な扇動や、反乱組織との関与を示す兆候は一切確認できませんでした。歌われているのも、下層民の間で昔から歌い継がれてきた民謡や労働歌の類いに過ぎません。……少々下品ではありますが、風紀紊乱の法規に抵触するほどの違法性は皆無です」
すらすらと、淀みなく嘘が紡ぎ出されていく。
虚偽の報告。
軍務における最も重い罪のひとつ。
それを、アルマン子爵家の次男であり、誰よりも潔癖であったはずの自分が、一片の躊躇いもなく実行している。
「……そうか」
副連隊長はパイプの煙を吐き出し、顎髭を撫でた。
「聖歌庁の連中は『悪魔の節回し』などと騒ぎ立てていたが、所詮は貧民街の粗野な騒音に過剰反応しただけか」
「はい。下手に警備隊が介入すれば、かえって下層民の反発を招き、不要な摩擦を生む恐れがあります。……現時点では静観が妥当であると具申いたします」
「うむ。お前がそう言うなら間違いあるまい。……ご苦労だった、アルマン。下がって休め」
「はっ。失礼いたします」
ユーグは再び寸分の狂いもない敬礼を捧げ、踵を返して執務室を辞した。
背後の扉が閉まった瞬間、ユーグは回廊の壁に手をつきそうになるのを、気合いで堪えた。
膝が笑っていた。
背中には、冷たい汗がびっしりと張り付いている。
自分は守ってしまったのだ。
あの地下酒場を。
あの狂乱の宴を。
そして――あの傲慢な歌姫を。
自室へと戻り、鍵をかける。
ユーグは軍服の上着を脱ぐこともせず、机の前の椅子へと崩れ落ちるように座り込んだ。
震える手で、軍服の内ポケットから小型の手帳を取り出す。
手帳を開く。
そこには、内偵の記録など一行も書かれていなかった。
白紙の頁。
ユーグは机の上の羽ペンを取り、インク壺に浸した。
そして――何かに憑りつかれたような手つきで、文字を走らせた。
『――来週の水曜日。非番』
羽ペンの先が、微かに震える。
その文字の隣に、彼自身の震える筆跡で、決定的な言葉が刻み込まれた。
『――地下酒場〈黒猫座〉。二十一時』
ペンが止まる。
インクが乾いていくのを、ユーグはただ茫然と見つめていた。
取り締まる側から、守る側へ。
監視者から、熱狂的な信者へ。
そして――帝国の秩序を裏切る、最初の「共犯者」へ。
窓の外では、鉛色の夜空に冷たい風が吹き荒れていた。
だが、ユーグの胸の奥底で燃え上がり始めた黒い炎は、二度と消えることのない熱を帯びて、静かに、確実に、彼の魂を蝕み始めていた。




