第12話 溢れかえる熱気
熱気というものは、一定の容積を超えた瞬間、気体から液体へ、そして逃げ場を失った圧縮空気のような凶器へと相転移する。
煙突街の第七裏路地。
かつては夜ともなれば、石炭運搬車の軋む音と、泥酔した浮浪者の呻き声、そして下水溝を走るドブネズミの足音くらいしか聞こえなかった薄暗いすり鉢の底が、いまや帝都で最も危険な沸点と化していた。
太陽が西の丘の向こう、白亜の第一区の稜線へと沈み、鉛色の夜の帳が降りる。
普段ならば冷たい川霧が石畳を濡らし、人々の呼気を白く凍らせるはずの時刻。だが、地下酒場〈黒猫座〉へと通じる路地に足を踏み入れた者は誰もが、肌をねっとりと撫で回す異常な微温湯のような生暖かさに息を呑むことになった。
「――おい! 押すなと言っているのが聞こえねえのか!」
「足を踏んだぞ、この野郎! 喧嘩売ってんのか!」
「すまねえ、頼むから半歩詰めてくれ! 階段の踊り場まででいい、そこなら音だけでも届くはずだ!」
路地を埋め尽くしていたのは、人の壁だった。
それも、十人や二十人といった生易しい規模ではない。
地下へと降りる狭く急な石段の入り口を起点として、人間が肩と肩を密着させ、互いの体温と汗の蒸気を擦り合わせながら、百メートル以上も先の広い荷揚げ通りまで黒々とした長蛇の列を作っていた。
二日前の夜、警備隊のユーグ・アルマンが私服で潜入した時ですら異常な密集だった。だが、あの夜にレアが放った魂の絶唱と、それを浴びて屈強な男たちが人目も憚らず泣き崩れたという目撃談は、翌朝には煙突街の枠を完全に踏み越えていたのだ。
港湾の荷揚げ人夫や石炭掘りだけではない。
中層の職人街から仕事を放り出して駆けつけた鍛冶屋や靴職人。
仕入れの帳簿を抱えたまま好奇心に目を血走らせる問屋の若旦那。
果ては、夜の帳に紛れて外套のフードを目深に被った、身なりの良さそうな商人崩れの男たちまでが混ざり合っていた。
平日の夜だというのに、集まった群衆は優に二百人を数える。
だが――〈黒猫座〉の収容限界は、どう贔屓目に見ても五十人が限度だった。
「開けろ! 金を払うと言ってるんだ!」
「銀貨だ! 銀貨を一枚まるごと投げてやる! 中へ入れろ!」
ドスン、ドスンと、地下の重い樫の木の扉が外側から叩かれ、分厚い木枠が軋みを上げる。
頑丈な鉄の閂がはめられているからこそ持ち堪えているものの、群衆の押し寄せる圧力は、いつ石造りの階段ごと将棋倒しを引き起こしてもおかしくない危険水域に達していた。
階段の途中で身動きが取れなくなった男たちの間では、すでに小競り合いが始まっている。胸ぐらを掴み合う怒号、殴り合いの鈍い音、割れた酒瓶の破片が石畳を跳ねる甲高い音。
そして、中に入れないと悟った数十人の男たちは、路地の冷たい泥水の上にそのまま腰を下ろし、地下の換気口――鉄格子のはまった小さな隙間を取り囲んでいた。
泥だらけの地面に這いつくばり、耳を地面の格子に押し当てる。
外へ漏れ出てくるわずかな熱気と、壁を伝って微かに響くピアノの重低音の振動。それだけでもいいから全身で受け止めようとするその姿は、飢えに狂った信徒が聖遺物の欠片を求めて這い蹲る姿そのものだった。
「……狂ってやがる」
路地の向かい、ボロ長屋の二階の窓から顔を出した老婆が、唾を吐き捨てて窓を乱暴に閉ざした。
「毎晩毎晩、何なんだいあの騒ぎは! 道が塞がって荷車の一台も通れやしない! 炭問屋の旦那連中もカンカンだよ! このままじゃ憲兵に通報して、あの地下室ごと焼き払ってもらうしかないね!」
近隣の住民たちの悲鳴のような苦情。
煙突街の裏路地が、一人の少女の喉によって、完全に機能不全に陥っていた。
◇
一方、その狂乱の中心である〈黒猫座〉の店内は、まさにこの世の地獄と極楽が混ざり合ったような酸欠の蒸し風呂だった。
「――Hold on, hold on, just a little while longer……!」
酒樽を並べた粗末なステージの中央で、レア・ヴィットの喉が吼えていた。
今夜の彼女は、昨夜と同じく安物の濃紺のワンピースを纏っていたが、その布地はもはや汗を吸い尽くして肌に張り付き、黒髪のひと房ひと房から大粒の雫が床板へと滴り落ちていた。
だが、その声の音圧は、疲労によって衰えるどころか、夜を重ねるごとに鋭利さと凶暴さを増している。
擦れたエッジボイスが狭い地下室の空気を切り刻み、腹の底を直接揺さぶるブルーノートの絶唱が、すし詰めになった客たちの頭蓋骨を共鳴させる。
客席は、もはや「席」と呼べる体裁を保っていなかった。
五十人定員のフロアに、無理やり八十人以上が詰め込まれている。丸椅子などすべて撤去され、男たちは互いの足を踏み合いながら直立不動で密集していた。
壁際の棚の上にまで人がよじ登り、カウンターの天板の上にも二人の男が正座してステージを見つめている。
換気は完全に死んでいた。
煙草の煙と男たちの脂汗、吐き出す二酸化炭素が白く霧のように立ち込め、壁の結露は滝のように床へと流れ落ちる。
息を吸うだけで喉が焼けそうに熱い。数分おきに、酸欠と脱水で白目を剥いた男がぐらりと倒れかけるが、倒れるための隙間すら床にないため、隣の男の肩にもたれかかったまま意識を失う始末だった。
ドォォォォンッ!
ノアのピアノが、調律の限界を超えた不協和音を叩きつける。
ノア自身もまた、シャツのボタンをすべて引きちぎり、滝のような汗を鍵盤の上に飛び散らせながら、狂ったように腕を振り下ろしていた。
指先を保護していた油布はとっくに擦り切れ、白鍵には赤黒い血の染みが点々と広がっている。だが、その顔には自暴自棄にも似た異様な笑みが張り付いていた。止まらないのだ。レアの声が加速するたび、彼の指先は脳の制止を振り切って鍵盤を叩き潰さずにはいられない。
「――YEAH! WE GONNA MAKE IT THROUGH!!」
レアの最後の一撃。
天井の梁がビリビリと悲鳴を上げ、客たちの胸骨を突き抜けるようなハイトーンのロングトーン。
歌い切った瞬間、客席から上がったのは、もはや言葉を失った獣たちの雄叫びだった。
熱狂と、法悦と、酸欠の苦悶が入り混じった絶叫の嵐。
銅貨が宙を飛び交い、ステージの足元を埋め尽くす。
だが、その歓声の渦の中、前方の客が後ろから押し寄せる人の波に耐えかねて、酒樽のステージへと雪崩れ込みそうになった。
「うわっ、押すな!」
「前へ行かせろ! もっと近くで聴かせろ!」
「危ねえ、将棋倒しになるぞッ!」
木枠がミシミシと嫌な音を立てて軋む。
最前列の男たちがステージの縁に手をかけ、板が数センチ跳ね上がった。一歩間違えれば、ステージが倒壊し、百人近い大男たちが折り重なって圧死する大惨事になりかねない瞬間だった。
「――そこまでだよ、阿呆どもッ!!」
地を裂くような怒声が響いた。
カウンターの奥から飛び出してきたマルゴが、手にした鉄パイプで空のウイスキー樽を力任せにぶん殴ったのだ。
ガァァァンッッ!!
鼓膜を劈く金属音が店内に木霊し、暴徒と化しかけていた男たちがハッと我に返って動きを止めた。
マルゴは太い腕に血管を浮き上がらせ、仁王立ちになってフロアを睨みつけた。
「今夜は店仕舞いだ! これ以上一歩でも前に出た奴は、このアタシが頭蓋骨を叩き割ってドブ川に放り込むよ! 酒も終わり、歌も終わりだ! さっさと金を置いて外へ失せな!」
元・裏社会の顔役の凄まじい気迫に、荒くれ者たちが気圧されて後ずさる。
「ちぇっ、もう終わりかよ……」「明日も歌うのか? おい、明日も歌うんだろ!?」
未練がましい叫び声を残しながら、男たちは牛の群れのように、押し合いへし合いしながら狭い階段を上がって退場していった。
◇
最後の一人が出ていき、頑丈な閂が下ろされたのは、夜が明ける直前のことだった。
店内に残ったのは、嵐の後のような惨状だった。
床には踏み荒らされた鋸屑と、割れたグラスの破片、吸い殻、そして無数の銅貨。
湿気と熱気はまだ抜けきらず、天井からは生温かい雫がポタポタと落ちてくる。
奥のテーブルの上。
集められた売上金――今夜は銅貨だけでなく、小銀貨までもが数十枚混ざり合い、前夜を遥かに超える巨大な銀と銅の小山が築かれていた。
普通なら、どんな酒場の亭主でも狂喜乱舞するはずの光景だ。
だが、その前に立つマルゴの表情は、氷のように険しかった。
「……ふうっ」
マルゴは深く煙管を吸い込み、灰色の煙を重々しく吐き出した。
そして、手にした鉄パイプをテーブルの端に立てかけると、向かいの丸椅子に座るレアを真正面から見据えた。
「嬉しい悲鳴、ってやつかね。……だがね、レア。このままじゃ、憲兵隊の正規部隊が突入してくるのも時間の問題だよ」
マルゴの声は低く、酷く冷徹だった。
「外を見たかい? 路地は完全に麻痺してる。近所の炭問屋の連中からも、さっき裏口越しに怒鳴り込まれたよ。『道を塞ぐ浮浪者どもを何とかしろ、さもなくば区役所と憲兵に訴え出る』ってね。……あの連中は本気だ。帝都の経済を握る商人どもが本気で憲兵隊を動かせば、こんな地下室の閂なんざ、工兵の破城槌で一撃でお釈迦さ」
マルゴはテーブルの上の銀貨をつまみ上げ、指先で弾いた。
カラン、と乾いた音が落ちる。
「それに、客の数だ。今夜は運良く死人が出なかったが、階段で誰か一人が足を滑らせてみな。将棋倒しで十人や二十人は簡単に圧死する。そうなれば、事故物件としてこの店は即座に取り潰し、アタシらは全員、過失致死で重労働刑の送りだ」
厳しい現実の突きつけ。
吹き溜まりの地下酒場が許容できる熱量の限界を、この店は完全に越えてしまっていた。
成功が、そのまま破滅の導火線に火をつけているという皮肉。
ピアノの蓋に突っ伏していたノアが、包帯の巻かれた手をだらりと垂らしながら、掠れた声で同意した。
「……ババアの言う通りだぜ。俺の指も限界だが、それ以前にこの箱の空気が限界だ。今夜なんざ、後半は酸欠で鍵盤が二重に見えてたからな。……客を減らすしかねえ。入場料を銀貨一枚に跳ね上げて、下層の連中を締め出すか、あるいは週に一度の公演に減らすかだ」
ノアの提案は、常識的な興行主であれば誰もが選ぶ安全策だった。
客を絞り、単価を上げ、リスクを減らす。そうすれば、細く長く、この地下室で甘い汁を吸い続けることができる。
だが。
――ガタッ。
レア・ヴィットは、勢いよく丸椅子を蹴って立ち上がった。
「客を減らす? 公演を減らすですって?」
レアの切れ長の黒い瞳に、冷ややかな怒りの炎が宿っていた。
汗に濡れた前髪を乱暴にかき上げ、テーブルの上に両手をついて身を乗り出す。その細い身体から立ち上る気迫は、連日の過酷な絶唱で疲弊しているはずなのに、何者にも屈しない獰猛な獣のそれだった。
「冗談じゃないわ。誰がそんな後ろ向きな縮小をするっていうのよ!」
「おい、レア……」
ノアが眉をひそめるが、レアはその言葉を鋭い眼光でねじ伏せた。
「現状の成功に甘んじて、小銭を数えて満足しろって言うの? こんな狭い豚小屋で、酸欠で倒れそうになりながら、たった八十人やそこらの男たちの前で歌うのが、私の限界だとでも思っているわけ!?」
レアは壁の向こう、天井の上――帝都の夜空が広がる方角を睨みつけた。
「箱が小さすぎるのよ。……最初から、この店じゃ私の声を抱えきれなかったの!」
その言葉に、マルゴが目を見張る。
「私の喉は、こんな地下の穴倉で燻るためにあるんじゃないわ。……何千人、何万人もの前で歌わなきゃ意味がない。あの高台にふんぞり返っている貴族どもが、耳を塞いでも部屋の窓を揺らして叩き起こすくらいの、巨大な場所で響かせなきゃ意味がないのよ!」
傲慢極まりない叫び。
だが、その瞳の奥にあるのは、単なる誇大妄想ではなかった。
自らの声が持つ破壊力を、誰よりも正確に理解している者だけが抱く、絶対的な確信。
八十人の男たちを泣かせた。
百人の荒くれ者を狂乱させた。
ならば、五百人でも、千人でも、一万人でも同じだ。自分の声が届く限り、世界はその熱狂にひれ伏すはずなのだから。
沈黙が落ちた。
テーブルの上のランプの灯りが、チリチリと微かに爆ぜる。
やがて、ノアが低く、嘲るような溜息を吐き出した。
「……ハッ。何千人、ねえ」
ノアは煙草を一本くわえ、痛む手でマッチを擦った。
紫煙を燻らせながら、冷徹な目でレアを見上げる。
「夢を見るのは勝手だがな、お嬢ちゃん。……お前、このオルレアン帝国の『劇場』ってものを、これっぽっちも分かっちゃいねえな」
「何が言いたいのよ」
「現実を教えてやるよ」
ノアは煙を吹き出し、指を一本立てた。
「帝都で千人以上の人間を収容できる劇場は、全部でいくつあると思う? 第一区の帝立大歌劇場を筆頭に、第二区の貴族劇場、第三区の中央市民座……全部合わせても、片手の指で足りる程度しか存在しねえ」
ノアは二本目の指を立てる。
「そして、そのすべての劇場を誰が牛耳っていると思う? ――聖歌庁だ」
その名が出た瞬間、地下室の空気が一段階冷え込んだ。
「帝国の興行法じゃな、公の劇場で興行を打つには、聖歌庁の典礼局が発行する『純正律認可証』が絶対に必要だ。神の調和を乱さない清廉な音楽であり、貴族院の推薦を受けた格式ある劇団であること。それが使用の絶対条件だ」
ノアは自嘲気味に口角を歪め、レアの顔を指差した。
「翻ってお前はどうだ? 学院の首席選考で悪魔の節回しを歌って即日追放された、煙突街のドブネズミだ。お前の歌声は、教会の教条主義者どもにとっちゃ、秩序を破壊する猛毒そのものなんだよ。……そんなお前に、帝都のどの劇場主が箱を貸す? どの貴族がパトロンに名乗りを上げる?」
ノアの言葉は、冷酷なまでに正しかった。
帝都の文化は、すべて聖歌庁と貴族社会の強固な独占の下にある。
無菌室のような賛美歌を歌う者だけに舞台が与えられ、大衆の感情を揺さぶるような生々しい音楽は、端から公の場に立つ権利すら剥奪されているのだ。
下町の地下酒場だからこそ、官憲の目を盗んで歌うことができた。
だが、ここを一歩出れば――そこは、彼女の歌を「異端」として火あぶりに処そうとする、巨大な教条主義の城壁が立ち塞がっている。
「門前払いどころの話じゃねえよ」
ノアは煙草の吸い殻を床に投げ捨て、靴底で踏み消した。
「劇場の受付に顔を出した瞬間に憲兵を呼ばれて、反逆罪で地下牢に放り込まれるのがオチだ。……お前がどれだけ吼えようが、この帝都に、お前が立てる公のステージなんざ、最初から一寸四方も存在しねえんだよ」
逃れようのない現実。
閉ざされた扉。
地下の箱はすでに溢れかえり、今にも破裂しようとしている。
しかし、地上へと這い上がるための階段は、国家と宗教という名の巨大な鉄格子によって、完全に塞がれていた。
「…………」
レアは何も言い返さなかった。
ただ、ぎゅっと握りしめた拳の爪が、手の平に食い込んでいた。
悔しさに震えているのではない。
その瞳の奥で燃え盛っていたのは、絶望などではなく、立ち塞がる巨大な障壁をどうやって叩き割ってやるかという、冷徹極まりない「策略」の光だった。
(公の劇場が貸してくれないなら……)
レアの思考が、高速で回転を始める。
既存の秩序に従う気など、最初からない。
あちらが舞台を与えないというのなら、奪い取るまでだ。
法の網の目を潜り抜け、教会の鼻先を掠め、何千人もの人間を狂乱の渦に叩き落とすための、別の「巨大な闇」を見つけ出せばいい。
その時だった。
トントントンッ――。
固く閉ざされていた地下の裏口の扉を、軽やかで、小気味よいノックの音が叩いた。
客たちの乱暴な怒号とは全く違う。
リズムを刻むような、不敵で、計算高いノックの音。
マルゴが素早く鉄パイプを構え、ノアが眉をひそめて視線を向ける。
レアは静かに息を吸い込み、裏口の薄暗い扉を見据えた。
閉塞した地下の密室に、いま、外の世界から新たな風が――それも、途方もなく強烈な毒と野心を孕んだ風が、吹き込もうとしていた。




