第13話 仕立て屋ジュディットの野心
地下酒場〈黒猫座〉の薄暗い裏口を打つ乾いた音は、急かすような三連符を刻んでいた。
ト・ト・トン。
一拍置いて、再びト・ト・トン。
それは、表の路地で暴徒と化しかけていた荒くれ者たちの下品な拳の叩きつけとは、あからさまに異質な響きだった。どこか挑発的で、己の存在を誇示するようにリズミカルで、明確な意思を持って夜の静寂を穿っている。
「……何者だい」
マルゴ・デルーが鉄パイプを肩に担ぎ直し、猫のように音もなく裏口の扉へと歩み寄った。
裏口は、煙突街の排水溝に面した狭い抜け道に繋がっている。この店の関係者か、裏社会の密輸ルートを知る者しか立ち入れない場所だ。
マルゴは太い指先で重い鉄の閂を静かに引き抜き、扉をわずか数寸だけ引いた。隙間から、冷たい夜風と饐えた下水の臭気が流れ込んでくる。
「誰の指図でそこへ突っ立って――」
マルゴの恫喝が途切れるよりも早く、隙間から細い革靴の爪先が強引に差し込まれた。
「能書きはいいから開けな、女将さん! こんなドブ臭い路地裏で上等な毛織物を湿気らせる趣味はないんだよ!」
甲高く、しかし良く通る女の声。
靴の持ち主は躊躇うことなく扉を外側から蹴り開け、マルゴの巨躯を押し退けるようにして、地下のフロアへとズカズカと踏み込んできた。
現れたのは、若い女だった。
年齢は二十代の前半といったところか。
煙突街の煤煙と泥水で塗り固められた世界には、およそ似つかわしくない極彩色の影。
漆黒の髪を耳の上で短く刈り上げ、額には鋭利な前髪を垂らしている。身に纏っているのは、自らの手で仕立て直したと思しき、鮮烈なカナリアイエローと真鍮色のストライプ柄のジャケット。ウエストは絞り込まれ、裾は大胆に短く裁断され、その下には男物の乗馬ズボンをぴったりと穿きこなしている。
左腕の肘から手首にかけては、太い革のリストバンドが巻かれ、そこに無数の銀の待ち針と、黒檀の柄を持つ裁縫鋏が誇らしげに差し込まれていた。
右肩には、パンパンに膨れ上がった大きな仔牛革の鞄を斜め掛けにしている。
「おいおい……何だ、この派手なカラスは」
ピアノの蓋に突っ伏していたノアが、煙草の煙を目に染ませながら顔をしかめた。
マルゴもまた、鉄パイプを下ろすことなく、怪訝そうにその女を睨みつける。
「見ねえツラだね。中層の職人街から迷い込んできたお針子かい? ここはアンタのような跳ね返りの娘が夜遊びに来る場所じゃないよ」
「職人街の仕立て屋さ。名前はジュディット・モレル」
女――ジュディットは、マルゴの鉄パイプなど視界の端にも留めない様子で、肩の鞄をドサリと近くの空樽の上に放り出した。
その切れ長の黒い瞳は、最初から店内の誰にも向けられていなかった。
ただ一人。
テーブルの脇で、冷徹な視線を投げかけていたレア・ヴィットの姿だけを、獲物を狙う鷹のように真っ直ぐに射抜いていた。
「……アンタが、噂のレアだね」
ジュディットはスタスタと歩み寄り、レアの鼻先数寸のところで立ち止まった。
レアは眉一つ動かさず、身を引くこともしない。二人の女の視線が、火花を散らすように交錯する。
ジュディットは腕を組むと、小鳥のように首を傾げ、レアの全身を上から下へと舐め回すように観察し始めた。
頭のてっぺんから、乱れた黒髪、汗に濡れた額、鎖骨、胸元、腰のくびれ、そして足元へ。
その眼差しは、男が女を品定めするような卑猥なものではなく、彫刻家が原石の歪みを測るような、冷徹で狂気じみた職人の観察眼だった。
そして――。
ジュディットの薄い唇から、耐えかねたような激しい舌打ちが放たれた。
「チッ……! 反吐が出るね! 胸糞が悪くて死にそうだよ!」
「何だと?」
ノアが不快そうに身を起こしたが、ジュディットは聞く耳を持たず、手袋を嵌めた指先でレアの胸元を乱暴に指差した。
「アンタさ! その薄汚ねえ、ドブ色の安物ワンピースは何の冗談だい!? 雑巾の絞りかすを着て舞台に立つのが、煙突街の新しい流行とでも言うのかい!?」
怒号のような罵倒。
マルゴが呆気にとられ、ノアが目を丸くする。
だが、罵倒された当人であるレアは、怒るどころか、冷淡な瞳のまま唇の端をかすかに吊り上げた。
「私の服がどうしたっていうの。歌うのに不自由はしていないわ」
「不自由してない!? あは、笑わせるんじゃないよ!」
ジュディットは嘲笑を浮かべ、レアの肩口の布地を親指と人差し指で乱暴につまみ上げた。
「生地は市場のワゴンで叩き売られてる粗悪な木綿、縫製は素人の手縫い、染料は一度の洗濯で落ちる安物の藍だ! 汗を吸えば泥のように重くなり、肌に張り付いて胸郭の広がりを邪魔してる! それだけじゃない、この袖の付け根を見な! 腕を振り上げるたびに脇が引き攣れて、肩甲骨の可動域を殺しちまってるじゃないか!」
ジュディットは布地を乱暴に放すと、自分の額に手を当てて大袈裟に天を仰いだ。
「あたしはね、さっき表の換気口の隙間に耳を押し当てて、アンタの歌を聴いてたんだよ! ……鳥肌が立ったね。全身の血が逆流して、心臓が口から飛び出るかと思った! あんな歌、この帝都のどこを探したって聴けやしない。皇帝の首すらへし折れる本物の絶唱だよ! それなのに――」
ジュディットは再び鋭い眼光をレアに向け、一歩踏み込んだ。
「それだけの喉を持った怪物が、何でそんな下水溝のネズミみたいなボロ布を纏って満足してんだい!? 観客は耳だけで聴いてるんじゃない、目で見て、その姿に魂を差し出すんだ! アンタがそんな貧相なナリをしてちゃ、せっかくの歌が『可哀想な下層の娘の泣き言』に成り下がるんだよ! 悔しくないのかい、自分の才能がそんな布切れ一枚で安売りされてることがさァ!」
機関銃のように叩きつけられた言葉の奔流。
酒場の中に、痛烈な沈黙が落ちた。
煙突街の誰もが、レアの「歌」の破壊力にしか目を奪われていなかった。男たちはただその音圧に打ちのめされ、小銭を投げていただけだ。
だが、この仕立て屋の女だけは違った。
彼女はレアの歌の価値を誰よりも高く値踏みし、その価値に「外見」が追いついていないという歪みを、容赦なく抉り出してきたのだ。
「……面白いことを言うわね」
レアの低く、乾いた声が静寂を破った。
レアは自らの袖口を見下ろし、それからジュディットの燃えるような黒い瞳を見つめ返した。
「言いたいことは分かったわ。でもね、職人さん。私は聖楽院の貴族どもが着ているような、白銀のレースで飾られたお上品なドレスを着る気なんてサラサラないのよ。あれは死人の衣装よ。息も吸えないコルセットで身体を締め上げて、置物みたいに立ってろっていうなら、私はこのボロ布のままで叫び続けるわ」
「誰があんな貴族のゴミ屑を着ろって言ったんだい!」
ジュディットは吐き捨てるように叫んだ。その声には、深い憎悪の炎が宿っていた。
「あたしが一番殺したいのが、あいつらのドレスだよ! クジラの骨で肋骨を押し潰し、胃袋を変形させ、内臓を破裂させそうになりながら、男たちの前で失神するのが『淑女の嗜み』だと? 反吐が出るね! 女を生きたまま剥製にするための拘束具じゃないか、あんなものは!」
ジュディットは肩の革鞄を乱暴に開け、中から何枚もの分厚い羊皮紙の束を引っ張り出した。
そして、テーブルの上に積まれていた銀貨の山を払いのけるようにして、その紙をバンッ!と叩きつけた。
「見な! これがあたしの作った、アンタのための『皮膚』だよ!」
レア、マルゴ、そしてノアの視線が、テーブルの上に広げられた紙へと吸い寄せられた。
そこに描かれていたのは――息を呑むほどに前衛的で、暴力的なまでに美しい、一着のドレスのデザイン画だった。
「……な、何だこれは……」
ノアが煙草を咥えたまま、思わず身を乗り出した。
色彩は、徹底的な「深紅」と「漆黒」。
貴族社会が尊ぶパステルカラーや純白など微塵もない。夜の闇を凝縮したような黒と、生々しい血の滴りを思わせる鮮烈な赤の対比。
だが、何よりも異様だったのは、その構造だった。
「コルセットは一切使わない」
ジュディットが指先でスケッチをなぞりながら、熱狂的な早口で解説を始めた。
「胸の下から肋骨、横隔膜のラインにかけては、伸縮性のある特殊な鞣し革と布地を交互に編み込んだスリット構造にしてある。アンタがどれだけ深く息を吸い込んでも、肺の拡張を1ミリも邪魔しない。むしろ、肋骨が開くたびにスリットの隙間から真紅の裏地が覗く仕掛けさ」
ジュディットの指が、スカートのラインへと滑る。
「生地は、光沢を極限まで高めたシルクベルベットだ。この地下酒場の薄暗い油ランプの光でも、アンタが動くたびに光を乱反射して、まるで炎が揺らめいているように見える。スカートの裾は前を短く、後ろを長く引いて、激しくストンプを踏んでも足首の動きを客席に見せつけられるようにしてある。首元は大胆に開け放ち、鎖骨と喉仏を完全に解放する。……歌い手の肉体を縛るものは何一つない。ただ、アンタの骨と筋肉の美しさを、そのまま戦う武器に変えるドレスさ!」
スケッチの中の少女は、まさに「地下の女王」そのものだった。
男に愛玩されるための人形ではない。
誰の庇護も求めず、己の足で立ち、自らの喉で帝国を焼き尽くそうとする、猛毒の華の肖像。
マルゴが煙管の煙を吐き出しながら、低く唸った。
「……へえ。大したもんだね。中層の仕立て屋にしちゃ、随分と物騒な絵を描くじゃないか」
「当たり前さ。あたしはね、自分の針と鋏で、この帝都の腐った流行を裏から塗り替えてやりたいんだよ」
ジュディットは胸を張り、獰猛な笑みを浮かべた。
「男たちの顔色を窺って、息もできないドレスを縫うのはもう飽き飽きなんだ。あたしに必要なのは、あたしのドレスを着て、世界中の男どもをひれ伏せさせるだけの本物の怪物さ。……そしてアンタは、その資格がある唯一の女だよ、レア」
ジュディットの視線が、再びレアを射抜いた。
それは、共犯者を求める者の目だった。
自分と同じ。
既存の秩序に中指を立て、自らの才能一つで世界の頂点へ登り詰めようとする、野心と狂気に満ちた魂の輝き。
レアは、じっとスケッチを見つめていた。
指先を伸ばし、描かれた真紅のドレスの輪郭をそっとなぞる。
頭の中で、自分がこのドレスを纏い、ステージに立つ姿が鮮明に浮かび上がっていた。
暗闇の中で揺らめく真紅のベルベット。
解き放たれた胸郭。
踏み鳴らされるストンプ。
客席の男たちが、その姿を見上げた瞬間に覚えるであろう、畏怖と熱狂の視線。
(……悪くない)
いや、悪くないどころではない。
完璧だった。
彼女が求めていたものが、まさにこの一枚の紙の上に具現化されていた。
単に「歌が上手い貧民街の娘」で終わる気など毛頭ない。
大衆を熱狂させ、貴族社会を呑み込むカルチャーの支配者となるためには、聴覚だけでなく、視覚をも支配する「絶対的なアイコン」にならなければならないのだ。
レアは顔を上げた。
その瞳には、ジュディットの野心を丸ごと呑み干すような、冷酷で尊大な光が宿っていた。
「いいわ。着てあげる」
「決まりだね!」
ジュディットが破顔しかけた瞬間、レアの冷たい指先が彼女の顎の下へと突きつけられた。
「勘違いしないで、ジュディット」
レアの声は、氷のように鋭かった。
「私はあなたの着せ替え人形になる気はないわ。このドレスを着てやる。ただし――もし舞台の上で、私の呼吸を1ミリでも邪魔したり、声の抜けを妨げるようなヘマがあったら、その時はアンタの喉首をこの手で締め上げてやるから」
殺気に満ちた脅迫。
だが、ジュディットはその言葉を聞いた瞬間、恐怖するどころか、歓喜に震えてゾクゾクと全身を粟立たせた。
「ハッ! 上等だよ、受けて立ってやるさ!」
ジュディットはリストバンドから素早く一本の巻尺を引き抜くと、ニヤリと歯を見せて笑った。
「文句を言わせる暇なんざ、これっぽっちも与えないよ。……さあ、脱ぎな、歌姫様。アンタの骨の太さから肺の容量まで、一ミリ残らず測り尽くしてやるからさ!」
地下酒場の片隅で、二人の女の魂が、強固な鎖で結び合わされた瞬間だった。
音楽という名の弾薬に、ヴィジュアルという名の銃身が組み合わさる。
煙突街の地下で生まれつつあった熱狂は、いまや単なる酒場の余興を超え、都市を震撼させる「巨大な兵器」へと姿を変えようとしていた。




