第14話 蛇の誘い(ベルナール・ジル登場)
ジュディットが手際よく巻き尺を巻き取り、革のリストバンドに銀の待ち針を刺し終えた頃、地下酒場〈黒猫座〉の空気は、再び別の重苦しい気配によって塗り替えられようとしていた。
店内に残っていたのは、油ランプの芯が燻る微かな煙と、床に散らばった無数の銅貨の金属臭。
テーブルの上にはジュディットが広げた真紅のドレスのスケッチが置かれ、ノアは腫れ上がった指に氷水を浸した布を巻き直しながら、気怠げに煙草を燻らせていた。
だが、表へと続く急な石段の奥から、規則正しい革靴の谫が二つ、三つと響いてきた瞬間、マルゴの太い眉がぴくりと跳ね上がった。
「……チッ。今夜はどいつもこいつも、人の店の定休日を何だと思っていやがる」
マルゴがカウンターの下から引き抜いたのは、先ほどまで振り回していた鉄パイプではない。
肉厚な鉄板を仕込んだ短めの散弾銃だった。手慣れた仕草で撃鉄を起こし、銃口を階段の踊り場へと向ける。
荒くれ者が群がっているのではない。
足音の主は、軍靴のように統制されているわけでもなく、かといってドックの人夫のように泥を引きずる音でもない。上等な牛革の底が、石段にこびりついた鋸屑を優雅に踏み砕く音。
やがて、開け放たれたままの樫の木の重い扉を、手袋を嵌めた男の手が押し開けた。
「物騒だな、マルゴ。昔馴染みの顔を見に来た男に、いきなり鉛の粒を食らわせる気かい?」
滑らかな、ビロードの布地を思わせる艶のあるバリトン。
薄暗い店内に足を踏み入れたのは、二人組の男だった。
後ろに控えているのは、熊のように分厚い胸板をした筋骨隆々の巨漢。仕立てのいい黒いスーツを着込んでいるが、首筋から顎にかけて這い回る刺青が、その男が裏社会の暴力装置であることを雄弁に物語っていた。
そして――その巨漢を従えて前を歩く男。
仕立ての極致を極めた濃紺のウールスーツの上に、銀狐の豪奢な毛皮の外套を肩から無造作に羽織っている。
年は三十代半ば。
ポマードで撫でつけられた艶やかな黒髪に、彫りの深い端正な顔立ち。だが、その鼻筋は鋭利なナイフのように尖り、細められた琥珀色の双眸は、地を這う毒蛇が獲物の体温を測る時のような、底知れぬ冷徹さを湛えていた。
右手の人差し指と中指には、大粒のエメラルドと真鍮を組み合わせた指輪が鈍く光り、口元には細身の葉巻が燻っている。
ベルナール・ジル。
帝都第五区――歓楽街『夜の帷』の闇カジノ、地下賭博場、そして無認可の見世物小屋のすべてを裏から束ねる、当代きっての興行プロモーター。
「……ジルか」
マルゴは散弾銃の銃口をわずかに下げたものの、指は引き金にかけたまま、不快そうに目を細めた。
「第五区のハイエナが、何の用で煙突街のドブ川まで嗅ぎ回りに来たんだい。アンタの縄張りは、もっと金回りのいい博徒どもの巣窟だろうが」
「おいおい、買い言葉に買い言葉はやめてくれ」
ベルナールは艶めかしい笑みを浮かべ、葉巻の灰を床の鋸屑へと落とした。
「金の匂いがする場所に顔を出すのが、商売人の義務ってもんさ。ここ数日、俺の賭博場に来るはずの羽振りのいい職人連中や、港の顔役どもが揃いも揃って姿を消しちまってね。どこへ消えたのかと裏のネズミどもに探らせたら――全員、この薄汚い穴倉の前に並んで夜明かしをしてるって言うじゃないか」
ベルナールの視線が、店内の面々を滑るように走査していく。
散弾銃を構えるマルゴ。
冷ややかな目で睨みつけるジュディット。
ピアノの前で視線を合わそうともしないノア。
そして――カウンターの脇、粗末な木綿のワンピースのまま背筋を伸ばして立つ、レア・ヴィット。
ベルナールの琥珀色の瞳が、ピタリとレアの顔で静止した。
「……なるほど。噂の『悪魔の歌姫』ってのは、アンタのことかい」
ベルナールは外套のポケットに手を突っ込み、ゆっくりとレアに向かって歩み寄った。
巨漢の護衛が背後にぴたりと寄り添う。
その威圧感は、ドックの荷揚げ人夫たちの粗野な暴力とは異なり、何十人もの人間を金と策謀で破滅させてきた者だけが纏う、冷酷な支配者の重圧だった。
だが、レアは眉一つ動かさなかった。
逃げる気配も、身構える様子もない。
ただ、近づいてくる男の毛皮の仕立て、香水の匂い、そして瞳の奥にある計算の高さを、冷え切った黒い瞳で静かに値踏みしていた。
「聖楽院の特待生だったんだってな」
ベルナールはレアの三歩手前で足を止め、煙をゆっくりと吹きかけた。
「首席目前で追放された哀れな小鳥が、煙突街の酒場で復讐の歌を歌っている……街角じゃ、そんな安っぽい三文小説みたいな講談がまかり通ってるぜ」
「三文小説のあらすじを聞きに来たのなら、お引き取り願おうかしら」
レアの声は、氷の結晶のように乾いていた。
「ここは酒場よ。酒を飲む気がないなら、立ち話の席料を請求するわ」
「ハッ、口の減らない娘だ」
ベルナールは面白そうに喉を鳴らした。
しかし、その笑みの底には、獲物を檻に追い詰めた捕食者の傲慢さが張り付いていた。
彼は懐から、真鍮の細工が施された平たい小箱を取り出すと、親指で蓋を跳ね上げた。中に入っていたのは、青白い光を放つ最高級の砂糖菓子――上流階級の貴婦人たちが好む、平民の一ヶ月分の給金に相当する贅沢品だ。
「単刀直入に言おう」
ベルナールは菓子を口に放り込み、甘い香りを漂わせながら言った。
「俺の店に来い、小娘」
「……何?」
「俺が第五区で経営している会員制の闇カジノ〈ラ・ルレット〉のサロンだ」
ベルナールは両手を広げ、朗々と語り聞かせるように言葉を続けた。
「夜ごとに帝都の富豪や貴族の放蕩息子どもが集まり、金貨が川のように流れる場所さ。そこで、客たちがルーレットに金を投げる合間に、その自慢の喉で余興の歌を歌え」
ベルナールは一歩踏み込み、レアの華奢な肩へと馴れ馴れしく右手を伸ばした。
銀狐の毛皮が擦れ合い、生温かい香水の匂いが鼻腔を突く。
「こんなドブ臭い地下室で、小銭を投げるしか能のない貧乏人どもの相手をして何になる? 俺の女になりな。パトロンになってやる。中層の高級アパートの鍵も、絹のドレスも、宝石も、望むものは何でもくれてやるぜ。アンタのような上等な喉を持った娘はな、男に囲われて、贅沢な籠の中で啼いてこそ価値が出るってもんさ」
男の庇護。
富と贅沢。
そして――完全なる「所有物」への転落。
貧民街の少女であれば、誰もが眩暈を覚えて飛びつくであろう甘い毒の誘い。
ベルナールの口元には、すでに商談が成立したと信じ切っている男特有の、脂ぎった優越の笑みが浮かんでいた。
――パシッッ!!
乾いた鋭い破裂音が、店内の静寂を打ち破った。
「…………あ?」
ベルナールが、間の抜けた声を漏らした。
彼の手首が、レアの小柄な掌によって、容赦のない力で弾き飛ばされていた。
触れられることすら拒絶された男の手が、宙で空しく止まっている。
背後の巨漢の護衛が殺気を漲らせて一歩踏み出そうとしたが、ベルナールが左手でそれを制した。その琥珀色の瞳から、艶やかな余裕がスッと引き潮のように消え去っていた。
「……何の真似だ、小娘」
「アンタこそ、何の真似よ」
レアは自らの手の平を、着ているワンピースの裾でゴシゴシと拭った。まるで、汚らわしい虫の粘液でも付着したかのような、あからさまな侮蔑の仕草。
レアは顔を上げた。
その瞳の奥で燃え盛っていたのは、侮辱に対する怒りなどではなかった。
もっと冷たく、もっと底知れない――相手の器の小ささを嘲笑うような、絶対的な支配者の眼差し。
「私を誰かと見誤っているんじゃないかしら、興行師気取りの金貸しさん」
「何だと……?」
「男に愛人として囲われて、贅沢な鳥籠の中で啼く?」
レアの唇から、小さく、しかし酷薄極まりない嘲笑が漏れた。
「笑わせないで。私はね、あの白亜の聖楽院という、この帝国で一番豪華で格式の高い鳥籠の扉を、自分の足で蹴破ってここへ降りてきたのよ。それを……第五区の薄汚い賭博場の鳥籠に買い換えろですって? あんたの頭の中は、その銀狐の毛皮と同じくらい安っぽいのね」
「貴様ッ!」
巨漢の護衛が怒声を上げ、懐の銃に手を伸ばしかけた。
だが、レアはその威圧に視線すら向けない。ただ真っ直ぐに、顔色を変えたベルナールの瞳の芯を射抜いていた。
「金貨の川に溺れる貴族の放蕩息子? そんな腑抜けた豚どもの前で、サイコロの出目を待つ合間の余興で歌え? ……断るわ。私の歌は、誰かの退屈しのぎのためにあるんじゃない。客の魂を根こそぎ奪い、私の足元にひれ伏せさせるためのものよ。誰の所有物にもならない。私を囲おうなんて、百年早いわ」
痛烈な一刀両断。
歓楽街の帝王と呼ばれ、誰もが媚び諂ってきたベルナール・ジルのプライドを、年端もいかない少女が土足で踏みにじった瞬間だった。
ベルナールのこめかみに、青筋がピクリと浮き上がる。
葉巻を噛み締め、低く濁った声で喉を鳴らした。
「……いい度胸だな、ガキが。俺を怒らせて、この帝都の夜の街で生きていけると思っているのか? 俺が一声かければ、こんな地下酒場など明日には放火されて灰になるんだぞ」
「やってみなさいよ」
レアは一歩も引かなかった。むしろ、ベルナールに向かって半歩踏み出した。
「この店を灰にすれば、あんたは『自分に逆らった下町の歌姫を殺した男』として、街中の荒くれ者たちの恨みを買うだけよ。……それとも何かしら? あんたはただの短気なゴロツキで、目の前に転がり込んできた『国家規模の金の鉱脈』を、自分のメンツごときで爆破するほどの大馬鹿者だったのかしら」
「……何?」
ベルナールの細い目が、わずかに見開かれた。
金の鉱脈。
その単語が、彼の鋭敏な商売人としての神経をかすめた。
レアは冷笑を浮かべたまま、背後のテーブル――ジュディットが描いた真紅のドレスのデザイン画を、指先でトントンと叩いた。
「あんたは商売人でしょう、ベルナール・ジル。なら、数字の計算くらいはできるはずよ。……この店に毎夜何人の人間が押し寄せ、どれだけの人間が入れずに路地に座り込んでいるか、あんたのネズミどもから報告を受けているはずよね」
「…………」
「今夜だけで二百人よ。明日は三百人、週末には五百人を越えるわ。この狭い地下室じゃ、溢れかえった客の金を回収しきれずにドブに捨てている状態よ。……あんた、それがどれだけの損失か、分からないわけじゃないでしょう?」
レアの声は、熱を帯びた歌声とは打って変わり、冷徹な会計士のように論理的で、冷酷だった。
彼女はベルナールの顔色を観察しながら、胸ポケットから一枚の紙切れを取り出した。
そこには、彼女自身の几帳面な筆跡で、帝都の興行に関する法規の抜け穴と、客単価の試算がびっしりと書き込まれていた。
「あんたの愛人になる気はない。あんたのパトロン面も不要よ。……でも、ビジネスの取引ならしてあげてもいいわ」
「……取引だと?」
ベルナールは葉巻を指で挟み、訝しげに眉を寄せた。
「ええ。対等な、興行のパートナーシップよ」
レアは顎を引き、決定的な言葉を突きつけた。
「――あんたが第五区の裏手に持っている、あの『地下闘技場の跡地』を私に貸しなさい」
その瞬間。
ベルナールの表情が、完全に凍りついた。
背後の巨漢の護衛までもが、息を呑んでレアを見つめる。
地下闘技場跡地。
かつて歓楽街の最深部で、巨額の賭け金と流血を伴う違法な拳闘試合が行われていた、すり鉢状の巨大な地下空間。
半年前に官憲の手入れを受け、死人が出たことで現在は固く封鎖されている場所。
収容人数は、優に五百人。
吹き抜けの天井と、すり鉢状の観客席を備えた、帝都の地下で最も広大で、そして最も「曰く付き」の遊休資産。
「……なぜ、あの場所を知っている」
ベルナールの声から、恫喝の響きが消え、純粋な警戒心が滲み出ていた。
「煙突街の荷揚げ人夫たちから聞いたわ。昔、あそこで殴り合って小銭を稼いでいた連中がたくさんいるもの」
レアは悪びれもせず言った。
「あの場所は今、官憲の監視を恐れて放置されたままの負債でしょう? 固定資産税と見回りの賄賂だけを食い潰す、ただの巨大なゴミ箱よ。……それを、私に舞台として寄越しなさい」
「……場所を貸して、どうする気だ」
「五百人を呑み込む、帝都最大の地下音楽堂に仕立て直すのよ」
レアは立て続けに条件を突きつけた。
「瓦礫の撤去とステージの改装費用は、これまでの私の稼ぎと、あんたの資材で折半する。興行のプロデュース、演出、出演者、集客のすべては私が仕切る。あんたは一切、舞台の内容に口を挟まないこと」
「ふざけるな」
ベルナールが鼻を鳴らした。
「俺の土地を使って、俺に口を出すなだと? 俺に何の得があるってんだ」
「売上の三割よ」
レアは平然と言い放った。
「チケット代、そして会場内で消費される酒と軽食の売上の三割を、場所代として毎夜あんたに支払う。……五百人が満員になったとして、一晩で落ちる金がどれだけになるか、あんたの頭なら一瞬で弾き出せるはずよ。放置してカビを生えさせているだけの廃墟が、一晩で金貨の山を生み出す鉱脈に化けるのよ。悪くない話でしょう?」
静寂が、地下酒場を支配した。
ランプの油が爆ぜる音すら聞こえない。
ノアが呆気にとられたように煙草を落としそうになり、マルゴは煙管を咥えたまま、感心したように太い肩を揺らしていた。
ジュディットだけが、誇らしげに腕を組み、ニヤリと笑っている。
ベルナール・ジルは、動かなかった。
葉巻の煙が、彼の端正な顔の半分を覆い隠す。
その琥珀色の瞳の奥で、膨大な数字の羅列が、猛烈な速度で計算されていた。
(五百人のキャパシティ……。入場料を一人あたり銀貨一枚に設定したとしても、それだけで五百枚。酒の売上を合わせれば……。さらに、あの歌の噂が本当なら、毎夜満員札止めになる……)
鼻を明かされた。
小娘を囲い、自らの支配下に置くつもりで乗り込んできたはずが、逆に相手の卓越したビジネス感覚によって、自らの最大の弱点である遊休資産を突かれ、対等な取引のテーブルへと引きずり降ろされたのだ。
屈辱だった。
男としてのプライドは、ズタズタに引き裂かれていた。
だが――それ以上に。
ベルナールの全身の血が、猛烈に沸騰していた。
(化け物だ……。ただの歌い手じゃねえ。……こいつは、興行の魔物だ)
裏社会のプロモーターとして、数多くの才能を見てきた。
だが、歌の才能と、冷徹な商業感覚を、これほど高い次元で同居させている怪物を、彼は生まれて初めて目の当たりにしていた。
男に媚びず、誰の庇護も求めず、己の価値を正確に把握した上で、最大の利益を毟り取ろうとする冷酷な女帝の眼差し。
「……ハッ」
ベルナールの口から、小さな息が漏れた。
やがて、その笑いは肩の震えへと変わり、低く、濁った哄笑となって地下室に響き渡った。
「ククッ……ハハハッ! 傑作だ! とんだ跳ねっ返りの牝豹を引いちまったもんだな!」
ベルナールは葉巻を床に投げ捨て、靴底で念入りに揉み消した。
そして、顔を上げた時、その瞳にあった侮蔑の光は完全に消え去っていた。
そこにあったのは、冷徹な実業家が、同格のビジネスパートナーに向ける、ギラギラとした欲望と敬意の光だった。
「いいだろう、乗ったぜ。……売上の三割、場所代としてきっちり納めてもらう」
ベルナールはコートの襟を正し、右手を差し出した。
「ただし、もし一度でも客席に空席ができたり、暴動で官憲に踏み込まれたりしてみろ。その時は、その美しい喉首をへし折って、違法拳闘のリングの真ん中に転がしてやるからな」
「ご心配なく」
レアは、差し出された男の手を握り返した。
冷たく、硬く、一切の情け容赦のない握手。
「空席なんて、一席たりとも作らせはしないわ。……せいぜい、金貨を数えるための大きな金庫を用意しておくことね、ベルナール」
煙突街の地下酒場の底で、新たな契約が結ばれた。
男の庇護を拒絶し、自らの手で巨大な戦場を勝ち取ったレア・ヴィット。
五百人を呑み込む地下闘技場跡地――かつて血と暴力が支配していたその巨大な闇が、いま、彼女の歌声で帝国を呑み干すための「最初の劇場」へと姿を変えようとしていた。




