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第15話 闇のオペラハウスへ

帝都第五区、歓楽街『夜の帷(トワール)』の最奥。

華やかなガス灯の明かりが届かぬ裏路地の突き当たりに、その巨大な穴は口を開けていた。


重厚な鉄扉に幾重にも巻き付けられていた錆びた鎖が、ベルナールの部下たちの手によって断ち切られ、ギィィ……と重苦しい悲鳴を上げて開け放たれてから、すでに五日が過ぎていた。

かつて帝都の闇貴族や富豪たちが違法な賭け金を積み上げ、命を削る拳闘士たちの血飛沫に狂乱した地下闘技場跡地。

半年間、官憲の手入れを恐れて打ち捨てられていたその空間は、すり鉢状に穿たれた直径二十メートルを超える巨大な円形ホールだった。


石造りの階段席が、地底の底へと向かって幾重にも同心円を描いて落ち込んでいる。

天井は三階建ての長屋がすっぽりと収まるほどに高く、剥き出しの岩肌と煉瓦のアーチが、薄暗い闇の中で巨大な怪物の肋骨のように張り巡らされていた。

空気の底には、まだ古い血糊と埃、そして男たちの乾いた汗の臭気が微かに染み付いている。


だが、いまそのすり鉢の底で響いていたのは、殴り合いの鈍い打撃音ではなく、何十本もの金槌が木材を叩く乾いた破壊と建設の音だった。


「――そこの梁を補強しな! 板がたわんでたら、あの子が靴底を踏み鳴らした瞬間にへし折れるよ!」

「反響板の角度はこれでいいのかい!? 奥の席まで声を届かせるんだろ!」

「急ぎな! 木屑を片付けたら、次は客席の泥を洗い流すんだ!」


すり鉢の底の中央で、マルゴ・デルーの野太い怒声が地下の空気を揺るがしていた。

腕まくりをした彼女の周りには、煙突街から日当目当てで集まってきた港湾労働者や船大工たちが、蟻のように群がって汗を流している。

瓦礫はすでに大半が運び出されていた。

拳闘のリングが設えられていた中央の平場には、頑丈なオーク材の角材が格子状に組み上げられ、その上に厚さ二寸の松の無垢板が隙間なく敷き詰められている。

直径五間の広大な円形ステージ。

その背後には、船の竜骨を解体して作らせた、緩やかな曲面を描く巨大な木製の反響板が、扇のようにそびえ立っていた。


「……へえ。大した突貫工事だ。たった五日で、ゴミ溜めがそれらしい見世物小屋に見えてくるもんだな」


二階部分の吹き抜け回廊の手すりに寄りかかり、葉巻の煙を燻らせていたベルナール・ジルが、感心したように口元を歪めた。

彼の背後には、あの巨漢の護衛が直立不動で控えている。

ベルナールは琥珀色の瞳を細め、階下で見事に組み上がっていくステージを見下ろしていた。彼自身が手配した木材と釘、そして裏社会の融通によって手に入れた資材が、寸分の無駄もなく使われている。


そのベルナールのすぐ隣、手すりに両手を置いてすり鉢の底を見つめていたのは、レア・ヴィットだった。


レアは作業着の擦り切れた上着を羽織り、冷たい地下の風に黒髪をなびかせていた。

その双眸は、完成しつつあるステージの形状を、冷徹な測量士のように細部まで検分している。


「見世物小屋じゃないわ」

レアは前を向いたまま、ベルナールの言葉を遮るように言った。

「ここは、帝都で一番危険な音楽堂よ。……声の抜けはどうかしら、ノア」


レアの問いかけに応えるように、階下のステージの中央から、ポロロン……と乾いた鍵盤の音が立ち上ってきた。


ステージの奥に据え付けられていたのは、〈黒猫座〉にあった埃まみれのアップライトピアノではなかった。

ベルナールが中層の質屋から極秘裏に買い叩いて運ばせた、小型のグランドピアノ。外装の黒漆には細かな傷が無数についていたが、内部の真鍮フレームと響板はまだ生きている逸品だった。

その前の丸椅子に座り、咥え煙草の灰を床に落としながら調律具(チューニングハンマー)を握っていたノア・カレヴィが、ピンを締め直しながら気怠げに顔を上げた。


「……悪くねえよ」

ノアの掠れた声が、木製の反響板に当たって、驚くほど澄んだ質量を伴って二階の回廊まで響いてきた。


「このすり鉢の形状、元々が怒号を反響させるために計算されて掘られてやがる。反響板の角度も完璧だ。……お前のあの暴力的な地声なら、拡声の魔導具なんざ使わなくても、一番上の立ち見席の奥まで骨ごと揺らせるぜ」


ノアは調律具をピアノの上に置くと、鍵盤の低音部を力任せにガァンと叩いた。

重厚な不協和音が地底から湧き上がり、円形ホールの壁面を伝って、二階の手すりを握るレアの指先をビリビリと痺れさせる。

純正律の無機質な響きではない。

泥臭く、湿り気を帯びた、人間の体温を宿した重低音の唸り。


「五百人か……」

ベルナールが葉巻を指で挟み、回廊から客席の全景を見渡した。

「一階のスタンディングエリアに三百人、すり鉢の階段席に二百人。……おい、レア。本当に埋まるんだろうな? 煙突街のゴロツキどもから小銭を巻き上げるだけじゃ、この維持費と俺の取り分はペイしねえぞ」


「埋まるわよ」

レアは微塵の迷いもなく即答した。

「初日のチケットは、すでに〈黒猫座〉の店頭で売り切れたわ。それも、銀貨一枚という、下町の連中にとっちゃ目玉が飛び出るような強気の値段でね」


「……何?」

ベルナールが目を丸くした。

「銀貨一枚を平民が払ったのか? 銅貨十枚の安酒で一日を潰す連中が?」


「あの人たちにとって、私の歌はもう娯楽じゃないのよ」

レアの唇に、冷酷なまでの確信の笑みが浮かぶ。

「明日を生きるための空気であり、心臓の動かし方そのものなの。手に入らないとなれば、服を売ってでも金を工面して駆けつけてくるわ。……でも、ベルナール。平民の銀貨だけじゃ、私の目的の半分しか達せられない」


レアは振り返り、二階の吹き抜け回廊の奥――かつて拳闘の胴元や闇貴族たちが使っていた、特別観覧席の並ぶ薄暗い空間を指差した。


「あそこよ。あの二階のボックス席」


「あそこがどうした?」


「黒い紗幕(しゃまく)を二重に張り巡らせなさい。外からは中の様子が一切見えず、中からはステージだけが完璧に見通せるように」

レアの瞳の奥に、獲物を追い詰める罠を仕掛ける狩人の光が灯った。


「裏路地に面した専用の通用門から、馬車を直接乗り付けられる隠し通路を作るの。そして、その席の客には、入場時に白と銀のベネチアンマスク――顔の上半分を完全に覆い隠す仮面を配るわ」


「……仮面だと?」

ベルナールが訝しげに眉をひそめた。


「ええ。昼間は清廉潔白を気取り、聖歌庁の教条主義に従っている貴族の連中よ」

レアは冷笑を漏らした。

「あいつらは退屈で死にかけているの。自分たちを縛り付ける格式と道徳の鎖に窒息しかけている。でも、スキャンダルが怖くて、下町の酒場へ堂々と足を踏み入れる勇気はない。……だから、免罪符を用意してあげるのよ」


レアは人差し指を立て、決定的な言葉を告げた。


「『ここでは誰もが名前を失い、ただの獣になれる』という免罪符よ。顔を隠し、身分を捨て、暗闇の中でなら、あの高慢な貴族どもだって本能を剥き出しにして叫びたがっている。……二階の仮面VIP席の入場料は、金貨三枚に設定しなさい」


「き、金貨三枚!?」

さすがのベルナールも、葉巻を落としそうになりながら声を上擦らせた。

平民の数ヶ月分の年収に匹敵する額だ。貴族の夜会の席料としても破格の暴利。


「高すぎると思う? 逆よ」

レアは嘲るように言った。

「あいつらにとって、金なんてただの紙切れよ。それよりも『選ばれた者しか入れない秘密の狂乱』という特権意識にこそ、惜しげもなく金を払うの。……見ていなさい。チケットを絞れば絞るほど、あいつらは夜な夜な変装して、血眼で最前列を奪い合いに来るわ」


完璧なマーケティング。

人間の見栄と、抑圧された欲望の心理を、恐ろしいほど冷徹に見抜いた興行戦略。

ベルナールは呆気に取られたようにレアを見つめ、やがてゴクリと喉を鳴らした。

小娘ではない。

目の前にいるのは、帝都の支配階級の財布と理性を丸ごと手玉に取ろうとしている、本物の女帝だった。


「……ククッ、恐ろしい娘だぜ、本当にな」

ベルナールは銀狐の毛皮を揺らしながら、狂ったように笑った。

「いいだろう、最高級の紗幕と、ベネチアングラスの細工を施した銀の仮面を五十人分用意してやる。……お前の絵図通りに貴族どもが罠にかかるか、見ものだな」


「かかるわよ。――すでに一人、網にかかった哀れな騎士がいるもの」


レアの脳裏に、あの夜、作業着を着て涙を流し、白銀貨を投げ入れた警備隊長――ユーグ・アルマンの顔が浮かんでいた。

あいつは必ず来る。

非番の夜に、軍服を脱ぎ捨て、魂の渇きに耐えかねてこの地下へ這い蹲りに来る。

そして彼を皮切りに、帝都のエリートたちが一人、また一人と、この闇の劇場の共犯者へと堕ちていくのだ。


「おーい! レア! いつまで油売ってんだい、早く降りてきな!」


階下から、鋭く甲高い声が飛んできた。

ステージの袖に仁王立ちしていたのは、黄色と真鍮色のストライプジャケットを着た仕立て屋、ジュディット・モレルだった。

ジュディットの両腕には、真紅の布地が山のように抱えられていた。


「できたよ! 針の一本一本に、あたしの怨念と情熱を全部叩き込んでやった! アンタの新しい『皮膚』の完成だ!」


◇


ステージ裏の小部屋に設えられた、真新しい楽屋。

大きな三面鏡の前に立ったレアの身体を、ジュディットの細い指先が素早く、かつ的確に包み込んでいく。


シルクベルベットの冷ややかな滑らかさが、レアの素肌へと吸い付くように馴染んでいく。

深紅(ルージュ)と漆黒(ノワール)。

ジュディットがデザイン画に描いた通りの、前衛的で挑発的なドレス。


「どうだい」

ジュディットが最後の一箇所の真鍮の留め具を締め、息を吐きながら一歩下がった。

「息を吸ってみな」


レアは深く、肺の底の底まで息を吸い込んだ。

驚くべきことに、布地の抵抗感は皆無だった。

胸の下から横隔膜にかけて編み込まれた特殊なスリット構造が、彼女の肋骨の広がりに合わせてしなやかに伸縮し、肺の拡張を一切阻害しない。

むしろ、息を吸うたびにスリットの隙間から真紅の裏地が妖艶に覗き、彼女の呼吸そのものが視覚的なリズムとなって主張する。


首元は大胆に開かれ、鎖骨と喉仏が完全に解放されている。

スカートの裾は前が膝丈まで短く裁断され、後ろには長い真紅のトレーンが引かれていた。

激しく足を踏み鳴らせば、引き締まった脚の筋肉とストンプの躍動が露わになり、同時にベルベットの光沢が、薄暗い地下の光を乱反射して怪しく燃え盛る炎のように揺らめく。


「……完璧ね」

鏡の中の自分を見つめ、レアは呟いた。


そこに映っていたのは、もはや貧民街のみすぼらしい孤児でも、聖楽院の従順な特待生でもなかった。

闇を裂いて咲いた、毒々しくも圧倒的に美しい、一輪の猛毒の華。

男に愛されるための飾り物ではない。

世界を屈服させるために鎧を纏った、孤高のディーヴァ。


「当然さ」

ジュディットは誇らしげに鼻を鳴らし、腰の鋏をパチンと鳴らした。

「これで、アンタがこの帝都の夜の女王になる準備はすべて整ったよ」


楽屋のカーテンを開け、レアはゆっくりとステージの中央へと歩み出た。


カツン、カツン。

新しく仕立てられた靴の踵が、無垢の松板を踏み鳴らす。

その足音だけで、作業の手を止めた男たち全員の視線が、吸い寄せられるように彼女へと注がれた。

マルゴが煙管を取り落としそうになり、ベルナールが息を呑み、ピアノの前のノアが鍵盤の上で指を止める。

誰一人として言葉を発せない。

ただ、薄暗い円形ステージの中央、真紅のドレスを纏って立つ少女の放つ圧倒的な存在感に、魂を射すくめられていた。


レアは、すり鉢状に広がる五百席の空間を見渡した。

二階の仮面席を見上げ、高い天井の闇を見つめる。


(ここからよ)


レアの胸の内で、静かな、しかしマグマのような熱を孕んだ決意が脈打った。


(ここから、あの腐った貴族どもを引きずり下ろす。……神の調和を気取るあいつらの首根っこを掴んで、この泥の底の狂乱に引きずり落としてやる)


第2幕のこけら落とし公演は、明後日の夜。

帝都最大の地下ステージ――〈アリーナ・ノワール〉が、いま、産声を上げようとしていた。


◇


――そして、同じ夜。


帝都第一区「光輪地区」。

天空を突くようにそびえる帝立聖楽院の敷地内、女子高等寄宿舎の最上階。


外界の喧騒から完全に遮断されたその空間は、氷の彫刻のように冷たく、静まり返っていた。

壁は防音のために分厚い白大理石で覆われ、窓の外には手入れの行き届いた中庭と、遠く見下ろす帝都の夜景が広がっている。

だが、その夜景の中に、煙突街や歓楽街の生々しい光など一切見えない。ただ、教会の尖塔が放つ青白い魔導灯の光が、規則正しく瞬いているだけだ。


その一室。

ヴァレンヌ公爵家の令嬢――クラリス・ド・ヴァレンヌは、自室の鏡の前に座り込んでいた。


「……ッ、ゴホッ……! ゲホッ、ゲホッ……!」


吐き出された激しい咳が、白磁の洗面器に響いた。

クラリスは両手で自らの喉元を強く押さえ、痛みに顔を歪めていた。

声帯が、火を噴くように熱い。

今日も一日、マクシミリアン伯爵の課す厳格な典礼曲の練習が続いた。

感情を殺し、息の乱れを許さず、機械のように一定の高音を保ち続ける不自然な発声。

首席候補としての重圧。

名門の誇りを背負わされた「完璧な人形」としての責務。

そのすべてが、彼女の細い喉を内側から締め上げ、声帯を無惨に擦り減らしていた。


(もう、出ない……。このままじゃ、私の声は……死んでしまう……)


恐怖の涙が、クラリスの大きな瞳から零れ落ちる。

だが、彼女が絶望していたのは、喉の故障だけではなかった。


あの日。

大聖堂で聴いた、あの歌声。

半音下がる気怠い節回し、腹の底から突き上げる地声の唸り、そして天井を突き破るような魂の絶叫。

レア・ヴィットが解き放ったあの「悪魔の揺らぎ」を浴びて以来、クラリスの耳には、自分が歌う賛美歌が死人の骨の擦れ合う音にしか聴こえなくなっていた。

自分は偽物を歌わされている。

神の調和などという嘘っぱちの檻の中で、息の仕方すら忘れさせられ、生きたまま剥製にされようとしているのだと。


「……お嬢様。頼まれていたものを、手に入れてまいりました」


背後の扉がわずかに開き、私服を着た忠実な侍女が、周囲を警戒しながら滑り込んできた。

侍女の手には、下町の闇市で密かに流通しているという、粗悪な紙に刷られた瓦版の切れ端と、情報屋の走り書きが握られていた。

クラリスが、小遣いの大半を叩いて秘密裏に調べさせていたものだ。


「……見せて」


震える指先で、クラリスはその紙片を奪い取るように受け取った。

蝋燭の淡い光の下で、粗悪な活字に目を走らせる。


『煙突街に悪魔の歌姫現る』

『聴く者すべてを熱狂させ、屈強な男たちを泣かせる奇跡の声』

『一度聴けば魂を奪われる、禁忌の節回し』

『黒髪の小柄な少女。元・聖楽院の――』


文字を追うクラリスの呼吸が、急速に荒くなっていく。

心臓が、破裂しそうなほど激しく打ち鳴らされる。

目撃談に記された、少女の容姿。

歌唱の特徴。

そして――何よりも、その歌を聴いた者たちが口を揃えて語る、「肋骨を直接揺さぶられるような、生の叫び」。


「……やっぱり」


クラリスの唇から、掠れた吐息が漏れた。

紙片を握りしめる指先が、小刻みに震える。


「あの子だ……。レア……レア・ヴィット……!」


確信だった。

あの日、「下賤なドブネズミ」と罵られ、泥水の中へと叩き落とされたはずの特待生。

彼女は野垂れ死ぬどころか、下町の底でその牙をさらに研ぎ澄まし、大衆の熱狂を従えて、巨大な怪異となって蘇りつつあったのだ。


クラリスは、激痛の走る自らの喉元に、そっと手を当てた。

痛い。苦しい。

だが――その痛みの奥底で、死にかけていた彼女の魂が、激しく疼いていた。


(聴きたい……。もう一度、あの子の声を……!)


知りたい。

どうすれば、あんな風に息ができるのか。

どうすれば、魂のすべてを叩きつけるように、世界へ向かって叫ぶことができるのか。

教会の教えなど、貴族の矜持など、どうでもよかった。

このまま無菌室の中で窒息して死ぬくらいなら――あの泥水の中へ飛び込み、悪魔に魂を売り渡してでも、本物の歌に触れたい。


クラリスは立ち上がり、鏡の中に映る自分を見つめた。

プラチナブロンドの髪、完璧な淑女のドレス。

その虚飾の仮面を脱ぎ捨てる決意が、彼女の濡れた瞳に、狂おしいまでの光を灯していた。


「侍女、平民の服を用意しなさい」

クラリスの声は、喉の痛みを越えて、凛と響いた。


「それから――顔を隠すための、銀の仮面を」



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