第8話 煙突街の黒い噂
病的な熱狂というものは、水と同じだ。
一度器から溢れ出せば、重力に従って低い場所を満たすだけにとどまらず、隙間を見つけては毛細管現象のように壁を伝い、やがて都市のあらゆる階層へと染み出していく。
地下酒場〈黒猫座〉の狂乱は、もはや煙突街というすり鉢の底だけに留まることを拒み始めていた。
発端は、港湾で働く荷揚げ人夫や石炭運搬船の水夫たちだった。
彼らは日頃、煙突街の安長屋に身を寄せながらも、日中は中層の運河沿いや職人街の倉庫へと出入りする。煤に汚れ、油に塗れた作業着の男たちが、昼飯の固い黒パンを齧りながら口々に語り散らす「悪魔の歌姫」の話は、驚くべき速度で周囲を侵食していった。
「嘘だと思うなら、夜にあの階段を降りてみな。あの子がひとたび喉を鳴らせば、身体中の骨が鐘みたいに共鳴するんだ」
「港の一番の暴れん坊だった荷揚げ頭が、人目も憚らず泣き崩れたんだぞ。小銭どころか、懐の銀貨まで全部放り出してな」
「ただの歌じゃねえ。あれは魂を鷲掴みにする魔術だ。……いや、魔術なんかよりももっと生々しい、生き血の味のする叫びだ」
噂は尾ひれをつけ、誇張され、瞬く間に下町の職人たち――靴直し、銅細工師、鍛冶屋、織物工たちへと飛び火した。
さらには、少しばかり羽振りの良い小商人や酒の卸売業者、下層と中層を繋ぐ路地裏の飲食店主にまで広がっていく。
曰く、「一度聴けば不治の肺病すら吹き飛ぶ奇跡の声」。
曰く、「聴いた者をたちまち虜にし、身ぐるみ剥がれるまで通い詰めさせる悪魔の蠱惑」。
曰く、「聖楽院を追放された希代の天才が、貴族どもへの復讐のために地下で毒を撒き散らしている」。
人間という生き物は、禁じられたもの、隠されたもの、そして「理性を狂わせる」と噂されるものに、抗いがたい飢餓感を覚える。
聖歌庁の無機質な純正律しか耳にしたことのない帝都の住人たちにとって、その泥臭く危険な熱狂の噂は、退屈な日常の皮膚を切り裂く劇薬のような引力を持っていた。
夜ごとに〈黒猫座〉へ向かう人の列は伸び続け、煙突街の狭い路地は、噂の真偽を確かめようとする物好きな中流の男たちまでも巻き込んで、異様な熱気に包まれていた。
――そして、その煙は当然のごとく、都市の「規律」を司る者たちの鼻腔にも届くこととなる。
◇
帝都第二区、中央広場に面した堅牢な石造りの威容――帝都警備隊中央本部。
白亜の御影石で組まれた回廊には、塵一つ落ちていない。
行き交う兵士たちの磨き上げられた軍靴が、規則正しい硬質な足音を響かせ、壁に掛けられた歴代隊長の肖像画が冷ややかに下界を見下ろしている。
空気そのものが、氷のように張り詰めていた。
感情を排し、個を殺し、帝国の法と秩序を守るための絶対的な規律。聖歌庁が掲げる「沈黙の美」と対をなす、国家の物理的な屋台骨がここにあった。
その第三執務室の分厚い樫の木の扉を、ノックの音が三度、寸分の狂いもない間隔で打ち鳴らした。
「第3小隊長、ユーグ・アルマン子爵。入室いたします」
澄んだ、しかし芯の通った青年の声が室内に響く。
扉が開き、一人の若い将校が歩み入ってきた。
ユーグ・アルマン。二十代半ばの若さで一個小隊を率いる男だ。
名門軍人貴族であるアルマン子爵家の次男。
背筋は刃物のように真っ直ぐに伸び、深い紺青の詰襟軍服には銀の飾緒が凛と垂れている。腰に佩いた指揮刀の鞘には傷一つなく、短く刈り込まれた淡い亜麻色の髪の下で、知性を湛えたヘーゼル色の双眸が静かに前を見据えていた。
誰が見ても、非の打ち所のない「帝国の若き模範的騎士」。
感情に流されず、法と任務を絶対視し、私心を捨てて公に尽くす潔癖な軍人――それが、周囲の誰もが抱くユーグの評価だった。
執務机の奥に座る初老の警備副連隊長が、眼鏡の奥の目を眇めてユーグを見上げた。
机の上には、数枚の報告書が広げられている。最上段の紙片には、昨夜、情報屋が走り書きしたメモがクリップで留められていた。
「よく来たな、アルマン小隊長」
「はっ。急な呼び出しと伺いましたが、暴動の兆候でも?」
「暴動、か。……半分は当たっているな。正確には、暴動の火種になりかねん腫れ物が、最悪の吹き溜まりに生じた」
副連隊長は太い指先で、書類の束をトンと叩いた。
「煙突街だ。第七区の裏路地にある地下酒場〈黒猫座〉。聞いたことはあるか」
「……かつて裏社会の顔役だったマルゴ・デルーが営む酒場です。密輸や無許可の賭博の温床として監視対象に指定されておりますが、大規模な治安悪化の兆候はなかったはずですが」
「これまではな」
副連隊長は渋面を作り、羊皮紙を一枚、ユーグの前へと滑らせた。
「ここ数日、あの界隈に異様な群衆が密集している。夜ごとに百人を超える下層民が路地に溢れかえり、歓声を上げ、小銭を投げ銭として投じているという。……原因は、新しく入った若い女の歌い手だ」
ユーグは眉を微かにひそめ、書類に視線を落とした。
そこに記されていたのは、風紀紊乱、未公認集会、そして「民衆を扇動する不穏な楽曲」の存在だった。
「ただの歌い手に、群衆が集まっていると?」
「そうだ。だが、普通の民謡や旅芸人の芸ではないらしい。聴いた者が興奮のあまり理性を失い、職務を放棄してまで連日通い詰めている。昨夜などは、港湾の作業が一時滞るほどの人夫があの地下室へ吸い込まれたという報告すら上がっている」
副連隊長は不快そうに舌打ちを鳴らした。
「聖歌庁の典礼局からも、非公式に苦情が来ている。『下層民のあいだで、神への敬虔を忘れさせる悪魔的な節回しが流行している。帝都の精神的調和を乱す不浄の芽は、速やかに摘み取れ』とな。……教会の連中は、自分たちの権威が泥水で汚されるのを何よりも嫌う」
「教会の思惑など関係ありません」
ユーグは感情を交えず、淡々と言い放った。
「公共の秩序が乱され、無認可の集会が暴動の母体となり得るのであれば、治安部隊として看過することはできません。風紀紊乱および不法集会罪で即時部隊を展開し、首謀者を検挙、店舗を封鎖いたしますが」
「待て。力技は禁物だ」
副連隊長が手を上げて制した。
「相手は煙突街のゴロツキどもだ。下手に武装した警備隊を白昼堂々と踏み込ませてみろ。貧民街全体を巻き込む暴動に発展しかねん。そうなれば聖歌庁の顔に泥を塗るだけでなく、警備本部の失態として貴族院からも突き上げを喰らう」
「では、いかがなさるおつもりで」
「内偵だ」
副連隊長は鋭い目をユーグに向けた。
「お前が私服で潜入しろ、アルマン。今夜、あの酒場へ一人で入れ。その歌い手が本当に民衆を扇動しているのか、違法な扇動思想や反乱分子との繋がりがあるのか、その目で直接確かめてこい。……決定的な証拠を押さえ次第、憲兵隊と合同で密かに首謀者を拘束し、一切の騒ぎを起こさずに片付ける」
「……私が、単独で潜入を?」
「お前の観察眼と冷徹な判断力は、小隊長の中でも随一だ。酒場の猥雑な空気に呑まれることもなかろう。――できるな?」
ユーグは胸元に右手を当て、寸分の狂いもない敬礼を返した。
「了解いたしました。今夜、煙突街へ潜入し、違法性の証拠を確保いたします」
◇
中央本部の宿舎、ユーグに割り当てられた士官個室。
部屋の中は、彼の性格をそのまま形にしたかのように、殺風景で整然としていた。
ベッドのシーツには皺一つなく、机の上には法令全書と日誌が直角に揃えられて置かれている。壁に飾られた唯一の装飾は、アルマン子爵家の家紋である「銀の双剣」をあしらった盾のレリーフだけだった。
カチリ、と真鍮の留め具を外す乾いた音が、静かな室内に響いた。
ユーグは鏡の前に立ち、自らの手で軍服の第一ボタンを外した。
続いて、第二、第三。
銀の飾緒を丁寧に外し、埃を払って机の上に置く。
胸元を締め付けていた硬い立ち襟が解かれ、冷たい空気が鎖骨のあたりへと触れた。
「…………」
ユーグは無言のまま、鏡の中の自分を見つめた。
軍服を脱ぎ進める手つきは、どこか儀式めいていた。
名門アルマン子爵家の次男。
幼い頃から、彼に許されていたのは「優秀で従順な軍人」であることだけだった。
長男は領地を継ぐ跡取りであり、三男は聖歌庁へ送られて聖職者となった。次男である自分に課せられた使命は、帝室への忠誠を軍務によって示し、一族の武名を高めること。
甘えも、弱音も、個人の感情すらも、すべては「軍人としての名誉」という鉄の枠組みの中に押し込められ、去勢されてきた。
感情を交えてはならない。
私心を挟んではならない。
規律こそが美徳であり、秩序こそが正義である。
父の教えを、上官の命令を、疑ったことは一度たりともなかった。
だが――。
軍服の上着を完全に脱ぎ捨て、白い麻のシャツ一枚になった瞬間、ユーグの胸の奥底で、奇妙な感覚が蠢いた。
(……息が、通る)
首筋に手を当て、小さく息を吐き出す。
皮膚が空気に触れた瞬間、微かな寒気とともに、鉛の鎧を脱ぎ去ったかのような、名状しがたい軽さが背中に走ったのだ。
自分はいつから、この軍服という皮膚に窒息しかけていたのだろうか。
完璧な騎士。非の打ち所のない小隊長。
その仮面を被り続けることに、微かな疲労すら覚えていないと、自分自身に嘘をつき続けていたのではないか。
「……馬鹿げている」
ユーグは自嘲するように小さく呟き、頭を振ってその雑念を振り払った。
自分は任務に赴くのだ。くだらない感傷に浸っている暇などない。
彼はベッドの下から、あらかじめ諜報班から調達させておいた粗末な麻袋を引き出した。
中から取り出したのは、下町の労働者が着古した、薄汚れた作業着だった。
染みだらけの茶色いズボン。
肘の擦り切れた分厚いウールのジャケット。
長年の汗と石炭の煤が染み付き、安酒の饐えた匂いすら微かに漂っている。
ユーグはその粗悪な衣服に袖を通した。
チクチクとした粗野な繊維が肌を刺す。上等な毛織物の軍服とは比べ物にならない、泥の匂いのする感触。
ズボンを履き、泥で汚れた頑丈な短靴に足を滑り込ませる。
再び鏡の前に立つ。
そこに映っていたのは、端正な貴族将校の姿ではなかった。
どこにでもいる、煙突街の煤煙に塗れて日銭を稼ぐ、無骨な若き労働者の姿。
ユーグは暖炉の煤壺から指先で一筋の黒い粉を掬い取り、躊躇うことなく自らの頬と鼻梁、そして額へと塗りたくった。
端正すぎる白皙の肌を、泥と煤で汚していく。
最後に、ボサボサに乱した亜麻色の髪の上に、鍔の曲がった薄汚れた鳥打帽を目深に被る。
鏡の中の男は、完全に「下層の住人」へと成り変わっていた。
だが、その瞳の奥にある冷徹な光だけは、隠しようもなく研ぎ澄まされていた。
「悪魔の歌姫、か」
ユーグの口から、冷ややかな呟きが漏れた。
下層民を煽り、秩序を乱し、小銭を巻き上げる下賤な見世物小屋の女。
神の調和を冒涜し、感情の泥沼に大衆を叩き落とすような存在など、帝都の治安を脅かす害悪以外の何物でもない。
どれほどの魔術めいた歌唱か知らぬが、規律と理性を重んじる自分の前で、そんな安っぽい目眩ましが通用するはずもない。
(速やかに証拠を掴み、摘発の口実を作る。……この手で、そのくだらない熱狂に終止符を打ってやる)
ユーグは作業着の内ポケットに、小型の記録用手帳と鉛筆を滑り込ませた。
護身用の短剣を靴の隙間に隠し、外套の襟を立てる。
部屋の明かりを吹き消し、鍵をかける。
ユーグ・アルマンは、暗闇に沈む宿舎の裏口から、音もなく夜の街へと滑り出していった。
向かう先は、都市の底。
あらゆる悪徳と泥水が流れ込む、煙突街の地下酒場〈黒猫座〉。
自分がこれから対峙するものが、ただの犯罪者などではなく、己が信じてきた世界のすべてを根底から粉砕する「猛毒の炎」であることなど、この時の彼にはまだ知る由もなかった。




