第7話 銅貨の山と渇き
地下酒場〈黒猫座〉の狭い楽屋に、鈍い金属の擦れ合う音が途切れなく響いていた。
ジャラッ、チャリン。ジャラララッ。
夜明け前の狂乱が嘘のように静まり返った室内で、油ランプの煤けた炎がチリチリと微かに爆ぜる。
木製の粗末なテーブルの中央には、見たこともないような高さの山が築かれていた。
すべて、銅貨だ。
汗と泥と油が染み付き、人の手の脂で黒ずんだ、帝国の最低額面の通貨。それが何千枚、あるいは万の単位でうずたかく積まれ、テーブルの天板を歪ませるほどの重みをもって鎮座している。
酒樽を解体したステージの上から、鋸屑にまみれた床から、掃き集められた昨夜の熱狂の残骸。
マルゴ・デルーは、咥えた煙管から紫煙を細く吐き出しながら、分厚く節くれ立った指で手際よく硬貨を五十枚ずつの円柱に纏めていた。
その作業はもう一時間以上も続いている。
彼女の脇には、すでに銅貨でパンパンに膨れ上がった麻袋がいくつも転がっていた。
「……信じられないね」
マルゴが低く呟いた。煙草の煙が、疲労の濃い灰色の瞳を細めさせる。
「この店を始めて二十年になるが、一晩でここまで金が落ちたことなんざ一度もありゃしないよ。港湾の荒くれどもが、財布の底どころか服の裏地まで引き裂いて小銭を差し出しやがったんだ。ツケを踏み倒すことしか頭にない連中が、だ」
マルゴは円柱を崩し、頑丈な革袋へとガサリと流し込んだ。
そして、その袋の口を麻紐で固く縛り上げると、テーブルの向かいに座るレアの前へと無造作に押し出した。
ドスンッ、と。
鈍く重い衝撃音が、板張りのテーブルを軋ませる。
「……受け取りな。あんたの取り分だ」
レア・ヴィットは、差し出された革袋を見つめた。
袋の表面は使い込まれて擦り切れ、あちこちに黒ずんだ染みがついている。持ち上げようと両手を伸ばすと、ずっしりとした本物の質量が、細い腕の筋肉をきしませた。
片手では到底持ち上がらない。
「どれくらい、あるの」
レアの掠れた声が、静寂に落ちる。
昨夜の過酷な絶唱の代償として、彼女の声帯は熱を持ち、喉の奥には乾いた痛みが残っていた。
「銅貨で約八百枚。銀貨に換算すりゃ八枚分ってところだね」
マルゴは煙管を灰皿の縁で叩き、灰を落とした。
「煙突街の長屋なら、一家四人が半年間、暖炉に石炭をくべて腹いっぱい麦飯を食える額さ。……たった一晩、喉を鳴らしただけで手に入る金じゃない。普通ならね」
半年分の生活費。
その言葉の重みに、レアの指先がピクリと動いた。
かつて、この煙突街で母と二人で暮らしていた頃の記憶が蘇る。
冬の朝、凍傷で紫色に腫れ上がった母の手。石炭をひと籠買うための銅貨三枚が工面できず、薄い毛布を重ねて抱き合い、互いの体温だけで夜を明かした日々。
母が血を吐いて倒れた時、医者を呼ぶための銀貨一枚が手元にあれば、あの人は死なずに済んだのかもしれない。
その銀貨が、いま、目の前の革袋の中に八枚分も詰まっている。
聖楽院で特待生として飼い殺されていた三年間、支給されていた雀の涙ほどの小遣いなど、比較にすらならない大金だった。
「……おいおい、化け物のお嬢ちゃん。大金を前にして腰を抜かしたか?」
部屋の隅、酒樽の上に腰掛けていたノアが、冷ややかな嘲笑を投げかけてきた。
ノアの顔色は最悪だった。
ただでさえ青白い肌が土気色に沈み、目の下には濃い隈が張り付いている。ボサボサの黒髪は寝癖で跳ね、口には火のついていない煙草を咥えていた。
そして何より――彼の両手。
十本の指先は赤黒く腫れ上がり、指の関節には白い油布が何重にも巻きつけられていた。昨夜、レアの狂乱のテンポに追随し、調律の狂った鍵盤を叩き続けた代償だった。
「指が痛むの、ノア」
レアが振り返ると、ノアは鼻を鳴らし、痛々しい手で煙草にマッチの火を点けた。
「痛むどころの話じゃねえよ。骨にヒビが入ってねえのが奇跡だ。……お前のあの節回し、ただの歌じゃねえ。ピアノの弦を通じて、こっちの指の骨まで削り取ってくる。二度とごめんだね」
「そう。なら、今夜は別のピアノ弾きを探すわ」
レアが平然と言い放つと、ノアは煙を吹き出しながら鋭い目で睨みつけてきた。
「ふざけんな。他の誰があのイカれたスウィングについてこれるってんだ。俺以外の奴が弾いたら、一小節でお前の声に呑まれて発狂するのがオチだ」
吐き捨てるような言葉。
だが、その不器用な台詞の裏側に、彼自身もまた昨夜の熱狂に魂を焼き尽くされ、あのグルーヴから逃れられなくなっている事実が透けて見えていた。
マルゴがクスクスと笑いながら、棚から安酒の瓶を取り出してテーブルに置いた。
「減らず口を叩く元気があるなら結構なこった。……それで、レア。その金をどうするんだい? 煙突街を出て、中層の綺麗なアパートにでも引っ越すかい? それとも、お上品な服でも買い揃えて、学院の連中に見せびらかしに行くかね」
マルゴの灰色の瞳が、試すようにレアを見つめる。
金を手に入れた人間がどう壊れていくか、彼女はこの裏路地で何百人も見てきたはずだった。急に手にした富に溺れ、身を持ち崩し、最後は路地裏の溝に転がるのが下層民の常だ。
だが。
レアは、革袋の口をぎゅっと握り締めたまま、首を横に振った。
「引っ越しなんてしないわ。服も、歌うのに邪魔にならないものなら何でもいい」
「なら、貯め込むのかい?」
「違う」
レアは顔を上げた。
その瞳の奥を覗き込んだ瞬間、マルゴの笑みがスッと消え失せた。
そこにあったのは、大金を手に入れた安堵でも、贅沢への欲望でもなかった。
ただ――底なしの、漆黒の「渇き」だった。
「……足りないわ」
レアの唇から、冷たい吐息が漏れた。
「足りない? 半年分の暮らしが、かい?」
「ええ。こんな小銭の山じゃ、何一つ満たされない」
レアは立ち上がり、革袋を抱きかかえるようにして胸に当てた。
硬貨の冷たい感触が、薄い木綿のワンピース越しに肋骨へと伝わってくる。
「私が欲しいのは、安全な暮らしでも、明日のパンでもない。……この程度の地下室で、五十人やそこらの酔っ払いを泣かせたところで、何が変わるっていうの? 大聖堂の高台にいるあいつらは、今もぬくぬくと温かい部屋で、あの死人の賛美歌を歌って世界を支配しているのに」
彼女の脳裏に、マクシミリアン伯爵の冷酷な嘲笑が、そして大聖堂のステンドグラスの冷たい光が焼き付いていた。
泥水で育ったドブネズミ。
悪魔の節回し。
そう吐き捨てて自分を放り出した連中は、この地下酒場で起きた奇跡など知る由もない。自分たちが世界の頂点に立ち、美と秩序を独占していると信じ切っている。
「私の声は、こんな狭い穴倉に閉じ込めておくためのものじゃないわ」
レアの瞳に、獰猛な炎が燃え盛る。
「帝都中の人間を、私の歌に飢えさせてやるの。あいつらが夜な夜な耳を塞いでも、部屋の隙間から、石畳の底から、私の声が這い上がってきて理性を狂わせるくらいに。……この街の夜のすべてを、私の喉で呑み干してやる」
静寂が、楽屋を包み込んだ。
息を呑む音すら聞こえない。
ノアは咥えた煙草を落としそうになりながら、唖然としてレアを見つめていた。
マルゴもまた、言葉を失っていた。
下町の娘が抱くような夢ではない。それは、帝国が千年かけて築き上げてきた文化と階級のピラミッドを、下層の泥水で根底から押し流そうとする、狂気じみた宣戦布告だった。
「……ハッ」
やがて、マルゴの口から低く乾いた笑いが漏れた。
「いいね。つくづく、可愛げのない娘だよ。母親以上の大悪党になりそうだ」
マルゴは煙管を咥え直すと、ニヤリと口角を吊り上げた。
「いいかい、レア。それだけの野心を吐くなら、今夜はもっと覚悟しな。昨夜の噂は、もうこの煙突街を一周しちまってるよ」
マルゴの言葉は、誇張でも何でもなかった。
その日の午後。
太陽が重たい煤煙の雲に隠れ、街が薄暗い夕闇に包まれ始めた頃。
煙突街の空気が、いつもとは明らかに異質な熱を帯び始めていた。
ドックの荷揚げ場、石炭の集積所、鉄工所の煤けた作業場。
男たちが集まる場所という場所で、昨夜の〈黒猫座〉の出来事が、まるで奇跡の目撃談のように語り継がれていた。
「おい、聞いたか? 昨夜の黒猫座の小娘の話」
「ああ、あの荷揚げ頭のゴロツキが、子供みたいに泣き崩れたってやつだろ? 嘘に決まってんだろ、あの人斬りが涙なんざ流すわけがねえ」
「嘘じゃねえよ! 俺のダチが現場にいたんだ! あの子の第一声を聞いた瞬間、胸の骨がビリビリ震えて、気づいたらポケットの小銭を全部投げ出してたってよ!」
「悪魔の歌声だ」「聴くだけで魂を抜き取られる」「一度聴いたら、他のどんな酒を飲んでも酔えなくなる」――。
尾ひれのついた噂は、乾いた枯れ草に燃え広がる火のように、路地裏の長屋から長屋へと瞬く間に伝播していった。
日々の重労働に摩耗し、感情を麻痺させて生きていた下層の民衆にとって、その噂は抗いがたい毒の蜜だった。
魂を揺さぶられる?
胸の痛みをすべて吐き出せる?
そんなものが、この泥の底に存在するのか。
もし本当なら――死ぬ前に一度だけでいい、その歌をこの耳で聴いてみたい。
日没の二時間前。
まだ〈黒猫座〉の開店準備すら始まっていない時刻。
地下へと続く狭い石段の上、路地の入り口に、一人の男がぽつんと立っていた。
昨夜、最前列で泣き崩れていた、あの火傷痕の荷揚げ頭だった。
男はまだ酒の抜けない顔をしながら、誰に言われるでもなく、固く閉ざされた地下の扉の前に陣取っていた。
その背後に、もう一人、昨夜の客が並んだ。
さらに五分後、その噂を聞きつけた港湾労働者が三人。
十分後には、職人風の男たちが十人。
日没を迎える頃には――。
「……おいおい、マルゴ。外を見てみろよ」
店内の仕込みをしていたノアが、地下の換気用の小さな鉄格子から外を覗き込み、呆れたような声を上げた。
エプロン姿のマルゴが階段を駆け上がり、重い樫の木の扉をわずかに開けて隙間から外を窺う。
「……なんてこったい」
マルゴの口から煙管が滑り落ちそうになった。
路地を埋め尽くしていたのは、人の波だった。
地下へ続く階段から溢れ出し、狭い石畳の路地を抜け、大通りへと続く角まで、五十人、いや百人を超える男たちが長蛇の列を作っていたのだ。
全員が、煤で汚れた作業着を着て、寒風に肩を竦めながら、じっと開門の時を待っている。
その目は、炊き出しのスープを待つ飢民のそれではない。
禁断症状に震える中毒者が、渇望する薬の配給を待つような、異様で、狂気じみた光を宿していた。
「開けろ! マルゴ、早く店を開けろ!」
「金なら持ってきた! 昨日の歌姫を出せ!」
「俺を一番前に入れろ! 頼む、あの歌をもう一度聴かせてくれ!」
扉の隙間から、怒号のような懇願が雪崩れ込んでくる。
鉄格子の嵌まった扉が、群衆の圧力でギシギシと悲鳴を上げて軋む。
定員五十人ほどの狭い地下酒場に、その三倍以上の人間が押し寄せていた。
階段の踊り場に、着替えを終えたレアが静かに姿を現した。
今日も身に纏っているのは、昨夜と同じ、安物の濃紺のワンピース。
髪を後ろで無造作に束ね、その顔には化粧の一筋すら施されていない。
「レア、見なよ」
マルゴが扉の隙間を指差した。
「あんたの言った通りだ。街中の飢えた野良犬どもが、あんたの喉を求めて列をなしてやがるよ」
レアは階段を数段上がり、鉄格子の隙間から外を見つめた。
寒空の下、吐く息を白く染めながら、自分を求めて群がる人々の顔。
その誰もが、昨日の自分と同じように、何かに傷つき、何かを奪われ、それでも生きるための熱を求めてここに集まっている。
レアの喉の奥が、チリリと熱を帯びた。
痛んでいたはずの声帯が、群衆の飢餓感に呼応するように、再び脈打ち始める。
(来なさい。いくらでも飲ませてあげるわ)
レアは冷たく微笑んだ。
まだ、これは始まりに過ぎない。
この煙突街を呑み込み、やがてあの高台の白亜の宮殿まで、この熱狂の泥水を届かせてやるのだ。
――だが。
その熱狂の列から遠く離れた、薄暗い路地の物陰。
崩れかけたレンガ塀の影に、ひとつの人影が佇んでいた。
深く目深に被った、濃紺の分厚いウールのマント。
襟元を高く立て、顔の下半分を完全に覆い隠している。
下町の住人とは明らかに異なる、仕立ての良い上等な生地。マントの裾から覗く革靴は、泥水に汚れないよう注意深く手入れされていた。
その人物は、長蛇の列を作る群衆と、〈黒猫座〉の看板を、冷徹な観察者の目で見つめていた。
マントの隙間から伸びた白い指先が、小さな手帳と鉛筆を取り出す。
『煙突街、地下酒場〈黒猫座〉。未認可の集会、異常な群衆の密集を確認。……中心人物は、未詳の若い女の歌い手』
手帳に走る、几帳面で整った筆跡。
それは、教会の審問官や、治安を司る官憲が用いる、公的な記録の文体そのものだった。
カリカリと鉛筆を走らせた人物は、手帳を素早く懐へしまい込むと、マントの襟をかき合わせた。
そして、一度も振り返ることなく、夕闇深まる路地裏の闇の中へと、音もなく姿を消していった。
熱狂の渦が広がるその足元で、帝都の巨大な秩序の歯車が、静かに、しかし確実に軋み始めていた。




