第6話 狂乱の夜明け
すべての息が、喉の奥から吐き出された。
楽曲の結尾、レア・ヴィットの喉から放たれた極限のロングトーンは、地下酒場〈黒猫座〉の狭く淀んだ空間を限界まで押し広げるかのように、天井の梁を、石造りの壁を、そして居並ぶ荒くれ者たちの鼓膜を震わせ続けた。
息の最後のひと欠片が尽きるその瞬間まで、音程は一切の揺らぎを見せず、むしろ鋭利なナイフのように研ぎ澄まされていく。
そして――。
ノアの指先が、鍵盤の上に激しく振り下ろされた。
ガァァァンッッ!!
調律の狂ったアップライトピアノが、すべての不協和音を呑み込んだ巨大な終止符を叩きつける。
弦の悲鳴のような残響が、埃の舞う空気の中へと溶け込み、やがて、すうっと引いていった。
音が、消えた。
酒場を支配したのは、異様なまでの静寂だった。
一秒。二秒。三秒。
安酒の匂いも、噛み煙草の煙も、その場に留まったまま凍りついている。
数十人もの荒くれ者が密集しているというのに、衣服の擦れる音ひとつ、ジョッキの触れ合う音ひとつ聞こえない。
ただ、ステージ中央に立つレアの荒い呼吸の音だけが、肩の上下に合わせてヒュー、ヒューと小さく響いていた。
額から顎へと滴り落ちる汗が、粗末な板張りの床にポトリと染みを作る。
誰も身動きが取れなかった。
魂を真正面から殴りつけられ、脳の髄まで沸騰させられた人間が、あまりの衝撃に身体の動かし方を忘れてしまったかのような、完全な麻痺。
その静寂を破ったのは――最前列にいた男の、掠れた嗚咽だった。
「…………う、…………ぐッ」
額から首筋にかけて火傷痕を持つ、ドックの荷揚げ頭。
さっきまでレアに向かって「小娘」「すっ込んでろ」と怒号を浴びせ、ピーナッツの殻を投げつけていたはずの巨漢だった。
その男が、テーブルに手をついたまま、がたがたと肩を震わせていた。
分厚く、油と泥にまみれた両手で、自らの顔面をぐしゃぐしゃに覆い隠す。その指の隙間から、濁った大粒の涙がとめどなく溢れ出し、無精髭を濡らして床の鋸屑の上へと落ちていく。
「お、おい……頭……?」
隣に座っていた若い荷揚げ人夫が、信じられないものを見る目でその巨躯を見つめた。
煙突街の裏路地で誰よりも恐れられ、官憲の警棒に頭を割られても眉一つ動かさなかった男が、年端もいかない少女の前で、子供のように泣き崩れているのだ。
「……弟がよォ……」
大男の喉から、血を吐くような掠れ声が漏れた。
「落盤で死んだ弟が……冷たくなった手を握った時……俺ァ、泣けなかったんだよ……。泣いたら、明日生きていけねえからよォ……! 畜生……畜生が……ッ!」
男の胸の奥底で、頑丈な鉄の扉で閉ざされていたはずの痛みが、いま完全に決壊していた。
誰にも言えなかった惨めさ。生き延びるために押し殺してきた後悔。
そのすべてが、レアの歌声という鉄槌によって叩き壊され、涙となって溢れ出していた。
刹那――。
ドォォォォォンッッ!!
耳を聾するほどの爆発的な衝撃が、地下のフロアを揺るがした。
歓声。叫び。口笛。
堰を切った濁流のように、酒場中の男たちの感情が一気に噴き出したのだ。
「うおおおおおおおおおおッッ!!」
「すげえええええええええっ!」
「何だありゃあ! 何なんだ今の歌はァッ!」
男たちが一斉に丸椅子を蹴倒して立ち上がった。
ある者は両手を突き上げて天井に向かって絶叫し、ある者は握り拳で木製のテーブルを壊れんばかりに叩きつける。
ドンドン、ドンドンと、床を踏み鳴らす無数のブーツの地鳴りが店全体を激震させる。
さっきまでの下品な嘲笑など、跡形もなく消え去っていた。
男たちの顔にあったのは、剥き出しの熱狂と、魂を根底から揺さぶられた者だけが浮かべる法悦の表情だった。
チャリンッ!
チャリン、チャリン、ジャラララッ!!
乾いた金属音が、雨音のようにステージへと降り注ぎ始めた。
銅貨だ。
男たちが、ポケットに突っ込んでいたその日の日当を、泥にまみれた硬貨を、我先にとステージの上へと投げ込んでいるのだ。
「持ってけ! 俺の小銭を全部持ってけ!」
「おい小娘、いや、歌姫様! 俺の今日の稼ぎだ、全部くれてやる!」
「もっと歌え! 頼むからもう一曲聴かせてくれッ!」
酒樽を並べただけの粗末なステージの上に、無数の銅貨が跳ね、転がり、レアの足元を埋め尽くしていく。
一枚、十枚、百枚――。
それは、明日のパンを買うための金だった。安酒を胃袋に流し込むための金だった。
この煙突街で生きる人間にとって、己の命の重さそのものであるはずの銅貨を、男たちは狂ったような笑顔で惜しげもなく投げ捨てていた。
足元に転がってきた一枚の銅貨が、レアの爪先に当たって止まった。
油と汗で黒ずんだ、安っぽい帝国の銅貨。
レアは息を乱したまま、その硬貨を見つめた。
(…………あは)
喉の奥から、小さく息が漏れた。
全身の筋肉が軋み、声帯は熱く焼き切れる寸前だった。安物の木綿のワンピースは汗でぐっしょりと肌に張り付き、胸郭は激しく上下している。
だが――。
その胸を満たしていたのは、かつて味わったことのない、圧倒的な全能感と征服感だった。
(見たことかしら、聖楽院の先生様たち)
レアの唇が、自然と三日月の形に吊り上がる。
大聖堂で、冷ややかな視線を投げつけてきた貴族ども。
無機質な賛美歌を並べ、感情を殺すことだけを美徳としたあの無菌室の亡霊たち。
あいつらに、この光景が生み出せるだろうか?
こんな風に、他人の心を根こそぎ奪い、理性を焼き切り、命のすべてを投げ出させるほどの熱狂を、たった一曲で引き起こすことができるだろうか?
できるはずがない。
彼らが愛でているのは死人の骨であり、ここに転がっているのは、血の通った生身の人間の熱狂なのだから。
(これは、施しじゃない)
足元に降り注ぐ銅貨の山を見下ろす。
それは、貴族が平民に恵んでやるような、哀れみと優越感に塗れた銀貨ではない。
誰の庇護も受けず、男の機嫌も取らず、ただ己の喉と肉体一つで、荒くれ者たちの胸ぐらを掴んで力づくで奪い取った、正当な魂の対価。
「おい! もう一曲だ!」
「アンコール! アンコールだッ!」
「朝まで歌え! 店中の酒が尽きるまで歌い続けろォッ!」
怒号のようなアンコールが、地鳴りとなってステージへ押し寄せる。
最前列の火傷痕の大男が、涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、血走った目でレアを見つめていた。
その目は、獲物を品定めする獣の目ではなく――神の前にひざまずく敬虔な信徒のそれだった。
レアは、背後のピアノへと視線を投げた。
ピアノの前のノアは、鍵盤に両手を置いたまま、動かずにいた。
咥えていた煙草の灰が、鍵盤の上に長く伸びて落ちる。
ボサボサの黒髪の間から覗くその瞳は、見開かれたまま、ステージの床を埋め尽くす銅貨と、狂乱する客席を見つめていた。
額から首筋にかけて、びっしりと汗が光っている。
その指先は、極限の緊張と興奮のせいで、微かに震えていた。
「……おい、ピアノ弾き」
レアが呼びかけると、ノアはビクッと肩を揺らし、ゆっくりと顔を上げた。
「……何だ、化け物」
ノアの声は掠れていた。
「まだ指は動くでしょうね? 客がアンコールだって言ってるわよ」
「……ハッ」
ノアの口元が、自嘲と狂気を孕んだ笑みに歪んだ。
煙草の吸い殻を床に吐き捨て、震える指をポキリと鳴らす。
「動くさ。……お前のそのイカれた喉が保つなら、指の骨が折れるまで叩いてやるよ」
「上等よ」
レアは再び、客席へと向き直った。
汗に濡れた前髪を無造作にかき上げ、胸を張る。
その姿は、ボロ布を纏った貧民街の小娘などではなかった。
地下の闇に咲いた、一輪の猛毒の華。
客たちの歓声が、彼女が一歩前に踏み出すだけで、さらに一段階跳ね上がる。
「聴きなさい、豚ども!」
レアは喉を鳴らし、野太い声でフロアを威圧した。
「銅貨を全部吐き出す覚悟があるなら――夜が明けるまで、骨の髄まで揺らしてあげるわ!」
ワァァァァァッッ!!
歓声の爆発とともに、ノアのピアノが再び炸裂した。
より速く、より泥臭く、より狂暴なスウィングのビートが、地下空間を灼熱の坩堝へと叩き落としていく。
二曲目。三曲目。四曲目。
歌うたびに、客席から失神者が出た。
泣き叫ぶ男、抱き合って踊り狂う男、カウンターに駆け寄って酒を煽り、再びステージ前へと押し寄せる男たち。
時間が溶けていく。
夜の深さなど、誰の頭からも消え去っていた。
ただ、この狭く熱い地下室の中で、ひとつの巨大な熱狂の渦が、外の世界のすべてを拒絶するように回転し続けていた。
――そして。
薄汚れた地下への階段の隙間から、白々とした朝の光が差し込み始めた頃。
ようやく、最後の音が鳴り止んだ。
店内には、力尽きて床やテーブルに突っ伏した男たちが、屍のように転がっていた。
酒樽はすべて空になり、床はこぼれた酒と汗と涙、そして踏み荒らされた鋸屑でぐちゃぐちゃになっていた。
息も絶え絶えの男たちが、それでも幸福そうな顔をして、浅い寝息を立てている。
嵐が去ったあとのような、静謐な朝の気配。
ステージの上で、レアは肩で息をしながら、ゆっくりと酒樽の上に腰を下ろした。
足が棒のようだ。声帯は熱を持ち、喉の奥がジンジンと痛む。
だが、その心は、澄み切った秋の空のように静まり返っていた。
「……死ぬかと思ったぜ」
ピアノの蓋に突っ伏しながら、ノアが掠れた声で呟いた。
その指先は赤く腫れ上がり、鍵盤の白鍵には微かな血の滲みがついていた。
「情けないわね、男のくせに」
レアが皮肉めいた笑みを返すと、ノアは顔を上げずに中指を立ててみせた。
カツン、カツン、と乾いた足音が近づいてきた。
二人が視線を向けると、エプロンをつけたマルゴが、煙管を咥えながら歩み寄ってくるところだった。
その手には、大きな真鍮のトレイと、革の集金袋が握られている。
マルゴはステージの前に立ち、床に散らばった無数の銅貨を見下ろした。
それは、もはや「小銭」と呼べる量ではなかった。
光を鈍く反射する銅貨の山。一枚ずつ拾い集めれば、袋がいくつあっても足りないほどの質量。
マルゴは煙管からゆっくりと白い煙を吐き出した。
その灰色の瞳の奥には、長年裏社会を生きてきた女傑の冷静さと、それを根底から揺さぶられた戦慄が同居していた。
「……おい、ノア」
マルゴが低く呟いた。
「……あァ? 何だよババア」
「アタシらはどうやら……」
マルゴは煙管の吸い口を噛み締め、ステージの上で静かに座っているレアを見つめた。
「とんでもない怪物を、拾っちまったようだね」
その言葉に、ノアは返事をしなかった。
ただ、ピアノの鍵盤の上に置いた己の腫れた指を見つめ、静かに、しかし深く息を吐き出した。
冷たい朝の光が、階段の隙間から差し込み、レアの横顔を淡く照らしていた。
煙突街の地下で生まれた最初の熱狂は、いまや朝霧の中へと静かに溶け出し、やがて帝都全体を呑み込む嵐の前触れとして、不穏な胎動を始めていた。




