第5話 魂のノック
ノアの指先が叩き出すベースラインは、心臓の鼓動を狂わせる脈動となって、酒樽のステージから床板へと沈み込んでいた。
ズン、チャッ、ズン、チャッ――。
煙突街の最下層、換気すらままならぬ地下酒場〈黒猫座〉。
天井の梁から垂れる煤、充満する安酒と噛み煙草の臭気、男たちの荒い息遣い。そのすべてが、ノアの奏でる不穏で粘りつくスウィングのリズムに巻き込まれ、ねっとりとしたひとつの塊になっていく。
だが、まだ客たちの罵声は止んでいなかった。
最前列で黄色い歯を剥き出しにしていた火傷痕の大男が、ピーナッツの殻を投げ捨て、唾を吐き散らしながら唾液混じりの怒声を張り上げる。
「調子に乗るんじゃねえぞ、小娘が! くだらねえピアノ鳴らして気取ってんじゃねえ! さっさと失せろって言ったのが聞こえねえのか――!」
大男がジョッキを振り上げ、威嚇のために踏み出そうとした。
その瞬間。
――ガツンッ、と。
世界から、あらゆる雑音が消え去った。
レア・ヴィットの開かれた口唇から放たれたのは、歌というよりも、地底の亀裂から噴き出した灼熱の蒸気だった。
「――Woke up this morning, with the devil at my door……!」
低く、ざらつき、濡れた獣の咆哮のような第一声。
それは、怒号をかき消したのではない。
怒号も、罵声も、ジョッキがぶつかり合う音も、酒場の空間に満ちていた空気そのものを、一瞬で彼女の喉が丸ごと吸い尽くしてしまったかのような錯覚だった。
「…………っ!?」
大男の喉から、間の抜けた空気の音が漏れた。
振り上げたジョッキを握ったまま、男の分厚い腕が空中で完全に凍りつく。
声が、届いたのではない。
ぶつかってきたのだ。
目に見えない重厚な鉛の塊が、レアの口から一直線に放たれ、男の分厚い胸板を真正面から打ち抜いたかのような衝撃。胸骨がビリビリと痺れ、肺の中の空気が強制的に押し出される。
酒場全体が、一拍にして凍りついた。
奥のテーブルでサイコロを振っていた男の手が止まる。
カウンターで客に酒を注いでいたマルゴの手が止まる。
唾を吐き、下品な野次を飛ばそうとしていた数十人の男たちが、まるで首根っこを冷たい鎖で締め上げられたかのように、一斉にステージの上の小柄な影へと目を吸い寄せられた。
(……逃がさない)
レアの全身の毛穴が開き、皮膚の表面を粟立つような熱気が駆け巡っていた。
視界が極限まで研ぎ澄まされていく。
目の前で硬直している大男の、見開かれた濁った瞳。震える無精髭。脂汗が浮いた額。
その奥にあるものが、レアの瞳にははっきりと見えていた。
強がり。
暴力で塗り固めた虚勢。
その下にあるのは、毎日毎日、夜明け前から冷たい運河に足を浸し、重い石炭袋に背骨を軋ませ、いつ病気でドブ川に捨てられるかも分からないという、骨の髄まで染みついた「恐怖」だ。
明日を生きられる保証などどこにもない、吹き溜まりの人間の、出口のない絶望。
(知っているわよ。あんたたちのその惨めな叫びを。……痛いほど、知っている)
レアの喉から、さらに深く、哀愁を帯びたハスキーな低音が紡ぎ出される。
「――Told me my life ain't worth a dime, said I’m born to bleed, born to cry……」
節回しが、気怠く滑り落ちる。
教会の純正律が絶対に許さない、ブルーノート。半音下の澱みへと引きずり込まれるような、痛切な歪み。
それは、聖楽院の白亜の講堂で貴族たちが語り合う「神の慈悲」などというおためごかしとは、対極にある響きだった。
泥水をすすって生きる者の歌。
寒さに震えながら冷たいスープを啜り、理不尽に殴られ、踏みにじられ、それでも明日へ向かって息を吸わねばならない者たちの、血の滲むような生活の匂い。
男たちの顔から、嘲笑が完全に剥がれ落ちていた。
誰一人として言葉を発しない。
ジョッキを傾けることすら忘れ、口を半開きにしたまま、ただステージ上のレアを見つめている。
耳から入った音が、脳を飛び越え、彼らの荒れ果てた胸の奥深く――誰にも見せまいと頑丈に鍵をかけていた、最も脆く柔らかい痛みの芯へと、容赦なく手を伸ばしてくるのだ。
「あ……」
最前列の火傷痕の大男の唇から、掠れた呻きが漏れた。
男の脳裏に、遠い昔の記憶が蘇っていた。
炭鉱の落盤で死んだ弟の顔。冷たくなった手を握りしめながら、自分一人だけが生き残ってしまった夜の、凍えるような暗闇。
誰にも言えなかった。
弱みを見せれば食い物にされるこの街で、涙を流すことなど許されなかった。
だから酒を煽り、人を殴り、大声で笑って誤魔化してきたはずの痛みが、目の前のみすぼらしい小娘の喉によって、乱暴にこじ開けられていく。
(もっとよ。もっと曝け出しなさい)
レアの胸の内で、黒い炎が爆発的に膨れ上がった。
ただ上手く歌うのではない。
音程を正確に保ち、美しい音を並べることなど、この場所では何の価値もない。
客の一人ひとりが抱えている孤独、飢餓、怒り、そして絶望――その魂の頑丈な扉を、己の喉という鉄槌で叩き壊す。
魂のノック。
開けろ、と。お前たちのその痛みを、生きている証拠を、ここに差し出せと要求する暴力的なまでの交感。
背後で、ノアのピアノが激しさを増していく。
ノアの長い指先が、鍵盤を殴りつけるように跳ね回る。埃が舞い散り、調律の狂った弦が悲鳴のような倍音を吐き出す。
レアの歌声と、ノアのピアノ。二つの歪んだ魂が絡み合い、螺旋を描いて地下の天井へと昇り詰めていく。
そして――。
低音で這い回っていた旋律が、突如として跳ね上がった。
「――BUT I AIN'T GOIN' DOWN! NO, NOT TODAY――!!」
咆哮。
胸郭を限界まで開き、頭蓋骨の空洞をすべて共鳴腔として使い切った、天井を突き破るようなハイトーンのシャウト。
裏声ではない。
地声のまま、魂の全質量を乗せて放たれたその絶叫は、〈黒猫座〉の狭い空間をビリビリと震わせた。
天井の梁からパラパラと煤が落ちてくる。
並べられたウイスキーのボトルがチリチリと音を立てて共鳴する。
鼓膜を破らんばかりの音圧に、客席の男たちがビクッと肩を跳ね上げた。
それは、絶望の歌ではなかった。
泥水に顔を突っ込まれ、理不尽に踏み躙られながらも、「ふざけるな、私はまだ生きているぞ」と天に向かって唾を吐きかける、圧倒的な生の肯定。
ゴスペルの魂。
教会に閉じ込められた神などではなく、地べたを這いずる人間が自らの力で立ち上がるための、原始のエネルギー。
「う……うお……」
客席のあちこちから、言葉にならない声が漏れ始めた。
鳥肌が止まらない。
全身の血液が沸騰し、頭の芯が痺れるような快感が、背骨を駆け上がっていく。
さっきまで「小娘」と蔑んでいた相手が、いまや自分たちの頭上に君臨する巨大な怪物の如く見えていた。
誰も目を逸らせない。逸らせば、生きていることそのものを否定されてしまうかのような、絶対的な引力。
曲が、中盤へと差し掛かる。
ノアがピアノの鍵盤を強く連打し、ビートがより重く、より前のめりに加速していく。
レアはマイクのない時代、ただ己の声帯と肉体だけを頼りに、ステージの中央で両足を大きく開いた。
ダンッッ!!
靴底が、酒樽の板を力強く踏み抜いた。
ストンプ。
床を揺らす重低音の衝撃が、客たちの足の裏へと直接叩き込まれる。
ダンッ、ダンッ、ダンッ――!
レアは歌いながら、胸の前で両手を激しく打ち鳴らした。
パアンッッ!!
乾いた破裂音が、店内に鋭く木霊する。
レアは目を血走らせ、最前列の大男を、そしてフロアを埋め尽くす荒くれ者たちを、飢えた猛獣のような眼差しで見下ろした。
「何を突っ立ってるのよ……! 手を叩きなさい!!」
メロディの合間に挟まれた、鋭い怒声。
それは懇願ではなく、命令だった。
女王が臣下に下す、絶対の勅命。
パアンッ、パアンッ――!
レアがストンプを踏み鳴らしながら、手拍子を要求し続ける。
客たちは一瞬、戸惑ったように視線を交わし合った。
港湾の荒くれ者が、スリの親玉が、密輸業者が、年端もいかない小娘の指図で手拍子を打つ? そんな馬鹿な真似ができるか――そう理性が囁いたのは、ほんの一瞬のことだった。
耐えられないのだ。
床から突き上げるノアのピアノと、レアのストンプ。
そして空気を支配する、あの暴力的なまでのグルーヴ。
自分たちの心臓の鼓動が、すでにそのリズムと完全に同期してしまっている。体を動かさずにはいられない。胸の中で暴れ狂うこの熱の塊を、外へ吐き出さずにはいられない。
「く……そがっ!」
最前列の火傷痕の大男が、耐えかねたようにジョッキをテーブルに叩きつけた。
そして、その分厚く節くれ立った両手を――思い切り打ち鳴らした。
バチンッッ!!
火花が散るような、重い手拍子。
大男の瞳は血走り、その顔は恐怖と興奮で歪んでいた。
男が手拍子を打った瞬間、まるで堰を切ったように、周囲の男たちへと熱狂が感染していった。
「うおおっ!」
「おい、叩け! 手ェ叩けよ!」
パンッ! バチンッ! ドスンッ!
一人、また一人と、頑固な荒くれ者たちが手拍子を合わせ始める。
足を踏み鳴らす者。
空いたグラスをテーブルに打ちつける者。
最初はバラバラだった音が、レアの圧倒的な歌声の引力に吸い寄せられ、やがてひとつの巨大な地鳴りのような塊へと収束していく。
ダンッ、パアンッ! ダンッ、パアンッ!
足踏みと、手拍子。
地下酒場〈黒猫座〉が、巨大なひとつの心臓となって脈動を始めた。
「ハッ……!」
レアの唇から、獰猛な笑みがこぼれ落ちた。
これだ。
この感覚だ。
大聖堂の冷たい石造りの鳥籠の中では、絶対に味わうことのできなかった、剥き出しの命の共鳴。
彼女が放った一本の矢が、男たちの心の防壁を粉々に砕き、いまや彼ら自身が熱狂の燃料となって燃え盛っている。
(もっと来なさい! 全部吐き出しなさい、この豚小屋の底で!)
レアは喉をさらに大きく開いた。
声帯が擦れ合い、生々しいエッジが空気を切り裂く。
ハスキーな唸りから、再び天空を貫くようなロングトーンへ。
手拍子の地鳴りを従え、ノアの狂ったようなピアノを翼にして、レア・ヴィットの歌声が、地下の闇を灼熱の業火で焼き尽くすように駆け上がっていった――。
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