第4話 豚小屋のステージ
煙突街の夜は、太陽が西の丘に沈むよりも早く、ずしりと重く降りてくる。
天を覆う煤煙が紫色の夕闇と混ざり合い、街全体をどんよりとした泥色に染め上げる頃、路地裏の溝という溝から、昼間の労働を終えた男たちが這い出してくる。
運河で石炭船を曳いて肩の皮を擦り剥いた港湾労働者。
官憲の目を盗んで禁制品を捌く密輸業者。
すれ違いざまに懐中時計をかすめ取る指先の器用なスリ。
日銭を稼ぐためなら他人の頭蓋骨を石畳に叩きつけることも厭わない、その日暮らしのゴロツキたち。
彼らが求めているのは、神の慈悲でも、磨き上げられた高尚な芸術でもない。
一日を生き延びたという乾ききった喉を焼き、惨めな現実を頭の芯から麻痺させてくれる、安酒と暴力と、安っぽい刺激だけだった。
ギィ……と錆びた真鍮の看板が風に揺れ、地下へと続く石段を、無数の泥まみれのブーツが踏み荒らしていく。
地下酒場〈黒猫座〉の店内は、開店から半刻も経たぬうちに、酸欠寸前の熱気で埋め尽くされていた。
換気扇など気の利いたものはない。
天井の梁にこびりついた煤。何十年ものあいだに染み込んだ饐えた安ビールの臭気。噛み煙草の汁と、粗悪な葉巻の青白い煙。そこに数十人もの男たちが吐き出す荒い息と、乾ききらない汗の湿気が加わり、空間全体がまるで煮えたぎる豚小屋のようになっていた。
「おい、マルゴ! 麦酒をもう二杯だ! 泡ばっかり乗っけやがったらカウンター飛び越えて樽ごと奪うぞ!」
「ほざきな、ドックの負け犬が。ツケを払ってから大口を叩きな。耳の穴に熱湯を注ぎ込まれたくなきゃ、銅貨をきっちり並べな!」
カウンターの奥で、マルゴが野太い声を張り上げてジョッキを叩きつける。
ジョッキとジョッキがぶつかり合い、安酒が床の鋸屑の上に跳ね飛ぶ。サイコロを転がす音、イカサマを巡る怒号、小銭を奪い合う殴り合いの鈍い音。
法も秩序も届かない、帝都の最下層の日常がそこにあった。
その喧騒からわずかに隔てられた、ステージ脇の狭い物置部屋――通称「楽屋」。
薄暗い油ランプの煤けた光の下で、レア・ヴィットは小さな姿見の前に立っていた。
鏡に映る自分を見つめる。
昼間まで着ていた聖楽院の制服は、もうどこにもない。
身に纏っているのは、マルゴが店の奥から引っ張り出してきた、安物の木綿のワンピースだった。染料が粗悪なせいでくすんだ濃紺色をしており、布地はゴワゴワとして肌触りも悪い。前の持ち主が誰だったのかも分からない古着で、胸元や腰回りはレアの細身の体には少しばかり緩かったが、動きやすさだけは申し分なかった。
コルセットもない。
首元を締め付ける堅苦しい立ち襟もない。
肋骨を締め上げる一切の拘束具から解放された肉体は、驚くほど軽かった。深く息を吸い込めば、肺の底まで冷え切った地下の空気が満ちていくのが分かる。
「……上等じゃない」
レアは呟き、首を軽く左右に振って骨を鳴らした。
鏡の中の自分は、頬こそ痩せていたが、その瞳の奥にはギラギラとした光が宿っていた。
今夜、自分が立つ場所。
それは、大聖堂の磨き上げられた白亜の祭壇ではない。
あんな場所で、神の調和を気取って死人の歌を並べる日々は、もう終わったのだ。
バタン、と乱暴に扉が開いた。
現れたのは、口に煙管を咥えたマルゴだった。エプロンにはこぼれた酒の染みが点々と広がっている。
「時間だよ、レア。……覚悟はできてるかい」
マルゴの灰色の瞳は、値踏みするようにレアを見据えていた。
「客の入りは上々だ。ドックの荷揚げ人夫どもが給金を貰ったばかりでね、全員が安酒で頭を沸騰させてやがる。あいつらは気が短い。気に食わないツラを見せれば、歌い出す前にジョッキが飛んでくるよ」
「上等よ」
レアは唇の端を吊り上げた。
「退屈そうに欠伸を噛み殺す貴族どもより、よほど正直でいいわ」
「フン、口の減らない小娘だ」
マルゴは煙を吐き出し、顎でステージの方角をしゃくった。
「ノアはもうピアノの前に座らせてある。あいつも虫の居所が最悪だからね。……せいぜい、生きて戻っておいで」
レアは頷き、物置部屋の粗末なカーテンを押し開けて通路へと出た。
一歩足を踏み出すごとに、店内の怒号と熱気が肌を焼くように押し寄せてくる。
客席と通路を分ける境界などない。
並べられた丸椅子の隙間を縫うように歩き、酒樽を四つ並べてその上に分厚い板を渡しただけの、粗末極まりないステージへ向かう。
高さは、床からわずか膝丈ほど。
手を伸ばせば、最前列の客の脂ぎった顔に触れられるほどの距離だ。
ステージの奥には、昼間と同じように埃まみれのアップライトピアノが置かれ、その前に座ったノアが、煙草を咥えたまま気怠げに鍵盤に両手を置いていた。ノアはレアと視線を合わせようともせず、ただ指先で気怠そうにトリルを弾いている。
ギィ……と板が軋む音を立てて、レアがステージの中央へと上がった。
その瞬間。
最前列で酒を煽っていた屈強な男たちの視線が、一斉にレアへと注がれた。
一拍の沈黙。
そして、すぐに嘲笑と罵声の嵐が巻き起こった。
「あァ!? 何だ、ありゃあ!」
「おいおいマルゴ! 新手の踊り子でも呼んだのかと思えば、どこのガキを連れてきやがった!」
「見ろよ、あの薄汚ねえワンピース! 胸も尻もありゃしねえ、骨と皮ばかりの痩せっぽちじゃねえか!」
どっと下品な笑い声がフロア全体に広がった。
奥のテーブルでカードを配っていた男たちも、酒杯を片手にステージを指さして野次を飛ばす。
「すっ込んで酒でも運んでろ、小娘!」
「俺たちはお前の学校のお遊戯なんざ見に来たんじゃねえんだよ!」
「歌うってんなら、服でも脱いでから歌いな! それなら銅貨の一枚くらい恵んでやるぜ!」
ピシッ、と鋭い音がして、レアの足元に何かが当たった。
塩を振ったピーナッツの殻だ。
最前列の丸テーブルを陣取った、ひときわ巨躯の男が投げつけたものだった。
頭を丸坊主に刈り上げ、額から首筋にかけて醜い火傷の痕がある男。ドックの荷揚げ頭として煙突街でも悪名高い、荒くれ者のゴロツキだ。男は黄色く濁った歯を剥き出しにして下品に笑い、手元のジョッキを揺らしながらレアに唾を吐きかけた。
「おい、聞いてんのかドブネズミ! 目障りだ、さっさと消え失せろ!」
客席のあちこちから、パン屑や干し肉の脂身が飛んでくる。
普通の娘であれば、泣き叫んで逃げ出すか、恐怖で足を竦ませて座り込んでいたはずの光景だった。
だが。
レア・ヴィットは、微動だにしなかった。
足元に転がったピーナッツの殻を、靴底で無造作に踏み潰す。
パキリ、と乾いた音が、男たちの怒号の隙間に小さく響いた。
(……ふん)
レアの胸の内で、冷ややかな、しかし猛烈な熱を帯びた炎がボッと音を立てて燃え上がった。
怯え?
冗談じゃない。
大聖堂で味わった、あの凍りつくような屈辱に比べれば、こんなもの屁でもなかった。
笑顔の裏に毒を隠し、生まれや血筋だけで人を見下し、神の調和などという偽善の仮面を被って魂を殺しに来る貴族ども。あの無菌室の陰湿で冷酷な暴力に比べれば、この男たちの剥き出しの敵意など、あまりにも単純で、あまりにも分かりやすい。
腹が減っているなら、飯を食わせればいい。
退屈しているなら、度肝を抜いてやればいい。
殴りかかってくるなら、それ以上の質量で脳天を叩き割ってやればいいのだ。
(お遊戯? 誰がお遊戯なんて見せてやるもんですか)
レアの視線が、最前列で下品に笑い転げる巨漢の男の顔面を、真っ直ぐに射抜いた。
その双眸に宿ったのは、飢えた牝豹のような、獰猛極まりない捕食者の光。
男の笑みが、ほんの一瞬、ピクリと凍りついた。
ただのみすぼらしい小娘のはずだった。だが、その瞳に見据えられた瞬間、男の背筋に冷たい水が一本、つうと垂れ落ちたような悪寒が走ったのだ。
「……あ?」
男が気圧されたように眉を寄せる。
レアは男から視線を逸らさず、背後のピアノに向かって、低く、しかし驚くほど通る声で告げた。
「ノア」
「……あァ?」
ピアノの前で煙草の煙を燻らせていたノアが、億劫そうに視線を上げる。
「一番重いのを寄越しなさい。……この豚どもの耳の脂を、根こそぎ焼き払うやつを」
ノアの口元が、わずかに歪んだ。
煙草を灰皿の端に押し付け、ボサボサの黒髪を掻き上げる。その黒い瞳の奥にも、昼間と同じ、狂気を孕んだ火が灯っていた。
「……言われなくても、そのつもりだ」
刹那。
ドォォォンッッ!!
雷鳴のような重低音が、地下酒場の狭い空間を揺るがした。
ノアの長い指先が、鍵盤の低音部へと容赦なく叩きつけられたのだ。
調律の狂った古いアップライトピアノ。だが、その狂いこそが、煙突街の空気に完璧に馴染んでいた。
地底のマグマが蠢くような、濁りきった重厚なベースライン。
一拍、二拍。
ズン、チャッ、ズン、チャッ――。
跳ねるような、引きずるような、独特の粘り気を持ったスウィングのビートが、酒樽のステージを通じて床全体へと伝播していく。
石造りの壁が震え、並べられた酒瓶がチリチリと微かな共鳴音を立てる。
「な、何だ……?」
「ピアノ……?」
怒号を飛ばしていた客たちが、怪訝そうに口を噤んだ。
彼らが普段耳にする安酒場の音楽といえば、酔っ払いが手拍子に合わせてがなり立てる陽気なポルカか、下品な軍歌くらいのものだ。
こんな、腹の底を直接抉り取られるような、不穏で、重苦しく、それでいて心臓の鼓動を狂わせるようなリズムは、生まれて一度も聴いたことがなかった。
ざわざわと波打つフロア。
その中心で、レア・ヴィットは静かに顎を引いた。
両足を肩幅に開き、重心を低く落とす。
靴底の感触。板張りの軋み。
最前列の男が放つ安酒の臭気。
すべてが、彼女の感覚器官を極限まで研ぎ澄ましていく。
胸郭が広がる。
冷たく湿った煙突街の空気が、気管を通り、肺の隅々の細胞へと一気に吸い込まれていく。
肋骨が開き、横隔膜が押し下げられ、腹の底に巨大な熱の塊が練り上げられていく。
レアは、最前列で固まっている火傷痕の大男を、真っ向から見据えた。
逃がさない。
この店の誰一人として、私の声から逃がしはしない。
唇が、ゆっくりと開かれた。
世界からすべての音が消え去り、ただノアが刻む重く粘りつくスウィングのリズムだけが、彼女の脈拍と完全に重なり合った――その瞬間。




