第48話 二つの陣営、帝都の分裂
白銀宮から下された一枚の勅命布告は、数百年ものあいだ凍てついていた帝国の階級社会の断層に、巨大な楔を打ち込むに等しかった。
翌朝、夜明けとともに帝都全域へ撒かれた宮内府の公式号外。
『帝国建国百周年祭・記念祝祭最終夜――帝立大歌劇場における特別競演の挙行』。
その紙面に並んだ二つの名前――「帝立聖楽院公認選抜合唱団」と「独立劇場ルージュ座」。
伝統ある純正律の牙城と、泥水から這い上がってきた禁忌のディーヴァによる、帝立大歌劇場を舞台にした公の直接対決。勝敗は来賓の貴族諸侯と、広場を埋める全市民による「完全なる総意計量」によって決する。
その報せが帝都の朝を直撃した瞬間、都市のあらゆる呼吸が止まり、直後、未曾有の狂騒が爆発した。
新聞の朝刊は印刷機が焼き切れるほどの増刷を重ね、カフェやサロン、酒場のテーブルというテーブルで、怒号と歓声が朝から晩まで飛び交い続けた。
街頭のいたるところで民衆と聖職者が掴み合いの議論を演じ、貴族の屋敷では親と子が食卓を挟んで絶縁を口にするまでの激論を交わす。
帝都は、名実ともに真っ二つに引き裂かれていた。
◇
第一区「光輪地区」の白亜の回廊には、冷徹で狂信的な熱気が渦巻いていた。
マクシミリアン伯爵の失脚によって一時的に混乱に陥っていた帝立聖楽院は、教皇庁からの勅使の到着と、ある一人の少年の帰還によって、急速にその求心力を取り戻していた。
聖楽院の大聖堂。ステンドグラスから差し込む青白い光の下、純白の典礼服を身に纏った百名の選抜合唱団が、寸分の狂いもない姿勢で並んでいた。
その中央、指揮台の前に立っていたのは、透き通るような白銀の髪と、感情を宿さぬ碧眼を持つ十六歳の少年――シリル・フォン・ベルンハルト。
教皇庁の門外不出の秘儀をすべて修め、人間離れした無機質な絶対美の極致へと達した、純正律の絶対的ソリスト。
彼の喉から零れ落ちる高音は、まるで極北の氷河を削り出した刃物のようだった。
体温がない。
揺らぎがない。
人間が生きているがゆえの息遣いすらも数学的な美しさで完全に消去され、神の調和そのものが肉体を借りて受肉したかのような、絶対零度の響き。
「……素晴らしい。これぞ、神が望み給う天上の音楽だ」
客席の最前列で目を細めていたのは、貴族院の保守派を牛耳る長老たち、そして教皇庁から派遣された高位枢機卿たちだった。
彼らはこの建国祭の競演を、単なる音楽の優劣などとは毛頭捉えていなかった。
『帝国の威信をかけた聖戦』。
下町のドブネズミどもが持ち上げてきた悪魔の不協和音を、帝国の最高峰たる大歌劇場の檜舞台において、神の絶対的な美の前に平伏させ、永遠に消滅させるための聖なる粛清。
貴族院の保守派諸侯は、門閥のプライドを保つため、湯水のように莫大な私財を聖楽院へと注ぎ込んだ。
舞台を照らすための最高級魔導クリスタル、金糸と白銀の糸で織り上げられた百名分の特注法衣、そして大陸最高の音響魔導技師たち。
旧体制が過去数百年にわたって蓄積してきた権力と富のすべてが、シリルを中心とする合唱団の背後へと、巨大な城壁となって結集していた。
「下賤な歌姫の喚き声など、神聖なる大歌劇場の敷居を跨ぐことすら汚らわしい」
長老の一人が、冷酷に吐き捨てた。
「あの小娘の喉を薬で焼き、地下牢へ叩き込む。……それが、この帝国があるべき秩序を取り戻す唯一の道だ」
◇
そして――それに対峙する、もう一つの陣営。
中央区と下町の境界線、中央高架橋の袂にそびえる〈ルージュ座〉の周辺は、連日連夜、人間の熱気によって地面が揺れるほどの賑わいを見せていた。
大聖堂での勝利以降、ルージュ座は単なる下町の娯楽施設ではなく、新しい時代を求めるあらゆる階層の「総本山」へと変貌を遂げていた。
劇場の前には、早朝から夜中まで長蛇の列が途切れることはなかった。
港湾の屈強な荷揚げ人夫、煤にまみれた鍛冶屋、織物工場の女工たち、そして中層の靴職人やパン屋。彼らは自らの生活の乏しい余剰から、数枚の銅貨を握りしめて劇場の支援箱へと投げ入れにやってくる。
それだけではない。
歓楽街の闇カジノを牛耳るベルナール・ジルをはじめとする新興商人たちが、教会の古い利権を打破すべく、潤沢な資金と物資を次々と劇場の搬入口へと運び込んでいた。
さらに劇場のサロンには、かつて顔を隠してVIP席に通い詰めていた若手貴族や将校たち、そしてクラリスが率いる名門貴族の令嬢たちが、もはや仮面をかなぐり捨てて公然と姿を現すようになっていた。
「レア様! 我が近衛騎兵隊の同期の半分は、すでに貴女の味方です!」
「ロシュフォール家の別邸から、最高の補給物資を運ばせましたわ!」
身分を捨て、性別を越え、既成秩序の息苦しさに窒息しかけていた者たちが、ひとつの「生きている歌」を旗印にして、前代未聞の巨大な連帯を築き上げていたのだ。
劇場の二階、かつての支配人室を改装した対策本部。
テーブルの上には、帝立大歌劇場の詳細な構造図面と、分厚い計算用紙の山が広げられていた。
「――投票システムの設計は、ほぼ完了したよ」
万年筆を置き、銀縁眼鏡の位置を指先で直したのは、帝国財務卿補佐官ギルバート・ヴァレンヌだった。
彼の胸元には、宮内府から正式に下賜された「建国百周年祭・公式興行管理者」の真鍮の記章が鈍く光っている。
皇太后エリザベートの勅命により、中立な官僚としてこの競演の公正な管理を一手に引き受けた男。
「帝立大歌劇場の客席に二千名、そして劇場の正面広場に特設される中継エリアに三万名。……すべての観覧者に対し、入場時に同一重量、同一材質の特製真鍮板を一枚ずつ配布する」
ギルバートは図面の一角をペン先で叩いた。
「投票は終演後、舞台袖と広場の四隅に設置された、巨大な天秤型重量計量器へと一斉に投じられる。真鍮板の総重量を針の傾きで機械的に計測し、即座に大スクリーンの魔導メーターへと反映させるシステムだ。……人の手による開票を一切挟まない。貴族院の買収も、教会の不正計量も、数学的に一ミリの隙もなく封じ込める」
「完璧だね、ギルバートの若旦那」
マルゴ・デルーが煙管から細い煙を吐き出しながら、低く笑った。
「あっちのジジイどもが得意な裏工作を、最初から全部鉄の檻に閉じ込めちまうってわけだ」
「だが、問題は『外』だ」
重厚な声が、部屋の空気を引き締めた。
壁際に腕を組んで立っていたのは、ユーグ・アルマンだった。
停職処分を解かれ、皇太后直々の特命によって「祝祭特別警備総括副官」へと返り咲いた男。その紺青の軍服には、再び銀の飾緒が凛と戻っていたが、その双眸には一瞬の油断もない。
「当夜、大歌劇場の周囲には、帝都全土から十万人を超える民衆が押し寄せる。……聖楽院を支持する教会の狂信者集団と、ルージュ座を支持する下町の市民たちが同じ広場に密集するのだ。小競り合いひとつで、帝都壊滅規模の暴動へと発展しかねない」
ユーグは地図の上に、警備部隊の巡回線を黒いインクで引いた。
「私は警備隊の本隊を広場の外周に配置し、中央部には武器を持たない『市民警邏隊』を編成して緩衝地帯を作る。……兵士たちには、抜刀も発砲も一切禁じる。今夜の勝負は、銃剣の数で決めるものではない。何があろうと、観客が暴徒化する隙を作らせず、音楽の力だけで決着をつけさせる」
理知的な官僚と、規律を重んじる騎士。
かつて体制の歯車として生きていた二人のエリートが、いまや自らの持てるすべての技術と権限を注ぎ込み、レア・ヴァーミリオンのための「完全なる決戦の土俵」を組み上げていた。
「……誰もが、分かっているのね」
部屋の隅、大きな鏡の前でジュディットに衣装の採寸をされていたクラリス・ド・ヴァレンヌが、静かに呟いた。
彼女のサファイアの双眸には、深い覚悟が宿っていた。
「これは、ただの歌の巧拙を競うお遊戯ではありませんわ。……『旧来の身分秩序と沈黙の美』か、それとも『新時代の感情の解放と生身の人間の叫び』か。……この帝国が、これからも死人の人形として生き続けるのか、それとも痛みを抱えて生きる生身の人間として生まれ変わるのかという、百年の歴史の魂の激突です」
シスターフッドの絆で結ばれた女たち、誇りを取り戻した男たち。
全員が、自らの全存在を賭けて、この巨大な歴史のうねりの中心に立っていた。
◇
そして――その熱狂の渦の中心で。
深夜一時。客の引き払ったルージュ座のメインステージ。
客席の照明はすべて落とされ、舞台の中央にだけ、作業用の裸電球が一筋の青白い光を落としていた。
ドォォォォン……ッ!
ズズッ、チャッ、ズン、チャッ――!
ステージの奥、黒塗りのコンサートグランドピアノに向かうノア・カレヴィの両腕が、狂ったように鍵盤を叩き続けていた。
額から噴き出す汗が、白鍵の上へと滴り落ちる。
叩き出されているのは、これまでのいかなるブルースやファンクとも異なる、未踏の領域の新曲だった。
大聖堂で放ったアカペラの咆哮を、さらに壮大に、さらに凶暴に昇華させた、魂の叙事詩。
地底の嘆きから始まり、理不尽に耐える痛みを経て、やがて生きることそのものへの爆発的な賛歌へと雪崩れ込む、巨大なゴスペル・グルーヴ。
「――そこだ、レア! もっと低音の唸りを引っ張れ! 大歌劇場の天井の石板を、下から突き上げるように鳴らすんだ!」
ノアの怒声が飛ぶ。
ステージの中央。
汗に濡れた前髪を振り乱し、胸郭を限界まで広げて立っていたレア・ヴァーミリオンが、息を吸い込んだ。
「――I WAS BURIED IN THE DUST, BUT I AM RISING THROUGH THE FLAME――ッッ!!」
ビシィィィィンッッ!!
マイクのない生身の絶叫が、ルージュ座の八百の客席を震わせ、天井の真鍮ランプをチリンと共鳴させた。
声帯のエッジが擦れ合い、生々しい歪みを含んだハスキーな咆哮。
連日の激闘。大聖堂での限界突破の絶唱。
そして、白銀宮から戻って以来、一睡もすることなく続けられてきた、極限の深夜稽古。
一小節放つごとに、彼女の全身の細胞が沸騰し、命の削りカスが音となって宙へと解き放たれていく。
「もう一度だ! 頭から行くぞ!」
ノアが鍵盤へ指を戻す。
「ええ……! もう一度よ!」
レアは顎を引き、再び息を吸い込もうとした。
――その、刹那だった。
「――ッ!?」
レアの喉の奥底で、何かが小さく、しかし鋭利に軋んだ。
まるで、張り詰めた絹糸の束の真ん中を、冷たい剃刀の刃先で撫でられたかのような、微細な引っ掛かり。
直後。
「ごほっ……! げほっ、ごほっ……!!」
歌声ではなく、胸の底を突き上げる激しい咳き込みが、彼女の唇から溢れ出た。
レアはその場に膝をつき、胸元を強く掻き抱いた。
呼吸が乱れる。冷たい夜の空気が、肺胞の奥を針のように突き刺す。
「……おい、レア!?」
ピアノの音がピタリと止まり、ノアが血相を変えて鍵盤から飛び上がってきた。
「どうした、息が切れたか!?」
「な……何でも、ないわ……」
レアは荒い呼気を吐きながら、片手を挙げてノアを制した。
「ただの……気管に、埃が入っただけよ……」
「無理すんな。今夜はもう終わりだ」
ノアは眉をひそめ、ピアノの蓋をバタンと閉じた。
「お前の声帯が化け物じみてるのは知ってるが、人間である以上、肉体の限界はある。休め。……明日も朝から、衣装の合わせがあるんだ」
「……分かっているわ」
ノアが上着を羽織り、心配そうに何度も振り返りながら、舞台袖の楽屋へと去っていく。
カツン、カツンと足音が遠ざかり、やがて劇場の鉄扉が閉まる音が響いた。
◇
完全な静寂が、広大な劇場を支配した。
ステージの中央、裸電球の薄暗い光の円環の中に、レア・ヴァーミリオンは一人、取り残されていた。
張り替えたばかりの松板の冷たさが、膝を通じて伝わってくる。
「はぁっ……はぁっ……」
静寂の中で、自分の荒い息遣いだけが、不気味なほど大きく響いていた。
喉が、熱い。
煙突街の地下酒場で歌い始めてから数ヶ月。
どれほど連夜シャウトを繰り返そうと、翌朝には元通りに鳴っていたはずの頑強な喉仏の奥底に、かつて味わったことのない、重く、鈍い鉛のような熱感が澱んでいた。
レアは、震える右手でポケットを探った。
取り出したのは、ジュディットが縫い付けてくれた、真っ白な麻のハンカチ。
彼女はハンカチを口元に強く押し当て、再び込み上げてきた咳を、喉の奥で押し殺すように吐き出した。
「んっ……ごほっ……!」
息を整え、ゆっくりとハンカチを口元から離す。
裸電球の光にかざす。
「…………っ」
レアの切れ長の黒い瞳が、見開かれた。
純白の麻布の中央。
そこには――唾液の飛沫に混ざって、ひと筋の、鮮烈な「赤」が、点々と滲んでいた。
本物の、血の滲み。
声帯の肉が擦れ合い、微細な血管が千切れた証拠。
わずか米粒ほどの、小さな赤い染み。
だが、それは表現者にとって、取り返しのつかない破滅の足音が、すぐ背後まで迫っていることを告げる、死の予告状だった。
(……血……?)
指先が、小刻みに震えた。
心臓が、冷たい氷水を注ぎ込まれたように縮み上がる。
あの大聖堂の法廷でも、皇太后の威圧の御前でも、一ミリたりとも揺らぐことのなかった彼女の鋼の魂に、生まれて初めて、底知れぬ「恐怖」の亀裂が走った。
声が出なくなる?
この喉が、潰れる?
あと二ヶ月半。帝立大歌劇場のあの巨大な神殿で、国家のすべてを呑み干すための決戦を控えているこの時に――?
(馬鹿な……そんなはずはないわ)
レアはハンカチを力任せに握りしめ、自らの胸元へと強く押し当てた。
歯を食いしばる。
唇から血が滲むほどに強く、奥歯を噛み締める。
(私の歌は……誰の指図も受けず、私の骨と肉体だけで勝ち取ってきた、私の存在のすべてよ……)
ここで声が枯れれば。
ここで喉が壊れれば。
自分はただの、泥水の中に放り出された、哀れな貧民の孤児へと逆戻りするだけだ。
あの教会の老人たちに嘲笑われ、皇太后に薬で喉を焼かれ、暗闇の地下牢で朽ち果てるだけの負け犬。
(冗談じゃない……! 誰が黙るものですか……!)
レアは立ち上がった。
乱れた呼吸を力づくで整え、握りしめた血染めのハンカチを、ポケットの最も深い底へと押し込む。
誰にも言わない。
ノアにも、マルゴにも、クラリスにも、ジュディットにも。
この弱さを知られれば、すべてが終わる。
彼女は暗闇に沈む八百の客席を見据え、自らの胸郭を強く張り詰めた。
その瞳の奥で、恐怖を焼き殺すようにして燃え上がったのは、自らの命を薪にしてでも歌い続けるという、狂気じみた生存の執念。
「……死んでも、歌うわ」
暗いステージの上に落ちた、たったひとことの呟き。
だが、その喉仏の奥では、破滅へのカウントダウンを刻むように、微かな、しかし決定的な軋み音が、音もなく広がり始めていた。




