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第47話 皇太后の賭け金

白銀宮(パレ・ダルジャン)の最上階サロンを包む黄昏の光は、紫紺の帳へと溶け落ちようとしていた。

大理石の暖炉で爆ぜる薪の火が、深紅のペルシャ絨毯の上に赤黒い影を長く伸ばす。アーチ状のテラス窓の外には、何十万ものガス灯が点り始めた帝都の夜景が、光の海となって広がっていた。

だが、その広大極まる空間に漂っていたのは、夜の帳がもたらす安らぎなどでは断じてなかった。

互いに妥協を許さぬ二人の女――帝国最高峰の権力を統べる老いた女帝と、泥水の中から自らの喉一つで這い上がってきた若き反逆のディーヴァ。二人が放つ剥き出しの覇気が、サロン内の空気を極限まで圧縮し、わずかな呼吸音すら鋭利な刃物に変えていた。


エリザベート・フォン・シュタイン皇太后は、テラス窓の縁からゆっくりと歩み戻り、再び真紅の肘掛け椅子へと腰を沈めた。

漆黒のシルクベルベットの裾が擦れ合い、かすかな衣擦れの音が落ちる。

彼女は細く白い指先で、テーブルの上の冷めかけた紅茶のカップを持ち上げ、一滴も口をつけることなくソーサーへ戻した。カチリ、と硬質な磁器の音が静寂を打つ。


「……前置きはここまでよ、レア・ヴァーミリオン」


エリザベートの低く、濁りのないアルトが響いた。

そのエメラルドグリーンの双眸は、値踏みするような冷徹さを一段と深め、仁王立ちのまま身じろぎ一つしないレアを射抜いている。


「お前が大聖堂でマクシミリアンを失脚させた手腕、見事だったわ。大聖堂の分厚い石壁をアカペラ一つで揺るがし、審問官どもを泡吹かせ、民衆を味方につけて教会の営業停止令を紙屑に変えてみせた。……だがね、小娘。あれはただの『内輪揉め』に過ぎないわ」


「内輪揉め?」

レアは眉一つ動かさず、冷ややかに唇を尖らせた。


「そうよ」

皇太后は酷薄な笑みをその唇に刻んだ。


「マクシミリアン伯爵の器など、所詮は教条主義に凝り固まった一介の老いぼれ審問官に過ぎない。あんな男を叩き落としたところで、お前が変えたのは帝都の裏路地の風向きだけ。このオルレアン帝国を千年支えてきた本物の支配階級――貴族院の門閥諸侯、軍閥の将軍たち、そして大陸全土に睨みを利かせる教皇庁の巨大な権威の前に立てば、下町の劇場の営業停止を解いた程度のことなど、砂浜に落ちた一粒の小石波に過ぎないわ」


冷厳極まりない現実の提示。

だが、レアは怯むどころか、切れ長の黒い双眸を細め、静かに切り返した。


「小石の波が幾千も重なれば、どんな強固な城壁だろうと内側から崩れ落ちるわ。現に、貴方の大切な大聖堂の十字架には、今日、私の声で一本の亀裂が入ったはずよ」


「……威勢がいいことね」

エリザベートは鼻を鳴らし、背もたれに深く身を預けた。

彼女の指先が、肘掛けの金箔彫刻をトントンと規則正しく叩く。


「けれどね、小娘。私は退屈しているのよ。……この白銀宮の玉座から見下ろす帝国は、あまりにも澱み、あまりにも死臭に満ちている。教会の合唱隊は感情を殺した定規のような賛美歌を繰り返し、貴族のサロンでは誰一人本気で笑わず、身分という名の錆びた首輪を後生大事に抱えて縮こまっている。……私はね、あの退屈で窒息しそうな秩序を、一度灰燼に帰してみたいのよ」


国家の最高権力者が吐き捨てる、あまりにも危険な本音。

皇太后エリザベートは、秩序の守護者であると同時に、現状維持に甘んじる支配者層を誰よりも蔑む、冷徹な破壊者でもあったのだ。


「三ヶ月後」

エリザベートは身を起こし、両手を組んだ。


「我がオルレアン帝国は、建国百周年の記念祝祭を迎える。……同盟諸国の元首、法王庁の特使、帝国全土の貴族諸侯、そして数十万の民衆が帝都に集結する、百年で一度きりの国家最大の典礼。その祝祭の最終夜、帝立大歌劇場において、国家を代表するメインステージが執り行われることになっているわ」


帝立大歌劇場――。

その名が出た瞬間、レアの背筋に、微かな電流が走った。

下町の小劇場や、歓楽街の地下闘技場ではない。

数千人を収容し、歴代皇帝の戴冠式や国家の祝典のみに用いられてきた、帝国における最高峰の音楽の神殿。平民の立ち入りなど一切禁じられ、最高位の貴族と選ばれた音楽家だけに開かれた、文化の頂点の頂点。


「当初の予定ではね」

エリザベートは忌々しそうに首を振った。

「マクシミリアンが率いていた帝立聖楽院の選抜合唱団が登壇し、神の調和を讃える純正律の長大なミサ曲を披露することになっていた。……あくびの出るような、死体の行進曲よ。だが、マクシミリアンは失脚した。聖歌庁の威信は地に堕ち、百周年祭のメインステージは空位同然となっている」


皇太后は立ち上がった。

漆黒のドレスの裾を翻し、レアの正面、わずか一歩の距離へと詰め寄る。

そのエメラルドグリーンの瞳の奥に、怪しく燃え盛る巨大な狂気の炎。


「そこで、お前に前代未聞の提案をしてあげるわ、レア・ヴァーミリオン」


老女帝の声が、サロンの冷気を切り裂いて落ちた。


「建国百周年祭の夜。あの帝立大歌劇場の特設ステージにおいて――旧体制の総力を結集した『帝立聖楽院公認選抜合唱団』と、お前が率いる『ルージュ座』による、直接の競演(コンペティション)を行わせる」


「競演……?」

レアの瞳が、わずかに見開かれた。


「そうよ。前半と後半、同じ舞台でお互いの歌を披露させ、どちらがこの帝国の新しい時代の心臓にふさわしいかを決着させるの。……勝敗は、客席を埋める皇帝と貴族諸侯、そして劇場の外の広場を埋め尽くす何十万の民衆の『総意』によって決めるわ」


国家を二分する、究極の代理戦争。

教会の純白の法衣を纏った正統派と、下町の路地裏から這い上がってきた真紅の反逆者による、公の場での正面衝突。


「そして――これが、私の提示する賭け金(レート)よ」


エリザベートは右手の人差し指を立て、残酷なまでの優雅さで宣告した。


「もし、お前たちが勝利したならば。……私は帝立大歌劇場の最高管財人として、お前に帝都全域における『自主興行権』の独占を認可しましょう。教会のいかなる介入も永久に禁止し、お前が望むどんな音楽も、どんな劇場も、帝国の法によって不可侵の自由を保障してあげる。名実ともに、この帝国の夜を支配する『カルチャーの女帝』の座を、お前にくれてやるわ」


破格の条件。

男の庇護を求めず、自らの稼ぎと知略だけで戦ってきたレアにとって、国家の最高権力が約束する「完全なる興行の自由」と「劇場の不可侵権」は、何金にも代えがたい究極の王座だった。

だが――賭けとは、失うものの重さと釣り合ってこそ成立するもの。


「……負けた場合は?」

レアは眉を動かさず、静かに問い返した。


エリザベートの唇が、冷酷な三日月の形に歪んだ。

その瞳の奥から、一切の慈悲が消え失せる。


「負ければ――その場で、帝室秘伝の声帯腐食薬を飲んでもらうわ」


「…………っ」


「お前のその傲慢な喉を、二度と音を立てられぬよう、薬で綺麗に焼き切ってあげる。そして、舌を失ったただの抜け殻として、北方の最果てにある聖マグダラ修道院の地下独房へ終身幽閉よ。……日光を見ることも、他者と交わることもなく、死ぬまで冷たい石の壁に向かって、掠れた息を吐きながら朽ち果てなさい」


死よりも重い代償。

歌うことこそが生のすべてである表現者にとって、喉を薬で焼かれ、音を奪われて生き永らえること以上の拷問は、この世に存在しなかった。

勝てば帝国のカルチャーの完全なる覇者。

負ければ、喉を失った生ける屍としての永遠の暗闇。


重苦しい静寂が、サロンを満たした。

暖炉の火がチリチリと爆ぜ、外の夜風がテラスのガラスをかすかに鳴らす。

背後の老侍従長ハインツは、あまりの苛烈な条件に血の気を引き、息を殺して立ち尽くしていた。

普通の人間であれば、その条件を聞いた瞬間に失禁し、床に這いつくばって辞退を懇願するほどの、絶対の絶壁。


だが。


――トクン。


レア・ヴァーミリオンの胸の内で、熱い血の塊が跳ね上がった。


(……帝立大歌劇場)


全身の毛穴が、一斉に開いた。

背骨を駆け抜ける、凄まじい歓喜の震え。

恐怖?

躊躇い?

そんなものは、欠片も湧いてこなかった。

あるのはただ、喉の奥底から噴き上がってくる、狂おしいまでの渇望と興奮。

帝国最高の殿堂。

何万、何十万もの大観衆。

そして――己の全存在を賭けて、千年続く国家の虚飾を根底からへし折るための、これ以上ないほど壮大な処刑台にして戴冠の舞台。


(最高じゃない……)


喉が鳴った。

声帯の縁が、今すぐ歌声を解き放ちたくてたまらないかのように、激しく熱を帯びて軋んでいる。

誰の愛人にもならず、誰の施しも受けず、ただ自分の骨と肉体一つで世界の頂点へ挑む。

この賭けから逃げる理由など、この宇宙のどこにも存在しない。


レアは、すっと顔を上げた。

黒曜石のように鋭い双眸が、皇太后のエメラルドの瞳を、至近距離から真っ向から射抜く。


「……受けます」


迷いのない、鋼のように硬質な第一声。

サロンの壁が、彼女の声の質量だけでビリビリと微かに震えた。


「その賭け、買ったわ。私の喉を賭金にしてあげる。……帝立大歌劇場の鍵、せいぜい磨いて待っていることね」


エリザベートの眉が、わずかに跳ね上がった。

老女帝の口元に、満足げな、そして猛獣を前にした狩人のような獰猛な笑みが浮かぶ。


「いい度胸ね、小娘。……だが、条件を呑むにあたって、何か言い残すことはないの? 怖気づいて泣き言を垂れるなら、今のうちよ」


「泣き言なんて、生まれてから一度も言ったことはないわ」

レアは顎を跳ね上げ、冷徹な視線で皇太后を見下ろすように言い放った。


「条件があるわ。……審査に、小細工を入れないでいただきたい」


「小細工?」


「ええ」

レアは一歩踏み込み、鋭い要求を突きつけた。


「貴族院の老人どもに金を握らせて票を買い占めるとか、平民の立ち入りを憲兵で制限するとか、そんな下らない裏工作は一切無しよ。……帝立大歌劇場の正面扉を、その夜だけは完全に平民へも開放しなさい。劇場の外の広場には巨大な拡声魔導具を設置して、帝都中のすべての耳に両者の歌を届けさせること。そして、勝敗の判定は、金や身分に関係なく、純粋に一人一票の真鍮板の計量で決めることよ」


公平無私の直接対決。

貴族の特権も、教会の不正も、すべてを排除した、純粋な音楽の力だけのデスマッチ。


「もし、その審査に少しでも宮廷の小細工が入るようなら……私は歌わないわ。あんな退屈な鳥籠の天井を吹き飛ばしてやる価値もないもの」


傲慢極まりない条件提示。

皇太后の御前で、審査の公正さを要求し、不正を牽制するなど、不敬罪で即座に打ち首になってもおかしくない暴挙だった。

侍従長のハインツが「き、貴様……!」と刀の柄に手をかけかけたが――。


カッカッカッ!と、エリザベート皇太后が腹の底から快活に笑い声を上げた。


「素晴らしいわ! ええ、約束しましょう! 帝立大歌劇場の正面扉を開放し、広場に巨大魔導拡声器を並べ、真鍮板による完全な総意計量を行わせるわ。……私を誰だと思っているの? 八百長などという浅ましい真似で勝敗を濁すような下品な真似、この私が許すとでも思って?」


老女帝は笑みを収めると、冷ややかな視線でレアを見据えた。


「だがね、レア・ヴァーミリオン。……お前は、自分が何を相手にしようとしているのか、本当に分かっているのかしら」


「……どういう意味?」


エリザベートはサイドテーブルへと歩み寄り、一通の羊皮紙の親書を取り上げた。

そこには、帝立聖楽院の新たな蝋封とともに、遥か南方――大陸の信仰の心臓部たる教皇庁直属の、純白の特赦印章が押されていた。


「マクシミリアンが失脚した聖楽院は、今や抜け殻ではないわ。……むしろ、足手まといの無能を切り捨て、本物の怪物を呼び戻す口実を手に入れたのよ」


親書が、卓上にパサリと落とされた。

そこに記されていたのは、教皇庁大聖堂からの「緊急召喚状」。

ある一人の天才音楽家の、帝都への電撃復帰を告げる公式文書だった。


「覚えているかしら? かつて聖楽院において、クラリス・ド・ヴァレンヌすらも遥かに凌駕する神童と持て囃され、十四歳にして教皇庁の総本山大聖堂へと特待留学していった、あの純正律の最高傑作の存在を」


「…………っ」

レアの脳裏の片隅に、数年前の記憶の断片が蘇った。

聖楽院の寄宿舎の奥。感情を一切交えず、神の数学的調和そのものを人間の声帯で完全に再現してみせ、聴く者すべての生気を吸い尽くすかのような、絶対零度のソプラノを響かせていた少年――。


「シリル・フォン・ベルンハルト」

エリザベートの唇から、その冷徹な名が告げられた。


「教皇庁の門外不出の秘儀をすべて修め、人間離れした無機質な絶対美の極致へと達した、純正律の絶対的ソリスト。……聖歌庁の残党どもはね、お前という毒花を根絶やしにするため、教皇庁から彼を呼び戻す手続きを、すでに今朝未明に完了させたわ。……百周年祭のステージで聖楽院を率いるのは、あの子よ」


神の調和の究極の具現者。

感情を殺し、数学の完璧さだけで聴く者を平伏させる、教会の最終兵器。


「お前の泥臭い叫びと、あの子の氷の賛美歌。……どちらがこの帝国の民衆を呑み干すか、見ものだわ」

エリザベートは冷酷に告げ、部屋の出口を指差した。


「去りなさい、レア・ヴァーミリオン。……三ヶ月よ。せいぜい仲間たちと肩を寄せ合い、その汚らしい喉を研ぎ澄ましてくることね」


「言われなくても」


レアは踵を返した。

深紅のドレスの裾を翻し、白大理石の床を踏み鳴らして、サロンの重厚な扉へと歩みを進める。

その背中には、一片の迷いも、怯えもなかった。

扉に手をかけ、彼女は振り返ることなく、最後に一言だけ言い残した。


「……三ヶ月後。あの帝立大歌劇場の天井が落ちても、文句は言わないでちょうだい」


バタンッ。

重厚な白樺の扉が閉じられ、少女の足音が回廊の彼方へと遠ざかっていった。


◇


白銀宮を出たレアを待っていたのは、夜の帳に包まれた帝都の冷たい風だった。

迎えの儀装馬車に乗り込み、車窓から見下ろす街並み。

中央大通りの向こう、遠く下町の闇の中に、ひときわ鮮烈な赤い光を放つ〈ルージュ座〉の輪郭が、しっかりと息づいていた。


三ヶ月。

帝立大歌劇場での直接対決。

勝てば完全なる王座。

負ければ、薬で喉を焼かれての終身幽閉。


レアは車内で、自らの喉元へとそっと指先を当てた。

皮膚の奥で、ドクドクと力強く脈打つ頸動脈。

そして、その奥にある、世界でたった一つの、泥水の中で鍛え上げられた奇跡の声帯。


「……シリル・フォン・ベルンハルト、ね」


レアの唇に、三日月の形をした獰猛極まりない笑みが浮かんだ。

氷の宮殿など、私の炎で跡形もなく溶かしてやる。

この喉がある限り、誰にも私の魂を縛ることはできない。


国家を二分する、未曾有の文化頂上決戦。

その巨大な嵐の幕開けへ向けて、馬車の車輪は、帝都の夜の底へと力強く駆け抜けていった。

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