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第46話 白銀の宮殿と黒いドレス

大聖堂での歴史的な査問委員会が、たった一本の喉から放たれたアカペラの咆哮によって粉砕されてから、わずか二刻。

中央区と下町を分断する高架橋の袂にそびえる独立劇場〈ルージュ座〉は、解き放たれた歓喜の熱狂によって、建物全体が内側から沸騰していた。


正面玄関を塞いでいた教会の鉄鎖は完全に切り落とされ、大扉の隙間からは、石畳を埋め尽くす群衆の地鳴りのような歓声が途絶えることなく流れ込んでいた。一階ロビーでは、下町の労働者や工場の女工たち、そして身分を捨てて駆けつけた若い貴族たちが入り乱れ、マルゴが振る舞う安酒の樽を囲んで勝利の美酒を浴びるように煽っている。

二階へと続く大階段の踊り場では、ジュディット・モレルが下町の針子たちと抱き合って涙を流し、ノア・カレヴィは壁に背を預けて煙草を燻らせながら、自嘲気味に満足げな笑みを浮かべていた。


だが――その狂乱のるつぼと化した劇場の正面大通りが、ある瞬間、まるで時間を凍結されたかのように一瞬で静まり返った。


――カタ、カタ、カタ……。


整然とした、寸分の乱れもない蹄鉄の硬質な響き。

群衆の歓声を刃物で撫で斬るようにして大通りを割って入ってきたのは、八頭の純白の駿馬に牽かれた、一台の巨大な馬車だった。

車体は、鏡面のように磨き上げられた純白の漆。四方の窓枠や車軸、屋根の天蓋に至るまで、精緻を極めた純金の唐草彫刻が施され、車輪が石畳を踏みしめるたびに、黄金の粉が散るかのような錯覚すら覚えさせる。

そして何より、馬車の扉の真ん中に燦然と輝いていたのは、大聖堂の白百合でも、貴族院の諸侯の盾でもない。

――双頭の鷲の爪に握られた「皇帝の宝珠と王笏」、そして天を突く帝室の宝冠章。


「……ひ、帝室の……儀装馬車……!?」

ジョッキを掲げていた港湾の荷揚げ人夫が、息を呑んで後ずさった。

馬車の周囲を固めているのは、白銀の甲冑に身を包み、深紅の毛織マントを背に垂らした近衛騎兵連隊の精鋭たち。その威容は、先ほどまで大聖堂で狼狽していた典礼憲兵の類いとは、桁違いの重圧と規律を放っていた。


儀装馬車は、ルージュ座の正面石段の真下へと、寸分の狂いもなく横付けされた。

近衛兵が馬を下り、恭しく馬車のステップを下ろす。

降り立ってきたのは、純白の典礼服の上に豪奢な金糸の飾緒を佩いた、宮内府の首席特使だった。白髪を整えた老貴族は、下町の煤煙に満ちた空気に眉一つ動かすことなく、手にした羊皮紙の親書を高く掲げ、大通り一帯に響き渡る凛とした声で宣告した。


「――宮内府より勅命を伝える。ルージュ座代表、レア・ヴァーミリオン。……皇太后宮殿下より、直々の召喚である。直ちに身支度を整え、当馬車へ同乗せよ」


静寂が、広場を完全に支配した。

皇太后宮殿下――エリザベート・フォン・シュタイン。

病弱な若き皇帝の背後に座し、帝国の軍事、財政、そして文化行政の最高決定権を握る、このオルレアン帝国の真の支配者。

聖歌庁の教条主義の狂信者たちを吹き飛ばした直後、今度はその背後にそびえ立つ、帝国そのものの頂点が、直接その巨大な手を伸ばしてきたのだ。


「……レア」

大階段の陰から駆け寄ってきたクラリス・ド・ヴァレンヌが、青ざめた顔でレアの腕を取った。

「いけませんわ……! 皇太后宮様は、マクシミリアン伯爵のような短慮な教条主義者とは格が違います。あの御方は、冷徹なリアリストにして、帝立大歌劇場の最高管財人……帝国のあらゆる権力をその掌で転がす、真の女帝ですわ。何をされるか分かりません!」


「妹の言う通りだ」

ギルバートもまた、眼鏡の奥のヘーゼル色の瞳を険しく細め、進み出た。

「私が宮内府に異議申し立てを行い、時間を稼ぐ。公爵家の名において、出頭を延期させる法的手続きは可能だ」


「断る理由なんて、どこにあるの?」


静かな、しかし凛と張り詰めた声が、二人の制止を断ち切った。

階段の上に立つレア・ヴァーミリオンは、大聖堂の法廷で纏っていたあの深紅と漆黒のドレスの裾を翻し、ゆっくりと石段を降りてきた。

大聖堂で放った絶唱の余熱は、彼女の全身にまだ微かに宿っていた。

だが、その切れ長の黒い瞳には、疲労の色など欠片もない。

恐れも、狼狽も、へつらいすらもない。


「教会の老いぼれどもの首根っこを押さえていた大元の飼い主が、わざわざ黄金の馬車を寄越してくれたのよ」

レアの唇に、三日月の形をした不敵な笑みが浮かんだ。

「逃げるわけがないでしょう。……見てきなさいと言ったのは、あんたたちじゃないの。帝国の頂点の景色をね」


「……相変わらず、とんでもない肝の太さだよ」

マルゴが煙管の煙を吐き出しながら、苦笑いを浮かべた。

「行きな、レア。アタシらはここで、この城を守って待ってるよ。……もしあの白銀の宮殿がアンタを檻に閉じ込めようとしたら、下町中の人間を率いて、皇宮の正門を破城槌で叩き割ってやるからね」


「ええ。すぐに戻るわ」


レアは振り返りもせず、純白と黄金の儀装馬車へと、毅然たる足取りで乗り込んだ。

バタン、と重厚な扉が閉ざされ、八頭の駿馬が石畳を力強く蹴り出す。

数千人の民衆の歓声と畏怖の視線に見送られながら、馬車は中央区を抜け、帝都の最頂点――第一区「光輪地区」の白亜の巨城へと向かって疾走を始めた。


◇


帝室皇宮『白銀宮(パレ・ダルジャン)』。

帝都の北の高台、大聖堂の尖塔すら遥か眼下に見下ろす断崖の頂に築かれたその宮殿は、オルレアン帝国が過去数百年にわたって蓄積してきた権力と富の集大成だった。


馬車を降りたレアを待ち受けていたのは、無音の世界だった。

外界の雑音は、何重にも張り巡らされた巨大な外壁と、手入れの行き届いた糸杉の防風林によって完全に遮断されていた。

鏡のように磨き上げられた白大理石の回廊。

天上を仰ぐドームの天井には、歴代皇帝たちの戴冠の歴史を描いた壮麗なフレスコ画が広がり、等間隔に並ぶコリント式の巨柱の間を、純白の長槍を抱えた近衛兵たちが、瞬き一つせず直立不動で守護している。

煙突街の煤煙も、下町の泥水の臭気も、ここには一分子たりとも存在しない。

徹底的な選別と、絶対の権力によって守られた、無菌の頂点。


案内された先は、白銀宮の最上階、東翼の最も奥深くに位置する皇太后の私室サロンだった。


ギィィ……と、金箔で縁取られた重厚な白樺の扉が音もなく開かれた。

足を踏み入れた瞬間、レアの鼻腔をくすぐったのは、高価な白檀の香油の香りと、微かに漂う乾いた茶葉の芳香だった。


広大なサロンの床一面には、深紅と黄金の糸で織り上げられた極上のペルシャ絨毯が隙間なく敷き詰められ、壁面には歴代の銘画家が遺した油彩画が豪奢な額縁に収められている。

大理石の暖炉では、樹齢百年の楢の薪が音もなく青白い炎を上げて爆ぜ、部屋の奥に切り取られた巨大なアーチ状のテラス窓からは、夕闇に染まりゆく帝都の街並みが、まるで精巧なミニチュアの箱庭のように一望できた。


そして――。

そのテラス窓を背にして、真紅のビロードを張った豪奢な肘掛け椅子に、一人の老婦人が腰を下ろしていた。


漆黒の最高級シルクベルベットのドレス。

装飾を極限まで削ぎ落としながらも、その布地の落ち感と艶だけで、帝国最高の仕立てであることを雄弁に物語る一着。

銀白の豊かな髪は、寸分の乱れもなく気品ある夜会巻きに結い上げられ、首元には飾り一つない。ただ、胸元に燦然と輝いているのは、皇帝親任の証たる大粒のエメラルドと純金の宝冠章。

年の頃は六十を幾つか越えているはずだった。しかし、その陶器のように滑らかな白い肌、細く手入れの行き届いた指先、そして何より――吸い込まれそうなほどに深く、冷徹な光を湛えたエメラルドグリーンの双眸には、いかなる老いも、衰えの兆しすらも存在しなかった。


帝国皇太后――エリザベート・フォン・シュタイン。


彼女は、右手に持ったマイセン磁器のティーカップを、ゆっくりと唇へと運んでいた。

カップの中には、夕日の色を溶かし込んだような、澄んだ薄紅の紅茶。

カチリ、と小さな音を立ててカップがソーサーへと戻される。

その間、老女帝の視線は、部屋の中央へと進み出てきたレア・ヴァーミリオンの一挙手一投足から、一秒たりとも外れることはなかった。


室内には、皇太后の背後に控える老侍従長が一人いるのみ。

重苦しい、胃の腑を直接握り潰されるような圧迫感が、サロンの空気を満たしていた。

並の人間であれば、その視線を浴びた瞬間に膝が震え、絨毯の上に崩れ落ちて頭を垂れているはずの、絶対者のオーラ。


だが。


レア・ヴァーミリオンは、立ち止まった。

絨毯の中央、皇太后の正面わずか数歩の距離。

彼女は両手を自然に下ろしたまま、背筋を天へと真っ直ぐに伸ばし、深紅のドレスの裾を引いて仁王立ちになった。


膝を折ることもない。

ドレスの裾をつまむ礼(カーテシー)の仕草すら、取ろうとはしない。

ただ、切れ長の黒い瞳で、帝国の頂点に君臨する老女帝の顔を、対等の狩人を見るように正面から見据え返したのだ。


「……無礼者ッ! 皇太后宮殿下の御前であるぞ!」

背後の老侍従長が血相を変え、震える指先でレアを指弾しかけた。

「直ちに平伏し、膝を折らぬか、下層民の小娘が――」


「下がりなさい、ハインツ」


低く、しかしサロンの空気を絶対零度まで凍りつかせるような凛とした声が、侍従長の言葉を一撃で切り裂いた。

エリザベート皇太后だった。

彼女は片手をわずかに挙げ、侍従長を退かせると、肘掛けに頬杖をつき、興味深そうに目を細めてレアを見つめた。


「構いません。……野獣を宮殿に招いておきながら、宮廷の作法で頭を下げさせようなどと、野暮な真似を求めるものではありませんよ」


老女帝の唇に、薄く、冷ややかな笑みが浮かんだ。

彼女は脚を組み替え、漆黒のドレスの裾を揺らすと、静かに口を開いた。


「小娘。……お前の歌で、聖歌庁の石頭どもが泡を吹いたそうね。心地よい騒音だったわ」


痛烈な先制攻撃。

大聖堂を解体し、千年の秩序を根底から揺るがしたあの奇跡の絶唱を、いとも容易く「騒音」の一言で切り捨ててみせる、最高権力者の不遜。


普通であれば、屈辱に顔を歪めるか、あるいは恐怖に息を呑む場面だった。

だが――レア・ヴァーミリオンの眉は、一ミリたりとも動かなかった。


彼女は顎をわずかに上げ、その端正な唇を、三日月の形に獰猛に吊り上げてみせた。


「騒音ではなく――」


レアの低く、芯の通った声が、絢爛豪華なサロンの壁を直接震わせた。


「――生きた人間が上げる産声です」


「…………」


一拍の沈黙。

二人の女の視線が、火花を散らすように激突した。

帝国の過去と秩序を背負う、老いた冷徹なる女帝。

そして、帝国の未来と民衆の魂を背負い、泥水の中から這い上がってきた、真紅の若きディーヴァ。

身分の差など、そこには存在しなかった。

互いに己の意志一つで世界を支配しようとする、二つの魂の、剥き出しの力比べ。


刹那――。


ふっ……と。

エリザベート皇太后の喉から、低く、喉を鳴らすような笑い声が漏れた。

それは冷笑ではなかった。

心底から面白くてたまらないものに出会った時特有の、残忍で、快楽に満ちた愉悦の笑い。


「……くくっ。産声、ね。よく回る舌だこと」


エリザベートは立ち上がった。

漆黒のドレスが床を擦り、音もなく歩み寄ってくる。

彼女はレアの正面、わずか数尺の距離で立ち止まると、その切れ長の黒い瞳を、至近距離から値踏みするように覗き込んだ。


「傲慢な娘。……だが、嫌いではないわ。マクシミリアンをはじめとする教会の老害どもは、神の調和などという死んだ言葉に縋るあまり、己の足元が腐り落ちていることすら気づかぬ盲目ばかりだった。あんな無能どもを一人で片付けてみせた手際だけは、褒めてあげてもよろしくてよ」


皇太后は視線を巡らせ、自らの足元――暖炉の脇に置かれた小さなサイドテーブルへと向けた。

レアの視線もまた、そこへと引き寄せられた。


そこに置かれていたのは――一台の、小型の蓄音機だった。

象牙と金で装飾された特注の宮廷用蓄音機。

そして、その回転台の上にセットされていたのは、他でもない。

正方形のクラフト紙のスリーブ――ジュディットが描いた、あの真紅の唇と引き裂かれた白銀の鎖のジャケット。

ターンテーブルの上で回っていたのは、ノアが煙突街の地下でプレスし、街中にばら撒いた、あの一枚の「魔導レコード」だった。

その漆黒の盤面には、すでに何十回、何百回と水晶の針を通された痕跡が生々しく残り、溝の縁が白く擦り切れるほどに聴き込まれていたのだ。


「……私のレコードね」

レアが呟く。


「ええ、そうよ」

エリザベートは指先で、擦り切れたレコードのジャケットを愛おしそうに撫でた。


「教会の検閲網をすり抜けて、社交界の令嬢たちの手から私の元へと届いたわ。……針を落とした瞬間、笑いが止まらなかったわよ。この帝国で、半音下がるブルーノートをこれほど凶暴に響かせ、純正律の神話を完膚なきまでに叩き割った音楽など、ここ百年、誰も耳にしたことがなかったもの」


老女帝の碧眼が、冷酷な光を放った。


「既存の貴族音楽は、すでに死んでいたのよ。感情を去勢し、無菌室の賛美歌をありがたがる貴族院の石頭どもも、サロンで退屈そうに欠伸を噛み殺す令嬢たちも、誰もが死んだ魚のような目で日々を浪費していた。……そこへ、お前が現れた」


エリザベートは一歩踏み込み、レアの華奢な肩へと顔を近づけた。

白檀の冷たい香りが、レアの鼻腔をかすめる。


「お前の歌は、音楽ではないわ。……国家の秩序を破壊する、劇薬よ。一度味わえば民衆は狂乱し、階級の鎖を忘れ、己の欲望のままに暴走を始める。……支配者にとって、これほど危険で、これほど都合の悪い毒はない」


鋭利な宣告。

皇太后は、レアを「下町の哀れな成功者」として見ているのでは毛頭なかった。

自らが統治する帝国の屋台骨を、内側から食い破りかねない「最悪の国家的反逆分子」として、その危険性を完璧に理解していたのだ。


だが、それでも――。

エリザベートの瞳の奥にあったのは、排除の意志ではなかった。


「……けれどね、小娘」

エリザベートの口元が、酷薄極まりない笑みに歪んだ。


「毒というものはね、使い方次第では、死にかけた国家の心臓を叩き起こすための、最高の強心剤にもなるのよ」


老女帝は身を翻し、テラス窓の縁へと歩み寄った。

夕闇のなかに浮かび上がる帝都の街並み。

中央大通りの向こう、真紅の看板を掲げて夜空を赤く染め上げる、あの〈ルージュ座〉の灯火を、彼女は冷ややかに見下ろした。


「三ヶ月後。……このオルレアン帝国は、建国百周年の記念祝祭を迎えるわ」


静かな声。だが、その言葉が孕む重みは、帝国の歴史そのものを揺るがすほどの質量を帯びていた。


「大陸中から諸外国の元首が集まり、帝都の全市民営が広場を埋め尽くす、国家最大の晴れ舞台。……その祝祭の夜、帝立大歌劇場のメインステージを、どう演出すべきか……私はずっと考えていたのよ」


エリザベートは振り返り、レアを見据えた。

その碧眼に宿っていたのは、一人の冷徹なギャンブラー特有の、底知れぬ狂気と野心の光だった。


「お前という毒が、本物の劇薬か……それとも、ただの下水溝の汚水に過ぎないのか。……試してあげようではないの、レア・ヴァーミリオン」


帝国最高の権力者が差し出した、未知なる賭けの舞台。

白銀宮の豪奢なサロンで、いま、国家の運命を左右する前代未聞の頂上決戦の火蓋が、音もなく切って落とされようとしていた。

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