第45話 偶像の崩壊と赤い旗
大聖堂の中央祭壇、天を仰ぐ大理石の十字架に刻まれた鋭利な亀裂から、白い石粉がひと筋、煙のように静まり返った法廷の床へと滑り落ちた。
パラ……パララ……。
その極小の破片が跳ねる音すら、冷え切った空間に鮮明な残響を伴って響き渡るほどの、絶対の静寂。
だが、それはかつてこの神殿を支配していた、神への服従を強いる無機質な「沈黙の調和」ではなかった。
生身の人間の肺胞から放たれた野生のマグマによって、千年間積み上げられてきた虚飾と欺瞞の防壁が根底から焼き払われ、灰燼に帰した後の――息を呑むような「空白」だった。
半円状の壇上に居並んでいた数十名の高位聖職者と審問官たちは、誰一人として元の姿勢を保てずにいた。
ある者は、両手で耳を塞いだまま、床の大理石に額を擦りつけて激しく肩を震わせていた。指の隙間から涙がぼろぼろと零れ落ち、純白の典礼服の胸元を無残に濡らしている。
ある者は、腰を抜かして紫檀の椅子から滑り落ち、青ざめた唇をわなわなと震わせながら、法廷の中央に立つ少女をまるで本物の神仏か悪魔を見るような眼差しで見上げていた。
感情を排せよ、と教え込まれてきた彼らの老いた肉体が、生まれて初めて浴びた暴力的なまでの体温と生の脈動の前に、生理的な限界を迎えていたのだ。
脈拍が跳ね上がり、呼吸が乱れ、長年凍りついていた脳幹の奥底から、抗いようのない快楽と畏怖の閃光が溢れ出して止まらない。
周囲を取り囲んでいた典礼憲兵たちも同じだった。
銃剣付きマスケット銃を取り落とした兵士が、膝をついたまま立ち上がれず、床に落ちた自分の銃を拾い上げることすら忘れて呆然と虚空を見つめている。
言葉など、一言もいらなかった。
理屈も、法典の条文も、神学の解釈も、すべてはあの数分間の絶唱の前には、一瞬で吹き飛ぶ砂粒に過ぎなかった。
あの歌声を耳にした瞬間、この場にいたすべての人間は、自分たちがこれまで信じ、仕えてきた「沈黙の神」がいかに空虚で、いかに冷え切った死体の偶像であったかを、魂の底から理解させられてしまったのだ。
そして――。
カチ、と。
法廷の中央で、レア・ヴァーミリオンが手に持っていた鋼鉄の音叉を、ドレスの隠しポケットへと静かに滑り込ませた。
その微かな金属の音が、凍りついていた世界の信管に火を点けた。
ドォォォォォォォンッッッッ!!!!
大聖堂の外から、巨大な大砲の斉射すら生ぬるいほどの、天地を揺るがす地鳴りが押し寄せてきた。
広場を埋め尽くしていた数千人の民衆。
高窓から、扉の隙間から漏れ出してきたあの奇跡の第一声を、そして大聖堂の石壁を震わせた魂の絶唱をその身に浴びた民衆の歓声が、ついに沸点を突破し、巨大な津波となって大聖堂の門扉へと激突したのだ。
「うおおおおおおおおっ!!」
「聴いたか! あの子の声だ! 大聖堂の壁が鳴動したぞ!」
「レア! レア・ヴァーミリオンッ!!」
数千人の足踏みが大地を揺らし、何千本もの腕が天へと突き上げられる。
それに呼応するように、法廷の傍聴席が爆発した。
バァァァンッ!と席を蹴って最初に立ち上がったのは、クラリス・ド・ヴァレンヌだった。
彼女は淑女の礼儀作法など完全にかなぐり捨て、サファイアの双眸を涙で濡らしながら、両手を高く掲げて狂ったように拍手を打ち鳴らした。
直後、ロシュフォール公爵令嬢エレオノール、ベルテ伯爵令嬢セシル、近衛騎士団長の娘マリー――名門貴族の令嬢たちが全員立ち上がり、胸元の真紅のリボンを揺らしながら、叫び、手を叩き、足を踏み鳴らす。
ユーグ・アルマンが、感極まった笑みを浮かべてその拍手の列に加わり、法廷全体が、一瞬にして煙突街の地下酒場よりも熱い歓喜の嵐へと呑み込まれていった。
「……ひ、控えよ! 静粛に! 静粛にせよォッ!!」
その歓声の渦を切り裂いて、首席講壇から狂乱の怒号が上がった。
マクシミリアン・ド・ランカスター伯爵だった。
彼は白皙の顔を憤怒と屈辱で真っ赤に染め上げ、紫檀の机を両手で力任せに連打していた。
純白の典礼服の襟元は乱れ、几帳面に撫でつけられていた銀髪は狂乱の風に煽られたように逆立っている。
その瞳に宿っていたのは、もはや理知的な審問官の光ではなかった。
自らの築き上げた絶対の神殿が崩壊していく光景を前にして、正気を失った狂信者の、醜悪極まりない断末魔の狂気。
「衛兵! 何をしている、衛兵ッ!!」
マクシミリアンは泡を飛ばしながら、被告人席のレアを指差して絶叫した。
「その女を撃て! 即座に射殺せよ! 神聖なる査問の場において、悪魔の術を用いて法廷を侮辱した大罪人だ! 四肢を撃ち抜き、その不浄な喉笛を今すぐ銃剣で引き裂けェッ!!」
剥き出しの狂気。
法も裁判も放り投げた、ただの私刑の命令。
だが――取り囲む憲兵たちは、誰も引き金を引かなかった。
彼らは青ざめた顔で互いに視線を交わし、震える手で銃口を床へと下げたまま、一歩も動こうとはしなかった。
大聖堂の外を埋め尽くす数千の民衆の怒号。そして何より、先ほどの歌声によって自らの中の「神」を打ち砕かれた彼らに、あの深紅の少女へ銃口を向ける気力など、塵芥一つ残っていなかったのだ。
「動かんか、木偶の坊どもめッ! 私の命令が聞けぬのかッ!」
マクシミリアンが自ら腰の短銃を引き抜こうと、狂乱の動きを見せた――その瞬間だった。
「――そこまでだ、マクシミリアン卿」
氷のように滑らかで、寸分の揺らぎもない冷徹な男の声が、法廷の中央を鋭利に切り裂いた。
傍聴席の最前列から、大理石の階段を一段、また一段と静かに降りてきた人影があった。
濃灰色のウールコート。
整然と撫でつけられたプラチナブロンドの髪。
銀縁眼鏡の奥から、怜悧なヘーゼル色の双眸を光らせた青年――帝国財務卿補佐官、ギルバート・ド・ヴァレンヌ。
ギルバートの小脇には、分厚い革のブリーフケースが抱えられていた。
彼は法廷の中央、レアの斜め前へと歩み出ると、マクシミリアンの銃口をまるで路傍の小枝でも見るかのように冷淡に見据え、手元の鞄から一束の羊皮紙を引き出した。
「ギ、ギルバート卿……!? 何の真似だ!」
マクシミリアンが声を上擦らせる。
「一介の財務官僚が、この神聖なる聖歌庁最高査問委員会に口を挟む権利など――」
「口を挟む権利なら、ここにあるよ」
ギルバートは手元の羊皮紙を高く掲げた。
そこには、帝国司法省、貴族院特権管理委員会、そして帝国財務省査察局の三つの巨大な朱印が、冷酷な秩序をもって燦然と輝いていた。
「本日付で、貴族院および司法省より正式に発行された、『聖歌庁筆頭審問官マクシミリアン・ド・ランカスター伯爵に対する緊急査察令状ならびに職権停止命令書』だ」
「なっ……!?」
マクシミリアンの息が止まった。
審問官たちが色めき立ち、法廷の空気が一瞬にして凍りつく。
「ば、馬鹿な……! 私を査察するだと!? 聖歌庁の典礼特権は、帝国憲章において不可侵のはずだ!」
「不可侵の特権とは、法を遵守する者にのみ与えられるものだよ、伯爵」
ギルバートの唇の端が、三日月の形に冷ややかに吊り上がった。
彼は羊皮紙の束の中から、何枚もの帳簿の写しと、印鑑の押された秘密契約書を、壇上の書記官の机の上へと叩きつけるようにして放り出した。
バサリッ、と。
重々しい紙擦れの音が響く。
「帝国財務省査察局、ならびに歓楽街特別監査班の調査報告書だ。……マクシミリアン伯爵。君は過去三期にわたり、第五区の闇カジノの元締めベルナール・ジルに対し、教会の査察権を濫用した悪質な脅迫を行っていたね」
核心を射抜く告発。
マクシミリアンの顔から、一瞬にして血の気が引いた。
「君はベルナールの違法賭博を黙認する見返りとして、カジノの売上の二割を『教会維持寄付金』という名目で裏口座へと還流させていた。……それだけではない。君はベルナールを脅迫してルージュ座の営業を妨害させ、あまつさえ、歓楽街で密造されていたあの魔導レコードの闇取引にまで手を染め、その上前を撥ねて私腹を肥やしていた」
「で、出鱈目だッ!!」
マクシミリアンが絶叫した。
「捏造だ! そのような下賤な裏社会のゴロツキと、私が通じているはずがない!」
「出鱈目かどうかは、この証言録を読めば分かることだよ」
ギルバートは冷淡に、もう一枚の書類を突きつけた。
「今朝未明、ベルナール・ジル本人が、帝国司法省の検察局へ自首した。……君との過去のすべての金銭授受の記録、秘密通信の親書、そして裏帳簿の原本を、司法取引と引き換えにすべて提出してね。君の筆跡と伯爵家の私印が押された領収書が、ここに合わせて四十二通ある」
「ひっ……!?」
マクシミリアンの喉から、引き攣った悲鳴が漏れた。
完璧な証拠。
ベルナール・ジルという男の「底なしの物欲」と「保身の嗅覚」を、レアとギルバートは最初から見抜いていたのだ。
教会の船が沈みかけたと悟った瞬間、あのハイエナは、自らの罪を減免させるために、教会の黒幕の首を司法省へと売り飛ばすことを一秒たりとも躊躇わなかった。
「教条主義の純潔を気取り、神の調和を騙りながら……その実態は、裏社会の闇金に寄生し、自らが『悪魔の毒』と罵った魔導レコードの密売益で私腹を肥やしていた、ただの薄汚れた横領犯」
ギルバートの怜悧な声が、法廷の隅々にまで残酷に響き渡った。
「貴族院はすでに君に対する弾劾決議を可決した。教皇庁も君の職権濫用と背任行為に対し、破門を含む最高位の調査団の派遣を決定している。……マクシミリアン伯爵。君の審問官としての権限は、たった今、この瞬間をもって完全に失効した」
「う……あ……あああ……!」
マクシミリアンは両手で頭を抱え、首席講壇の上で崩れ落ちた。
手から離れた短銃が、大理石の床板の上をカラカラと虚しく転がっていく。
偶像の完全なる崩壊。
千年の大聖堂の権威を盾にして傲慢に君臨していた老人は、いまや法廷の壇上で無様に震える、ただの哀れな犯罪者へと成り下がっていた。
壇上の副審問官たちが、青ざめた顔で顔を見合わせ、立ち上がった。
そして――震える声で、歴史的な宣告を口にした。
「……本査問委員会は、主席審問官の重大なる不正と職権濫用により、即時審理を停止する。……被告人レア・ヴィットに対するすべての嫌疑は無効。ならびに、ルージュ座に対する営業停止処分は――本日付をもって、全面撤回とする!」
全面撤回。
完全なる無罪放免。
その言葉が落ちた瞬間――。
ワァァァァァァァッッッッ!!!!
大聖堂の中が、そして外界の広場が、かつて帝都の歴史上記録されたことのない、爆発的な歓喜の地鳴りによって埋め尽くされた。
傍聴席の令嬢たちが抱き合って涙を流し、ギルバートが満足げに帳簿を閉じ、ユーグが天を仰いで深く息を吐き出す。
憲兵隊の将校たちがマクシミリアンの両脇を抱え、抵抗する気力すら失った老貴族を、引きずるようにして法廷の裏口へと連行していく。
敗者の無様な退場。
そして――その狂乱の嵐の真ん中で。
レア・ヴァーミリオンは、ただ一人、静かに背を向けた。
深紅のドレスのトレーンを床へと滑らせ、彼女はゆっくりと歩み始めた。
一段、また一段。
開け放たれた大聖堂の巨大な正面扉へ向けて、迷いのない足取りで進んでいく。
その背中には、傲慢な勝利の誇りすらなく、ただ自らの成すべきことを成し遂げた者だけが纏う、絶対の静謐があった。
◇
ギィィィィィッ……。
大聖堂の高さ十メートルを超える正面大扉が、内側から完全に押し開かれた。
秋の眩い白日の光が、薄暗い聖堂の内部へと土砂降りのように雪崩れ込んでくる。
大階段の最上段に、レア・ヴァーミリオンが姿を現した。
「…………っ!!」
その瞬間、大聖堂の前庭と広場を埋め尽くしていた数千人の群衆の息が、一斉に止まった。
白日の光を浴びて立つ、深紅と漆黒のドレスの少女。
ジュディットが仕立てたその反逆の衣装は、太陽の光を浴びて、燃え盛る炎そのもののように鮮烈に輝いていた。
彼女の背後には、大階段を駆け下りてきたクラリス、ユーグ、ギルバート、そして群衆を掻き分けて駆け寄ってきたマルゴ、ノア、ジュディットの姿があった。
一拍の空白。
そして――。
ドォォォォォォォンッッ!!
地鳴りのような歓声が、帝都の空を突き破った。
「勝ったぞォォォッ!!」
「ルージュ座の営業停止が解けたぞ!」
「レア! 俺たちのディーヴァだァッ!!」
信じがたい光景だった。
大聖堂の大階段の下。何千人もの平民たち――煙突街の荷揚げ人夫、石炭掘り、織物工場の女工、洗濯女、靴職人、そして学生たちが、一斉にその場にひざまずき、あるいは帽子を天へと放り投げながら、涙を流して叫んでいたのだ。
誰一人として、大聖堂の神の像に祈る者はいなかった。
彼らの視線は、ただ一点――大階段の頂点に立つ、あの下町の泥水の中から咲き誇った、真紅の女帝へと注がれていた。
民衆が割れ、一本の巨大な花道が作られる。
男の庇護を拒絶し、教会の暴力を叩き潰し、自らの喉一つで帝国をねじ伏せた少女を迎えるための、栄光の凱回路。
レアはゆっくりと大階段を降りていった。
一段、また一段。
ひざまずく群衆の頭上を、真紅のドレスの裾が擦り抜けていく。
彼女の隣に並んだノアが、煙草に火を点けながら不敵に笑った。
「……やりやがったな、レア。大聖堂の心臓を、アカペラ一発でぶち抜きやがった」
「言ったでしょう、ノア」
レアの唇に、三日月の形をした獰猛な笑みが浮かんだ。
「私の骨が鳴れば、あんな石の檻など、ただの反響板に過ぎないってね」
◇
その日の夕刻。
中央区と下町の境界線、中央高架橋の袂。
独立劇場〈ルージュ座〉の正面ファサードは、帝都中から集まった数万人の群衆の歓喜によって、完全に埋め尽くされていた。
正面玄関の樫の木の大扉。
そこに巻き付けられていた、教会の冷たい鉄の鎖。
大階段の上で、マルゴ・デルーが巨大な鉄切り鋏を両手で構え、群衆が見守るなか、渾身の力でその刃を噛み合わせた。
バチンッッ!!
火花が散り、重々しい鉄鎖が石畳の上へと音を立てて崩れ落ちた。
聖歌庁の鉛の封印が無残に砕け散る。
ワァァァァァァァッッ!!
歓声が空を揺らす。
大扉が力任せに押し開かれ、再び、真紅の城の心臓部が白日の下へと解き放たれた。
そして――劇場の屋上テラス。
六本の硬質安山岩の巨柱の頂点、帝都の街を一望できる最前列に、ジュディット・モレルが立っていた。
彼女は両腕で、劇場の天辺に設えられた旗竿の麻紐を一気に引き絞った。
バサァァッッ!!
夕暮れの冷たい秋風を孕んで、巨大な旗が、帝都の空へと高らかに翻った。
教会の白百合の旗ではない。
帝室の双頭の鷲の紋章でもない。
燃え盛るような鮮烈な深紅の絹地の上に、金糸で誇らしげに刺繍された、引き裂かれた鎖と真紅の唇のエンブレム――〈ルージュの旗〉。
夕闇に染まりゆく帝都の空の下、その巨大な赤い旗は、都市の頂点に立つ白亜の宮殿群を見下ろすようにして、誇らしげに夜風を薙ぎ払っていた。
街中の酒場から、長屋の窓から、広場から、躍動的なスウィングと手拍子の音が溢れ返り、帝都は一夜にして、完全なる勝利の熱狂のるつぼへと変貌を遂げていた。
第3幕――『文化戦争と聖歌庁の包囲網』の、完全なる終結。
――だが。
◇
その熱狂の渦から遥か高く離れた、帝都第一区「光輪地区」の頂。
白大理石の宮殿群のさらに奥深く、皇宮の最上階に位置する、壮麗を極めたプライベート・テラス。
冷たい夜風が、大理石の手すりに絡みつく深紅の蔓薔薇を静かに揺らしていた。
そのテラスの縁に、一人の老婦人が佇んでいた。
漆黒の最高級シルクベルベットの喪服ドレスを完璧に着こなし、銀白の髪を気品ある夜会巻きに結い上げた、冷徹なる貴婦人。
胸元には、帝国のいかなる貴族も身につけることを許されぬ、純金と大粒のエメラルドで作られた「皇帝親任の宝冠章」。
帝国皇太后にして、帝立大歌劇場の最高管財人――エリザベート・フォン・シュタイン。
彼女の細く手入れの行き届いた指先には、真鍮と象牙で作られた特注の双眼鏡が握られていた。
レンズの先――数キロメートル彼方の中央高架橋の袂。
夜空を赤く染め上げるルージュ座の光。
そして、屋上に高らかと翻る、あの巨大な真紅の旗。
風に乗って、遠くから微かに届いてくる、下町の大衆の地鳴りのような歓声と、大地を震わせる野蛮な不協和音の残響。
「…………」
エリザベートは、ゆっくりと双眼鏡を下ろした。
その冷徹な碧眼には、動揺も、怒りも、一片の恐怖すらも存在しなかった。
あるのはただ、冷徹なリアリストとして世界を統治してきた老女帝特有の、底知れぬ知性と――研ぎ澄まされた刃を検分するような、冷ややかな「愉悦」。
彼女の足元、大理石の丸卓の上には、一台の小型蓄音機が置かれていた。
回転台の上には、すでに何十回と針を通され、溝が擦り切れるほどに聴き込まれた、あの一枚の魔導レコード。
「……面白い娘ね」
エリザベートの薄い唇から、低く、威厳に満ちた呟きが漏れた。
彼女は手元の薄紅の紅茶を一口含み、赤く染まる夜空を見つめた。
「聖歌庁の石頭どもを、たった一人で泡を吹かせて片付けてしまうとは……。あの退屈極まりない大聖堂の静寂を、これほど心地よい騒音で叩き壊して見せた者は、ここ百年で初めてだわ」
皇太后はカップをソーサーへと戻し、背後の暗がりに控えていた侍従長へと、静かに視線を向けた。
「呼びなさい」
「は……?」
老侍従が怪訝そうに頭を垂れる。
「ルージュ座のあの娘よ。レア・ヴァーミリオン」
エリザベートの瞳の奥で、冷酷にして巨大な権力の炎が明滅した。
「三ヶ月後に迫る、建国百周年の祭典。……あの帝国の最大の晴れ舞台に、ふさわしい毒かどうかを、この私の前で確かめてあげましょう」
第4幕――『国家を呑み干す歌声』への扉が、いま、静かに開かれようとしていた。




