第42話 反転する包囲網
巨大な堤防が決壊するとき、最初に崩れ落ちるのは分厚いコンクリートの壁面ではない。基礎の隙間に染み込んだ無数の水脈が、内側から土砂を洗い流し、ある瞬間に重力そのものがすべてを呑み干すように瓦解するのだ。
煙突街の廃工房への強制捜査が空振りに終わり、警備隊第3小隊長ユーグ・アルマンの巧妙なサボタージュによって典礼憲兵隊が無様に泥水をすすってから数日。
オルレアン帝国の首都を精神的に支配してきた聖歌庁の足元で、まさにその「不可逆の決壊」が起きていた。
◇
異変はまず、都市の血管である下町の通りから噴出した。
早朝、帝都第三区および第四区に点在する聖歌庁直営の大礼拝堂。
毎朝六時、厳かに鳴り響くはずの礼拝の鐘の音は、かつてないほど寒々しい静寂の中に吸い込まれていた。
普段ならば、罪の赦しと日々の糧を乞うために、長い列を作って石段を上がっていたはずの平民たちの姿が、どこにも見当たらない。大理石の講壇に立つ司祭たちが目にしたのは、何百人分もの空席と、床に散らばった埃だけだった。
それだけではない。
礼拝堂の正面広場に設置されていた豪奢な真鍮の献金箱――貧民たちがなけなしの銅貨を投げ入れていたはずのその箱には、一枚の硬貨すら落ちていなかった。代わりに投げ込まれていたのは、下町の若者たちが唾を吐きかけた石炭屑と、ジュディット・モレルがデザインしたあの「真紅の唇と引き裂かれた鎖」の紙切れの山だった。
「……背教者どもめ! 神への義務を怠る気か!」
真っ赤な顔をして講壇を降りてきた司祭を待ち受けていたのは、街頭に群がる大衆の冷酷な嘲笑と怒号だった。
「誰がてめえらの死人のお経に銅貨を払うかよ!」
「あの子の城に鉄鎖を巻きやがって! 俺たちの歌姫を返せ!」
「税金を取るだけじゃ飽き足らず、俺たちの息の根まで止める気か、この偽善者ども!」
下町の大衆は、もはや恐怖に怯える羊ではなかった。
聖マルタン穀物広場での電撃的なゲリラ・ライブ、そして街中に溢れかえった魔導レコードによって、彼らはすでに「本物の生きている歌」の味を知ってしまっていた。
一度でも魂を震わせる熱狂を骨の髄まで味わった人間にとって、教会の無機質な純正律の賛美歌は、ただの退屈な呪詛にしか聴こえなくなっていたのだ。
不買運動の火の手は、瞬く間に帝都全域へと燃え広がった。
聖歌庁に多額の寄付を行っている御用達の大商人たちの穀物店や肉屋には、客が一歩も足を踏み入れなくなった。港湾の荷揚げ人夫たちは「教会の特権貨物」の荷役作業を全員一致でボイコットし、教会の厨房へ納品されるはずだった新鮮な野菜やワインの樽が、埠頭で野晒しにされて腐敗していった。
広場や市場の辻々では、夜な夜な自然発生的な抗議集会が開かれた。
誰かが小型蓄音機にレアのレコードを落とせば、何百人もの市民がその場に集まり、足を踏み鳴らし、肩を組んでスキャットを大合唱する。憲兵隊が駆けつけても、群衆は逃げるどころか、腕を組んで冷たい視線で包囲し、一言の暴力も振るわずに、ただその圧倒的な「数の暴力」で銃剣の列を圧殺して追い返してしまう。
民衆を縛り付けていたはずの「信仰の鎖」は、飢餓感という名の猛毒によって、跡形もなく溶け崩れていた。
◇
そして――民衆の反乱以上に、体制の中枢を致命的に締め上げていたのは、第一区の白亜の宮殿群で起きていた「上流階級の反逆」だった。
舞台は、帝国議事堂の貴族院本会議場。
絢爛豪華なシャンデリアの下、真紅のビロードの議席を埋め尽くす数百名の貴族院議員たち――公爵、侯爵、伯爵といった帝国を牛耳る家柄の当主たちが、怒号と野次を飛び交わせながら机を激しく叩き合っていた。
「……静粛に! 議長、静粛を求めます!」
壇上で木槌を連打する議長の声など、沸騰した議場の中ではかき消されるばかりだった。
「聖歌庁の越権行為をこれ以上看過することはできん!」
壇上に詰め寄り、真っ赤な顔で議事録を叩きつけていたのは、近衛騎士団長を務める名門軍閥の侯爵だった。クラリスの共謀サロンに参加していた、あの令嬢マリーの父親である。
「警備隊の正規小隊長に対し、教会の私兵組織が不当な査察を強要し、あまつさえ軍事法廷へ送致するなど、前代未聞の暴挙である! 我が国の軍事指揮権は皇帝陛下と貴族院に属するもの! 一介の宗教官庁が、己の教条主義のために軍の将校を私的に処罰するなど、明白な反逆行為ではないか!」
「その通りだ!」
宮内卿を務める伯爵――令嬢アンリエットの父親もまた、立ち上がって咆哮した。
「さらに聞けば、聖歌庁の典礼査察局は、ヴァレンヌ公爵家の私有財産たる別館サロンに対し、不法な封鎖と強制捜査を企てたというではないか! 古来より保障された貴族特権――私邸における治外法権を侵害することは、帝国憲章の根幹を揺るがす暴挙である! 次は我ら全員の屋敷に、教会の憲兵が土足で踏み込んでくるぞ!」
議場を埋め尽くす貴族院の重鎮たちが、口を極めて教会を糾弾していた。
彼らは日頃、下層民のデモなど歯牙にもかけない冷酷な支配者たちだった。
だが今、彼らを突き動かしていたのは、自らの家庭の内側から突きつけられた、逃れようのない「刃」だった。
ここ数日、各貴族邸の食卓は修羅場と化していたのだ。
クラリスが結成した「共謀サロン」の令嬢たち――愛娘たちが、揃いも揃って親の前に立ちはだかり、宝石を売り払った手で毅然と言い放ったのだ。
――『お父様。もし教会のあの前時代的な横暴を貴族院が黙認するのなら、私は修道院へ入るどころか、この屋敷のバルコニーから飛び降りてみせますわ』
――『教会の言いなりになって下町の歌姫を殺すような恥ずべき父親を、私は生涯、軽蔑し続けます』
さらに、夜な夜な仮面を被ってルージュ座に通い詰め、魔導レコードに熱狂していた若手貴族や将校たち――次男、三男の青年貴族たちまでもが、「教会の締め付けは時代遅れの老害の嫉妬だ」「文化を去勢する国家に未来はない」と、親世代の政治家たちを猛烈に突き上げ始めたのだ。
家庭内での孤立。次世代の反乱。
そして何より、ギルバート・ヴァレンヌが巧妙に仕掛けた「貴族特権の侵害」という法的論理の罠。
貴族院の長老たちにとって、教会の暴走を放置することは、自らの特権と家門の平穏を脅かす直接の脅威となっていた。
保守派の大貴族たちですら、教会を擁護することを完全にやめ、マクシミリアン伯爵の独走に対する弾劾決議案の準備に着手し始めていたのだ。
下町からの怒涛の民意。
上流階級からの冷徹な包囲。
かつて帝国の精神を絶対的に支配していた聖歌庁は、いまや四方八方を敵に囲まれ、孤立無援の断崖絶壁へと追い詰められていた。
◇
同時刻。中央区の境界線、かつて鉄鎖で封鎖されたはずの独立劇場〈ルージュ座〉の最深部。
地下二階に位置する、かつての帝室専用ワインセラーを改装した極秘の作戦室。
分厚い石壁とアーチ天井に囲まれた室内は、外の喧騒が嘘のように静まり返り、真鍮のランプが投げかける琥珀色の光の下で、異様な熱気と金属の冷たい輝きに満ちていた。
ドサッ、ジャララララララッッ!!
重厚な樫の木のテーブルの上に、分厚い麻袋が次々と叩きつけられ、口から溢れ出た無数の硬貨が、眩いばかりの光を放って雪崩れ落ちた。
純金貨。白銀貨。
帝立造幣局の刻印が刻まれた本物の富の結晶。
それも、十枚や百枚といった生易しい単位ではない。
テーブルの中央には、すでに大人の腰の高さに達するほどの巨大な「黄金のピラミッド」が築かれ、床の上には数え切れないほどの銀貨の袋が、まるで兵糧の米俵のように積み上げられていた。
「……おいおいおい、冗談だろ……」
銀狐の毛皮外套を脱ぎ捨て、額に汗を浮かべたベルナール・ジルが、煙草を落としそうになりながら立ち尽くしていた。
手には、歓楽街の闇流通網から回収されたばかりの最新の売上台帳が握りしめられている。
「集計が出たぜ、レア……。帝都全土に流した魔導レコードの第一ロット、第二ロット……合計三万枚が、わずか五日間で完売だ。一枚につき銀貨三枚から五枚の闇相場で飛ぶように売れやがった。……さらに、貴族街の裏ルートに流した特製桐箱入りの高額盤が、金貨五枚で貴族の若造どもに買い占められた」
ベルナールは震える指先で台帳の最終行を指し示し、掠れた声で決定的な数字を口にした。
「製造原価と俺の取り分の四割を差し引いた、純利益……。金貨にして、五千枚だ。……五千枚だぞ!? この劇場を丸ごと買い取った時の全財産を、たった一週間の闇レコードの販売益だけで、遥かに凌駕しちまいやがった!」
金貨五千枚。
中規模都市の一年分の地方税収に匹敵する、途方もない巨額。
劇場という「箱」を奪われ、路頭に迷うはずだった下町の歌姫の手元に、いまや帝国の中央銀行の支店すら買収できるほどの莫大な「弾薬」が集結していたのだ。
「ふん、当然の結果さね」
テーブルの脇で、マルゴ・デルーが煙管から細い煙を吐き出しながら、豪快に口元を歪めた。
その隣では、ジュディット・モレルが、クラリスが持ち込んだ貴族令嬢たちからの支援金――宝石や貴金属の換金台帳をパチンと閉じ、胸を張っていた。
「あたしたちを狭い鳥籠の中に閉じ込めておけば、干からびて死ぬと高を括っていた教会の老いぼれどもが、今頃どんな顔をしているか見ものだよ。……箱を奪われたおかげで、アタシらの歌は帝都中のすべての長屋とサロンを呑み干しちまったんだからね!」
「ピアノの調律弦も、最高級のスウェーデン鋼を闇ルートで十ダース買い占めたぜ」
部屋の隅で、ノア・カレヴィが包帯の巻かれた指先で冷えたビール瓶を開け、不敵に笑った。
「これで、どんな大聖堂のパイプオルガンだろうと、音圧で叩き潰せるだけの準備は整ったな」
さらに、作戦室の重い扉が開き、二人の人物が入ってきた。
濃灰色のウールコートを着たギルバート・ヴァレンヌ、そして――その隣には、夜色のドレスを纏ったクラリス・ド・ヴァレンヌが誇らしげに寄り添っていた。
「外の包囲は、完全に完成したよ、レア」
ギルバートは眼鏡の位置を直しながら、貴族院本会議の速記録の写しをテーブルの上に置いた。
「貴族院では、教会の越権行為に対する弾劾決議案の賛成署名が、すでに過半数を突破した。下町の暴動を恐れた商業連合も、聖歌庁への融資引き揚げを非公式に通告している。……教会の味方は、いまや狂信的な査察官と、動けない憲兵隊の残党しか残っていない」
クラリスもまた、サファイアの双眸を輝かせ、レアの前へと歩み寄った。
「社交界の令嬢たちも、全員が味方ですわ。……マクシミリアン伯爵の足元は、完全に崩れ去りました。追いつめられていたはずの私たちが、いつの間にか、あの教会の巨塔を四方から完全に包囲してしまったのですわ!」
完璧な逆転劇。
資金、世論、流通網、そして法と貴族院の支持。
国家の暴力を前にして散り去るはずだった毒花は、知略と音楽の魔力によって、帝国のすべての権力構造を内側から食い破り、支配者層の喉首に冷たい刃を突き立てていた。
黄金の山の前に、二つのカットグラスが置かれた。
マルゴが琥珀色の極上のウイスキーを注ぎ、その一つをレアの前へと滑らせる。
「……さあ、受け取りな、レア」
マルゴの灰色の瞳に、戦友としての深い誇りと愛が宿っていた。
「アタシらが勝ったんだ。乾杯しようじゃないか」
部屋の中央。
墨黒のワンピースを纏い、黄金の山を前にして泰然自若として立っていたレア・ヴァーミリオンは、ゆっくりとグラスを手に取った。
冷たい琥珀色の液体を、唇へと運ぶ。
芳醇な香りと、喉を焼くようなアルコールの熱が、彼女の研ぎ澄まされた神経を心地よく刺激していく。
レアはグラスを置き、テーブルの上の黄金の山を見つめた。
その切れ長の黒い瞳には、歓喜の浮かれなど微塵もなかった。
そこにあるのは――自らの獲物を完全に追いつめた狩人だけが浮かべる、冷酷で、静謐な「確信」。
「……いい酒ね、マルゴ」
レアの低く、凛とした声が地下室に響いた。
彼女は振り返り、仲間たちの顔を一人ずつ見据えた。
「でも、祝杯にはまだ早いわ」
「……何?」
ベルナールが目を丸くする。
「隠れて歌うゲリラの日々は、もう終わりよ」
レアの唇に、三日月の形をした獰猛な笑みが浮かんだ。
彼女は窓のない石壁の向こう――第一区の高台にそびえる、帝立聖楽院の大聖堂の方角を真っ直ぐに見据えた。
「城は手に入り、金は溢れ、この街のすべての人間が私の声に飢え渇いている。……さあ、そろそろ舞台の上に戻る時間よ」
舞台の上に戻る。
その言葉が意味するものを察した瞬間、ノアの口元が吊り上がり、クラリスの胸が熱く高鳴った。
逃げ隠れするのではない。
白日の下に立ち、堂々と帝国の中枢へと乗り込み、あの教条主義の老人たちに完全なる引導を渡す時が来たのだ。
――そして、まさにその時だった。
ドォォォォン……。
真夜中の帝都の空を切り裂いて、帝立聖楽院の中央大聖堂から、非常招集を告げる白銀の大鐘が、重々しく鳴り響いた。
一打、二打、三打。
それは、国家に重大な危機が迫った時にのみ鳴らされる、最高位の典礼の鐘。
数分後。
劇場の通用口から、息を切らせた情報屋の少年が作戦室へと飛び込んできた。
その手には、大聖堂の門前に張り出されたばかりの、冷たい青灰色の封蝋が押された公式文書の写しが握りしめられていた。
「……出たぞ! 聖歌庁からの、直々の大布告だ!」
少年が叫んだ。
ギルバートがその紙片を素早く奪い取り、眼鏡の奥の瞳を走らせた。
その顔に、驚愕と、そして嘲笑の光が走る。
「……マクシミリアン伯爵め。ついに、最後の禁じ手を使いおったな」
「禁じ手……?」
ジュディットが身を乗り出す。
「暗殺特務班による秘密裏の抹殺も、憲兵隊による強制捜査も、すべて世論の壁と警備隊のサボタージュによって失敗した」
ギルバートは冷淡に紙片をレアへと差し出した。
「完全に追いつめられたマクシミリアンは、己の権威を守るため、公の法廷を動かした。……十日後、帝立聖楽院の中央大聖堂・大会議場において、最高宗教法廷――『聖歌庁大査問委員会』を正式に開廷する。そして……」
ギルバートはレアを見据え、その決定的な宣告を口にした。
「……レア・ヴィット個人に対し、国家反逆および背教の首謀者として、公開の法廷への正式な『最高査問召喚状』が発行された」
最高査問召喚状。
出席を拒否すれば、その瞬間に国家反逆者として即決処刑の対象となる、帝国の宗教法における絶対の出頭命令。
逃げ場を失ったマクシミリアンが、自らの本丸である大聖堂の法廷にレアを引っ張り出し、居並ぶ審問官たちの権威によって、公衆の面前で息の根を止めようとする、最後の賭け。
室内が、張り詰めた静寂に包まれた。
だが。
その召喚状を一瞥したレア・ヴァーミリオンは――。
青ざめるどころか、その瞳を歓喜の炎で燃え上がらせていた。
「……最高査問委員会、ね」
レアの唇から、鈴の音のように冷たく、美しい嘲笑が零れ落ちた。
彼女はグラスに残った最後の一滴のウイスキーを煽ると、その召喚状を指先で弾いた。
「あちらから、帝都最高の舞台を用意してくれたじゃない」
文化戦争の最終決戦。
追いつめられた教会の心臓部へと、悪魔の歌姫がその喉一つで乗り込む時が、ついに訪れようとしていた。




