第43話 聖庁の召喚状
夜明け前の蒼茫とした光が、帝都中央大通りを覆う濃密な朝靄を冷たく透かしていた。
かつて鉄の鎖で縛り上げられ、沈黙を強いられていたはずの独立劇場〈ルージュ座〉。
帝国財務卿補佐官ギルバート・ヴァレンヌの手腕によって、名門ヴァレンヌ公爵家直属の『私的社交倶楽部・サロン・ルージュ』へと名義変更され、教会の査察権が及ばぬ治外法権の盾を手に入れたその大伽藍は、今や真紅の看板の周囲に何百本もの真鍮ランプの火を煌々と揺らし、不落の要塞のような威容を誇っていた。
正面玄関を貫く大広間――通称〈サロン・ルージュ〉。
壁一面を覆うのは、ジュディット・モレルが寸分の狂いもなく張り巡らせた深紅のシルクベルベット。磨き上げられた寄木細工の床には、帝立造幣局の刻印が燦然と輝く純金貨と白銀貨が詰まった麻袋が、まるで戦時下の土嚢のように積み上げられている。
闇レコードの爆発的な売り上げによって手に入れた、金貨五千枚という途方もない軍資金。
だが、その莫大な黄金の山を前にしても、サロンを満たしていたのは祝杯の熱気ではなかった。
大理石の暖炉の前、黒檀の円卓を囲む者たちの表情は、氷のように凍りついていた。
卓上の中央に置かれていたのは、一通の巨大な羊皮紙の巻物だった。
通常の公文書の倍はある分厚い羊皮紙。縁には銀泥で冷酷な荊棘の文様が刷り込まれ、中央を留める封蝋は、青灰色どころではない――漆黒の蜜蝋。
そこに刻印されていたのは、聖歌庁最高査問委員会、そして教皇庁直属の特権印章たる「交差する二本の天秤と、首を刎ねる大剣」。
先ほど、白銀の大鐘の余韻が冷めやらぬ黎明の街を抜け、純白の騎馬護衛隊を従えた教会の首席特使が、サロンの敷居を跨ぐことすら叶わず、青ざめた手で玄関の段上に叩きつけていった絶対の令状。
――『最高査問召喚状』。
「……文面を読み上げるまでもないな」
円卓の端、冷え切った紅茶のカップに手を触れもせず、低く濁った声で切り出したのは、ユーグ・アルマンだった。
その姿には、かつて彼を飾っていた名門軍人貴族の華やかさはなかった。
紺青の詰襟軍服からは銀の飾緒が剥ぎ取られ、腰の儀礼刀も失われていた。煙突街の地下工房捜索において意図的な遅滞工作を行い、レアたちを逃がした「不自然な過失」を査察官に告発され、彼は昨夜のうちに警備隊小隊長の職務を解かれ、無期限の自宅謹慎と軍事法廷への査問が決定していたのだ。
だが、謹慎命令など歯牙にもかけず、ユーグは私服の黒いウールコートの襟を立て、自らの身の危険を顧みずにこのサロンへと駆けつけていた。
そのヘーゼル色の双眸には、自らの破滅に対する恐怖など微塵もなかった。
あるのはただ一点――卓上の黒い封印を見つめる、焦燥と激しい殺気。
「これは裁判の呼び出しなどではない。……公開処刑の宣告だ」
ユーグは拳を卓上に強く叩きつけた。
「欠席すれば、即刻『神と帝国に対する反逆者』として永久追放および欠席裁判での極刑が確定し、帝国全軍にレアの即時射殺命令が下る。……だが、出頭すればどうなる? 会場は大聖堂の心臓部、聖歌庁大会議場だ。周囲は教会の狂信的な私兵と、マクシミリアン伯爵の息のかかった審問官で完全に固められている。……一歩足を踏み入れた瞬間、弁明の機会など与えられるはずもない。大理石の床の上で組み伏せられ、二度と声が出ぬよう、その場で舌を切り取られるか毒薬を流し込まれるのが落ちだ」
「ユーグ卿の言う通りだよ」
円卓の向かい側、銀縁眼鏡を押し上げながら、ギルバート・ヴァレンヌが冷淡に、しかし眉間に深い苦渋の皺を刻んで続けた。
彼の手元には、帝国六法全書と、貴族院の緊急動議に関する連絡文書が山積みにされている。
「私が用意した『公爵家の私邸』という治外法権の盾は、通常の憲兵や警察の踏み込みを防ぐには完璧だった。貴族院の世論も、教会の越権行為に対して猛反発している。……だが、マクシミリアンはそのすべてを承知の上で、この最終手段を打ってきたのだ」
ギルバートは黒い封蝋を真鍮のペーパーナイフで指し示した。
「最高査問委員会。帝国古来の典礼特権法において、この召喚状だけは、皇帝の勅許と同等の効力を持ち、いかなる名門貴族の治外法権をも超越し、個人を法廷へと引きずり出すことができる唯一の例外だ。……マクシミリアンは完全に狂気に走っている。貴族院との全面抗争に発展しようが、下町で暴動が起きようが、すべてを道連れにしてでも、公の法廷の場でレア個人を抹殺し、自らの教条主義の正当性を力づくで証明しようとしているのだ」
ギルバートは立ち上がり、レアの前に身を乗り出した。
常に感情を排し、数字と法理の冷徹な計算だけで動いてきた青年官僚が、その双眸の奥に、隠しようもない激情の熱を宿して訴えかける。
「罠だ、レア。行けば生きては帰れない。……今すぐ身を隠すんだ」
「身を隠す?」
レア・ヴァーミリオンは、椅子の背にもたれかかったまま、ピクリとも動かなかった。
「そうだ」
ギルバートは懐から、一枚の偽造旅券と、国境越えの手形を引き出して卓上に滑らせた。
「妹クラリスが集めた令嬢たちの資金網、そして私が握る財務省の密輸監視ルートを使えば、今夜のうちに帝都を脱出できる。西の海洋王国、あるいは自由都市同盟へ亡命するんだ。そこまで行けば、教会の手先も手を出せない。君の魔導レコードはすでに海を越えて広がり始めている。亡命先で新たな劇場を立ち上げれば、君は世界的な歌姫として君臨できる。……ここで命を捨てる必要など、どこにもない!」
「俺も同意見だ」
ユーグが一歩踏み出し、痛切な眼差しでレアを見据えた。
「軍の巡回ルートの死角は、私がすべて頭に叩き込んである。私の命に代えても、貴女を国境まで送り届けてみせる。……お願いだ、レア。あの男の屠殺場へ、自ら首を差し出すような真似だけはしないでくれ!」
体制側の二大実力者。
治安の刃たる騎士と、国家財政を司る頭脳。
帝国の秩序の頂点にいたはずの二人のエリートが、自らの地位も、名誉も、将来のすべてをかなぐり捨てて、ただ一人の下町の少女の命を救うために必死で頭を下げていた。
サロンの隅では、マルゴ・デルーが煙管を咥えたまま、重々しく腕を組んでいた。
「……レア。アタシも、あの二人の言う通りだと思うよ。アタシらは勝ったんだ。金も手に入った、街中の人間がアンタの歌に狂ってる。わざわざ敵の本丸の処刑台に上がってやる義理なんざ、どこにもありゃしないよ」
重苦しい沈黙が、サロンを包み込む。
暖炉の薪がパチリと爆ぜ、真紅のベルベットの壁に揺らめく影を落とす。
合理的に考えれば、答えは一つしかなかった。
敵の用意した絶対的不利の法廷を拒絶し、国外へ亡命して再起を図る。それこそが、生き残るための唯一の正解。
だが。
――ふっ、と。
静寂を破ったのは、冷ややかで、小気味よい笑い声だった。
「……亡命?」
レア・ヴァーミリオンの端正な唇が、三日月の形にゆっくりと吊り上がった。
彼女は卓上の偽造旅券と国境手形を一瞥すると、人差し指の先で、ゴミでも払うかのように無造作に弾き飛ばした。
パサリ、と床に落ちる紙片。
「何を怯えているの、私の哀れな共犯者たち」
レアの声は、驚くほど穏やかで、しかし骨の髄まで凍りつかせるような絶対の威厳を帯びていた。
彼女はゆっくりと立ち上がった。
墨黒のウールワンピースの裾を翻し、卓上の黒い封印が施された『最高査問召喚状』の前へと歩み寄る。
「逃げる? この私が? ……国境を越えてコソコソと逃げ出し、海の向こうの安全な鳥籠の中で、お行儀よく歌を歌えとでも言うのかしら」
「レア……!」
ユーグが声を詰まらせる。
「勘違いしないで、ユーグ。ギルバート」
レアは振り返り、二人の男の瞳を、切れ長の黒い双眸で真っ向から射抜いた。
「私はね、ただ生き延びて、ぬくぬくと歌を歌いたいからここに立っているんじゃないのよ。……あの高台の白亜の大聖堂で、神の調和を気取り、感情を殺し、生身の人間の苦しみを踏みにじってきたあの老人たち。あいつらが築き上げた千年の欺瞞の城壁を、この私の喉一つで、根底から粉々に叩き壊してやるために、ここまで這い上がってきたのよ」
少女の細い背中から立ち上る、途方もない覇気。
死線など、最初から百も承知。
罠であることなど、最初から織り込み済み。
「隠れて歌うゲリラの日々は、もう終わりよ」
レアの瞳の奥で、漆黒の炎が猛烈に渦を巻いていた。
「煙突街の地下酒場の酒樽の上から始まり、歓楽街の地下闘技場、独立劇場、そして街角の荷馬車の上……。私はこれまで、あいつらが押し付けてくるすべての檻を蹴破ってきたわ。そして今――あちらから、帝都最高の舞台を用意してくれたんじゃないの」
「舞台だと……!?」
ギルバートが息を呑む。
「そうよ。帝立聖楽院中央大聖堂、聖歌庁大会議場。……あそこはね、オルレアン帝国のすべての権力、すべての宗教、すべての文化の頂点が集まる、この国で最も格式高く、最も響きの良い『大劇場』よ」
レアは不敵に笑い、召喚状の黒い封蝋を、自らの手の平で力強く叩き潰した。
パキリッ!と硬質な音が響き、教会の絶対の紋章が粉々に砕け散る。
「あいつらは、私を断頭台に乗せて公開処刑にするつもりでしょうけれど……客席に座るのは誰? 居並ぶ審問官、高位聖職者、貴族院の議員たち、そして広場を埋め尽くす何千人もの民衆よ。……これ以上の大観衆が、この世界のどこにあるというの?」
逃走ではない。
死地に飛び込むのでもない。
敵が己を屠るために設えた最大の罠を、そのまま自らの「戴冠のステージ」へと力づくで塗り替えてやるという、狂気にも似た絶対の確信。
「逃げる気なんて、最初から一ミリたりともないわ」
レアは顎を引き、凛と言い放った。
「乗り込んであげるわよ。あの神殿の心臓部へ。……そして、あいつらが信仰する死人の調和を、この私の声で、骨の髄まで解体してあげる」
息を呑むサロン。
ユーグも、ギルバートも、マルゴも、誰も言葉を返すことができなかった。
圧倒的な覚悟。
国家の暴力すらも自らのパフォーマンスの照明に変えてしまう、真のモンスターの誕生。
「――それでこそ、あたしたちのディーヴァだよッ!!」
サロンの奥、衣装部屋の扉を蹴破るようにして飛び出してきたのは、ジュディット・モレルだった。
その両腕には、分厚い白布に包まれた、巨大な包みが抱えられていた。
ジュディットの目は充血し、額には汗が光っていたが、その顔には、一人のクリエイターとして極限の狂気に達した者だけが浮かべる、獰猛な歓喜が張り付いていた。
「逃げるなんて言ったら、あたしがその喉を引っ掻いてやるところだったよ! ……見な、レア! あの大聖堂の白大理石の墓場を、一瞬で焼き尽くすための、あたしの最高傑作をさァッ!!」
バサァッッ!!
ジュディットが白布を一気に引き剥がした。
朝の薄明かりのなか、サロンの空間を鮮血の色で染め上げるようにして姿を現したのは――息を呑むほどに前衛的で、暴力的なまでに美しい、一着のドレスだった。
「…………っ!」
クラリスが両手で口元を覆い、息を呑んだ。
サロンにいた全員の視線が、その衣装の一点へと吸い寄せられる。
深紅と漆黒。
だが、それはルージュ座のこけら落としで纏っていたドレスとは、次元が異なっていた。
生地には、クラリスをはじめとする貴族令嬢たちが提供した、最高峰のヴァレンヌ家秘蔵のヘビーシルクベルベットが惜しげもなく使われ、光の角度によって、夜の闇から燃え盛るマグマのような深紅へと色彩を変える。
胸元から横隔膜、肋骨のラインにかけて刻まれたスリットは、さらに大胆に、限界まで深く切り込まれていた。
コルセットの骨組みは一本たりとも入っていない。肺胞の広がり、横隔膜の沈み込み、肋骨のアコーディオンのような運動を、一ミリの摩擦もなく完全に解放する極限の構造。
そして――首元。
鎖骨を大胆に露出しながらも、襟の後ろから背中にかけて、天を突く炎の翼のような鋭利なハイカラーが立ち上がり、膝上で短く切り落とされた前裾から伸びる真紅のトレーンには、下町の金工職人たちが叩き上げた無数の極小の真鍮鋲が、星屑のように散りばめられていた。
大聖堂の純白の法衣、冷たい大理石の静寂。
そのすべてを、一着の存在感だけで完全に踏みにじり、蹂躙するために仕立てられた――「神を冒涜する反逆の軍服」。
「仕立て直したんじゃない。……お前のために、一から縫い直したんだよ」
ジュディットは裁縫鋏を腰に差し、涙ぐみながら胸を張った。
「あの大聖堂の老人どもに見せつけてやりな! 誰の愛人にもならず、誰の施しも受けず、あたしたち女の手だけで縫い上げた、この真紅の炎をさ!」
レアは、そのドレスへと歩み寄った。
冷たい指先で、真紅のベルベットの表面をそっと撫でる。
吸い付くような肌触り。
布地の奥から、ジュディットの徹夜の執念と、下町の針子たちのプライドが、微かな熱となって伝わってくる。
「……最高の鎧ね、ジュディット」
レアの唇に、確固たる笑みが宿った。
「着てあげるわ。……あの神殿を、血の海に染め上げるためにね」
決戦の覚悟が、完全に定まった。
もはや、誰一人として止める者はいなかった。
ユーグは唇を噛み締めながら、腰の無い帯を強く締め直し、ギルバートは手帳を開いて法廷での布陣の再編へと取り掛かった。
逃げるのではない。
敵の本丸へ、全軍を率いて正面から突入するのだ。
その時だった。
サロンの隅、埃を被ったピアノの前に座っていた男が、音もなく立ち上がった。
ノア・カレヴィ。
普段は無気力で、何事にも皮肉を吐き、煙草の煙の向こうで冷笑しているだけのピアニスト。
その彼が、火の点いていない煙草を床に叩き落とし、靴底でゆっくりと踏み消した。
ノアは誰とも視線を交わさず、静かな足取りで、ドレスの前に立つレアの前へと歩み寄った。
その顔には、かつて大聖堂のオルガン奏者として破門され、指の骨を折られかけた過去の亡霊など、微塵も残っていなかった。
あるのは、己の半身たる歌姫を、世界の頂点へと送り出す覚悟を決めた、唯一無二の相棒の眼差し。
ノアは無言のまま、コートのポケットに手を突っ込んだ。
そして――引き出された右手を、レアの前へと差し出した。
「…………?」
レアが目を眇める。
ノアの掌の上に置かれていたのは――古びた、一本の小さな金属片だった。
二股に分かれた、冷たい鋼鉄の棒。
表面には無数の細かな傷が刻まれ、柄の部分には、教会音楽家が用いる「A=440Hz」の刻印が、削り落とされた跡が残っている。
かつてノアが大聖堂を追放された夜から、肌身離さず持ち歩いていたという、彼自身の魂の形見――『音叉』。
「……持って行け」
ノアの低く、かすれた声が、静寂のサロンに落ちた。
「法廷の中にゃ、ピアノは持ち込めねえ。ドラムも、ベースも、俺の指も、お前の背中を押してやることはできねえんだ。……お前は、たった一人で、あの何百人もの敵の真ん中に立たなきゃならねえ」
ノアはレアの手を取り、その冷たい掌の上に、鋼鉄の音叉を強く握らせた。
十本の指を包む包帯の擦れる感触。
「だがな、レア。恐れることは何もねえ」
ノアの黒い瞳の奥で、狂気にも似た絶対の信頼が燃え上がった。
「……喉を鳴らせ。お前の骨が鳴れば、あの石造りの法廷など――ただの反響板だ」
骨が鳴れば、法廷などただの反響板。
その言葉が、レアの胸の芯へと、雷撃のように突き刺さった。
伴奏などいらない。
マイクも、拡声器もいらない。
彼女自身の肋骨が、胸郭が、頭蓋骨が鳴動する限り――大聖堂の千年の石柱も、大理石の壁も、すべては彼女の絶叫を何倍にも増幅して敵を打ち倒すための、巨大なメガホンへと成り下がるのだ。
レアは、握りしめた音叉を、自らの胸元へと強く押し当てた。
冷たい鋼鉄の重み。
だが、その冷たさの奥から、ノアの魂の熱が、彼女の血液の中へと一気に流れ込んでくるのを感じていた。
「……ええ」
レア・ヴァーミリオンは、前を向いた。
その瞳に宿る光は、いまや帝都の夜空を焼き尽くす真紅の稲妻そのものだった。
「鳴らしてあげるわ。……世界が二度と、私の声を忘れられないようにね」
大聖堂の非常招集の鐘が、最後の十打目を鳴り響かせた。
決戦の朝が、来た。
神の調和を騙る偽善の神殿の心臓部へ向けて――いま、禁忌のディーヴァの進軍が、始まろうとしていた。




