第40話 法の隙間の抜け穴
煙突街の地下深くに穿たれた廃工房の空気は、夜が更けるにつれて一段と冷え込み、石壁の隙間から染み出す地下水が、一定のリズムを刻んで床の泥水へと滴り落ちていた。
ピチャン……ピチャン……。
頼りなげな暖炉の炎が、燃え残った石炭の塊を赤黒く燻らせ、部屋の隅々に長い影を投げかけている。
木製の粗末な作業台の上には、先ほどまでジュディットが針を通していた真紅のベルベットの端切れと、ノアが削り粉を払っていた魔導レコードの予備盤が、油布の上に静かに並べられていた。
外の通りでは、聖歌庁の典礼憲兵隊の巡回が依然として続いていた。時折、通気口の鉄格子の隙間から、軍靴の規則正しい足音と、金属の鎖が擦れ合う微かな音が漏れ聞こえてくる。
「……表の通り、二頭立ての辻馬車が角の路地に停まったよ」
階段の踊り場で息を潜めていたマルゴ・デルーが、散弾銃の銃身を抱え直しながら、低く濁った声で地下室へと告げた。
ノアが調律ハンマーから手を離し、即座にピアノの影へと身を滑り込ませる。
だが、マルゴは銃口を持ち上げようとはしなかった。煙管を咥えたまま、怪訝そうに眉をひそめる。
「妙だね。憲兵の装甲馬車じゃない。紋章を外した黒塗りの辻馬車だが……車輪の軸受けには最高級の真鍮が使われてやがる。下町の泥水を踏むような代物じゃないよ」
「……あの方だわ」
作業台の前に腰掛けていたレア・ヴァーミリオンが、静かに顔を上げた。
墨黒のウールワンピースの袖を撫で下ろし、冷め切った白湯のカップを置く。その双眸には、警戒ではなく、全てをあらかじめ計算していた者の冷徹な光が宿っていた。
「迎え入れなさい、マルゴ。……帝都で最も冷酷で、最も頭の切れる『共犯者』のお出ましよ」
直後、地下室の厚い木扉が、控えめな、しかし規則正しい三つのノックによって叩かれた。
トン、トン、トン。
マルゴが用心深く閂を外すと、冷たい夜風とともに、一人の男が滑り込むように入ってきた。
濃灰色の仕立ての良いウールコート。
襟元には雨除けのシルクのスカーフを巻き、プラチナブロンドの几帳面に撫でつけられた髪には、夜露の細かな粒が光っている。
小脇には、帝立財務省の公印が刻まれた分厚い牛革のブリーフケース。
帝国財務卿補佐官――ギルバート・ド・ヴァレンヌ。
「……ずいぶんと陰気な隠れ家だね、ディーヴァ」
ギルバートは革手袋を指先から外しながら、銀縁眼鏡を押し上げ、部屋の中を怜悧なヘーゼル色の双眸で見渡した。
煤けた天井、錆びた旋盤、埃を被ったアップライトピアノ。
日頃、白亜の大理石とシャンデリアに囲まれた宮廷で政務を執る最高のエリート官僚にとって、この煙突街の地下室は、本来であれば一秒たりとも滞在に耐え得ない不潔の極みのはずだった。
だが、彼の口元に浮かんでいたのは、嫌悪などではなかった。
自らの知性を試すにふさわしい、危険極まりない盤面を前にしたチェス指し特有の、底知れぬ「愉悦」だった。
「お坊ちゃんがわざわざ下水溝まで足を運ぶなんて、随分と奇特な趣味ね」
レアは席を立たず、冷ややかな視線を返した。
「妹のクラリスから、報告は受けているでしょう。彼女たちの『読書会』のおかげで、私たちの手元にはすでに十分な軍資金と、教会の突入計画の機密が届いているわ。……今さら貴方が、何の用かしら」
「妹の働きには、兄としても舌を巻いたよ」
ギルバートは自嘲するように薄く笑い、作業台の前へと歩み寄った。
「あのおとなしかったクラリスが、社交界の令嬢たちを扇動して宝石を巻き上げ、近衛騎士団の捜査情報を横流しさせる裏組織の女首領に化けるとはね。……まったく、君の歌は人間の神経回路を根底から狂わせる劇薬だ」
ギルバートは小脇に抱えていた重厚な革鞄を、作業台の上にドンと置いた。
金具が外され、中から引き出されたのは――厚さ十センチにも及ぶ、羊皮紙を黒革で装丁した長大な書物だった。
表紙には、帝室の紋章とともに、金文字で刻まれた重々しい表題。
――『オルレアン帝国六法全書(Codex Juris Imperialis)』。
ノアがピアノの影から顔を出し、呆れたように煙草を揺らした。
「……おいおい、財務官僚の旦那。こんな地下牢まで六法全書を担ぎ込んできて、俺たちに法律の講義でも開く気かい?」
「講義ではないよ、ピアニスト殿」
ギルバートは六法全書の背表紙を指先で叩き、冷ややかに言った。
「これは『剣』だ。……教会の狂信者どもが振りかざす理不尽な暴力を、真正面から叩き折るための、国家が鍛え上げた最硬度の鋼鉄の剣だよ」
ギルバートは手慣れた手つきで六法全書のページをめくり、栞の挟まれた箇所を平手で押さえた。
そして、胸ポケットから真新しい羊皮紙の公文書の束を取り出し、卓上へと滑らせた。
そこには、帝国司法省、貴族院特権管理委員会、そして財務省の三つの朱印が、寸分の狂いもなく燦然と捺印されていた。
「単刀直入に本題に入ろう」
ギルバートは眼鏡の位置を直すと、低く、しかし驚くほど明瞭な声で切り出した。
「聖歌庁がルージュ座に下した『無期限営業停止命令』。あれは帝国興行法第二十四条――『公の場における集会および演劇興行の停止権』を根拠としている。……法理上、あの処分自体に形式的な瑕疵はない。公道に面した劇場で、不特定多数の民衆を集めて未公認の音楽を聴かせている以上、行政処分としての営業停止は有効だ」
「知っているわ」
レアが冷淡に遮る。
「だから私たちは、劇場を捨てて外へ出たのよ。レコードをばら撒き、ゲリラで歌い、街中を劇場に変えている。……いまさらあの鉄鎖に縛られた建物に、未練なんてないわ」
「未練がない? それは経済学的に極めて浅慮な見解だね、レア」
ギルバートは容赦のない論理の刃を突きつけた。
「レコードの闇販売とゲリラ・ライブ。大衆の飢餓感を煽り、世論を味方につける戦術としては満点だ。だが――興行という名の巨大な産業において、八百人を一度に呑み込める『常設の巨大ステージ』を持たない組織は、いずれ資金力と動員力の限界を迎えて自滅する。ゲリラ活動だけで国家を呑み干すことなど、歴史上一度たりとも成功した例はない」
ギルバートの指摘は、的確だった。
荷馬車のゲリラ・ライブは、いつ憲兵隊の銃撃を受けてもおかしくない綱渡りの奇策だ。
音響の整った本物の城を取り戻さなければ、大聖堂の権威を根底からねじ伏せる決定的な一撃を放つことはできない。
「なら、どうしろと言うのよ」
レアの黒い瞳が鋭く細められる。
「あの正面扉には、聖歌庁の鉛の封印が施されているのよ。力づくで鎖を切れば、その瞬間に私たちは全員が国家反逆罪で射殺されるわ」
「力づくで切る必要など、最初からない」
ギルバートの唇の端が、三日月の形に吊り上がった。
冷酷無比な官僚の顔に、悪魔のような知的な嘲笑が浮かぶ。
「法には、必ず『隙間』が存在する。……あらかじめ特権階級が自らの保身のために設けておいた、巨大な抜け穴がね」
ギルバートは六法全書のページを指差した。
「帝国興行法第三条、但し書き。『ただし、帝室令第十四条に規定される旧貴族特権に基づく、血統貴族の私有地内における非公開の私的催事については、本法の適用外とする』」
「……非公開の私的催事?」
マルゴが眉をひそめた。
「分かりやすく言おう。……貴族が己の屋敷や庭園で開く『私的夜会』には、教会の典礼査察局も、警備隊も、一切の立ち入り権限を持たないということだ。聖歌庁の査察権が及ぶのは『公の劇場』だけであり、貴族院に属する名門貴族の私有地の敷居を跨ぐことは、教皇の勅許状がない限り、法的に不法侵入となる」
「待てよ」
ノアが身を乗り出した。
「だが、ルージュ座は劇場だぞ。旧帝室小劇場を買い取った、歴とした独立興行施設だ。公爵家の屋敷なんかじゃねえ」
「昨日まではね」
ギルバートは卓上の公文書の束を、トントンと整えた。
そして、その最上段にあった登記簿の原本を、レアの前へと差し出した。
「私は昨日付で、ルージュ座の土地および建造物の名義変更登記を完了させた。……所有者はレア・ヴィット個人から、ヴァレンヌ公爵家文化管理財団へと移転。そして、劇場の使用目的を『興行用劇場』から、ヴァレンヌ公爵家主催の『私的社交倶楽部・サロン・ルージュ』へと変更した」
「……私的社交倶楽部だと!?」
マルゴが目を丸くし、煙管を取り落としそうになった。
「そうだ」
ギルバートは淡々と、しかし決定的な事実を告げた。
「あの建物は、もはや法律上、劇場ではない。名門ヴァレンヌ公爵家の『私邸の別館』だ。……客席に座る者は『観客』ではなく、公爵家から招待された『私的夜会の来賓』。徴収する金は入場料ではなく、倶楽部の『維持会費』として処理される。……教会の営業停止処分は、存在しない『劇場』に対して下されたものとなり、法律上、完全に無効となるのだ」
静寂が、地下室を支配した。
マルゴが絶句し、ノアが息を呑み、ジュディットが口を押さえて立ち尽くす。
凄まじい論理の曲芸。
帝国の千年続く身分制度と、貴族院が自らの贅沢を守るために作っておいた「治外法権の特権」を、そのまま逆手に取って、教会の鼻先に突きつけたのだ。
「……信じられない男ね」
レアの唇から、小さく、しかし感嘆を含んだ吐息が漏れた。
「公爵家の名義に偽装するなんて……もし聖歌庁に嗅ぎつけられれば、貴方自身の立場はどうなるの? 財務卿補佐官の地位どころか、ヴァレンヌ公爵家そのものが背教の嫌疑で貴族院から弾劾されるわよ」
「嗅ぎつけられる? 誰が告発できるというのかね」
ギルバートは冷淡に肩をすくめた。
「ルージュ座の二階席に通い詰め、魔導レコードを買い漁っているのは誰だ? 貴族院の議席を持つ大貴族の半分以上、近衛騎士団の将校、そして大臣たちの息子や娘たちだ。……もし聖歌庁がヴァレンヌ家の私邸に無理やり踏み込もうとすれば、それは『全貴族の私生活に対する教会の不法介入』という火種に直結する。貴族院の保守派すら、己の特権を守るために教会に猛反発せざるを得なくなるのだよ」
完璧な盤面。
教会の最大の武器であった「体制の権威」を、同じ体制側の「貴族特権」という盾で無力化する。
教会が手を出そうとすれば、帝国を二分する貴族院と聖歌庁の全面抗争へと発展する構造を、この青年官僚はたった一人で組み上げてみせたのだ。
「……ふふっ」
ギルバートの眼鏡の奥で、ヘーゼル色の瞳が妖しく光った。
彼は六法全書を愛おしそうに撫で、低く、熱を帯びた声で呟いた。
「痛快だよ、レア。……法というものは、民衆を縛り、秩序を固定するためにあると教え込まれてきた。だが、こうして法典の行間を縫い合わせ、教条主義の狂信者どもの喉首を絞め上げる道具として使うことが、これほど官能的だとは知らなかった」
合理主義の化身だった男が、自らの信じる法規を逆手に取り、体制を裏切る背徳の快楽。
その瞳に宿っていたのは、まぎれもなく、レアの歌声に魂を撃ち抜かれ、理性を焼き尽くされた「共犯者」の熱狂だった。
「君の歌が止まるのは、帝国経済にとっても重大な損失だからね」
ギルバートはいつもの官僚的な建前を口にしたが、その唇は、熱病に冒されたように歪んでいた。
「あんな死人のような賛美歌のために、帝都の生きた富と熱量を殺させてたまるものか。……君は歌い続けなければならない。この腐りかけた国家の心臓を、その喉で叩き起こし続けるためにね」
ギルバートは登記書類をレアの前へと押しやった。
「これで、城は君の手元に戻った。……劇場の敷地は、法的に聖歌庁の治外法権だ。憲兵隊があの扉に巻き付けた鉄鎖は、今や『公爵家の私有財産に対する不法な器物損壊』に他ならない。……いつでも、堂々と切り落として構わないよ」
治外法権の盾。
神の鎖を無力化し、再び劇場の門扉を開け放つための、絶対の免罪符。
レア・ヴァーミリオンは、机の上の登記簿をゆっくりと手に取った。
朱印の押された重厚な羊皮紙。
その紙片を握りしめた瞬間、彼女の胸の奥底で、巨大な炎がボッと音を立てて燃え盛った。
「……礼を言うわ、ギルバート」
レアの唇に、三日月の形をした獰猛な笑みが浮かんだ。
「でも、まだ鉄鎖は切らないわ」
「……何?」
ギルバートが眉をひそめた。
「あちらが仕掛けてくるのを待つのよ」
レアは窓の外――夜の帝都の空を見据えた。
マリーがもたらした情報が、彼女の脳裏に蘇る。
来週初頭、聖歌庁が仕掛けてくるという、煙突街の地下工房への一斉強制捜査。
「マクシミリアン伯爵は、自らの権力が絶対だと信じ込んでいる。だから、最後に必ず力づくで私を圧殺しに来るわ。……その最大の突入部隊を、私たちの罠の真ん中へとおびき寄せて、完膚なきまでに叩き潰してやるのよ」
攻守の完全な逆転。
追いつめられていたはずの毒花は、いまや支配者たちを呑み干すための、巨大な顎を開いていた。
法の盾を手に入れた歌姫の反撃。
帝国全土を揺るがす全面戦争は、いま、最も危険で、最も劇的な決戦の夜へと向かって加速していた。




