第38話 感染するグルーヴ
一度放たれた音というものは、風と同じだ。
目に見えず、手で触れることもできず、城壁の裂け目や窓枠の隙間を軽やかにすり抜けて、都市の隅々にまで行き渡る。
大聖堂の高台に座す老人たちが、いくら鉄の鎖で劇場の門扉を縛り上げ、抜き身の銃剣で石畳を固めようとも、帝都の空気をすべて買い占めて真空にすることなど、神にすらできはしないのだ。
聖マルタン穀物広場での電撃的なゲリラ・ライブから数日。
帝都第四区の煙突街から始まった見えない波紋は、中層の職人街、商業区、そして第一区の白亜の貴族街の裏門に至るまで、驚くべき速度で浸透し、街全体の呼吸のリズムそのものを塗り替えつつあった。
神出鬼没の荷馬車が、埠頭の荷揚げ場に突如として現れては三分間の咆哮を轟かせて煙のように消え去る。
水車小屋の前で、青果市場の裏通りで、石炭置場の広場で。
憲兵隊が警笛を鳴らして駆けつける頃には、群衆がわざと荷車をひっくり返し、野菜をぶちまけ、分厚い人間の壁を作って逃走を助けてしまう。
そして――その神出鬼没の熱狂の残響を補完するように、歓楽街の闇流通網から吐き出された数千枚の「魔導レコード」が、市民たちの私室の奥深くへと滑り込んでいた。
◇
朝の霧が立ち込める職人街。
靴職人の親方が営む薄暗い工房の奥から、トントン、トントンと革を叩く小槌の音が響いていた。
だが、その打撃音は、これまでの単調な均等割りのリズムではなかった。
トン、タタンッ。トン、タタンッ。
跳ねるような、気怠くも力強いスウィング。
見習いの少年が小槌を振るいながら、口元で小さく、誰にも聞こえないようなハミングを転がしている。
「――Da-ba-da, 'skat-n-shout……」
半音下がる気怠いブルーノート。舌先で子音を弾くようなスキャット。
親方が眉をひそめて小づちを取り上げようとすると、親方自身が足の裏で、無意識に同じ裏拍を踏み鳴らしていることに気づいて苦笑いを浮かべる。
川沿いの共同洗濯場でも、長屋の井戸端でも、同じ現象が起きていた。
シーツを絞る洗濯女たちの腕の動きが、いつの間にかレアのストンプと同じ重低音の拍子を刻み、誰かが口ずさんだフレーズに、隣の女が自然とゴスペルのような力強いハモりを重ねていく。
音は、生き物のように増殖していた。
教会の賛美歌のように「教え込まれた」ものではない。
過酷な労働に軋む筋肉が、理不尽に耐える心臓が、生きている実感を確かめるために自然と求めてしまう野生の脈動。
一度その快楽を肉体に刻み込まれた人間は、二度とあの冷たく無機質な純正律の行進曲には戻れなかった。
そして――何よりも劇的な爆発を見せていたのは、既存の秩序に最も息を詰まらせていた「若者たち」の世界だった。
◇
中層区に位置する、帝立ギムナジウム(高等学寮)の石造りの校舎。
冷涼な秋風が中庭のポプラ並木を揺らす昼休み、講堂の裏手にある使われていない旧理科準備室の扉の前に、数人の男子生徒が見張りのように立っていた。
「おい、誰も来てないか? 生活指導の神父は?」
「大丈夫だ、礼拝堂の点呼に向かった。早く開けろ!」
合言葉とともに鍵が開けられ、生徒たちが狭い準備室へと滑り込む。
埃を被った標本棚の陰。木箱の上に置かれていたのは、持ち運び用の小型手回し蓄音機だった。
制服の胸元をはだけた少年が、上着の内ポケットから恭しく引き出したのは――正方形の厚紙のスリーブ。
漆黒の背景に浮かび上がる、鮮烈な「真紅の唇」。
そして、その口元を縛っていたはずの白銀の鎖が、火花を散らして無残に引きちぎられている、あのジュディット・モレルがデザインした挑発的なジャケット。
「すげえ……本物かよ!」
「ああ、昨夜、歓楽街の闇タバコ屋から銀貨四枚で手に入れたんだ。クラスの連中で金を出し合ってな」
少年たちの手が、興奮で小刻みに震えていた。
金属の留め金を外し、中から引き抜かれた鏡面のような黒い円盤――魔導レコード。
ターンテーブルにセットされ、ゼンマイが巻かれる。
針が落とされた瞬間――。
プチッ、パチパチ……。
『――WELL, YOU LOCKED THE DOOR, BUT YOU CAN'T STOP THE RAIN!!』
真鍮の小さなラッパから、あの暴風雨のようなハスキー・シャウトが飛び出してきた。
「っ…………!!」
準備室にいた五人の少年全員が、息を呑んで硬直した。
全身の毛穴が逆立ち、鳥肌が腕から首筋へと駆け抜ける。
学校の講堂で、毎日何千回と歌わされる無機質な合唱。感情を殺し、音程を定規で測るように合わせることだけを強要される、あの死人の賛美歌とは、根本から違う。
生身の人間が、怒りを、渇望を、命のすべてを叩きつけるように叫んでいる。
その暴力的な音圧を耳にした瞬間、少年たちの中で、親や教師から植え付けられてきた「従順」という名の薄皮が、木っ端微塵に吹き飛んだ。
「かっこいい……」
ひとりの少年が、涙ぐみながら呟いた。
「これが、本当の歌だ……。大聖堂の神父どもが教えてるのなんて、ただの死体の標本じゃないか!」
同じ光景が、帝都中の学校で、寄宿舎で、徒弟たちの屋根裏部屋で、連日連夜繰り返されていた。
教会の聖歌庁は、事態の急変に狼狽し、帝都全域の辻という辻に大至急の公式高札を掲げさせた。
『――緊急布告。未公認魔導音響石円盤の所持、ならびに不浄なる不協和音歌唱の流布を厳禁す。違反せし者は、背教の罪として学籍剥奪、重罰に処す』
だが――そのお触れが出された瞬間。
事態は、聖歌庁の目論見とは完全に真逆の方向へと暴走した。
権力が「聴くな」と禁じた。
大人が「悪魔の毒だ」と顔を真っ赤にして叫んだ。
その事実こそが、退屈な秩序に窒息しかけていた若者たちにとって、この魔導レコードを「最高にクールで、最も刺激的な反逆のパスポート」へと昇華させてしまったのだ。
「あいつ、ルージュ座の盤を持ってるらしいぜ」
「まじかよ、すげえ度胸だな」
学校の教室で、制服の鞄の底にレコードを隠し持っている生徒は、瞬く間に仲間たちの英雄となった。
休み時間になれば、生徒たちは口々にレアの気怠いフェイクを真似て囁き合い、教科書を指で叩いてスウィングのリズムを刻む。
教会の弾圧は、大衆の熱を冷ますための氷水などではなかった。
それは、渇ききった薪の山にガソリンをぶちまけるような、国家規模の「最高のプロモーション」として機能していたのだ。
(力で禁じれば禁じるほど、人はそれに飢える)
かつて煙突街の地下廃工房で、冷酷にそう言い放ったレア・ヴァーミリオンの読みは、一寸の狂いもなく現実を捉えていた。
文化という怪物は、軍隊の鉄鎖で閉じ込めることなどできない。
一度解き放たれたグルーヴは、目に見えぬウイルスのように帝都全土の血管を侵食し、既存の支配階級の足元を、内側から激しく揺るがし始めていた。
そして――。
その感染の波は、決して下町や平民の若者たちだけに留まるものではなかった。
◇
帝都第一区「光輪地区」。
夜の帳に包まれた並木道には、青白い魔導街灯が規則正しく並び、外界の雑音を完全に遮断した静寂が支配している。
大陸屈指の名門、ヴァレンヌ公爵家の広大な屋敷。
その本館三階、東翼の最も奥に位置する、令嬢クラリス・ド・ヴァレンヌの私室。
白大理石の暖炉では樫の薪が音もなく燃え、ダマスク織りの壁紙と豪奢なロココ調の家具が、完璧な気品と秩序を保っていた。
だが、今夜、その無菌室のような静寂のなかで――かつてない背徳の儀式が執り行われようとしていた。
カチャリ。
部屋の扉に、内側から真鍮の鍵が厳重に下ろされた。
窓の重厚な二重カーテンはわずかな隙間もなく引き絞られ、扉の前には、腹心の専属侍女であるアンヌが、青ざめた顔で直立して廊下の気配を警戒している。
「……お嬢様。本当に、鳴らすのですか……?」
アンヌが震える声で囁いた。
「もし旦那様に……あるいは、お屋敷の家令に知られれば……今度こそ、お嬢様は北方の修道院へ幽閉されてしまいます……!」
「分かっているわ、アンヌ」
ドレッサーの前に立つクラリス・ド・ヴァレンヌは、静かに答えた。
今夜の彼女は、舞踏会用の豪奢なシルクドレスを着てはいなかった。
装飾のない、夜色のネイビーの室内着。
プラチナブロンドの長い髪は無造作に肩へと下ろされ、そのサファイアの双眸には、日頃の従順な淑女の仮面など微塵も残っていなかった。
そこにあるのは、自らの命の輪郭を取り戻そうとする、研ぎ澄まされた戦士の光。
クラリスの目の前、マホガニーの豪奢な円卓の上。
普段はクラシックな室内楽を再生するために使われている、宮廷御用達の最高級蓄音機が据え置かれていた。
精緻な真鍮の朝顔ラッパ、磨き上げられた水晶の針アーム。
そして、その傍らに置かれていたのは――。
正方形のクラフト紙のスリーブ。
漆黒の背景に、鮮烈な真紅の唇。
引き裂かれた白銀の鎖。
今日、クラリスが信頼する下町の情報屋を通じて、金貨十枚という法外な対価を支払って極秘裏に入手させた、あの魔導レコードの第一ロットだった。
(……レア)
クラリスの指先が、紙ジャケットの表面をそっと撫でた。
指先が微かに震える。
恐怖のためではない。
あの日、ルージュ座の正面玄関で見た惨劇。
鉄の鎖を巻き付けられ、教会の銃剣に殴打されて血を流した下町の若者たち。
そして、その暴力の前に片膝をつき、泥水の中で青年の傷口をハンカチで拭いながら、教会の執行官を冷酷に見据えていた、あの真紅の歌姫の姿。
――「劇場を奪えば、私の歌が消えると本気で思っているのかしら」
あの時、レアが放った言葉が、クラリスの耳の奥で、炎のように熱く蘇ってくる。
あの子は屈しなかった。
国家の暴力を前にしても、一歩も引かず、自らの喉一つで反撃の狼煙を上げてみせたのだ。
なら――公爵令嬢である自分だけが、この温室の中で怯えて縮こまっているわけにはいかない。
スリーブの中から、黒い円盤が引き抜かれた。
シュルリ、と滑り出た魔導音響石の盤面。
深海のような濃紺と漆黒のグラデーション。その表面に、幾千本もの微細な溝が、冷たい青白い魔力の残光を帯びて刻み込まれている。
クラリスは両手で円盤を掲げ、蓄音機の回転台の上へと慎重にセットした。
カチリ、と中心の留め具が噛み合う。
「……アンヌ。ラッパの開口部に、厚手のシルクのショールを二重に巻き付けなさい」
「は、はい……!」
侍女が震える手で、ラッパの口に布を被せる。
音量を絞るための工夫。
だが、どれほど布で覆おうとも、あの声が放つ魂の衝撃波を、完全に殺し切ることなどできないことを、クラリスは直感していた。
ジィィィィィ……。
蓄音機の真鍮のハンドルが回され、ゼンマイが極限まで巻き上げられる。
レバーが倒された。
円盤が、音もなく滑らかな速度で回転を始める。
ランプの灯火が、黒い盤面の上で妖しく輪を描いて滑っていく。
クラリスは水晶の針アームを手に取った。
深く、深く息を吸い込む。
胸郭が開く。コルセットを緩めた肋骨が、自由に広がる。
そして――。
カチ。
針先が、円盤の最外周の溝へと、そっと落とされた。
プチッ……パチパチ。
摩擦のノイズ。
一拍の空白の後。
『――ズッ、チャッ、ズズッ、チャッ――!!』
「っ…………!!」
ショールで覆われた真鍮のラッパの奥から、くぐもった、しかし地底を揺るがすようなピアノの重低音が飛び出してきた。
ノアの叩く、凶暴なスロー・ブルース。
オルレアン帝国で最も格式高いヴァレンヌ公爵邸の私室に、教会の教理が最も忌み嫌う「悪魔の不協和音」が、泥水をぶちまけるように響き渡る。
そして――。
『――WELL, YOU LOCKED THE DOOR, BUT YOU CAN'T STOP THE RAIN!!』
布の防壁を力づくで突き破り、レア・ヴァーミリオンの第一声が炸裂した。
「ああ…………っ!」
クラリスの口から、耐えかねたような吐息が漏れた。
彼女は両手で自らの胸元を掻き抱き、その場に崩れ落ちそうになる膝を、辛うじて踏みとどまらせた。
耳から入ったのではない。
マホガニーの机を伝い、羊毛の絨毯を伝い、クラリスの足の裏から背骨へ、そして心臓の奥底へと、生々しい肉の叫びが突き刺さったのだ。
頭蓋骨が痺れる。
掠れたエッジボイスの歪み。
半音下へと気怠く滑り落ちるブルーノート。
機械の溝から再生されているというのに、そこには確かに、煙突街の冷たい泥水をすすり、理不尽に耐え、それでも明日を生きようとする一人の人間の「血の体温」が宿っていた。
『――I GOT A FIRE IN MY THROAT, BURNING THROUGH YOUR PAIN――!!』
涙が、クラリスの瞳からとめどなく溢れ出た。
大粒の雫が頬を伝い、床の絨毯を濡らしていく。
だが、その涙は、悲しみの涙ではなかった。
魂が、内側から激しく沸騰する歓喜の涙。
(届いている……)
クラリスは拳を握りしめた。
劇場の扉を封鎖されても、あの子は死んでなどいない。
こんな小さな黒い板一枚になって、帝国で最も頑丈な公爵家の城壁をやすやすと飛び越え、いま、私の部屋の中で吼えている。
世界を支配しているのは、教会の神でも、父の権力でもない。
この、生きている人間の声なのだ。
「……アンヌ」
クラリスは掠れた声で、涙を拭いながら振り返った。
「は、はい……お嬢様……」
侍女のアンヌもまた、ラッパから流れる絶唱に圧倒され、腰を抜かしたように壁にすがっていた。
「明日の午後、予定されていた読書会……会場を、この部屋に変更なさい」
「え……? 読書会を、ここで……?」
「ええ」
クラリスの口元に、妖しく、そして凛とした笑みが浮かんだ。
彼女は蓄音機の上で回り続ける黒い円盤を見つめた。
「社交界の令嬢たちを、全員招きなさい。……ロシュフォール公爵令嬢も、ベルテ伯爵令嬢も、みんな呼ぶのよ。そして――」
クラリスは顎を上げ、決然と言い放った。
「――この歌を、あの子たちの耳にも、直接叩き込んであげるわ」
公爵令嬢の部屋で鳴り響く、反逆のグルーヴ。
下町の路地裏から始まった文化の火種は、いまや帝国の頂点に君臨する最高峰のサロンの扉を、内側から焼き破ろうとしていた。




