第37話 稲妻の三分間
禁じられた果実の甘美さは、飢餓という名のスパイスによって致死量の毒へと変貌する。
歓楽街の闇の支配者ベルナール・ジルが動かした地下密造ラインによって、深紅の唇と引き裂かれた鎖を冠した「魔導レコード」は、わずか数日のうちに帝都の隅々へと流出していた。
下町の安酒場の奥、職人の薄暗い工房、煤煙に咽ぶ長屋の屋根裏部屋、そして光輪地区の豪奢な貴族邸の召使部屋に至るまで。真鍮のラッパから吐き出されるレア・ヴァーミリオンの咆哮は、夜な夜な、何千、何万という人々の耳朶を侵食していた。
だが、音を閉じ込めた黒い円盤が街を満たせば満たすほど――皮肉にも、大衆の胸の内に生じたのは「充足」ではなかった。
それは、乾ききった喉に数滴の塩水を垂らされたかのような、狂おしいまでの「飢餓感」だった。
(機械の音じゃない……。あの、骨を直接揺さぶる本物の体温を、もう一度浴びたい)
(あの子は今、どこにいるんだ? 本当に教会の鎖に繋がれて、口を塞がれてしまったのか?)
劇場の正面大扉に巻かれた鉄鎖と冷たい鉛の封印。
大聖堂の高台から見下ろす老人たちは、箱を塞ぎ、物資を止め、銃剣を並べれば、下町の歌姫など一週間で干からびて降伏すると高を括っていた。
だが、彼らは致命的なまでに知らなかったのだ。
歌うことを禁じられ、檻に閉じ込められようとするとき――本物の野獣の喉が、どれほど鋭利に、どれほど凶暴に研ぎ澄まされるのかを。
◇
白濁した昼下がりの陽光が、帝都第四区と中層職人街の境界に位置する「聖マルタン穀物広場」の石畳を照らしていた。
週に一度の青空市場が開かれるこの広場は、帝都で最も雑多な熱気が渦巻く場所の一つだった。
四方をくすんだレンガ造りの五階建て長屋に囲まれ、中央には荷車や木箱を並べた露店が百軒以上もひしめき合っている。
山積みにされたキャベツや玉ねぎ、干し鱈の生臭い匂い、焼き立ての黒パンの香ばしさ、そして荷揚げ人夫や買い出しの主婦たち、小銭を数える行商人たちの怒号のような値切り交渉。
広場の角には、二名一組の典礼憲兵が銃剣付きマスケット銃を肩に担ぎ、不機嫌そうに大衆を見張っていたが、何千人もの生身の人間が蠢く喧騒の前には、その威圧感も形無しだった。
午後二時を告げる、近隣の鐘楼の鐘が低く響いた。
その重々しい鐘の音が止んだ、直後のことだった。
ガラガラガラ……ッ!
広場を貫く荷車用の通路に、一台の荷馬車が、場違いな速度で滑り込んできた。
二頭の頑丈な作業馬に引かれたその馬車は、煙突街の廃品回収業者が使うような、泥跳ねにまみれた大型の幌付き荷馬車だった。
御者台に座り、ボロボロの目深なフェルト帽を被って手綱を引いていたのは、巨躯の女――マルゴ・デルーだった。
マルゴは咥えた煙管から太い煙を吐き出すと、広場の中央、露店が途切れる噴水前の空き地へと馬車の鼻先をねじ込み、手綱を一気に引き絞った。
ヒヒィィンッ!
蹄鉄が石畳を激しく擦り、摩擦の白煙を上げて荷馬車が急停車する。
「おい、邪魔だぞ!」「どこの荷馬車だ、ここは露店用の敷地だぞ!」
周囲の野菜売りや荷運びの男たちが、苛立ちの声を上げて荷馬車を取り囲みかけた。
だが――。
バチンッ! バチンッ!
馬車の荷台を覆っていた厚手の麻布の留め具が、内側から電光石火の早業で外された。
作業台の天幕を跳ね上げたのは、黄色と真鍮色のストライプジャケットの袖を捲り上げたジュディット・モレルだった。彼女が両手で麻布の幌を一気に跳ね上げ、荷台の側面がパタリと外側へ倒れて、即席の木製ステージが白日の下に剥き出しになった。
「なっ……!?」
怒声を上げようとしていた八百屋の親父の口が、間の抜けた形で凍りついた。
そこに据え付けられていたのは、荷物などではなかった。
木製の頑丈な枠で補強された、小型の足踏み式リードオルガン。
その丸椅子に腰掛け、ボサボサの黒髪を冷風に揺らしながら、両足でオルガンの送風ペダルを狂ったように踏み込み始めた男――ノア・カレヴィの姿があった。
ギィィ……プシューッ……。
革の蛇腹が空気を吸い込み、真鍮のリードが唸りを上げる。
そして――荷台の中央。
麻布のカーテンを切り裂くようにして、白日の光の下へと踏み出してきた、ひとりの少女。
「…………っ!」
広場全体から、一瞬にして一切の音が吸い取られた。
野菜を放り投げる主婦の手が止まり、小銭を数えていた商人の指が硬直する。
そこに立っていたのは、煙突街のボロ布を纏った孤児ではなかった。
白昼の青空の下、泥にまみれた荷馬車の上で――光を吸い込む夜色のベルベットと、鮮血の裏地を翻す、あの伝説のステージ衣装を纏った姿。
深紅と漆黒。
胸元から横隔膜にかけて刻まれたスリットから引き締まった肌を覗かせ、鎖骨を露わにし、背後へと長く引かれた真紅のトレーンを荷台の風になびかせた、絶対の女帝。
レア・ヴァーミリオン。
彼女は、何千人もの大衆が見開いた目を一身に浴びながら、恐れる風もなく、傲慢に顎を上げた。
その切れ長の黒い瞳が、広場中の人間を、そして遠くで呆然と立ち尽くす典礼憲兵の姿を、鋭く射すくめる。
「……あ」
最前列にいた若い人夫が、掠れた声を漏らした。
「……あの子だ……! ルージュ座の……レア・ヴァーミリオンだァッ!!」
ざわめきが爆発しかけた、その刹那――。
ドォォォォンッッ!!
ノアの両腕が、足踏みオルガンの鍵盤へと叩きつけられた。
教会で讃えられる澄み切ったパイプオルガンの音色ではない。
リードを極限まで歪ませ、スウィングの跳ねるリズムと濁った不協和音を孕んだ、地底の泥水を掻き回すような凶暴な唸り。
小型オルガンの木製筐体がビリビリと共鳴し、荷台の床板を通じて、広場の石畳へと重低音の衝撃波を流し込む。
そして。
マイクも拡声器もない、ただ昼下がりの冷たい大気の中へ。
すぅっ――。
レアの胸郭が、極限まで開かれた。
「――I BEEN WALKING IN THE SHADOW, CAN'T NOBODY SHUT ME DOWN――!!」
大気が、物理的に爆発した。
「ッッ――!?」
青空市場の空間そのものが、一撃で叩き割られた。
アカペラ混じりの、最初のシャウト。
それは、狭い地下室や劇場の天井に守られた音ではなかった。
吹きさらしの青空の下、四方のレンガ造りの長屋の壁に激突し、木霊し、何倍もの音圧となって広場の全域へと降り注ぐ、生身の雷鳴。
裏声ではない。
声帯のエッジを限界まで擦り合わせ、肉体そのものの重みを乗せて放たれる、生々しいオーバードライブを含んだ地声の咆哮。
露店の日除け布がビリビリと震え、荷馬車の馬がいななき、何千人の鼓膜と頭蓋骨を、直接見えない鉄槌が打ち抜いた。
「――YOU TOOK MY STAGE, BUT YOU GAVE ME THE STREET!!」
レアが靴底を高く振り上げ、荷馬車の床板を力任せに踏み抜いた。
ダンッッ!!
ストンプ。
ドレスの裾が跳ね上がり、真紅の軌跡が空を薙ぐ。
オルガンの足踏みビートと、レアの踏み鳴らした足音が完全に同期し、広場の石畳全体が、まるで巨大な鐘のように共振する。
歌を禁じられたこの数日間。
地下室に潜伏し、教会の包囲網に晒されていた時間こそが、彼女の声帯から余分な迷いをすべて削ぎ落としていた。
研ぎ澄まされた野性と、怒りの純度。
一小節放つごとに、彼女の全身の細胞が沸騰し、生きていることの歓喜が、暴力的なまでのグルーヴとなって周囲の空気を呑み込んでいく。
「うおおおおおおおおっ!」
広場が、一瞬にして狂乱のるつぼと化して爆発した。
荷物を放り出し、駆け寄ってくる人夫たち。
買い出し籠を抱えたまま、涙を流して足を踏み鳴らす女工たち。
露天商の親父たちが机を叩き、子供たちが飛び跳ね、広場を埋め尽くしていた何千人もの民衆が、磁石に引き寄せられる鉄屑のように、荷馬車を取り囲んで拳を突き上げた。
「レア! レアァッ!!」
「生きてた! あの子は歌を奪われちゃいねえぞ!」
レコードの溝に刻まれていたあの声が、いま、目の前で、生身の少女の喉から血の通った熱気となって叩きつけられている。
機械の複製など足元にも及ばない、圧倒的な命の質量。
人々は理性を焼き切られ、身分も生活の苦しみも忘れ、ただ目の前の真紅の歌姫に向かって、叫び、手を伸ばしていた。
一分。
二分。
曲は魂を揺さぶる極上のアップテンポ・ゴスペルへと雪崩れ込み、ノアのオルガンが限界を超えて軋む。
レアのハイトーン・シャウトが、穀物広場のレンガの壁を共鳴させ、帝都の空をどこまでも突き抜けていく。
――だが。
その奇跡のような熱狂の渦の向こうから、鋭い金属音が空気を切り裂いた。
ピィィィィィッッ!!
ピィィィィィッッ!!
典礼憲兵の吹き鳴らす、甲高い非常召集の警笛。
「異端集会だ!」「あの女だ、ルージュ座の首謀者がいるぞ!」「部隊を集結させろ、包囲せよ!」
広場の四方の路地から、黒いウールの詰襟に胸甲を佩いた典礼憲兵たちが、抜身の警棒と銃剣付きマスケット銃を構え、雪崩を打って駆け込んできた。
その数、三十名以上。
銃剣の先端が陽光を浴びて冷たく光り、市民を蹴散らしながら、荷馬車へ向けて一直線に包囲の輪を縮めてくる。
「時間だよ、レア!」
御者台のマルゴが叫び、手綱を握り直した。
「三分経った! 潮時だ、ずらかるよ!」
三分間。
それこそが、憲兵が緊急配備を敷いて現場に到達するまでの、極限の安全限界時間だった。
だが、レア・ヴァーミリオンは怯まなかった。
押し寄せる銃剣の列を冷徹な黒い瞳で見据えながら、彼女は――逃げるどころか、大きく両腕を広げた。
最後の最後、肺胞の中の空気の一滴までを絞り出すようにして、広場の上空を焼き尽くす限界突破のロングトーン・シャウトを解き放ったのだ。
「――I’LL BE BACK, BEFORE YOU CATCH YOUR BREATH――ッッ!!」
鼓膜を震わせる最後の一撃。
歌い切った瞬間、レアは華麗に身を翻した。
バサァッッ!
ジュディットが即座に麻布の天幕を引き下ろし、荷台の側面が跳ね上げられ、真鍮の留め具がガチリと噛み合う。
わずか二秒。
華やかな真紅のステージは瞬時に消滅し、広場の中央には、ただの煤けた荷馬車だけが取り残された。
「行くよォッ! 掴まってな!」
マルゴの太い腕が、馬鞭を唸らせた。
バチンッッ!!
ヒヒィィンッ!
二頭の作業馬が前脚を高く掲げ、荷馬車が猛烈な勢いで前進を始めた。
「止まれ! 止まらんか、反逆者どもめッ!」
先頭を走る憲兵の分隊長が怒声を上げ、マスケット銃を構えて荷馬車の正面へと立ち塞がろうとした。
その瞬間だった。
「――おっと、旦那! 危ねえや!」
ドサッ、ゴロゴロゴロッ!
広場の八百屋の親父が、自慢の大八車をわざと憲兵の足元へ向けて突っ込ませたのだ。
木箱がひっくり返り、何百個もの硬いキャベツと泥付きのジャガイモが、石畳の上へと土砂降りのようにぶちまけられる。
「ぐわっ!?」
先頭の憲兵たちが足元をすくわれ、無様に石畳の上へと転倒した。
「すまねえ、手が滑っちまってよォ!」
「おい、憲兵の旦那! 俺の干し鱈を踏むんじゃねえ!」
それを合図にしたかのように、広場を埋め尽くしていた何千人もの大衆が一斉に動いた。
荷揚げ人夫たちが肩を組んで分厚い人間の壁を作り、主婦たちが買い出し籠を掲げて憲兵たちの視界を塞ぐ。
若者たちが「どけ、危ねえぞ!」と大声を上げながら憲兵の進路へとわざと雪崩れ込み、混乱の渦を作り出したのだ。
「貴様ら、邪魔をするな! 公務執行妨害だぞ!」「前が見えん! 退け、平民どもめッ!」
憲兵たちが警棒を振り回すが、密集した群衆の波には歯が立たない。
民衆は誰一人として武器を取っていなかった。暴動を起こしたわけでもない。
ただ、「転んだふり」をし、「荷物を落としたふり」をし、「逃げ惑うふり」をしながら――その肉体のすべてを使って、荷馬車の逃走路を守る巨大な防壁となっていたのだ。
その完璧な援護の中を。
ガラガラガラッッ!!
マルゴの操る荷馬車は、群衆がわざと開けた一筋の隙間を風のように駆け抜け、細い裏路地へと滑り込んでいった。
レンガの角を曲がり、影から影へ。
煙突街の迷路のような抜け道へと、車輪の音を夜気の底に溶かしながら、跡形もなく消え去っていった。
◇
取り残された穀物広場。
泥まみれのジャガイモが転がる石畳の上で、憲兵の分隊長が帽子を拾い上げ、悔しげに地面を叩きつけていた。
「……クソッ! 見失った! どいつもこいつも、全員の手帳に名前を書いてやるからなッ!」
憲兵たちの罵声が響く。
だが――広場に立ち尽くす何千人もの民衆の顔には、恐怖の色など微塵も残っていなかった。
誰もが、息を弾ませていた。
転んだ八百屋の親父も、キャベツを踏まれた主婦も、人夫たちも、互いに目を見合わせ、顔を紅潮させていた。
耳の奥底には、まだあの雷鳴のような絶唱の余韻が、鼓膜を痺れさせるように鳴り響いている。
自分たちは、あの子の歌を聴いた。
わずか三分間。
稲妻のように現れ、理性を焼き尽くし、そして風のように去っていった、本物の歌姫。
そして――自分たちのこの手で、教会の銃剣から、あの子を逃がしてやったのだという、身震いするほどの共犯の快感。
「……聴いたか、今の声」
「ああ……本物だ。レコードなんか比べ物にならねえ……」
「明日はどこだ? 次はいつ、どこに現れるんだ……!?」
噂は、風よりも速く、毒よりも深く、帝都全土へと燃え広がっていった。
――ルージュ座の歌姫は、死んでなどいない。
――幌付きの馬車に乗って、街のどこかへ突如として現れる。
――教会の憲兵どもを手玉に取り、稲妻のように歌い、消え去っていく。
青空市場のゲリラ・ライブは、単なる始まりに過ぎなかった。
翌日には港湾の荷揚げ場、その翌日には職人街の広場、そして下町の水車小屋の前。
神出鬼没の荷馬車が突如として現れては、三分間の狂乱を巻き起こし、群衆の防壁に守られて消え去る。
国家が歌を禁じれば禁じるほど。
教会が鉄鎖を巻き、銃剣を並べれば並べるほど。
大衆の魂に植え付けられた飢餓感は、制御不能の巨大な炎となって、帝都の秩序そのものを内側から焼き尽くそうとしていた。




