第36話 闇の流通網
深夜二時。煙突街の頭上を覆う重油の雲は低く垂れ込め、雨を含んだ湿った風が、路地の錆びたトタン屋根をカタカタと激しく揺らしていた。
泥水と石炭屑が堆積した袋小路の突き当たり。打ち捨てられた廃工房の頑丈な鉄扉の前で、一頭立ての黒塗り辻馬車が、車輪の軸に油を差した微かな軋み音とともに停車した。
馬車の扉が開き、降り立ったのは、雨除けの黒い油布コートを頭から羽織った長身の男だった。裾から覗くのは、泥を撥ね上げることを嫌うように足首を絞った最高級仔牛革のブーツ。
男は周囲の闇を鋭い眼光で走査し、煙草の火すら点けずに、足早に廃工房の通用口へと滑り込んだ。
ギィィ……と、蝶番が鈍い音を立てて開く。
石造りの階段を一段、また一段と降りていく足音。
地下室へと続く最後の木扉の前に立った男が、合図のノックを刻む間もなく――内側から扉が乱暴に引き開けられた。
ガチャリ。
冷たい二連銃身の先端が、油布コートの男の喉仏へと、寸分の迷いもなく突きつけられた。
「動くんじゃないよ、ベルナール」
散弾銃を構えたマルゴ・デルーが、煙管を咥えたまま、灰色の瞳に獰猛な殺気を宿して見下ろしていた。
「手は頭の後ろだ。護衛を連れてきてたら、その眉間を鉛玉で風通し良くしてやるところだったよ」
「……相変わらず、物騒極まりない歓迎だな、マルゴ」
油布のフードを跳ね除けた男――ベルナール・ジルは、両手を軽く挙げながら、嘲笑混じりの冷や汗を拭った。
撫でつけられた黒髪、整えられた髭、そして琥珀色の双眸。
数日前、ルージュ座の楽屋でレアを脅迫し、教会の手先となって嘲笑を浴びせてきた歓楽街の闇の支配者。その彼が、今夜は傲慢な銀狐の毛皮外套を脱ぎ捨て、たった一人でこの薄汚れた煙突街の吹き溜まりへと足を運んでいた。
彼の瞳の奥でギラギラと明滅していたのは、恐怖ではない。
『金貨一万枚の儲け話がある』という、マルゴの伝言に釣られてやってきた、底なしの強欲と乾きだった。
「銃を下ろしなさい、マルゴ」
地下室の奥、暖炉の前に置かれた作業台の影から、静かな声が響いた。
墨黒のウールワンピースを纏ったレア・ヴァーミリオンが、ランプの灯火に照らされて立っていた。
その隣には、煙草を耳に挟んだノア・カレヴィが腕を組んで寄りかかり、作業台の端では、ジュディット・モレルが鋭い視線でベルナールを睨みつけている。
「……よく一人で来たわね、ベルナール」
レアは冷ややかに唇の端を持ち上げた。
「金貨一万枚と聞かされて、のこのこ顔を出さない興行師がこの世にいるかよ」
ベルナールは外套の雨粒を払いながら、部屋の中央へとズカズカと踏み込んできた。
だが、その視線が地下室の壁や床を一瞥した瞬間、彼の眉根が不快そうに寄った。
「で? ルージュ座を鉄鎖で封鎖され、典礼憲兵にケツを追っかけ回されている負け犬どもが、一体何の冗談だ? まさか、カジノの金庫から現金を強奪する計画に一枚噛めとでも言うんじゃねえだろうな」
「誰がそんな前時代的な泥棒家業の話をするかしら」
レアは机の上の古い白布を、ゆっくりと引き剥がした。
現れたのは、真鍮の巨大な集音ラッパを備えた、あの異様な機械仕掛けの蓄音機。
そして、その回転台の上にセットされた、鏡のように磨き上げられた濃紺と漆黒の円盤――溝を刻まれた一枚の魔導レコードだった。
「……あァ? 何だそりゃ」
ベルナールが目を細め、怪訝そうに首を傾げた。
「宮廷通信局のガラクタか? そんな骨董品を闇市で売り飛ばしたところで、金貨数十枚が関の山だぜ」
「黙って、耳の穴をかっぽじって聴きなさい」
レアはノアに目配せをした。
ノアが無言でゼンマイを巻き上げ、レバーを倒す。
回転台が滑らかに回転を始め、鋼鉄の再生針が、外周の微細な溝へと静かに落とされた。
プチッ……パチパチ。
針先が走る摩擦音。
次の瞬間――。
『――ズッ、チャッ、ズズッ、チャッ――!!』
「なっ……!?」
ベルナールの身体が、雷撃を喰らったように硬直した。
真鍮のラッパの奥から、跳ね出すように響き渡ったのは、地底を揺るがすようなピアノの泥臭い不協和音。
そして――。
『――WELL, YOU LOCKED THE DOOR, BUT YOU CAN'T STOP THE RAIN!!』
鼓膜を直接鷲掴みにする、圧倒的な絶叫。
声帯のエッジが擦れ合い、生々しい呼気の歪みを含んだ、あのレア・ヴァーミリオンの唯一無二のハスキー・シャウトが、目の前の金属のラッパから、まるで生きている本人が耳元で咆哮しているかのような質量を伴って、狭い地下室の大気を震わせたのだ。
「ひっ……!?」
裏社会で何千回と修羅場をくぐり抜けてきたベルナールが、反射的に後ずさり、壁に背中を強打した。
琥珀色の瞳が見開かれ、顎が外れそうになるほど口が開く。
部屋のどこを見回しても、レアは歌っていない。彼女は腕を組み、冷ややかな瞳で男を見つめているだけだ。
それなのに、機械の中から、あの〈アリーナ・ノワール〉を狂乱させ、〈ルージュ座〉を満員札止めにした「悪魔の歌声」が、完璧な音圧で鳴り響いている。
『――I GOT A FIRE IN MY THROAT, BURNING THROUGH YOUR PAIN――!!』
「ば……馬鹿な……何だ、これは……!?」
ベルナールの喉仏が、激しく上下した。
冷や汗が額から噴き出し、こめかみを伝い落ちる。
彼の脳内で、歓楽街の闇カジノを一代で築き上げた冷酷無比な「興行師の直感」が、凄まじい警報を鳴らし始めていた。
音楽が、閉じ込められている。
劇場に足を運ばなくても。
憲兵の目を盗み、客席に座らなくても。
この平たい黒い石板と、針とラッパさえあれば――いつでも、どこでも、誰の部屋でも、あの狂乱のステージを再現できるというのか。
演奏が終わるまでの三分間。
ベルナールは呼吸を忘れ、金縛りに遭ったようにラッパを見つめ続けていた。
カチ。
針が外周から外れ、静寂が地下室に戻った。
「……理解できたかしら、ベルナール」
レアの低く、凛とした声が落ちた。
彼女は回転台の上の黒い円盤を指先でトンと叩いた。
「これが、私の新しいステージよ」
「……魔導音響石の、削り出し板か……」
ベルナールは掠れた声を絞り出し、震える指先でネクタイの結び目を緩めた。
男の顔から、先ほどまでの侮蔑と嘲笑は完全に消え去っていた。
そこに浮かんでいたのは、未曾有の富の鉱脈を目の前に突きつけられた鉱夫特有の、狂気じみた興奮だった。
「……おい、レア。こいつは、軍の機密技術だぞ。民間で複製なんざ許されちゃいねえ。……だが、もしこいつを街に流せば……」
「金貨一万枚なんて、ただの通過点よ」
レアは一歩踏み込み、ベルナールの濁った瞳を真っ向から見据えた。
「劇場の客席は、八百席しかなかった。でも、この帝都には、夜の帳の下で息を詰まらせている人間が何十万人いると思う? 教会の賛美歌に辟易し、刺激に飢えている貴族、商人、労働者……あいつらの部屋のすべてが、この円盤一枚で私の客席に変わるのよ」
レアは机の上に両手をつき、決定的な「取引」を突きつけた。
「この円盤の製造と、独占販売権をあんたにくれてやるわ」
「……何だと?」
ベルナールの息が止まった。
「帝都全域における、この『魔導レコード』の闇流通の総元締めになりなさい。売上の四割をあんたの上前として差し引いていいわ。原盤はこちらが提供する。……その代わり、あんたの持っている工場の旋盤、音響石の調達ルート、そして歓楽街の地下流通網のすべてを、今夜からこの円盤の増産のためにフル稼働させなさい」
破格の提案。
そして、あまりにも危険極まりない毒の果実。
「……おいおい、待てよ」
ベルナールは乾いた笑いを漏らし、額の汗を手の甲で拭った。
「俺はな、聖歌庁の査察局から話をもらってるんだぜ? ルージュ座を締め上げ、お前らを孤立させれば、俺の闇カジノの摘発を見逃してやるってな。……今さらお前らと組んでこんな軍用物資の密造に手を染めたら、教会にバレた瞬間、俺の首まで断頭台行きだぞ」
「あら、そう」
レアは冷淡に肩をすくめ、ノアに向かって言った。
「ノア、円盤を片付けなさい。この男には荷が重すぎるようね。……明日の朝一番に、港湾の密輸シンジケートの頭目に話を持っていくわ。あそこの連中なら、金貨数千枚の利益と引き換えなら、教会の査察官の首を二、三本切り落としてでも飛びついてくるでしょうから」
「おい、待て! 待て待て待てッ!」
ベルナールが血相を変えて飛び出し、机の上の円盤を抱え込むようにして庇った。
その顔は、焦燥と欲望で引き攣っていた。
脳内で猛烈な損得勘定が火花を散らしているのが、誰の目にも明らかだった。
教会の査察局との密約?
闇カジノの見逃し?
そんなものは、現状維持のための防戦に過ぎない。教会の機嫌を損ねれば、いつでも梯子を外されて首を括らされるだけの、惨めな生殺しの猶予だ。
だが――この黒い円盤は違う。
帝都中のすべての人間が飢え渇いている、唯一無二の劇薬。
これを独占し、数千枚、数万枚と売り捌けば、闇カジノの一年分の純利益など、わずか一ヶ月で吹き飛ぶほどの莫大な黄金の濁流が、己のポケットへと流れ込んでくるのだ。
「……四割だな」
ベルナールの琥珀色の瞳が、冷酷な獣の光を取り戻した。
彼は懐から細身の葉巻を引き抜き、震える手でマッチの火を点けた。
「売上の四割。そして、帝都全土における販売ルートの完全独占。……この条件を一文字たりとも変えねえと誓うなら、教会の老いぼれどもとの密約なんざ、今すぐ便所の肥溜めに叩き落としてやるよ」
「誓うわ。契約書を作りなさい」
レアの唇に、冷たい笑みが浮かんだ。
裏切り者を信じるのではない。
男の「底なしの物欲」という、最も確実で、最も裏切らない動力源を利用する。
聖歌庁の権威など、この男の飽くなき金銭欲の前には、紙屑ほどの価値もなかったのだ。
「話が決まりゃあ、早えぜ」
ベルナールは葉巻の煙を勢いよく吐き出し、コートの袖を乱暴に捲り上げた。
「第五区の歓楽街、俺が持っている違法銃器の密造工場がある。そこには、帝立工廠から横流しさせた最新型の油圧式高圧旋盤が二台、地下に据え付けてある。……軍用の魔導音響石の粉末も、港の密輸ルートからいくらでも買い叩ける。工員どもを昼夜二交代で叩き起こせば、一日に五百枚――いや、千枚のプレスが可能だ!」
裏社会のロジスティクスが、一瞬にして唸りを上げて噛み合った。
国家の監視を掻い潜り、禁制品を製造・流通させるための闇のインフラ。
歓楽街の闇カジノの元締めが本気を出せば、帝国官憲のどんな規制網も、穴だらけのボロ布に過ぎなかった。
「ただし、だ」
ベルナールは円盤を掲げ、眉をひそめた。
「この黒い板っ切れを、そのまま裸で売り飛ばすわけにはいかねえぞ。傷がつきゃ音が飛ぶし、何より、下町のドブネズミどもに『これが何であるか』を一目で分からせるための、上等な包装が必要だ」
「――それなら、あたしの出番だね!」
部屋の隅から、待ち兼ねたように声を上げたのは、ジュディット・モレルだった。
彼女は作業台の上に、厚手のクラフト紙の束と、色鮮やかなインクの壺、そして裁断用の巨大な鋏をドンと叩きつけた。
「レコードを入れる紙ジャケット(スリーブ)さ! あたしが最初から考えていたよ!」
ジュディットが広げたのは、正方形の厚紙に描かれた、一枚のデザイン画だった。
それを見た瞬間、ベルナールが息を呑み、ノアが煙草を落としそうになった。
息を呑むほどに挑発的で、前衛的なアートワーク。
漆黒に塗りつぶされた背景の中央。
そこには、ジュディットが仕立てたステージ衣装と同じ、鮮烈な「真紅の唇」が、嘲笑うようにわずかに開かれていた。
そして――その唇を縛り付けようとしていたはずの、教会の冷たい「白銀の鎖」が、中央で無残に引きちぎられ、火花を散らして千切れ飛んでいる。
上部には、真鍮色の乱暴なタイポグラフィで刻まれた文字。
――『THE UNTAMED VOICE(解き放たれた声) / LEAH VERMILION』。
「……なんて絵を描きやがる」
ベルナールが戦慄混じりに呟いた。
「こんなもの、街角に並べただけで『私は教会の敵です』と看板を掲げて歩くようなもんだぞ」
「それがいいんじゃないか!」
ジュディットは鋏をパチンと鳴らし、胸を張った。
「教会の鎖を引きちぎる! あたしたちの怒りと誇りを、そのままパッケージにするんだよ! 隠れてコソコソ聴くんじゃない。これを持っていること自体が、最高にクールで、最高に誇らしい反逆の証になるんだ!」
ビジュアルの魔力。
ただの音の記録媒体ではない。
手にした者が、自らの意志で既成秩序に中指を立てるための「反逆のパスポート」。
レアはジュディットのデザイン画を見つめ、満足げに頷いた。
「完璧よ、ジュディット。……刷りなさい。千枚、二千枚、紙が擦り切れるまで」
「任せときな!」
◇
それからの三日間、帝都の地下深くでは、不眠不休の狂乱が繰り広げられた。
第五区の地下、密造工場。
石炭の熱気と油の匂いが立ち込める中、巨大な油圧式旋盤が、地響きのような唸りを上げて稼働し続けていた。
ドスンッ! ガシャンッ!
熱せられた音響石の粉末が金型に流し込まれ、高圧で圧縮され、冷水で一気に冷却される。
次々と吐き出される、漆黒の円盤たち。
ノアが調律した原盤の溝が、寸分の狂いもなく、何千枚もの盤面の上に転写されていく。
隣の作業場では、ジュディットの指揮のもと、下町の印刷工たちが小型の手動印刷機をフル回転させていた。
ガッチャン、ガッチャン。
刷り上がっていく、真紅の唇と引き裂かれた鎖のジャケット。
糊付けされ、組み立てられた厚紙のスリーブの中に、出来立ての温かい魔導レコードが、一枚ずつ丁寧に滑り込ませていく。
百枚。
五百枚。
千枚。
二千枚――。
木箱に詰められた「禁忌の果実」は、ベルナールの号令のもと、歓楽街の闇の毛細血管へと一気に流し込まれていった。
配られた先は、正規の商店ではない。
裏通りの闇タバコ売り、安劇場の客引き、港湾の密輸ブローカー、長屋を駆け回る孤児のスリ集団。
彼らの薄汚れた外套の内側に、数枚ずつ、十枚ずつ、禁断のレコードが忍ばされた。
ベルナールが配下のゴロツキたちに徹底させた合言葉は、ただ一つだった。
『――耳を澄ませ。ルージュ座の歌姫は、死んじゃいねえ』
◇
四日目の夜。
帝都第四区、煙突街の安酒場。
暖炉の火も乏しく、寒風に震えながら薄いエールを啜っていた港湾労働者たちのテーブルに、外套を目深に被った少年が音もなく近づいた。
「……おい、旦那方」
少年が懐から、正方形の紙包みをチラリと覗かせた。
薄暗いランプの光の下で浮かび上がったのは――鮮烈な真紅の唇と、引き裂かれた鎖の絵。
「なっ……!? そ、それは……ルージュ座の……!?」
大男がジョッキを取り落としそうになり、立ち上がった。
「声が入ってるんだ」
少年は囁いた。
「針を落とせば、あの子が部屋の中で吼える。……銀貨三枚だ。早い者勝ちだぜ」
「か、買った! 俺に寄越せ!」
「待て、俺が先だ! 銀貨四枚出す!」
同じ光景が、その夜、帝都中の裏路地で同時に爆発していた。
職人街の裏長屋で。
中層の学生寮の暗がりで。
さらには、第二区や第三区の裏門で、貴族の使用人たちが密売人から競うようにして紙包みを奪い取っていく。
教会の典礼憲兵隊が、ルージュ座の鉄鎖の前に突っ立って虚勢を張っている、その背後で。
何千枚もの「禁忌の歌声」が、都市の血管を静かに、しかし爆発的な速度で逆流し、帝都中のあらゆる部屋のドアの隙間から、音もなく侵入を果たしていた。
煙突街の地下廃工房。
暖炉の火を見つめるレア・ヴァーミリオンの耳に、夜風に乗って、遠くの街のどこかから――微かに、しかし確かに、真鍮のラッパが奏でる自分自身のブルースの咆哮が、幻聴のように木霊して届いていた。
文化の包囲網は、いま、完全に反転を始めていた。




