第35話 盤上の咆哮
煤と湿気に覆われた地下廃工房の空気は、鉄錆の味を帯びて冷たく張り詰めていた。
石造りの床に叩きつけられた軍用トランクケースの蓋が、軋んだ悲鳴を上げて全開にされている。
油布と綿の緩衝材を掻き分けたその底から、石油ランプの淡い橙色の光を浴びて姿を現したのは、帝都の闇市ですら目にしたことのない、異様な精密機械だった。
真鍮製の複雑な歯車群、油で磨き上げられた渦巻きバネ、そして微細な銀の魔導回路が血管のようにエッチングされた鋼鉄の共鳴板。
その中央部から天に向かって巨大な朝顔のように口を開けているのは、叩き出しの真鍮で作られた一本の巨大な集音ラッパ(ホーン)だった。
ラッパの基部には、極細のサファイアの針が真鍮のアームに支えられて斜めに固定され、その直下には、真円を描く平たい金属製の回転台が据え付けられている。
そして――何よりも異彩を放っていたのは、トランクの底のベルベット張りの小箱に整然と収められていた、十枚足らずの薄い板だった。
「……こいつが、何だって言うんだい、ノア」
マルゴ・デルーが散弾銃を脇に挟み、身を屈めてその小箱を覗き込んだ。
直系三十センチメートルほど、厚さはわずか数ミリ。
鏡のように磨き上げられたその円盤は、黒曜石のようでもあり、夜の湖面を切り取った氷のようでもあった。深海のような濃紺と漆黒が混ざり合った盤面には、光の当たる角度によって微かな虹色の魔力光が走っている。
「……魔導音響石の削り出し円盤だ」
ノア・カレヴィは煤けた指先で、そのうちの一枚を慎重に持ち上げた。
指紋すら付着させまいと、縁の金属リングだけをつまみ上げる。
その横顔には、かつて教会のパイプオルガン奏者として神童と謳われ、そして異端として放逐された男特有の、深く昏い影が刻まれていた。
「宮廷通信局の技術局が、国境警備隊の極秘暗号伝達のために開発した軍事通信機材の試作品だ。……音響石は本来、特定の魔力を通すことで、周囲の空気の振動をその結晶構造の中に記憶する性質を持つ。それを限界まで薄く研磨し、回転させながら針で物理的な溝を彫り込み、同時に魔力を定着させる」
ノアは真鍮のラッパの根元を指差した。
「音をこのラッパに吹き込むと、奥の振動板が揺れ、サファイアの針が円盤の表面に微細な溝を彫り刻んでいく。……一度刻まれた溝は、針をもう一度通して回転させるだけで、その振動を全く同じ音圧、全く同じ周波数で空気に戻して再生する。電気も魔導具の持続充填もいらねえ。ただゼンマイを巻き、針を落とすだけで――あの場で鳴った生身の音が、何度でも、何百回でも蘇る」
「……音を、彫り込む……?」
毛布を肩から落とし、ジュディット・モレルが息を呑んで円盤を見つめた。
仕立て屋として、物質の質感や構造に敏感な彼女の目が、驚愕に瞠目する。
音楽とは、放たれた瞬間に消え去る空気の波のはずだった。
大聖堂に行かなければ聴けず、酒場に足を運ばなければ浴びることのできない、刹那の現象。
それを、布に刺繍を施すように、板の上に物質として固定し、閉じ込めることができるというのか。
「本来なら、民間の人間が所持しているだけで即座に国家反逆罪になるシロモノだ」
ノアは自嘲するように口元を歪め、円盤を回転台の上に静かにセットした。
カチリ、と真鍮の留め具が噛み合う。
「俺が破門されて教会を叩き出された時、大聖堂の地下通信室からくすねて隠し持っていた。いつか自分の作った不協和音を永遠の形に残してやろうと思ってな。……だが、俺のへたくそなピアノなんざ刻んでも意味がねえ。埃を被らせたまま忘れていたが――」
ノアは顔を上げ、暖炉の火の前に立つレア・ヴァーミリオンを真っ直ぐに見据えた。
「――お前のあの喉なら、この石を焼き切るだけの価値がある。……劇場の扉が鎖で塞がれたってんなら、音を石に刻んで、外へ持ち出すしかねえだろうが」
静寂が、地下室に落ちた。
暖炉の石炭が爆ぜ、赤い火の粉が小さく舞い上がる。
レアは、ゆっくりと歩み寄った。
真鍮の巨大な集音ラッパの前に立ち、その暗い開口部を覗き込む。
奥には、極薄の雲母で作られた振動板が、冷たい銀の針へと連結されていた。
そして、その下で静かに息を潜めている、鏡のような黒い円盤。
レアの指先が、回転台の冷たい真鍮の縁に触れた。
その瞬間、彼女の背骨を、名状しがたい戦慄が駆け抜けていった。
(……この盤に、私の声を?)
胸の奥底で、何かが激しく脈打った。
それは、これまで味わったことのない、未知の興奮だった。
劇場のステージの上で歌うとき、彼女の声は、その場にいる数百人の肉体を直接揺さぶり、彼らの体温と混ざり合って昇華していった。
だが、この円盤に刻まれた音は、その場に留まらない。
持ち運ぶことができるのだ。
憲兵の目を盗み、外套のポケットに忍ばせ、馬車に乗せ、夜の闇に紛れて運ぶことができる。
そして――。
(劇場の壁を越える……)
レアの双眸の奥に、漆黒の炎が灯った。
大聖堂の老人たちが、どれほど分厚い石の壁を築こうとも。
劇場の正面玄関に、どれほど太い鉄の鎖を巻き付けようとも。
この黒い円盤が街へと放たれれば――下町の貧しい長屋の窓の奥へ、職人の工房の暗がりへ、そして何より、厳格な教規に縛られた貴族たちの閉ざされた寝室の奥深くへと、彼女の咆哮が、音もなく忍び込んでいく。
誰の許可もいらない。
教会の検閲も、警備隊の包囲網も、この平たい金属の板を止めることはできないのだ。
「……やるわ、ノア」
レアの声は、研ぎ澄まされた刃のように低く、澄んでいた。
「言っておくが、レア。猶予はねえぞ」
ノアは回転台の脇にある、太い真鍮の巻き鍵に手をかけた。
「音響石の原盤は、このトランクに入っているたった三枚きりだ。削り直しは効かねえ。一度針を落として溝を彫り始めたら、途中で止めることも、やり直すこともできねえんだ。……一発勝負だ。途中で息を切らそうが、咳き込もうが、その失敗ごと永遠に刻み込まれる」
「私を誰だと思っているの」
レアは墨黒のワンピースの袖をわずかに捲り上げた。
両足を肩幅に開き、重心を腰へと落とす。
装飾品は何もない。スポットライトも、真紅のドレスも、何百人もの観客の歓声すらない。
あるのは、埃まみれの地下室の空気と、目の前に口を開ける無機質な真鍮の穴。
だが、その立ち姿には、ルージュ座のステージの中央に立っていた時と何ら変わらぬ、圧倒的な女帝の覇気が漲っていた。
「ピアノの調律は済んでいるわね?」
「いつでも叩けるぜ」
ノアは部屋の隅、埃を被っていた古いアップライトピアノの丸椅子に腰を下ろした。
小型グランドピアノではない。下町の安酒場に転がっているような、弦の錆びたオンボロのピアノ。
だが、ノアは包帯の巻かれた指先をポキリと鳴らし、鍵盤の上に置いた。
その顔から、一切の気怠さが消え去っていた。
「マルゴ、ジュディット。息を殺してな」
ノアが低く告げる。
「この真鍮のラッパは、部屋中のすべての音を貪り食う。咳払い一つ、足音一つでも盤を汚すぞ」
マルゴは散弾銃を壁に立てかけ、唾を呑み込んで両手を固く組んだ。
ジュディットは毛布を強く握りしめ、自らの唇を両手で覆った。
暖炉の火の爆ぜる音すら途絶えたかのような、極限の静寂。
ジィィィィィ……。
ノアが真鍮のクランクを力任せに回し切ると、重厚なゼンマイが巻き上げられる金属音が響いた。
レバーが倒される。
回転台が、音もなく滑らかな速度で回転を始めた。
黒曜石の円盤が、ランプの光を滑らせながら、均一な速度で回っていく。
カチリ。
ノアがサファイアの録音針を、円盤の最外周の鏡面へと、そっと落とした。
シュルシュルシュル……と。
針先が未踏の盤面を削り始める、微かな、しかし鋭利な摩擦音が地下室の静寂を切り裂く。
サファイアの根元に埋め込まれた極小の魔導回路が、青白い微光を放ち始めた。
その瞬間――ノアの両腕が、振り下ろされた。
ズッ、チャッ、ズズッ、チャッ――!!
叩き出されたのは、痛烈極まりないスロー・ブルースのリズムだった。
オンボロのアップライトピアノが、まるで肋骨を軋ませるように軋み、低音部が濁った唸りを上げて地下室の壁を震わせる。
教会の整然とした純正律を徹底的に嘲笑う、泥臭く、気怠く、しかし地底の底から這い上がってくるような不協和音のビート。
そのグルーヴの頂点で。
レア・ヴァーミリオンが、集音ラッパの開口部へと、その顔を限界まで近づけた。
――すぅっ。
薄い胸郭が、アコーディオンのように横へと大きく開く。
冷たい地下室の空気が、肺胞の最深部へと、一気に雪崩れ込む。
首筋に力は入っていない。
喉仏が静かに落ち、下腹部の筋肉が内側から横隔膜を押し上げる。
そして。
「――WELL, YOU LOCKED THE DOOR, BUT YOU CAN'T STOP THE RAIN!!」
鼓膜を劈くような第一声が、真鍮のラッパの奥へと叩き込まれた。
「ッッ――!?」
部屋の隅にいたジュディットの身体が、衝撃波に打たれたように跳ね上がった。
マルゴの灰色の瞳が見開かれる。
音圧が、異常だった。
壁を反響させるのではない。
少女の喉から放たれた全ての空気の振動が、逃げ場を失い、直径三十センチの真鍮の朝顔へと、レーザーのように収束して注ぎ込まれていた。
ラッパの奥の雲母の振動板が、目に見えるほどの激震を伴って狂ったように震える。
それに連動し、サファイアの針が、黒曜石の円盤の表面を、火花を散らすような勢いで削り取っていく。
シュルルルルッ!と鋭い音を立てて、黒い微細な削り粉が、針の周囲から煙のように吹き上がる。
魔導回路の青白い光が、削られた溝の中に吸い込まれるように定着し、鏡のようだった盤面の上に、幾重もの同心円の溝――音の傷跡を、深く、深く刻み込んでいく。
「――I GOT A FIRE IN MY THROAT, BURNING THROUGH YOUR PAIN――!!」
レアの歌声は、咆哮だった。
劇場を奪われた怒り。
理不尽に殴打された下町の若者たちの血の臭い。
神の調和という名の欺瞞で民衆の息の根を止めようとする、あの高台の老人たちへの、底知れぬ憎悪。
そして――どんな暗闇の底に叩き落とされようとも、二度と誰の膝元にも屈しないという、剥き出しの生存の執念。
そのすべてが、彼女の声帯のエッジを激しく擦り合わせ、生々しい歪み(オーバードライブ)を含んだソウルの絶唱となって、ラッパの奥へと吐き出されていく。
半音下がるブルーノート。
地声を限界まで引き絞ったハイトーン・シャウト。
ラッパの真鍮の管が、彼女の吐息の熱で曇り、水滴が滴り落ちる。
ノアのピアノが、さらに凶暴に跳ね回った。
鍵盤を殴りつけるような重低音。
足踏みのペダルが床を叩き、木製の筐体が悲鳴を上げる。
二人の音が、狭い地下室の中で混ざり合い、渦を巻き、たった一本の針の先へと、凄まじい密度で凝縮されていく。
(刻まれろ)
レアの胸の内で、熱い血が逆流していた。
視界が赤く染まる。
目の前で、高速で回転し続ける黒い円盤。
その冷たい無機質な鉱物の表面に、いま、自分という人間の肉体そのものが、血肉が、骨の振動が、永久に消えない傷となって彫り込まれていく。
(私の声を、誰にも奪わせはしない。……この板に乗せて、帝都中のすべての耳を、骨の髄まで食い破ってやる!)
曲のラスト。
ノアが両手を鍵盤全体へと叩きつけ、巨大な不協和音の終止符を轟かせた。
レアが顎を天へと突き上げ、肺胞の中の最後の一滴の空気までを絞り出すようにして、天井の岩肌を突き破るような超高音のロングトーンを放った。
「――HEAR ME SCREAM, YOU COLD, DEAD WORLD―――ッッ!!」
ピシリ……と、地下室の古いガラス窓が共鳴して軋んだ。
そして――。
カチ。
レアの息が尽きると同時に、ノアの手が伸び、回転台のレバーが引き戻された。
サファイアの針が、盤面から跳ね上がる。
回転台が、ゆっくりと、その惰性の速度を落としていく。
静寂が、戻った。
ハァッ、ハァッ、ハァッ……。
レアの荒い呼気だけが、地下室の冷気を震わせていた。
額から汗が滴り落ち、墨黒のワンピースの胸元が激しく波打っている。
喉が、火を噴くように熱い。
だが、その切れ長の黒い瞳は、回転を止めた黒い円盤から、一秒たりとも離れずにいた。
回転台の上に横たわる、一枚の円盤。
先ほどまで鏡のように平滑だったその表面には、外周から中心に向かって、何千本もの微細な溝が、指紋のようにびっしりと刻み込まれていた。
青白い魔導の残光が、その溝の隙間で、蛍のように微かに明滅している。
「……録れたのかい?」
マルゴが掠れた声で問うた。
ジュディットもまた、唾を呑み込んで机へと歩み寄ってくる。
ノアは何も言わなかった。
額の汗を袖で乱暴に拭うと、彼はトランクケースの脇から、もう一つの部品を取り出した。
録音用のサファイア針とは異なる、鋼鉄の再生針が取り付けられた軽量アーム。
それをラッパの基部に付け替えると、彼は再びクランクを巻き、ゼンマイをいっぱいに張り詰めた。
「……聴いてみな」
ノアがレバーを倒す。
刻み込まれた溝の最外周へと、静かに、鋼鉄の再生針が落とされた。
プチッ、パチパチ……。
針先が溝を擦る、微かなノイズ。
一瞬の空白。
そして――。
『――ズッ、チャッ、ズズッ、チャッ――!!』
「っ…………!?」
マルゴとジュディットが、飛び退くようにして息を呑んだ。
ラッパの開口部から、飛び出してきたのだ。
先ほどノアが叩いたピアノの、あの泥臭く、濁った重低音の響きが。
アンプも魔導具もないはずの真鍮の筒から、寸分の狂いもない質量を伴って、空気を震わせ始めた。
そして、直後。
『――WELL, YOU LOCKED THE DOOR, BUT YOU CAN'T STOP THE RAIN!!』
大気が、再び爆発した。
鼓膜を劈く、生々しいハスキーボイス。
声帯の摩擦による微かな歪み、息の漏れる生々しい呼気、そして天井を突き破るようなハイトーンの咆哮。
先ほどレアが歌った絶唱のすべてが――まるで、真鍮のラッパの奥に、もう一人の小さなレア・ヴァーミリオンが囚われて吼えているかのように、寸分の違いもなく再現され、地下室の壁をビリビリと震わせたのだ。
「あ……ああ……」
ジュディットの両腕に、ぶわっと鳥肌が立った。
「な……何だい、これ……! 声が……あの子の声が、機械の中から出てきてる……!」
「嘘だろ……」
マルゴもまた、呆然とラッパを見つめ、腰の散弾銃を取り落としそうになっていた。
「本当に、閉じ込めちまいやがった……。あの子の魂を、この黒い板っ切れの中に……!」
曲が終わるまでの三分間。
四人は誰一人として言葉を発することができなかった。
ただ、真鍮のラッパから吐き出される、自分たち自身の反逆の音に、魂を射すくめられていた。
カチ。
曲の終わりとともに、針が内周の空溝へと滑り込み、静かな摩擦音だけが残された。
レアは、再生を終えた円盤を見つめていた。
彼女の指先が、溝の刻まれた盤面にそっと触れる。
冷たい石の感触。
だが、その奥底から、微かな熱が――自分自身の声が刻みつけた命の振動が、指先を通じて骨へと伝わってくる。
(できる)
レアの唇に、三日月の形をした獰猛な笑みが浮かんだ。
確信だった。
(これがあれば、勝てる。……劇場の壁など、何の意味も持たない。この板を帝都中にばら撒けば、すべての部屋が私の劇場になるわ)
だが。
その歓喜の熱気のなかで、ノアが冷水を浴びせかけるように口を開いた。
「……奇跡はここまでだ、レア」
「……どういうこと?」
ノアは回転台から円盤を外し、トランクの底の空き箱を見つめた。
「この原盤は、俺の手持ちの機材で辛うじて彫り出せた。……だがな、これを街中にばら撒くには、何百枚、何千枚という単位で『プレス・複製』しなきゃならねえ」
ノアは深刻な眼差しで、現実の壁を突きつけた。
「音響石の粉末を溶かし、型に流し込んで高圧でプレスするための、特殊な大型旋盤。それから、原料となる希少な音響石の大量の買い付け。……少なく見積もっても、金貨数百枚単位の莫大な資金と、帝立技術工廠の横流し品を扱えるような、裏社会の太いコネクションが必要だ。……今の俺たちの手元には、その設備も、材料もねえ」
「それに」
マルゴが煙管を咥え直しながら、重々しく付け加えた。
「仮に千枚の盤を作れたとして、どうやって憲兵の包囲網を潜り抜けて売り捌くんだい? ルージュ座の扉は塞がれてる。闇市に並べたところで、教会の密偵に一網打尽にされるのがオチだよ」
資金。
特殊な大型旋盤。
そして、帝都全域を網羅する、警察や教会の手が届かない「地下の流通網」。
どれ一つ欠けても、この奇跡の盤は、ただの地下室の玩具で終わってしまう。
ジュディットが不安そうにレアを見つめる。
「どうするんだい、レア……。そんな力を持った奴なんて、この帝都のどこに……」
だが。
その絶望的な条件を前にしても、レア・ヴァーミリオンの瞳の光は、一瞬たりとも揺らぐことはなかった。
彼女はゆっくりと立ち上がった。
暖炉の火の前に立ち、煤けた天井を見上げる。
その脳裏に、かつて自分を囲おうとし、袖にされ、そして教会の裏取引に乗って勝ち誇っていた、あの男の顔が浮かんでいた。
銀狐の毛皮外套。
口元に燻らせる細身の葉巻。
歓楽街の闇カジノを牛耳り、密輸ルートと違法工場をいくつも抱える、あの強欲極まりない実業家。
「……いるじゃない」
レアの唇から、小さく、しかし酷薄な笑みが零れ落ちた。
「え?」
マルゴが眉をひそめる。
「金に目が眩み、美味い話とあれば教会の首根っこすら売り飛ばす、帝都一のハイエナが」
レアは振り返り、ノア、マルゴ、ジュディットを順番に見据えた。
その黒い瞳の奥で、冷徹な興行主の計算が、完璧な歯車となって噛み合っていた。
「呼び出しなさい、マルゴ。……ベルナール・ジルを」
「なっ……!? あいつをかい!?」
マルゴが声を荒らげた。
「あいつは教会の査察局と裏取引をして、アタシらを売り飛ばそうとした裏切り者だよ!? 今さら呼んで、どうするってんだい!」
「取引をするのよ」
レアは完成したばかりの黒い円盤を、指先でトンと叩いた。
「あいつの底なしの物欲を、こちらの武器として買い叩いてあげるのよ。……あの男はね、金儲けの匂いさえ嗅がせれば、教会の老害どもとの密約なんて、一秒で紙屑にして破り捨てる男よ」
男の裏切りを憎むのではない。
男の強欲そのものを手玉に取り、自らの反逆のための歯車として組み込んでやる。
レア・ヴァーミリオンは、冷たい円盤を布で包み、しっかりと抱きかかえた。
「連絡をつけなさい。『金貨一万枚の儲け話がある。今夜、煙突街の地下へ一人で来い』とね。……帝都の夜の闇を牛耳るルールを、あの男に教えてあげる時間よ」
盤上に刻まれた咆哮が、いま、帝国を揺るがす巨大な闇の経済網を起動させようとしていた。




