第34話 灰色の悔恨勧告
石炭の煤煙が、湿った夜露と混ざり合い、重苦しい油の匂いとなって路地裏の隅々に澱んでいた。
帝都第四区、煙突街の最深部。
華やかなガス灯の恩恵など微塵も届かぬこの界隈は、無数の煙突から吐き出される灰色の煙によって、昼夜の別すら曖昧な薄暗がりに沈んでいる。雨が降れば泥濘と化し、冬が来れば凍てつく寒風が長屋の隙間風となって貧民の骨を軋ませる、帝都の最底辺。
その路地裏の突き当たり、かつて打ち捨てられた蒸気機関の部品や錆びた旋盤が野晒しにされていた廃工房の地下室に、橙色の微かな火が灯っていた。
石造りの頑丈な地下室。かつては違法な密造酒の蒸留所として使われていたその場所は、いまや正面の扉を鉄鎖で封鎖された〈ルージュ座〉の一座が、憲兵隊の監視の目を逃れて潜伏するための仮設の隠れ家となっていた。
パチ、パチ……と。
部屋の隅に設えられた古い石組みの暖炉で、粗悪な石炭と廃材が燻り、頼りなげな熱気を室内に吐き出している。
卓上には、安物の石油ランプが一つ。
その灯火の下で、マルゴ・デルーは無言のまま、白布を裂いた包帯を丸めていた。机の端には、昨夜の封鎖劇で典礼憲兵の警棒に殴打された下町の若者たちに配るための、安価な消毒薬と傷薬の小瓶が並んでいる。
壁際では、ジュディット・モレルが毛布にくるまり、膝を抱えて座り込んでいた。普段の快活な毒舌は見る影もなく、その瞳は暗がりの中でじっと暖炉の火を見つめている。彼女の足元には、避難する際に劇場の楽屋から辛うじて持ち出した、仕立て途中の真紅のベルベットの端切れが、血の塊のように転がっていた。
「……表通りを、また黒い馬車が通り過ぎていったよ」
階段の踊り場、通気口の鉄格子から外を監視していたノア・カレヴィが、音もなく地下室へと降りてきた。
咥えた煙草から灰を落とし、冷え切った両手を暖炉の火にかざす。
その横顔には、連日の緊張と徹夜の疲労が濃い影を落としていた。
「憲兵どもの巡回が、煙突街にまで広がり始めてやがる。劇場の扉に鎖を巻くだけじゃ飽き足らず、あいつら、この下町のネズミの巣窟まで片っ端からひっくり返す気だぜ。……おい、レア。本当にここにいて大丈夫なのか?」
ノアの問いかけに、部屋の中央、粗末な木製スツールに腰掛けていた少女――レア・ヴァーミリオンは、ゆっくりと顔を上げた。
纏っているのは、華やかなステージ衣装ではない。
煙突街の少女が着るような、飾りのない墨黒のウールワンピース。
だが、その背筋は鋼のように真っ直ぐに伸び、首元から覗く鎖骨と喉仏のラインには、一片の衰えもなかった。手元には、冷め切った白湯の入った鉄のマグカップ。
彼女の黒い双眸は、外を取り囲む国家権力の影など、まるで最初から存在しないかのように澄み切っていた。
「大丈夫よ」
レアの低く、芯の通った声が静寂を震わせる。
「この煙突街の地下道は、迷路のように張り巡らされているわ。生まれ育ったドブネズミの逃げ道を、高台の白亜の大聖堂で祈りしか知らない憲兵どもが嗅ぎつけられるはずがない。……それに、あのマクシミリアン伯爵が欲しいのは、私の首であって、このボロ長屋の捜索じゃないわ」
「首、ね……」
マルゴが包帯を縛る手を止め、苦々しく吐き捨てた。
「無期限営業停止命令を出しておいて、今さら何を取り引きする気配もないじゃないか。あの老いぼれ、アンタの息の根を物理的に止めに来てるんだよ。……正面から突っ込んできたら、アタシの散弾銃で頭蓋骨を吹き飛ばしてやるだけだがね」
「物理的に殺すなら、もっと簡単よ、マルゴ」
レアは冷笑を漏らし、鉄のマグカップを卓上に置いた。
「昨夜の包囲の時に、一斉射撃を命じれば済んでいた話よ。それをしなかった。……あいつが本当に望んでいるのは、私の死体じゃないわ。もっと陰湿で、救いようのない『完全な屈服』よ」
その時だった。
コ、コ、コ……。
頭上、地下室へと通じる分厚い樫の木の隠し扉を、奇妙なリズムのノックが叩いた。
三回叩き、一拍置き、二回。
煙突街の合図ではない。
教会の典礼曲の小節を刻むような、異様なまでに整然とした、冷徹なノックの音。
「…………っ!」
マルゴが電光石火の早業で壁の散弾銃を引き寄せ、撃鉄を起こした。
ノアがジュディットの前に立ち塞がり、懐の鋭利な調律ハンマーの柄を握りしめる。
一触即発の殺気が、地下室の冷気を一気に沸点へと押し上げる。
だが、レアだけは動かなかった。
彼女は片手をわずかに挙げ、仲間たちを制した。
「銃を下ろしなさい、マルゴ。……来たわよ」
「……来たって、誰がだい?」
「マクシミリアン伯爵の、哀れな使いっ走りよ」
レアが立ち上がり、隠し扉に向かって声を張った。
「開いているわ。……埃っぽい地下室がお嫌いでなければ、降りていらっしゃい」
ギィィ……と、蝶番が鈍い悲鳴を上げた。
重い木扉がゆっくりと押し開かれ、冷たい夜風とともに、階段を降りてくる乾いた革靴の足音が響いた。
現れたのは、一人の男だった。
三十代半ば。仕立ての良い漆黒の修道士服の上に、銀の刺繍が施された濃灰色の豪奢なウールマントを羽織っている。
襟元には純白のカラー。手には、泥水の一滴すら寄せ付けぬよう磨き上げられた黒革の手袋。
帝立聖楽院の筆頭書記官であり、マクシミリアン伯爵の最も忠実な側近として知られる修道士――ジュリアンだった。
ジュリアンは階段の途中で足を止め、ハンカチを鼻梁にあてがいながら、煤けた地下室の惨状を蔑むように見回した。
その灰色の双眸に浮かんでいたのは、人間を見る目ではなかった。不潔な下水溝に巣食う害虫を、やむを得ず検分しに来た特権階級特有の、底知れぬ生理的嫌悪。
「……何という不浄の極み。家畜の豚小屋のほうが、まだ神の息吹を感じられるというものだ」
ジュリアンの平坦で、感情の起伏を殺した声が室内に響いた。
「口の利き方に気をつけな、お坊さん」
マルゴが散弾銃の銃口を男の足元へと向け、獰猛に歯を剥いた。
「ここはアタシらの庭だ。アンタの綺麗な法衣を、鉛の散弾でハチの巣にしてやってもいいんだよ」
「野蛮な下層民の戯言には耳を貸さん」
ジュリアンはマルゴの銃口を一瞥すら牢とせず、視線をレア・ヴァーミリオンへと真っ直ぐに向けた。
そして、胸元のマントの内側から、一通の分厚い書状を取り出した。
それは、昨夜の公的な営業停止命令書とは、外見からして異なっていた。
公文書の冷たい青灰色の封蝋ではない。
深紅の蜜蝋でしっかりと封じられ、そこに刻まれていたのは、マクシミリアン・ド・ランカスター伯爵家の私的な家紋――「剣を交える白銀の鷲」。
聖歌庁の公的な査問とは別に、学長であり筆頭審問官であるマクシミリアン個人から、追放した元・特待生へと宛てられた、極秘裏の「私的親書」。
「レア・ヴィット」
ジュリアンは親書を掲げ、宣告するように言った。
「学長閣下より、直々の親書を預かってきた。……身の程を弁えぬドブネズミの分際で、帝都の夜を騒がせ、神聖なる教会の秩序を汚した大罪人に対し、閣下が最後にお与えになった『温情ある慈悲』だ」
「慈悲?」
レアは眉一つ動かさず、冷ややかに反芻した。
「あのお堅い院長様が、私に慈悲を施すなんて……明日の朝は、西から黒い太陽でも昇るのかしら」
「無礼を慎め!」
ジュリアンが声を荒らげ、革手袋の指先で親書を卓上へと叩きつけた。
バサリ、と。
冷たい紙擦れの音が落ちる。
「よく耳をかっぽじって聞くがよい。……閣下は、お前のような泥の血を引く孤児にすら、かつて聖楽院の門戸を開き、パンと教育をお与えになった。その恩義を踏みにじり、悪魔の節回しで大衆を惑わしたお前の罪は、本来であれば火刑に処されても余りあるものだ」
ジュリアンは背筋を伸ばし、親書に記された決定的な「条件」を、一語一語、残酷な愉悦を滲ませながら読み上げ始めた。
「――提示された条件は二つ。
第一に。来る十日後の査問委員会において、お前自身が大聖堂の中央講壇に立ち、居並ぶ貴族と神父たちの前で、己の罪を公に認めること。『自らの歌は神の調和を冒涜する悪魔の所業であり、大衆を理性を狂わせる泥酔の毒であった』と、涙を流して懺悔せよ」
ジュリアンの唇が、サディスティックな笑みに歪む。
「そして第二に。――公的な懺悔ののち、お前は即日、帝都北方の峻険なる山中に位置する『聖マグダラ修道院』へと移送される。外界から完全に遮断された地下牢獄の独房において、生涯、神への贖罪歌を捧げ続けるのだ。日光を見ることも、他者と言葉を交わすことも、二度と許されぬ。ただ冷たい石の壁に向かって、神が認めた純正律の賛美歌のみを、死ぬまで喉が枯れ果てるまで歌い続けよ」
終身禁錮。
生きたまま剥製にされ、光のない地下牢で、己の魂を削り取った歌を永遠に封印されるという、死よりも残酷な生殺しの拷問。
ジュディットが息を呑み、顔を覆った。
「そ、そんな……! 一生、地下牢で賛美歌を歌えだなんて……! そんなの、殺されるより酷いじゃないか!」
だが、ジュリアンは冷徹に言葉を続けた。
その視線には、相手に選択の余地など欠片も残されていないという、絶対の確信が宿っていた。
「これが、閣下がお前にお与えになった唯一の救済だ。……これを受け入れ、神に命を捧げるならば、お前の命だけは助けてやろう。だが――」
ジュリアンの声が、一段と低く、冷酷な脅迫へと変わる。
「もし、この悔恨勧告を拒否し、愚かな抵抗を続けるというのならば。……十日後を待たずして、お前は国家反逆および異端扇動の首謀者として、帝都全土への永久追放令、あるいは断頭台への送致が決定する。それだけではない」
ジュリアンは部屋にいるマルゴ、ノア、ジュディットを指差した。
「この場にいる者たち、ルージュ座の設営に関わった下町の職人、洗濯女、そして客席で手を叩いた者たちに至るまで――全員を『異端の共犯者』として即刻拘束し、重労働刑の地下鉱山へと連座で叩き込む。……お前の高慢なプライド一つで、この者たち全員を破滅の道連れにするのか? 選べ、レア・ヴィット」
完璧な包囲。
逃げ道は完全に塞がれていた。
自ら首輪を嵌めて修道院の暗闇へ消え去るか。
さもなくば、自らの命だけでなく、自分を支えてくれた仲間たちのすべてを巻き込んで、国家権力の鉄槌の下で粉々に砕け散るか。
地下室が、死のような静寂に包まれた。
暖炉の火が爆ぜる音だけが、虚しく室内に響く。
マルゴは散弾銃を握りしめたまま、苦渋に満ちた表情で唇を噛み締めていた。
ノアは俯き、拳を白くなるまで強く握りしめている。
二人は知っていた。教会の本気配備の権力が、どれほど無慈悲に、どれほど確実に一個人をすり潰すことができるかを。自分たちの命など惜しくはない。だが、レアのあの唯一無二の喉が、このような形で潰されてしまうことの不条理に、魂を切り裂かれるような痛みを覚えていた。
「……さあ、どうする」
ジュリアンが勝利を確信した笑みを浮かべ、机の上の親書を指差した。
「署名せよ。閣下の慈悲の足元に跪き、自らの罪を認めよ。泥水から拾われたドブネズミが、神の光の前に頭を垂れるのは、極めて自然な結末であろう」
ジュリアンは胸元から、署名用の真鍮のペンを取り出し、卓上へと差し出した。
そのペン先が、石油ランプの光を浴びて冷たく光る。
だが。
そのすべてを聞き届けたレア・ヴァーミリオンは――。
ピクリとも、動かなかった。
彼女は差し出された真鍮のペンには、指一本触れなかった。
ただ、ゆっくりと手を伸ばし、机の上に置かれていたマクシミリアン伯爵の私的な親書を、冷たい指先でつまみ上げた。
分厚い羊皮紙。
深紅の封蝋。
そこに記された、神の慈悲を騙る傲慢極まりない奴隷の契約書。
レアはそれを、目の高さまで持ち上げた。
そして――。
クシャリ、と。
乾いた音が、静寂の地下室に響いた。
「…………なっ!?」
ジュリアンの表情が、一瞬で凍りついた。
信じがたい光景だった。
最高権力者たる伯爵の直筆の親書を、少女は片手で、まるで路地に落ちている古新聞でも丸めるかのように、無造作に、力任せに握り潰していたのだ。
深紅の封蝋が無残に砕け散り、机の上に赤い破片となって飛び散る。
「き、貴様……何を……!?」
ジュリアンの悲鳴のような制止の声を、レアは完全に無視した。
彼女は丸めた羊皮紙を握りしめたまま、静かな足取りで、部屋の隅の暖炉の前へと歩み寄った。
パチパチと燃え盛る、赤い石炭の炎。
その熱気が、レアの白磁のような横顔を照らし出す。
レアは振り返りもせず、暖炉の火口の上へと、その右手を突き出した。
そして――指を、開いた。
ボッッ!!
一瞬だった。
最高級の羊皮紙は、炎の舌に舐められた瞬間、猛烈な勢いで黒煙を噴き上げ、赤黒い炎に包まれた。
マクシミリアン伯爵の署名が、白銀の鷲の家紋が、神への贖罪を強要する冷酷な文言が、火の粉を散らしながら、一瞬にして炭化し、灰へと崩れ落ちていく。
「な……な……狂ったのか、貴様ッ!!」
ジュリアンが血相を変えて叫び、暖炉へと駆け寄ろうとした。
だが、その喉元に、マルゴの散弾銃の銃口がピタリと突きつけられた。
「一歩でも動いてみな、お坊さん。……その綺麗な首の骨を、へし折ってやるよ」
マルゴの口元に、獰猛な笑みが戻っていた。
暖炉の奥で、羊皮紙が完全に燃え尽きた。
灰となった紙片が、煙突の吸気口へと吸い込まれ、夜の帝都の空へと舞い上がっていく。
レア・ヴァーミリオンは、ゆっくりと向き直った。
その姿に、ジュリアンは息を呑み、怯えたように後ずさった。
炎の照り返しを浴びて立つ少女。
その瞳の奥には、恐怖も、絶望も、後悔すらも、塵芥一つ残っていなかった。
そこにあるのは――自らの全存在を賭けて、巨大な帝国そのものを焼き尽くさんとする、絶対にして孤高の「炎」。
退路を断った。
妥協を粉砕した。
神の慈悲という名の首輪を自らの手で灰に変え、彼女は、教会の絶対権力との「全面戦争」へ、不可逆の一歩を踏み出したのだ。
「……マクシミリアン伯爵に、伝えなさい」
レアの声は、低く、しかし地下室の石壁を芯から震わせるほどの質量を帯びていた。
彼女は一歩、また一歩とジュリアンへと歩み寄り、その怯える灰色の瞳を、至近距離から射抜いた。
「私の歌はね、神に媚びるためのものじゃないわ」
決定的な宣告。
「高台の大聖堂で、退屈に飽いて冷え切っている神様ごっこに付き合ってやる暇なんて、私にはないのよ。……私の歌はね、泥水をすすり、理不尽に踏みにじられ、それでも明日を生きようとして地べたを這いずる――生身の人間のためのものよ」
レアは顎を引き、酷薄極まりない笑みをその唇に刻んだ。
「十日後の査問委員会? ええ、行ってあげるわよ。逃げも隠れもしない。……ただし、大聖堂の床に頭を擦り付けて懺悔するためじゃないわ。あの冷たい神殿の石造りの壁を、私の叫びで根底から叩き壊してやるために、乗り込んであげる」
「き、貴様……後悔するぞ……!」
ジュリアンは恐怖で顔を引き攣らせ、後退りながら叫んだ。
「神を冒涜した異端者に、いかなる救いもない! お前も、この薄汚れた仲間どもも、全員が地獄の炎で焼かれることになるのだ!」
「地獄なら、煙突街のドブの中で、とっくに通り過ぎてきたわよ」
レアは冷淡に言い捨て、階段の上を指差した。
「失せなさい。……私の神聖な隠れ家を、その偽善の香水でこれ以上汚さないで」
ジュリアンは恐怖のあまり悲鳴のような息を呑み、階段を転がるように駆け上がっていった。
バタンッ!!と重い扉が閉まり、外の足音が遠ざかっていく。
再び、静寂が戻った。
暖炉の火が、小さく爆ぜる。
マルゴが散弾銃を下ろし、深く、長い溜息を吐き出した。
「……やっちまったね、レア。これで本当に、後戻りはできなくなったよ」
「後戻りなんて、最初からする気はなかったでしょう、マルゴ」
ジュディットが毛布を跳ね除け、立ち上がっていた。
その瞳には、先ほどまでの怯えは消え去り、決意の光が宿っていた。
「いい気味だよ! あんな偉そうな紙切れ、燃やして灰にして当然さ! あたしたちが命を賭けて作った歌を、地下牢で賛美歌にしろだなんて、誰が従うもんかい!」
女たちの覚悟。
だが――現実は、依然として過酷だった。
劇場の扉は封鎖され、外には憲兵が張り巡らされ、十日後には査問委員会の断頭台が待っている。
正規のステージを奪われた今、一体どうやって戦うというのか。
その時だった。
ガタ、ゴト……。
地下室の最奥、暗がりの中で、重い木箱を動かす音が響いた。
「…………ノア?」
レアが視線を向ける。
部屋の隅、ボロボロの油布を被せられて放置されていた巨大な木箱の前で、ノア・カレヴィが一人、腰を落としていた。
彼は埃まみれの油布を力任せに引き剥がした。
現れたのは、頑丈な鉄の金具で補強された、古い軍用のトランクケースだった。
表面には、宮廷通信局の旧式の紋章が、煤けた塗料の下で微かに光っている。
ノアは火の点いていない煙草を口から外し、耳の上に挟むと、木箱の蓋にかかっていた錆びた真鍮の南京錠を、調律ハンマーの角で力任せに叩き割った。
バキンッッ!!
金具が弾け飛ぶ。
ノアは両手で重い蓋を押し開けた。
「……何だい、ノア。そいつは一体……」
マルゴが眉をひそめて歩み寄る。
木箱の内部。
綿とフェルトの緩衝材に包まれて鎮座していたのは――見たこともない、異様な機械仕掛けの装置だった。
真鍮の歯車とゼンマイ、微細な魔導回路が刻まれた銀の針。
そして、その中央に積まれていたのは、深い夜色の光沢を放つ、平たい円盤の束だった。
宮廷通信用に極秘裏に開発され、民間での使用が厳禁されているという希少な魔導音響石――その端材を薄くスライスし、鏡面のように研磨した、謎めいた円盤。
ノアは煤まみれの指先で、その円盤の一枚をそっと引き抜いた。
そして、振り返り、暖炉の前に立つレアを見据えた。
その黒い瞳の奥に、かつて教会を破門された天才音楽家だけが宿す、狂気にも似た反逆の火が灯っていた。
「……あいつらが劇場の扉を閉ざし、人の耳を塞ぐつもりならな」
ノアの掠れた声が、地下室の冷気を震わせた。
「……なら、試作段階のこれを使うしかないな、レア」
盤上に魂を刻み、帝都中のすべての部屋へと忍び込ませる、禁断の兵器。
劇場の壁を越えた文化のゲリラ戦争へ向けて――いま、真紅の反逆の第2段階が、静かにその蓋を開けようとしていた。




