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第33話 封じられた扉

夜の帳が降りる直前、帝都の空はいつも、燃え尽きかけた薪のような鈍い鉛色へと沈んでいく。


中央区と下町の境界線を走る大通り。その中央高架橋の袂にそびえる独立劇場〈ルージュ座〉の正面ファサードは、今夜も六本の硬質安山岩の巨柱を誇らしげに天へと突き立てていた。

ペディメントの直下に掲げられた、漆黒の木地に真紅の文字が躍る巨大な看板――〈ルージュ座〉。

昨夜、教会の陰湿な兵糧攻めと典礼憲兵隊の嫌がらせによって、客席は無残な空席を晒した。酒の納入は止められ、石炭の補給も滞り、劇場の前には五分おきに黒い法衣の役人が行き交った。

だが、それでも。

舞台裏の楽屋では、今夜も開場へ向けた準備が着々と進められていた。


「ノア、ピアノの第二オクターブ、わずかにピッチが下がっているわ。直しておいて」

「……へいへい。分かってるよ」


一階の舞台袖。調律具を握るノア・カレヴィが、咥え煙草の灰を床に落としながら、コンサートグランドピアノの真鍮フレームに指を滑らせていた。その指先には相変わらず痛々しい油布が巻かれていたが、鍵盤を叩くタッチには一片の迷いもない。

楽屋の鏡の前では、ジュディット・モレルが、レアの纏う深紅と漆黒のドレスの裾を細かく点検していた。

胸元から横隔膜にかけて刻まれたスリットの縫い目を、指先で引っ張り、伸縮性を確かめる。


「昨夜、客が少なかったからって、あたしたちの手を抜く理由にはならないからね。……一人でも客席に人間がいるなら、あいつらの鼓膜を破るだけの最高のドレスを着せてやるよ」

「ええ。ありがとう、ジュディット」


化粧台の前に座るレア・ヴァーミリオンは、静かに冷たい水を喉へと流し込んでいた。

その双眸は、嵐の前の湖面のように静まり返っている。

劇場の事務所の窓から見下ろせば、大通りの向かい側の広場には、今夜も下町の人間たちが集まり始めていた。

煙突街の荷揚げ人夫、煤にまみれた鍛冶屋、ボロ布を羽織った女工たち。

昨夜、憲兵に名前を控えられ、脅しつけられたはずの彼らが、それでも外套の襟を立て、寒風に肩を竦めながら、おずおずと劇場の赤い看板を見上げている。

五十人、八十人、百人――。

恐怖に怯えながらも、あの魂を揺さぶる絶叫を、生きている実感を取り戻すための熱を求めずにはいられない市井の者たちが、再びこの城の門扉へと引き寄せられていたのだ。


「……阿呆どもが」

入口の様子を窺っていたマルゴ・デルーが、煙管の煙を吐き出しながら、不器用に口元を歪めた。

「脅されたってのに、また懲りずに集まってきやがった。……まったく、どいつもこいつも、あの子の毒にすっかり脳味噌まで侵されちまってるよ」


「それが、人間の飢えというものよ」

レアは立ち上がり、真紅のドレスのトレーンを床へと滑らせた。

「大聖堂の無菌室の賛美歌じゃ、あの人たちの腹の底の冷えは温まらない。……さあ、マルゴ。大扉を開けなさい。今夜も、集まった者たち全員に、生きている産声を浴びせてやるわ」


開演まで、あと三十分。

劇場の真鍮のベルが、一回目の予鈴を鳴らそうとした――その刹那だった。


ドドドドドドドドッ……!!


地底のマグマが噴き出したかのような、異様な重低音が大通りの彼方から轟いてきた。

それは、観客たちの足踏みの地鳴りではない。

硬質な鉄の蹄鉄が、数百個、寸分の狂いもない軍事教練のリズムを保ちながら、石畳を容赦なく踏み砕いて迫り来る響き。


「……何だい!?」

マルゴが煙管を取り落とし、素早く腰の散弾銃を引き抜いた。

ノアの手が止まり、ジュディットが息を呑んで窓際へと駆け寄る。


高架橋の上部、第一区と中央区を繋ぐ大通りから雪崩れ込んできたのは――黒塗りの装甲馬車十両と、それに付き従う百名を超える完全武装の騎兵隊だった。


馬車の側面に刻まれているのは、冷ややかな銀泥の紋章――「白百合と天秤」。

騎乗する男たち、そして馬車の周囲を駆け抜ける兵士たちが身に纏っているのは、帝都警備隊の紺青の軍服ではなかった。

漆黒の分厚いウールの詰襟軍服。胸元には銀の十字架をあしらった胸甲、頭には鉄兜、手には抜き身の銃剣付きマスケット銃と、樫の木に鉄板を打ち込んだ暴徒鎮圧用の大型盾。


聖歌庁直属――『典礼憲兵隊(ハイ・ジャンダルム)』。


神の調和を冒涜する異端者を武力で抹殺するためだけに組織された、教会の私兵部隊の主力だった。

彼らは一瞬のうちに大通りを封鎖し、逃げ惑う一般市民を銃床で薙ぎ払いながら、〈ルージュ座〉の正面ファサードを扇型に完全包囲したのだ。


「なっ……!?」

広場に集まっていた下町の観客たちが、悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。

「憲兵だ!」「聖歌庁の正規部隊だぞ!」「逃げろ、撃たれるぞ!」


馬のいななき、鉄靴の地鳴り、銃剣の擦れ合う甲高い金属音。

平和な夕暮れの大通りは、一瞬にして殺伐とした戦場へと姿を変えた。

部隊の統制は冷酷なまでに完璧だった。劇場の正面大階段を盾の壁で塞ぎ、裏路地の通用門、搬入口、さらには換気口に至るまで、銃を構えた兵士たちが隙間なく配置されていく。


その包囲網の中央。

装甲馬車の一両から、黒い法衣を纏った一人の男が、冷ややかに石段へと降り立った。


年の頃は五十前後。剃り上げた頭皮に、爬虫類のように感情を殺した灰色の瞳。

胸元には、最高位の聖職者と審問官だけが着用を許される、純銀の豪奢な大ペンタントが揺れている。

聖歌庁筆頭執行官――マクシミリアン伯爵の直属の右腕であり、異端摘発の冷血漢として恐れられる男、ヴァルテール司祭補だった。


ヴァルテールは護衛の兵士たちを従え、威風堂々と劇場の正面大階段を上がった。

その手には、赤い蝋封ではなく、血のように重々しい鉛の封印が施された、分厚い羊皮紙の巻物が握られている。


劇場の正面大扉が内側から開き、マルゴ、ノア、ジュディットが飛び出してきた。

マルゴは散弾銃の銃口を足元に向けたまま、仁王立ちになって男を睨みつけた。


「何の真似だい、教会の番犬ども! アタシらは査問委員会からの召喚状を受け取ったばかりだ! 出頭期日は十日後のはずだろうが! なぜ今夜、軍隊を繰り出してここを包囲しやがる!」


マルゴの怒号に対し、ヴァルテール執行官は眉一つ動かさなかった。

手元の羊皮紙の鉛の封印を、冷たい指先で無造作に引きちぎる。

そして、よく通る、感情の起伏を一切排した金属的な声で、大通り一帯に響き渡るように高らかに読み上げ始めた。


「――聖歌庁最高査問委員会、緊急執行命令」


その声が落ちた瞬間、包囲する百名の憲兵たちが一斉に銃剣の柄を叩き、ジャキンッ!と威嚇の音を響かせた。


「帝都第三区所在、施設名〈ルージュ座〉。代表者レア・ヴィット。

査問委員会への召喚通告後においても、当該施設における公序良俗紊乱行為、未公認集会の継続、ならびに帝国典礼音楽独占法に対する重大なる違反行為が継続して確認された。

よって、聖歌庁筆頭審問官マクシミリアン・ド・ランカスター伯爵の特権大命に基づき、期日を待たずして、本施設に対し――即時、無期限営業停止命令を下す」


「……無期限営業停止命令だと!?」

ノアが奥歯を噛み締め、怒りに肩を震わせた。

「出頭の期日前だぞ! 弁明の機会すら与えずに、一方的に門を閉ざす気か!」


「異端の毒花に、弁明の権利など最初から存在しない」

ヴァルテール執行官は冷酷に言い捨て、背後の憲兵たちに顎で指図した。


「執行せよ。――この不浄の扉を、神の鎖で封じよ」


「はっ!」


十数名の屈強な憲兵たちが、馬車の荷台から巨大な鉄の鎖を引きずり出してきた。

ジャラララッ、ドスン!

大人の腕ほどもある太さの、鍛鉄の鎖。

兵士たちは劇場の樫の木の大扉を力任せに引き絞り、閉ざされた扉の把手に、その太い鎖を何重にも、何重にも巻き付け始めた。


ギチギチと、木枠が悲鳴を上げる。

そして――兵士の一人が、火箸で熱した巨大な真鍮の聖印を、鎖の結び目へと押し当てた。


ジュウウウウッッ!!


白煙が立ち上り、焦げた鉄と鉛の異臭が大気に広がる。

聖歌庁の不可侵の封印――一度施されれば、教会の許可なく触れた者は即座に反逆罪として処刑される、絶対の拘束具が、劇場の正面扉を無残に縛り上げたのだ。


「やめろ! やめろォッ!!」


その光景を見て、大通りの向かい側の広場から、悲痛な怒号が上がった。

群衆のなかから、数人の若者たちが飛び出してきたのだ。

煙突街の鍛冶屋見習い、港の若い荷揚げ人夫。

彼らは日頃、過酷な労働に耐え、理不尽な身分差別に耐え、ただルージュ座の歌声だけを唯一の救いとして生きてきた下町の若者たちだった。


「ふざけるな! 何が無期限営業停止だ!」

「あの子の歌を奪うな! 俺たちの唯一の楽しみを、お前らの勝手な理屈で奪うんじゃねえッ!」


石畳を蹴り、石段を駆け上がろうとする若者たち。

だが――。


「異端の共犯者どもが。身の程を知れ」


ヴァルテール執行官が冷ややかに呟いた瞬間。

石段の前に立ちはだかっていた典礼憲兵たちが、一斉に大型盾を前へと突き出した。


ガァァァンッッ!!


鈍い衝突音とともに、先頭の青年が盾に跳ね返されて石畳へと転倒した。

直後、憲兵たちの樫の木の警棒が、容赦なく振り下ろされた。


ドカッ! メキリッ!


「ぐあっ……!?」

「ぎゃああっ!」


骨が軋む鈍い音。

抵抗する術を持たない平民の若者たちに対し、憲兵たちは訓練された暴力のすべてを叩き込んでいた。

顔面を警棒で薙ぎ払われ、鼻血を噴き出して倒れる青年。

うずくまった背中を、鉄靴の踵で何度も踏みにじられる少年。

石畳の上に、生々しい鮮血が飛び散り、夕闇のなかで赤黒い染みを作っていく。


「やめなさい! 武器も持たない子供相手に、何をするんだいッ!!」

ジュディットが叫び、飛び出そうとしたが、マルゴがその腕を必死で掴んで押し止めた。

「いけないよ、ジュディット! 手を出せば、あいつらの思う壺だ! 反逆罪で即座に全員射殺されちまう!」


暴力の嵐。

殴打された若者たちは泥水の中に転がり、呻き声を上げながら身を縮めている。

広場に集まっていた何百人もの観客たちは、その凄惨な光景に血の気を引かせ、ただ震えながら息を呑むことしかできなかった。

これが、国家と宗教の力。

逆らう者には容赦のない暴力と破滅を叩きつける、千年の秩序の現実。


◇


その惨劇の一部始終を――大通りの角、薄暗い路地の物陰に停車した一台の馬車の窓から、見つめている者がいた。


紋章を削り落とした、一頭立ての黒塗りの辻馬車。

その車内。

カーテンの隙間から外を凝視していたクラリス・ド・ヴァレンヌは、震える両手で自らの口元を強く押さえていた。


「っ…………!」


声にならない悲鳴が、喉の奥で押し殺される。

彼女のサファイアの双眸は、見開かれたまま、涙で激しく滲んでいた。

石段の上で巻き付けられる、重々しい鉄鎖。

警棒で頭を割られ、石畳の上に血を流して倒れる貧しい青年たち。

そして――その暴力を、冷酷な目で指揮する聖歌庁の執行官の姿。


(……ひどい……なんて、理不尽なの……!)


クラリスの爪が、手袋を突き破らんばかりの力で自らの掌に食い込んでいた。

痛覚が走る。だが、その痛みなど、胸を焼き焦がす激しい屈辱と怒りに比べれば、何の意味も持たなかった。


あの執行官も、あの憲兵たちも、すべては自分が属する支配階級――貴族社会と教会が作り出した手先なのだ。

名門ヴァレンヌ公爵家の令嬢として、自分はこれまで、あのような暴力の上に築かれた温室の中で、何一つ知らずに生きてきた。

「神の調和」「秩序の美徳」。

そんな綺麗事を並べ立てながら、その実態は、貧しい者たちのささやかな希望すらも鉄の鎖で縛り上げ、血を流させて踏みにじる、唾棄すべき偽善の怪物。


そして何より――クラリスの胸を締め付けたのは、激しい「無力感」だった。


(私は……公爵令嬢なのに……何もできない……!)


今すぐ馬車を飛び出し、「やめなさい」と一喝したい。ヴァレンヌ家の名を叫んで、あの執行官の横面に平手打ちを食らわせてやりたい。

だが、できない。

公爵家の娘であることが露見すれば、ルージュ座との繋がりが公になり、レアたちをさらに危険な立場へと追い詰めることになる。

自分はただ、暗闇の中から、仲間たちが踏みにじられる姿を指をくわえて見つめることしかできないのだ。


クラリスの瞳から、大粒の涙が零れ落ち、膝の上のウールのスカートを濡らした。

だが――その涙の奥で、彼女の魂の芯にあった「淑女の弱さ」が、完全に音を立てて砕け散っていた。


(許さない……。絶対に、許さないわ……!)


クラリスは涙を手の甲で乱暴に拭い、唇を血が滲むほどに強く噛み締めた。

祈りなど、何一つ救ってはくれない。

神の調和など、ただの欺瞞だ。

自分は戦う。

自らの持つ財産、人脈、立場――利用できるすべての武器を使って、この偽善に満ちた世界を、あの真紅の歌姫とともに根底から覆してやるのだと。

深窓の令嬢の胸の中で、新たな反逆の炎が、静かに、しかし二度と消えぬ熱を持って燃え上がっていた。


◇


そして。

暴力の余韻が冷めやらぬ、封鎖された正面大階段の上。


カツン、カツン、カツン。


静かな、しかし大通りのすべての喧騒を吸い尽くすような乾いた足音が、石段の奥から響いてきた。


「…………?」

ヴァルテール執行官が眉をひそめ、振り返る。

憲兵たちが一斉に銃剣を構え直した。


劇場の脇、通用門の暗がりから、ゆっくりと歩み出てきたひとつの人影があった。


レア・ヴァーミリオン。


深紅と漆黒のシルクベルベットのドレス。

乱れのない立ち姿。

彼女は、何十挺もの銃口が自分に向けられていることなど、視界の端にも留めていない様子だった。

足元に倒れ、血を流して呻いている一人の青年の前まで歩み寄ると、彼女は――ためらいもなく、その場に片膝をついた。


ガサリ、と真紅のドレスの裾が、泥水と血の混ざった石畳の上に広がる。

汚れなど、一ミリたりとも気にしない。

レアは自らの胸元から、上等な白い麻のハンカチを引き抜くと、青年の割れた額へとそっと押し当てた。


「……っ、う……レ、レア……さん……」

青年が掠れた声を漏らし、血走った目でレアを見上げた。


「喋らないで。……よく耐えたわね」

レアの声は、驚くほど柔らかく、そして温かかった。

彼女は青年の頭を優しく支え、溢れ出る血を丁寧に拭い取っていく。


その姿を、石段の上から見下ろしていたヴァルテール執行官の唇が、侮蔑の笑みに歪んだ。


「……代表者のレア・ヴィットだな。哀れな下層民の小娘が、身の程を弁えぬ城など持つから、このような無駄な血が流れるのだ」

執行官は鉄鎖の巻かれた正面大扉を杖で叩き、冷酷に告げた。


「見よ。神の鎖は下りた。この扉は二度と開くことはない。お前の悪魔の歌声が響く場所など、この帝都の地上のどこにも残されていないのだ。……十日後の査問委員会へ出頭し、神への贖罪を乞うがよい」


執行官の宣告。

憲兵たちが冷ややかに嘲笑を浮かべる。


だが。


青年の止血を終え、立ち上がったレア・ヴァーミリオンは――。

その嘲笑を浴びながら、ゆっくりと顔を上げた。


その瞬間。

石段の上にいた憲兵たちの息が、一斉に止まった。


なぜだ。

目の前にいるのは、城を奪われ、扉を封鎖され、部下を踏みにじられた、ただの無力な下町の小娘のはずだった。

それなのに――。

彼女の切れ長の黒い瞳には、絶望の色など欠片も存在しなかった。

屈辱に震えることもなく、恐怖に青ざめることもない。

そこにあったのは――地底のマグマが噴出する直前のような、静謐で、冷徹で、そして圧倒的な「嘲笑」。


「……神の鎖、ね」


レアの唇から、低く乾いた声が零れ落ちた。

彼女は鉄鎖の巻かれた大扉を一瞥し、それから、ヴァルテール執行官の冷たい瞳を、真っ向から射抜いた。


「劇場を奪えば、私の歌が消えると本気で思っているのかしら」


「何だと……?」

執行官が怪訝そうに目を細める。


「扉を閉ざし、石の壁を封鎖したところで……人間の耳を、人間の魂の飢えを、あんたたちのその錆びた鎖で縛れるわけがないでしょう」


レアの口元が、三日月の形に獰猛に吊り上がった。


「教えてあげるわ、聖歌庁の役人さん。……歌というものはね、劇場の箱の中に閉じ込めておくものじゃないのよ。空気を伝い、石畳を這い、どんな分厚い壁の隙間からでも、人の耳元へと忍び込むものなの」


レアは一歩も引かず、銃剣の列に向かって言い放った。


「せいぜい、その扉をしっかりと見張っていることね。……私の歌は、明日から、あんたたちの寝首を掻きに、帝都中のすべての部屋へ這い寄ってあげるから」


絶対の宣戦布告。

暴力の前に屈服するどころか、より強大で、より捕らえがたい怪物となって蘇ることを告げる、闇のディーヴァの咆哮。

執行官の顔が、怒りと得体の知れない戦慄で引き攣る。


――そして。

その包囲部隊のなかを、冷静に見渡していたマルゴとノアは、ある「異変」に気づいていた。


(……いない)


ノアが心の中で呟く。

百名を超える憲兵隊のなかに、あの男の姿がなかった。

帝都警備隊第3小隊長――ユーグ・アルマン。

本来ならば、この区画の治安出動の指揮を執るべき模範的な騎士の姿が、完全に排除されていたのだ。

上層部が、ユーグの不自然な寛容さを疑い始めている。

体制側の共犯者すらもが、いまや危機に瀕していた。


「引き上げるぞ」

ヴァルテール執行官が忌々しそうに吐き捨て、馬車へと乗り込んだ。

「門を見張れ! 一人たりとも中へ入れるな!」


憲兵隊の馬車が走り去り、大通りに冷たい夜風が吹き抜ける。

封鎖された劇場の前。

血を流した青年を抱え、立ち尽くす仲間たちの中心で、レア・ヴァーミリオンは静かに振り返った。


「ノア」


「……何だ」


「工房へ行くわよ」

レアの瞳の奥で、反逆の炎が鮮烈に燃え盛っていた。


「あいつらが劇場の扉を閉ざしたのなら……劇場の壁すら飛び越える、別の武器を使う時間よ」


正規のステージを奪われた歌姫。

だが、その喉は沈黙するどころか、帝都の歴史上かつてない「文化のゲリラ戦争」へと突入しようとしていた。

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