第32話 鉛色の影
国家という名の巨大な機構が本気で一個の存在を圧殺しようとするとき、最初に動くのは軍隊の巨砲でも、法廷の断頭台でもない。
それは、都市の血管を静かに塞ぎ、呼吸を遮断する、音のない「兵糧攻め」だった。
白銀の査問状が叩きつけられてから、わずか二日。
中央区と下町を分断する高架橋の袂にそびえる独立劇場〈ルージュ座〉の周囲には、目に見える形で鉛色の冷気が立ち込め始めていた。
夜明け前、劇場の搬入口。
冷たい川霧が石畳を濡らすなか、マルゴ・デルーは腕を組み、咥えた煙管から苦々しい煙を吐き散らしていた。
彼女の目の前に立っていたのは、代々下町で酒の卸問屋を営んでいるはずの、小太りの商人だった。普段ならば、ルージュ座が毎夜消費する膨大なエールや葡萄酒の樽を運び込み、揉み手をして売上金の小切手を受け取っていく男が、今朝は空の荷馬車を背にして、青ざめた顔で両手を擦り合わせていた。
「……す、すまねえ、マルゴの女将さん。今朝から、お宅への納品は一切できなくなっちまったんだ」
「納品ができない? どういう了見だい、エドモン」
マルゴの灰色の瞳が、冷たく細められた。
「アタシらは掛け売り(ツケ)なんざ頼んじゃいないよ。毎朝、きっちり現ナマの金貨で決済してるはずだ。何が不満だってんだい」
「金の問題じゃねえんだよ!」
商人のエドモンは悲鳴のような掠れ声を上げ、周囲を怯えたように見回した。
「昨日の夕方、聖歌庁の典礼査察局と名乗る黒い法衣の役人どもが、うちの店に踏み込んできたんだ。『未認可の異端興行施設に酒類を卸す行為は、背教集会への資金供与と見なし、営業許可を取り消す』って、印鑑の押された公文書を突きつけられちまった! うちだけじゃねえ! 港の炭問屋も、近所のパン屋も、劇場の清掃に使う灰汁石鹸を納めてる職人まで……ルージュ座と取引のある店という店に、同じ紙が配られてるんだ!」
エドモンは頭を抱え、半泣きになって後ずさった。
「逆らえねえよ、あんな連中には! 店を潰され、一家全員で牢屋送りにされちまう! 頼むから、もううちを巻き込まないでくれ!」
男は逃げるように荷馬車に飛び乗り、鞭を振るって去っていった。
ガラガラと遠ざかる車輪の音。
搬入口に残されたのは、マルゴと、床に散らばった納品キャンセルの伝票の山だけだった。
「……チッ、薄汚ねえ真似をしやがる」
マルゴは煙管を壁に叩きつけ、歯噛みした。
正面から法でねじ伏せるのではない。
劇場を生かしている兵站――酒、食料、燃料、日用品といった生活の動脈を一本ずつ縛り上げ、劇場の機能を麻痺させようという、教会の冷酷極まりない嫌がらせ。
だが、教会の伸ばした陰湿な触手は、物資の差し止めだけに留まらなかった。
◇
正午を過ぎる頃には、劇場の外を取り囲む光景そのものが、不穏な戦場へと塗り替えられていた。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。
靴底に鉄を打った軍靴の足音が、規則正しい威圧感を伴って、大通りの石畳を絶え間なく打ち鳴らしていた。
ルージュ座の正面ファサードを取り囲むように巡回しているのは、帝都警備隊の制服を着た兵士たちではなかった。
黒いウールの詰襟に、白銀の「白百合と天秤」の記章を胸に佩いた部隊――聖歌庁直属の『典礼憲兵隊』。
十数名からなる小隊が、抜き身の警棒と装填された短銃を腰に下げ、劇場の正面玄関の前を五分おきに行き交っている。
その視線は、行き交う市民の一人ひとりを、犯罪者か異端者を見るように冷酷に射抜いていた。
劇場の前で立ち止まり、真紅の看板を見上げる者がいれば、即座に憲兵が歩み寄り、胸ぐらを掴むようにして尋問を始める。
「おい、貴様。何を見ている」
「い、いえ……看板を……」
「この場所は現在、背教集会の疑いで査察対象となっている。不穏な集会に加担する者は、共犯と見なして即時拘束するぞ。身分証を出せ」
平民の若者が青ざめて身分証を差し出し、憲兵の手帳に名前を控えられて、追い払われるように逃げ去っていく。
大通りの向かい側の広場には、物々しい憲兵の監視馬車が二両、陣取っていた。
馬車の屋根には、聖歌庁の印章が掲げられ、通行人の顔を逐一記録するための書記官が座り込んでいる。
本来であれば、この区画の治安維持を担当しているはずのユーグ・アルマン小隊の姿は、影も形もなかった。
教会上層部が、ユーグの「ルージュ座に対する不自然な寛容さ」を嗅ぎつけ、意図的に警備管轄から外したのだ。代わりに送り込まれてきたのは、マクシミリアン伯爵の息がかかった、融通の利かない教条主義の狂信者たち。
露骨な恫喝。
国家権力の見せびらかし。
法律上、まだ正式な営業停止令が出ていない以上、大扉を力づくで破城槌で叩き割ることはできない。だからこそ彼らは、客が劇場へ近づくことそのものを物理的・精神的に不可能にするという、最も卑劣な「威迫の包囲網」を敷いたのだ。
◇
そして――夜。
開場の時刻を告げる劇場の真鍮のベルが、重々しく鳴り響いた。
本来ならば、一刻も前から大通りを埋め尽くし、五百人を超える平民たちが肩を擦り合わせ、入場を巡って怒号を上げているはずの時間。
だが。
正面玄関の大扉の前に広がっていたのは――寒々とした、不気味な空白だった。
広場には、人がいた。
煙突街の荷揚げ人夫も、工場の女工たちも、靴職人も、確かに大通りの向かい側に集まっていた。
しかし――誰一人として、石段を上がって劇場の扉へと近づこうとはしなかった。
大扉の両脇に仁王立ちする典礼憲兵たちの、冷酷な眼光と抜き身の警棒。
身分証を控えられ、教会の台帳に「異端崇拝者」として名を刻まれれば、明日からの仕事も、配給のパンも、家族の安全すらも奪われる。泥水をすすって生きる彼らにとって、教会の報復は、飢え死に直結する絶対の恐怖だった。
男たちは外套の襟を立て、唇を噛み締めながら、遠巻きにルージュ座の赤い看板を見つめることしかできなかった。
そして、二階と三階の仮面VIP席へと続く、裏通りの専用通用門でも――。
カタ、カタ、カタ……。
数台の黒塗りの辻馬車が、裏路地へと滑り込んできた。
だが、馬車は通用門の前で停まることはなかった。
路地の角に陣取る憲兵たちの姿と、手帳を構えた密偵の影を窓の隙間から確認した瞬間、御者たちは慌てて手綱を引き、そのまま夜の闇の中へと馬首を返して去っていったのだ。
貴族たちにとって、金など痛くも痒くもない。
しかし、「スキャンダル」だけは命取りだった。
教会の査察線に自らの馬車が記録され、夜会で異端者として糾弾されれば、家名は傷つき、官位は剥奪される。
身分を捨てて本能を解放したいという快楽の欲求は、保身という冷たい計算の前に、あっけなく押し潰されていた。
開演五分前。
八百人を収容できるはずの〈ルージュ座〉の客席。
真紅のベルベットに包まれたその広大な空間に足を踏み入れた観客は――一階にわずか五十人足らずの命知らずの若者たち、二階の紗幕の奥には、十数名の震える影だけだった。
ぽっかりと空いた、無数の空席。
かつて熱気で白く濁り、床板を共鳴させていたあの圧倒的な地鳴りはどこにもなく、ただ、真鍮ランプの炎がチリチリと爆ぜる音だけが、虚しく広大な空間に木霊していた。
◇
舞台裏、最上階の支配人室。
ガシャンッッ!!
陶器のカップが床に叩きつけられ、粉々に砕け散った。
「ふざけるんじゃないよッ! 汚い! 汚すぎるよ、あの教会の腐れ老いぼれどもめッ!!」
ジュディット・モレルが、激しい怒りに顔を真っ赤に染め、床を踏み鳴らしていた。
手にした裁縫鋏を机の上に突き立て、乱れた黒髪を振り乱す。
「酒も炭も届かない! 表には犬どもを並べて客を脅しつける! あんな卑怯な手を使って、恥ずかしくないのかい!? あたしたちが命を削って縫い上げたこの赤い城を……あんな連中の小細工で、空っぽにされてたまるもんかッ!」
部屋の隅では、劇団のコーラスに参加していた下町の若い娘たちが、青ざめた顔で身を寄せ合って震えていた。
「女将さん……あたしたち、どうなっちゃうの……?」
「憲兵に名前を書かれたら、長屋を追い出されちゃう……」
マルゴは煙管を咥えたまま、重苦しい沈黙を保っていた。
床に散らばった陶器の破片を見つめるその瞳には、長年裏社会を生きてきた者特有の、冷徹な焦燥感が浮かんでいた。
「客が来なけりゃ、興行は死ぬ。……金が入らなきゃ、この巨大な劇場の維持費も、資材の代金も払えなくなる。教会の狙いはこれさ。手を汚さず、兵糧攻めでアタシらを干からびさせようって魂胆だよ」
ピアノの前に座るノアも、鍵盤に両手を置いたまま、動かずにいた。
「……言ったはずだぜ。あいつらは、正義の顔をして都市ごと息の根を止めに来るってな。正攻法で立ち向かおうとしたって、法も軍も全部教会の手の内にあるんだ。勝ち目なんざ最初からねえ」
重苦しい絶望が、冷たい霧のように部屋を満たしていく。
誰もが唇を噛み、下を向いていた。
数日前まで、帝都の頂点に手をかけたはずの夢が、権力の巨大な影の前に、音を立てて瓦解しかけている。
――その時だった。
コン、コン、コン。
控えめな、しかし酷くねっとりとしたノックの音が、事務所の扉を叩いた。
「…………誰だい」
マルゴが散弾銃を引き寄せ、警戒の声を上げる。
扉が静かに開かれた。
入ってきた男の姿を見た瞬間、室内の空気が再び凍りついた。
銀狐の豪奢な毛皮外套を羽織り、ポマードで撫でつけた黒髪を揺らした男。
口元に細身の葉巻を燻らせ、琥珀色の瞳に嘲笑の光を湛えた――ベルナール・ジルだった。
「よお、元気そうだな、負け犬ども」
ベルナールは煙草の煙をふうと吹きかけ、部屋の中を舐め回すように見渡した。
背後には、あの首筋に刺青のある巨漢の護衛を従えている。
かつてレアに肩の手を払い落とされ、ギルバートとユーグに阻まれて屈辱の退場を強いられた男。その彼が、いまや勝ち誇ったような、歪んだ優越感に満ちた笑みを浮かべていた。
「何の用だい、ハイエナが」
マルゴが銃口を向けるが、ベルナールは鼻で笑って手を振った。
「撃てるもんなら撃ってみな、ババア。外には典礼憲兵がウロウロしてるんだぜ? 銃声一発で、お前らは全員その場で射殺だ」
ベルナールは悠然と歩み寄り、机の上に置かれていた空の売上台帳を指先で弾いた。
パタン、と虚しい音が響く。
「下を見てきたぜ、レア。……八百席の立派な城に、客が数十人か。惨めなもんだな。まるでお通夜の会場だ」
ベルナールは葉巻を指で挟み、長椅子に座るレアへと向き直った。
その顔には、相手の破滅を心底から愉悦している男の、醜悪な表情が張り付いていた。
「だから言ったろ、小娘」
ベルナールの掠れたバリトンが、嘲るように室内に落ちた。
「後ろ盾のない女が城なんざ持ちゃ、教会の老いぼれに喉首をへし折られるだけだってな」
痛烈な嘲笑。
かつて自らの庇護を拒絶し、対等のパートナーシップを要求し、最後には自力で劇場を買い取って自立した少女に対する、男の復讐の言葉。
「男に頼らず、己の力だけで生きていく? 大聖堂を泥水で呑み干す? ……ハッ、笑わせるんじゃねえよ。現実を見ろ。お前の歌がどれだけ凄まじかろうが、教会の役人が紙切れ一枚配っただけで、お前の客は蜘蛛の子を散らすように逃げ出していったじゃねえか。お前が信じていた大衆なんざ、その程度の腰抜けなんだよ」
ベルナールは一歩踏み込み、煙をレアの顔へと吹きかけた。
「どうだ、レア。今ならまだ間に合うぜ? この劇場を俺に二束三文で売り渡し、俺の女になりな。俺が教会の知り合いの枢機卿に頼み込んで、お前の出頭命令を取り下げさせてやる。お前は俺の地下カジノの暗がりで、俺のためだけに歌っていればいいんだ。……それが、お前が生き延びる唯一の道だぞ」
甘い毒の提案。
すべてを失いかけた女を、どん底で買い叩き、永遠の所有物にしようとする、捕食者の罠。
ノアが奥歯を噛み締め、ジュディットが拳を震わせる。
だが――。
ベルナールが喋り散らすその間、化粧台の前に座っていたレア・ヴァーミリオンは、身じろぎ一つしていなかった。
彼女は手元の冷たい水を静かに飲み干すと、グラスを机の上にトンと置いた。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「…………」
その切れ長の黒い瞳を見た瞬間。
勝ち誇っていたはずのベルナールの息が、喉の奥でピシリと凍りついた。
なぜだ。
怯えていない。
絶望していない。
屈辱に唇を噛むこともなく、怒りに我を忘れることすらもない。
そこに座っていたのは――春の氷海のように冷え切り、研ぎ澄まされた、完全なる「静寂」を纏った女帝だった。
「……ベルナール」
レアの低く、乾いた声が落ちた。
「あんた、ずいぶんと嬉しそうね。……教会の連中から、随分と甘い餌でもぶら下げられたのかしら」
「なっ……!?」
ベルナールの琥珀色の瞳が、わずかに揺らいだ。
「何のことだか分からねえな」
「とぼけないで」
レアの唇に、薄く冷酷な笑みが浮かんだ。
「あんたのあの強欲な鼻が、何の得にもならないのに、わざわざこんな包囲された劇場まで嗅ぎ回りに来るはずがないでしょう。……教会の査察局から、裏取引を持ちかけられたわね? 『ルージュ座の営業を妨害し、あの小娘を追い詰めろ。そうすれば、第五区の闇カジノの摘発を見逃してやる』とでも言われたのかしら」
核心を一撃で射抜く言葉。
ベルナールのこめかみに、冷や汗が一筋、つうと垂れ落ちた。
図星だった。
歓楽街の闇カジノ〈ラ・ルレット〉は、先日のギルバートの査察予告以来、いつ手入れが入ってもおかしくない綱渡りの状態にあった。そこへ聖歌庁の密使が接触してきたのだ。ルージュ座を内側から崩壊させ、レアを孤立させれば、カジノの営業を黙認してやる、と。
「……ち、チッ。知ったような口を利くじゃねえか」
ベルナールは顔を引き攣らせ、葉巻を床に投げ捨てた。
「それが分かっているなら話が早えだろうが! 教会はお前を本気で殺しに来ているんだ! 客が来ねえ劇場に、一体何の価値があるってんだよ!」
ベルナールの怒号が、静かな部屋に響き渡る。
だが、その叫びに対し、レアは冷ややかに立ち上がった。
深紅のドレスの裾が、松板の床を擦ってカサリと冷たい音を立てる。
彼女はベルナールの一歩手前まで歩み寄ると、その濁った琥珀色の瞳を、至近距離から見下ろすように射抜いた。
「客が来ない?」
レアの唇から、小さく、しかし骨の髄まで凍りつかせるような嘲笑が零れ落ちた。
「あの人たちが来ないのはね、私の歌を忘れたからじゃないわ。……首元に突きつけられた、銃剣の冷たさに怯えているだけよ」
レアは窓の外――劇場の正面を取り囲む、典礼憲兵たちの灰色の隊列を見据えた。
「劇場の扉を塞ぎ、外から人を遮断すれば、私の歌が消えると本気で思っているのかしら。……馬鹿ね。抑圧されればされるほど、人間という生き物は、禁じられた熱狂に飢え渇くものなのよ」
レアは振り返り、部屋の隅で立ち尽くしていたノア、マルゴ、そしてジュディットを見つめた。
その瞳の奥で燃え盛っていたのは、絶望を焼き尽くす、漆黒の闘志だった。
「客がこの城へ来られないというのなら――」
レアは顎を引き、決定的な一撃を宣告した。
「――こちらから、客の耳元へ這い寄るまでよ」
「……何?」
ベルナールが呆気にとられたように声を漏らした。
ノアが目を見張り、マルゴが息を呑む。
劇場の壁に閉じこもるのではない。
あちらが包囲網を敷くのなら、その包囲網の隙間を潜り抜け、帝都中のすべての路地へ、すべての長屋へ、すべての部屋へと、自らの歌を毒のように染み渡らせてやる。
レアはベルナールに背を向け、化粧台の上の冷たい麻布を手にした。
「出て行きなさい、ベルナール。あんたの役目はもう終わりよ。……せいぜい教会の老害どもに伝えなさい。『私の喉を塞ぎたいなら、帝都中の人間の鼓膜を破りに来なさい』とね」
圧倒的な覇気。
男の権力も、教会の包囲も、国家の暴力すらも、一寸たりとも彼女の魂を屈服させることはできなかった。
ベルナールは屈辱と底知れぬ戦慄に震えながら、後ずさった。
この少女は、狂っている。
だが――その狂気こそが、いま、帝国を揺るがす巨大な怪物へと姿を変えようとしていた。
「……後悔するなよ、レア……!」
捨て台詞を残し、ベルナールは逃げるように部屋から去っていった。
扉が閉まり、再び静寂が戻った室内。
レアは振り返り、ピアノの前に立つノアを見据えた。
「ノア」
「……何だ、化け物」
「煙突街の地下工房へ行くわよ」
レアの瞳が、暗闇の中で妖しく光った。
「あいつらが劇場の扉を塞ぐなら……別の方法で、この街のすべての部屋に私の声を忍び込ませてやるわ」




