第29話 女たちの赤い城
三十年のあいだ堆積していた灰と煤煙の記憶は、金槌の乾いた打撃音と、箒が石畳を擦る鋭い摩擦音によって、容赦なく宙へと掻き乱されていた。
中央区と下町を分断する巨大な高架橋の直下。
かつて『旧帝室小劇場』と呼ばれ、火災ののちに都市の死角として放置されていたその巨大な石造りの廃墟は、いまや異様な熱気を孕んだ変貌の坩堝と化していた。
天井の吹き抜けから差し込む朝の光の中、幾重もの埃の粒子が黄金色に乱舞している。かつて貴族たちが優雅に馬車を寄せた正面アーチの周りには、足場となる頑丈な丸太と杉板が格子状に組み上げられ、石壁にこびりついた煤を洗い流すための高圧水石鹸の匂いが、冷たい風に乗って漂っていた。
「――そこの布巻きを降ろしな! 床に直置きしたら針を一本ずつ喉に刺すよ!」
二階の馬蹄形バルコニーの手すりから身を乗り出し、喉も裂けよとばかりに怒声を響かせていたのは、ジュディット・モレルだった。
黄色と真鍮色のストライプジャケットの袖を二の腕まで捲り上げ、首からは愛用の黒革の巻尺を蛇のように垂らし、左腕のリストバンドには無数の銀の待ち針がぎっしりと光っている。手には、彼女自身が夜を徹して引き直した特大の劇案内装図面が握りしめられていた。
「壁面の羽目板には、すべて吸音材となる分厚いフェルトを噛ませてから深紅のベルベットを張り巡らせるんだ! 一ミリのたわみも許さないよ! あの子の声が天井にぶつかった瞬間、余計な反響で濁ったら、あたしが仕立てた劇場の名折れだからね!」
ジュディットの指示は、およそ一介の仕立て屋の領分を遥かに踏み越えていた。
彼女にとって、この劇場そのものが、レアの肉体を包み込む「巨大な一着のドレス」だった。
客席の壁を覆うのは、光を吸い込むような最高級の真紅のシルクベルベット。それも、貴族のサロンで使われるような淡い紅やワインレッドではない。切り裂かれた動脈から吹き出す鮮血のような、野生と毒気を孕んだ濃厚な赤。
そして、客席を照らす照明には、ガラスのシャンデリアではなく、下町の金工職人たちに急造させた、無骨で妖艶な真鍮製のブラケットランプが等間隔に配置されている。ランプの笠には細かなスリットが刻まれ、火が灯れば壁面の真紅の布地の上に、炎の揺らめきのような影の格子を落とす計算だった。
「……信じられない手際の良さだね」
一階フロアの中央、真新しい無垢の松板が張り直された巨大なステージの上で、マルゴ・デルーが煙管を咥えながら感嘆の息を吐き出した。
その隣では、ノア・カレヴィが、港湾の闇ルートを通じて運び込ませた黒塗りのコンサートグランドピアノの弦に指を触れ、音叉を耳に当てながら調律の狂いを確かめていた。
「ジュディットの奴、普段は洋服の寸法ばかり測ってるくせに、建物の図面まで引けるとはな」
「あの子の母親は、昔、中央劇場の舞台美術をやってた職人だったのさ」
マルゴは煙草の煙を紫色の帯にして吐き出し、目を細めた。
「男の親方に手柄を横取りされて、結核で野垂れ死に落とされたがね。ジュディットはずっと、その復讐の機会を狙ってたのさ。……自分の針と鋏で、この帝都の男どもが作った劇場のすべてを叩き潰してやる、ってね」
その言葉の通り、劇場の中に満ちていたのは、既存の建築現場とは根本から異なる異様な熱狂だった。
何より異質だったのは――そこで汗を流している「労働者」たちの姿だった。
◇
当初、マルゴが煙突街や港湾から集めてきた屈強な男大工や人夫たちは、女が現場を仕切ることにあからさまな侮蔑の視線を向けていた。
「女のお遊戯に付き合っていられるか」「どうせ貴族の愛人にでもなるための見世物小屋だろう」と、酒臭い息を吐きながら陰口を叩き、作業を怠けようとする者もいた。
だが、その男たちの空気を一瞬で粉砕したのは、他ならぬ「下町の女たち」だった。
「どきな、あんたたち! 力仕事しか能がないくせに、トロトロ足手まといになってんじゃないよ!」
最初に劇場へ押し寄せてきたのは、煙突街の共同洗濯場で働く女たちだった。
凍える川水で手を赤黒く腫らし、一日中、他人の泥にまみれた衣類を洗い続けて日銭を稼ぐ、下層の底の底を生きる女たち。
続いて、織物工場で肺を綿埃に冒されながら一日十四時間の過酷な労働を強いられている女工たち。
酒場で客の尻を触られながら安酒を運ぶ給仕女、裏通りの針子、そして夜の街で体を売らざるを得なかった街娼たち。
十人、三十人、五十人――。
噂を聞きつけた市井の女性たちが、手桶や箒、ブラシ、そして自前の裁縫道具を抱えて、この廃劇場の黒い門扉へと続々と詰めかけてきたのだ。
噂は、煙突街から歓楽街の裏路地へと、燎原の火のように燃え広がっていた。
――大聖堂から追い出された特待生の娘が、男のパトロンを一人も作らず、誰の愛人にもならず、ただ自分の喉一つで稼ぎ出した金で、帝室の劇場を買い取った。
――あの子は、男に養われることを拒絶した。貴族の施しも拒絶した。自分の足で立ち、自分の城を建てようとしている。
その報せは、オルレアン帝国の抑圧された構造の最底辺で、息を殺して生きるしかなかった女性たちの魂に、雷鳴のような衝撃を与えていた。
この帝国において、女性に許された生き方は、あまりにも狭く、絶望的だった。
良家に生まれれば、親の決めた政略結婚の道具として、感情を殺して息の詰まるコルセットで体を縛り付けられ、夫の家名のための「跡継ぎを産む器」として生きる。
貧民街に生まれれば、男に都合よく養われるか、工場で身体を壊すか、街角で身を売るか、さもなくば修道院の冷たい石畳の上で生涯を神への懺悔に捧げるか。
自らの意志で稼ぎ、自らの名前で財産を持ち、男の指図を受けずに生きるなどという道は、帝国の法と道徳によって、最初から跡形もなく塞がれていたのだ。
だが――レア・ヴァーミリオンという存在が、その分厚い鉄の天井を、力づくで蹴破ってみせた。
「あの子に、この城を建てさせるんだ!」
「誰の手も借りずに、私たちの手で、あの子の舞台を磨き上げるんだよ!」
女性たちの手による作業は、鬼気迫るものがあった。
洗濯女たちは手慣れた手つきで灰まみれの石壁を磨き上げ、長年の煤を純白の素肌に戻していく。
縫製工たちはジュディットの指示のもと、馬蹄形バルコニーの天蓋や座席のクッションに、深紅のベルベットを手際よく縫い付け、一糸乱れぬ頑丈なステッチを走らせていく。
男たちが三日かかると渋っていた瓦礫の撤去を、女たちはバケツリレーを組み、一日足らずで運び出して更地にしてしまった。
怠惰な男大工たちは、自分たちよりも遥かに正確で、遥かに獰猛な熱量で働く女たちの気迫に呑まれ、やがて文句を言う暇もなく、指示通りに木材を削り、釘を打つ機械へと成り下がっていった。
◇
劇場の二階、バルコニー席の中央。
まだ手すりの真鍮金具が取り付けられていない剥き出しの客席に、レア・ヴァーミリオンは一人、静かに立っていた。
作業着の擦り切れたズボンに、袖を捲り上げた生成りのブラウス。
額には薄く汗が光り、無造作に後ろで束ねた黒髪の毛先が、吹き抜けを昇ってくる風に揺れていた。
彼女の視線の先では、数十人もの女性たちが、埃にまみれながら、互いに声を掛け合って作業を進めていた。
「そっちの真鍮パイプ、持ち上げて! アンタ腰が入ってないよ!」
「手袋貸してあげるわ、豆が潰れちゃう!」
「見てよ、この布地の赤! 大聖堂のステンドグラスなんかより、よっぽど綺麗じゃないか!」
笑い声。怒号。そして、生きていることの実感を確かめ合うような、力強い足音。
誰一人として、眉をひそめていない。
日々の重労働に摩耗し、家や職場で男たちの顔色を窺い、俯いて生きていたはずの女たちの顔に、かつて見たこともないような誇りと生命の火が灯っていた。
「……壮観ね」
背後から、静かな足音とともに声がかけられた。
振り返ると、そこにはクラリス・ド・ヴァレンヌが立っていた。
彼女もまた、いつもの公爵令嬢としての豪奢なシルクドレスを着てはいなかった。
ジュディットが仕立て直した、動きやすい濃紺のウールの作業服に前掛けを締め、プラチナブロンドの髪を実用的な三角巾でしっかりと覆っている。その細い指先には、木屑と塗料の染みが白く付着していた。
「公爵令嬢が、ペンキまみれになっていていいのかしら」
レアが皮肉めいた笑みを投げかけると、クラリスは誇らしげに顎を上げた。
「これ以上の栄誉が、社交界のどこにございますの? ……サロンで殿方のお世辞に愛想笑いを返すよりも、この劇場の松板を一枚磨くほうが、何千倍も誇らしいことですわ」
クラリスは手すりに寄りかかり、眼下で作業する女性たちを見下ろした。
そのサファイアの双眸には、深い共感の光が宿っていた。
「あの方たちを見ていると、分かりますの。……私たちが奪われていたのは、ただの歌声ではなかったのだと」
「……どういう意味?」
「呼吸ですわ」
クラリスは自らの胸元に手を当てた。
コルセットのないその胸郭は、深く、穏やかに空気を吸い込んでいた。
「自分の足で立ち、自分の言葉を話し、自分の意志で叫ぶこと。……この帝国は、女からそのすべてを奪い、死人の人形として生きることを強要してきました。大聖堂の首席候補だった私も、煙突街の洗濯女の方々も、置かれた檻の装飾が違っていただけで、同じように首を絞められていたのです。……でも、あなたは違った」
クラリスは視線を向け、レアの真っ直ぐな横顔をじっと見つめた。
「あなたは、誰の庇護も受けず、その喉一つで世界を殴り倒してみせました。……あの方たちにとって、あなたはこの場所に立つだけで、自由そのものの象徴なのですわ。あなたが歌い続ける限り、私たちは二度と、男たちの顔色を窺って窒息する必要はないのだと……そう信じることができる」
シスターフッド。
身分も、境遇も、生まれ育った環境も全く異なる女たちが、ただ一つの「生きようとする執念」を媒介にして、目に見えない強固な鎖で結び合わされている。
それは、教会の神への敬虔でもなく、国家への忠誠でもない。
抑圧された者たちだけが分かち合う、泥まみれの連帯。
「……重いわね」
レアは短く息を吐き出し、視線を舞台の中央へと戻した。
その口調は冷淡だったが、黒い瞳の奥に宿る光は、決して彼女たちの期待から逃げようとはしていなかった。
「私は聖女でもなければ、救世主でもないわ。誰かを救うために歌う気なんて毛頭ない。……私はただ、私の歌を奪おうとしたあいつらの鼻面を、力づくでへし折ってやりたいだけよ」
「ええ、知っておりますわ」
クラリスは微笑んだ。
「だからこそ、私たちはあなたについていくのです。……誰にも媚びず、孤高のまま玉座に君臨する、私たちの女帝様に」
◇
それから、二週間が過ぎた。
突貫工事は夜を徹して続けられ、かつて都市の死角で朽ち果てていた廃墟は、完全に息を吹き返していた。
瓦礫は消え去り、焼け焦げた木材はすべて強固な硬質オーク材へと取り替えられた。
客席の壁面を隙間なく埋め尽くす、鮮烈な深紅のベルベット。
天井の梁からは、下町の金工職人たちが叩き上げた百数十基の真鍮ランプがシャンデリアのように吊り下げられ、磨き上げられた真鍮の鈍い黄金色の光が、真紅の布地に怪しく、かつ圧倒的な陰影を投げかけている。
一階のスタンディングフロアは五百人を呑み込む広大な空間として拡張され、二階と三階の馬蹄形バルコニーには、貴族たちが身を隠すための漆黒の二重紗幕が、威厳をもって張り巡らされていた。
音響は、ノアの徹底的な調律と、ジュディットの計算された吸音設計によって、奇跡的なまでの鳴りを獲得していた。
舞台の上で指を鳴らせば、その微かなパチンという音すら、三階の最後列の席まで、輪郭を保ったまま鮮明に響き渡る。
美しく、妖艶で、暴力的なまでに前衛的な、地上の大伽藍。
もはや、歓楽街の薄暗い地下室などとは比較にならない、名実ともに帝都の文化の心臓部となり得る常設劇場。
そして――改装工事の最終日。
夕闇が帝都を包み込み、中央区と下町の境界線を走る大通りに冷たい夜風が吹き始めた頃。
「おーい! 全員、表へ出な!」
ジュディットの鋭い号令が、劇場内に響き渡った。
作業を終えた数百人の女性たち、職人たち、そしてマルゴ、ノア、クラリス、ギルバートが、正面の大扉から一斉に大通りへと吐き出されていく。
大通りの向かい側、広場に集まった群衆が、息を呑んで劇場のファサード(正面外壁)を見上げていた。
六本の硬質安山岩の巨柱に支えられた正面玄関の上部。
かつて帝室の紋章が刻まれていたペディメントの直下に、巨大な足場が組まれていた。
そこには、真新しい厚手の白布で覆われた、幅五間を超える巨大な看板が据え付けられている。
足場の上に立っていたのは、ジュディットだった。
彼女は腰から黒檀の柄を持つ裁縫鋏を引き抜くと、白布を縛り付けていた太い麻紐を、渾身の力で一閃した。
ジャキィンッッ!!
刃物の金属音が夜気に響き、留め具が弾け飛ぶ。
ハラリ……と。
巨大な白布が夜風を孕んで宙へと舞い上がり、劇場のファサードから滑り落ちていった。
「…………っ!」
広場を埋め尽くしていた数百人の群衆から、一斉に息を呑む音が上がった。
夕闇の空の下、姿を現したその看板。
漆黒の黒漆で塗り込められた重厚な木地の上に、鮮烈極まりない「真紅」の筆致で、巨大な文字が踊っていた。
教会の整然とした活字ではない。
まるで、燃え盛る炎がそのまま文字の形を取ったかのような、野性と誇りに満ちた挑発的な書体。
――〈ルージュ座(Théâtre Rouge)〉。
その文字の周囲には、下町の仕立て屋と女性たちが手作業で打ち込んだ、何千個もの真鍮の鋲が散りばめられ、通りのガス灯の光を浴びて、星々のように鋭くきらめいていた。
赤い城。
男の指図を受けず、教会の戒律に屈せず、女たちの針と汗と、一人の少女の喉だけで奪い取った、帝都初の独立自主興行劇場。
「……できたよ」
足場の上で、ジュディットが鋏を高く掲げ、涙でぐしゃぐしゃになった顔を歪めて叫んだ。
「あたしたちの城だ! 〈ルージュ座〉の完成だよォッ!!」
ワァァァァァァァッッ!!
地鳴りのような歓声が、大通りを埋め尽くした。
下町の女性たちが抱き合い、飛び跳ね、涙を流しながら手を打ち鳴らす。
洗濯女も、工場の女工も、針子も、誰もが互いの肩を組み、頭上に掲げられた真紅の看板を見上げて叫んでいた。
その歓声は、高架橋の石造りのアーチを震わせ、下町の路地裏を抜け、やがて第一区の静寂の宮殿群へと向かって、不穏な警鐘のように轟き渡っていった。
群衆の先頭。
真新しい石段の上に立ったレア・ヴァーミリオンは、腕を組み、頭上の真紅の看板を見上げていた。
夜風が、彼女の黒髪を激しくなびかせる。
その隣に歩み寄ってきたノアが、煙草にマッチの火を点けながら、低く呟いた。
「……すげえ景色だな。あの煤けた地下酒場の酒樽の上から、たった数ヶ月でここまで来ちまった」
「まだよ」
レアの唇に、三日月の形をした獰猛な笑みが浮かんだ。
彼女の視線の先にあるのは、看板の文字ではない。
丘の頂にそびえる、帝立聖楽院の白亜の大聖堂。
冷たい光を放つあの巨大な鳥籠の心臓部を、彼女の黒い双眸は、逃れようもなく見据えていた。
「城は手に入ったわ。……明日の夜、この城のすべての扉を開け放つ」
レアは顎を引き、静かに宣告した。
「聴かせてあげるわ、帝都のすべてに。……これが、私たちの生きている声よ」




