第28話 灰の中の劇場
煤煙に煙る帝都の空を切り裂くように、朝を告げる大聖堂の鐘が重々しく鳴り響いていた。
第一区の白亜の宮殿群が並ぶ高台と、煙突街や歓楽街が密集するすり鉢の底。その二つの世界を分断するように横たわる巨大な石造りの高架橋――中央区と下町を隔てる境界線に、その巨大な亡骸は佇んでいた。
灰色の朝靄のなか、異様な威容を放つ黒ずんだ巨躯。
かつて半世紀前、帝室直属の貴族たちのために建てられながら、ある夜の不審火によって一夜にして焼け落ちたという曰く付きの建造物――『旧帝室小劇場』の跡地だった。
正面ファサードを支えるはずの六本のコリント式石柱は、炎に舐められた跡が生々しく黒い染みとなって残り、ペディメントの彫刻は崩落して原形を留めていない。アーチ状の正面玄関には、帝室管財局の刻印が押された重い鉄鎖が幾重にも巻き付けられ、立ち入りを禁じる錆びた真鍮板が冷たい風にカタカタと震えている。
火災以来、数十年。
莫大な負債と複雑怪奇な所有権の係争、そして何より「焼け死んだ役者たちの亡霊が出る」という不吉な噂のために、どんな物好きな不動産業者も手を出さず、打ち捨てられてカビと蜘蛛の巣に覆われていた都市の死角。
その封鎖された鉄扉の前に、一台の黒塗りの辻馬車が音もなく滑り込んできた。
乾いた靴音が四つ、石畳を踏み鳴らす。
馬車から降り立ったのは、外套のフードを深く被ったレア・ヴァーミリオンだった。
その隣には、太い腕を組んで煙管を咥えたマルゴ・デルー。
ボサボサの黒髪を冷風に揺らし、ポケットに手を突っ込んだノア・カレヴィ。
そして、黄色と真鍮色のストライプジャケットの上に分厚いウールのショールを羽織り、革の巻尺を首から提げたジュディット・モレル。
四人の視線が、見上げるほどにそびえ立つ黒い廃墟へと注がれる。
冷たい風が吹き抜け、焦げた木材と古い灰の臭気が、微かに鼻腔をかすめた。
「……おいおい、ギルバートの若旦那」
ノアが口から煙草を離し、呆れたように細めた目で廃墟を見上げた。
「城を買うって言ってたから、どんな豪邸かと思えば……ありゃどう見ても、ただの巨大な墓場だぜ。梁は焼け焦げて、屋根にゃ穴が空いてるように見えるがな」
「外見だけで価値を測るのは、素人の浅ましさだよ、ピアニスト殿」
背後の馬車のステップから、静かに降り立ってきた男がいた。
濃灰色の仕立ての良いウールコートを纏い、銀縁眼鏡の位置を指先で直す青年――帝国財務卿補佐官、ギルバート・ヴァレンヌ。
彼の小脇には、分厚い羊皮紙の公文書の束と、真鍮の留め金が鈍く光る黒革の鞄が抱えられていた。
ギルバートは鉄鎖の巻かれた門扉へと歩み寄り、眼鏡の奥の怜悧な双眸で、黒ずんだ建物の構造を点検するように見上げた。
「この劇場は、前帝の治世において、当時の最高峰の音響建築家が設計したものだ。外壁と基礎は、耐火性に優れた帝都近郊産の硬質安山岩で組み上げられている。……三十年前の火災で焼失したのは、木造の内装とバルコニー席の一部、そして屋根の天窓周辺に過ぎない。建物の骨格――特に音を共鳴させる主構造は、寸分の狂いもなく現存している」
ギルバートは革鞄から、一枚の巨大な図面を広げてみせた。
そこに描かれていたのは、客席数八百を誇る、扇型の優美な劇場の設計図だった。
「一階フロアにスタンディングを含めて五百名、二階と三階の馬蹄形バルコニー席に三百名。……合計八百名を収容可能なメガ・キャパシティ。舞台の奥行きは十間、天井高は吹き抜けで十五メートル。歓楽街のあの薄暗い地下闘技場跡地などとは、格も容積も比較にならない本物の劇場だ」
「へえ……」
マルゴが煙管の煙を吐き出しながら、目を細めた。
「大層な代物だね。だがね、ギルバートの旦那。そんな一等地にある帝室の物件、いくら廃墟だからって、下町の流れ者にホイホイ払い下げられるような代物じゃないだろうが。管財局の石頭どもが首を縦に振るはずがない」
「通常の手段を用いれば、ね」
ギルバートの口元に、冷徹な官僚特有の策士の笑みが浮かんだ。
「この物件は、旧所有者である劇団組合の破産に伴い、帝室財産管理公社が差し押さえたまま、三十年間滞納公債の担保として塩漬けにされていた。名義上は『処分保留の不良債権』だ。……そこで私は、帝国国有財産清算法第七条の特例条項を適用した」
ギルバートは公文書の束から、赤い蝋封が押された決定書を一枚引き抜いて見せた。
「『治安上の危険性がある廃墟物件について、民間からの即時全額現金決済による債権回収の申し出があった場合、主務官庁の裁量により競売を経ずに即時随意契約を認める』。……教会の査察局や貴族院の保守派がこの手続きに気づく前に、私は昨夜のうちに財務省の決済印を偽装寸前の超法規的スピードで通した。法的な瑕疵は一ミリたりとも存在しない」
ギルバートは振り返り、外套のフードを外したレアを見つめた。
その視線には、かつて客席で彼女の歌を浴び、魂を撃ち抜かれた者だけが宿す、熱烈な敬意が込められていた。
「手続きはすべて完了した。……あとは、君の『弾薬』を納めるだけだ、レア」
レア・ヴァーミリオンは、無言で前へ進み出た。
その背後で、マルゴとノアが馬車の荷台から、重厚な鉄金具のついた樫の木の木箱を二人がかりで降ろす。
ドスンッ、と。
地面の石畳が軋むほどの重々しい衝撃音が、朝の静寂に響いた。
木箱の蓋が開けられる。
朝日が雲の切れ間から差し込み、その中身を黄金色に照らし出した。
ギッシリと、隙間なく敷き詰められた金貨の山。
煙突街の地下酒場〈黒猫座〉で荒くれ者たちから巻き上げた銅貨を両替し、そして歓楽街の〈アリーナ・ノワール〉で仮面の貴族たちから毟り取った、本物の純金貨。
金貨千五百枚。
貧民街の労働者が何世代生まれ変わっても稼ぎ出せない、莫大な富の塊。
レアがこれまで、自らの喉を削り、血の味を飲み込みながら、一小節ごとに奪い取ってきた「魂の対価」のすべてだった。
ギルバートが手配していた財務省の公認鑑定人が、震える手で金貨の枚数と重量を検分し、受領印を帳簿へと押印していく。
全額の一括決済。
一分の未納も、誰からの借金もない、完全なる現金の払い下げ。
「……受領を確認いたしました。これにて、帝室旧小劇場の土地および建物の所有権は、正式に『レア・ヴァーミリオン』へと移転いたします」
鑑定人が深く頭を垂れ、ギルバートへと一本の真鍮の鍵を手渡した。
ギルバートはその鍵を受け取ると、レアの前へと歩み寄り、恭しく両手で差し出した。
ずっしりとした、冷たい真鍮の重み。
手の平に乗せられたその鍵を見つめ、レアの胸の内で、静かな熱が沸き立った。
「……だが、レア」
ギルバートが眼鏡の奥の瞳をわずかに細め、小声で告げた。
「土地と建物の買い取りだけで、君の手持ちの資金は底をついたはずだ。……この巨大な廃墟を舞台として蘇らせるための改修工事には、少なくとも同額以上の莫大な資材と人件費が必要になる。ベルナールとの関係を断ち切った今、その資金をどう工面する気かね?」
現実的な問いかけだった。
建物を手に入れても、舞台が焼け焦げ、客席が崩壊したままでは、一人の客も呼ぶことはできない。
男のパトロンに頼らず、誰の愛人にもならず、銀行からの融資も受けられない下町の歌姫が、どうやってこの巨大な城を再建するのか。
その時だった。
「――その件でしたら、すでに手配は完了しておりますわ、お兄様」
鈴を転がすような、凛とした声が朝の空気に響いた。
「…………!?」
ギルバートが驚愕に目を見張り、振り返る。
高架橋の向こう、中央区の並木道から、一台の豪奢な馬車が静かに近づいてくるところだった。
馬車の扉が開き、降り立ってきたのは――プラチナブロンドの髪を気品あるシニヨンに結い、薄藍色の外出着を完璧に着こなした公爵令嬢、クラリス・ド・ヴァレンヌだった。
彼女の背後には、侍女のアンヌが、ずっしりと重そうな白革の小箱を両腕で抱えて控えている。
「クラリス……!? なぜ君がここに……」
ギルバートが声を失う。
クラリスは兄の動揺など意に介さぬ様子で、優雅なカーテシーをレアに向かって捧げた。
その瞳の奥には、かつて大聖堂で息を詰まらせていた人形の面影など微塵もなかった。自立した意志と、熱烈な誇りを湛えた「筆頭信者」の光。
「おはようございます、レア」
クラリスは微笑み、侍女に目配せをして白革の小箱を前へと運ばせた。
パチン、と金具が外され、蓋が開かれる。
朝日の下で眩い輝きを放ったのは――眩暈がするほど絢爛豪華な、宝石の山だった。
サファイアのティアラ、大粒のダイヤモンドをあしらったネックレス、エメラルドのブローチ、ルビーの指輪。
帝都社交界の最高峰に位置する名門貴族の令嬢たちが、代々受け継いできたはずの家宝級の宝飾品の数々。
「なっ……! これは、ロシュフォール公爵家の首飾り……!? あちらはベルテ伯爵家の家紋入りブローチではないか!?」
ギルバートが血相を変えて叫んだ。財務省の官僚として、各貴族家の資産状況を把握している彼には、その装飾品が誰のものであるかが一目で理解できたのだ。
「クラリス、一体これは何の真似だ! なぜ社交界の令嬢たちの私財がここにある!?」
「出資ですわ、お兄様」
クラリスは平然と言い放った。
「私が主催いたしました読書会に集う、志を同じくする令嬢たち――総勢三十名による、匿名の少額出資基金『エスポワール(希望)』の設立準備金です。……彼女たちは、親からあてがわれた不要な装飾品を売り払い、自らの意志で、この劇場の改修資金としてレアに託すことを誓いました」
「ば、馬鹿な……! 貴族の令嬢たちが、下町の廃劇場の改修に出資するなど……前代未聞だぞ! もし親たちに知れれば――」
「知られませんわ」
クラリスは冷ややかに兄の言葉を遮った。
「出資者はすべて匿名番号で管理され、名義はヴァレンヌ家の私的社交クラブの文化基金として処理されます。法的な抜け穴の指南は……ふふ、お兄様が以前、私に教えてくださった通りにいたしましたのよ?」
「ぐっ……」
ギルバートが言葉に詰まり、眼鏡を押さえて呻いた。
己が妹に授けた知識が、いまや完璧な武器となって自分に跳ね返ってきたのだ。
クラリスはレアへと向き直り、真摯な眼差しでその手を取った。
「レア。これは、施しでもなければ、あなたを縛るためのパトロンの金でもありません。……私たち、息の仕方を奪われていた女たちが、あなたという光をこの帝都に繋ぎ止めるために差し出した、私たちの『自由の株式』です。……どうか、受け取ってください」
女たちの連帯。
男の権力に養われることを拒絶し、自らの人生を取り戻そうとする者たちが、自発的に差し出した武器。
レアは白革の小箱に詰まった宝石の山を見つめた。
冷たい光を放つダイヤモンド。
そこには、かつて大聖堂で自分を見下ろす側にいたはずの少女たちが、自らの手で過去の鎖を引きちぎった証が刻まれていた。
「……いい度胸ね、クラリス」
レアの唇に、三日月の形をした不敵な笑みが浮かんだ。
「預かってあげるわ。……ただし、配当は金貨じゃないわよ。帝都のどの貴族のサロンよりも熱く、狂おしい、本物の歌で返してあげる」
「ええ……! それ以上の配当なんて、この世にございませんわ!」
クラリスが顔を輝かせ、力強く頷いた。
資金は、完全に揃った。
土地の買収、そして劇場の再建。
男の庇護も、裏社会の暴力も介さず、ただ一人の少女の喉と、彼女の歌に共鳴した女たちの知略と執念だけで、すべてが完結したのだ。
ジュディットが胸元から巻尺を引き抜き、興奮に頬を紅潮させて叫んだ。
「決まりだね! よし、あたしが劇場の内装設計を全部仕切ってやる! 深紅のベルベットを客席の隅々まで張り巡らせて、真鍮のランプで天井を埋め尽くしてやるよ! 帝都で一番危険で、一番美しい城にしてやる!」
「へっ、腕が鳴るぜ」
ノアもまた、火の点いた煙草を床に捨て、靴底で踏み消しながら不敵に笑った。
「ピアノは俺が選ぶ。この巨大な空間を震わせる、最高のグランドピアノを闇市から引っ張ってきてやるよ」
「アタシは煙突街と港から、腕利きの船大工と人夫を百人集めてくるよ!」
マルゴが豪快に笑い、太い腕を振り上げた。
「突貫工事だ! 今月末までに、あのベルナールの豚野郎の鼻を明かして、ここへ全員で引っ越しさ!」
仲間たちの熱気が、朝の寒風を吹き飛ばすように渦を巻く。
レアは真鍮の鍵を握りしめ、ゆっくりと劇場の鉄扉へと歩み寄った。
重厚な鎖の隙間に鍵を差し込む。
カチャリ――。
三十年の眠りを破る、澄んだ解錠の音が響いた。
マルゴとノアが手を貸し、錆びついた鉄扉を力任せに押し開く。
ギィィィィィッ……。
重苦しい軋み音とともに、外界から遮断されていた闇が口を開けた。
流れ出してきたのは、古い灰の匂い。
だが、その奥から差し込む光の筋が、広大な劇場の輪郭を浮かび上がらせていた。
吹き抜けの天井。
焼け焦げた木材の隙間から差し込む、幾筋もの朝の光。
八百人を呑み込む馬蹄形の客席が、すり鉢のように広がり、中央の巨大なステージへと視線を集中させている。
埃が舞う静寂のなか、その空間はまるで、新たな主の第一声を今か今かと待ちわびている、巨大な怪物の胎内のようだった。
レアは、埃まみれのステージの中央へと、迷いのない足取りで歩みを進めた。
一段、また一段。
焦げた板を踏み締めるたびに、乾いた足音が空間に反響し、天井の梁を震わせる。
ステージの真ん中に立ち、彼女はゆっくりと振り返った。
客席を見上げる。
三階までそびえ立つ広大な空間。
ここが、私の戦場だ。
ここで、何千人もの人間を狂乱の渦へと叩き落とし、あの高台の聖歌庁の城壁を根底から粉砕してやるのだ。
レアは大きく息を吸い込んだ。
胸郭が開き、冷たい灰の空気が肺胞の隅々を満たしていく。
「……パトロンの金で建てた鳥籠じゃない」
彼女の低く、澄んだ声が、静寂の劇場を満たした。
アンプも魔導具もない生身の声が、驚くべき響きを伴って、八百の客席の最上段まで鮮明に届き渡る。
「男に媚びて手に入れた首輪でもない。……私の喉で買った、私の城よ」
凛とした宣言。
誰の庇護も受けず、己の魂を削り取った歌声だけで手に入れた、絶対の王座。
その姿を見つめながら、マルゴが、ノアが、ジュディットが、クラリスが、そしてギルバートが、息を呑んで立ち尽くしていた。
新たな時代の幕開け。
灰の中から蘇る真紅の劇場の名は――〈ルージュ座〉。
帝都の夜の文化を根底から塗り替える革命の巨城が、いま、確固たる産声を上げようとしていた。




