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第27話 蛇の牙と決裂

地底の擂鉢(すりばち)を焼き尽くさんばかりに渦巻いていた熱狂の残響が、ゆっくりと冷たい石壁の奥へと沈み込んでいく。


帝都第五区、歓楽街『夜の帷(トワール)』の地下十メートルに位置する〈アリーナ・ノワール〉。

指紋照合メダルを導入した会員制倶楽部〈倶楽部ノワール〉への移行から一週間、この地下音楽堂は、もはや歓楽街の一角などという枠組みを完全に踏み越え、帝都全土で最も濃密に富と権力が集流する「巨大な心臓」と化していた。

毎夜、一階には定員一杯の三百数十名の平民が詰めかけ、二階の漆黒の紗幕に覆われた五十席のVIPボックスには、顔を隠した貴族たちが金貨を惜しげもなく投げ打つ。ダフ屋の横行はレアが導入した魔導メダルによって一夜にして壊滅し、チケットの主導権は完全に劇場側の手の内にあった。


夜ごとに積み上がる金貨と銀貨の山は、かつて闇カジノの胴元として歓楽街を牛耳っていた者たちの想像力をすら、遥かに置き去りにしていた。


だが――過剰な黄金というものは、常に人間の理性を狂わせる毒となる。


◇


終演後の舞台裏、かつての拳闘場支配人室を改装した楽屋。

天井から吊るされた真鍮ランプが、煤けた琥珀色の光を投げかけている。室内には、激しいパフォーマンスを終えた直後特有の、生々しい熱気と湿り気が充満していた。


化粧台の前に座るレア・ヴァーミリオンは、冷水に浸した麻布で自らの首筋を丁寧に冷やしていた。

深紅と漆黒のシルクベルベットのドレスは汗を吸い、胸元から横隔膜にかけて刻まれたスリットの隙間から、激しく上下する肋骨のラインが覗いている。連日の過酷な絶唱。しかし、鏡に映るその切れ長の黒い瞳は、疲労に曇るどころか、研ぎ澄まされた抜き身の刀のように鋭利な光を放っていた。


「……ふうっ。今夜も無事に客が捌けたね」

部屋の隅で、マルゴ・デルーが煙管から細い紫煙を吐き出しながら、分厚い革の集金袋の口を麻紐で縛り上げた。

「二階の貴族連中、すっかり飼い慣らされてやがる。誰一人として他人の仮面を剥ごうとせず、ただステージに向かって金貨を放り投げて、そそくさと裏口から馬車で消えていく。……気味がいいくらいの手際だよ」


「手際がいいのは結構だがな、俺の指の骨は毎晩悲鳴を上げっぱなしだぜ」

酒樽の上に突っ伏していたノア・カレヴィが、氷水の入った桶から赤黒く腫れ上がった右手を引き抜きながら、ぼやいた。

痛々しく油布が巻かれた指先を曲げ伸ばし、唇に挟んだ煙草を苦々しく揺らす。

「あのテンポについてくるドラムとベースも、下町の連中から選りすぐったとはいえ、そろそろ限界だ。……おい、レア。少しは曲数を減らすか、休演日を増やす気はねえのか?」


「減らさないわ」

レアは麻布を桶に放り込み、水飛沫を散らした。

「飢えさせることが最大の武器なのよ。一日でも間を空ければ、客の熱狂は冷め、あの退屈な日常の澱みが耳に戻ってくる。毎夜、脳の髄まで私の声で満たしてやらなきゃ、人は本物の共犯者にはならないわ」


「相変わらず、容赦のない女帝様だねえ!」

衣装の手入れをしていたジュディット・モレルが、黄色と真鍮色のストライプジャケットの袖を捲り上げ、腰の裁縫鋏をパチンと鳴らして笑った。

「でも、そのおかげであたしのドレスは帝都中の裏流行(モード)の頂点さ! 中層の仕立て屋どもが、こぞって真紅と漆黒のベルベットを買い漁ってるらしいじゃないか!」


仲間たちのあいだに、確かな手応えと勝利の熱気が漂っていた。

貧民街の地下酒場から始まった戦いが、いまや帝国の中枢を揺るがすほどの巨大なカルチャーのうねりとなって結実しつつある。


――その時だった。


ドカァァンッッ!!


重厚な樫の木の扉が、ノックもなしに乱暴に蹴破るようにして開け放たれた。


「…………っ!」

マルゴが瞬時に身構え、壁に立てかけてあった散弾銃へと手を伸ばす。

ノアが調律具を握りしめ、ジュディットが息を呑んで後ずさる。


入口の薄暗がりに立っていたのは、二つの影だった。

後ろに控えているのは、首筋に刺青を刻んだ巨漢の護衛。仕立てのいい黒いスーツの下で、筋肉が威圧的に隆起している。

そして――その前を歩み出てきた男。


銀狐の豪奢な毛皮外套(オパール・ファー)を肩から羽織り、ポマードで撫でつけた黒髪を揺らした男――ベルナール・ジル。

口元には太い葉巻を燻らせ、琥珀色の双眸は、酒と過剰な欲望によって爛々と濁っていた。

いつもの、抜け目なく計算高いビジネスマンの冷徹な仮面は、そこにはなかった。

その顔に張り付いていたのは、巨万の富を前にして歯止めを失った、裏社会の捕食者特有の、下品で傲慢な「本性」そのものだった。


「物騒な歓迎はやめてもらおうか、マルゴ」

ベルナールは部屋の中にズカズカと踏み込み、葉巻の灰を床の絨毯へと無造作に叩き落とした。

「ここは俺の持ち物だ。自分の庭に足を踏み入れるのに、いちいちネズミどもの許可がいるのかい?」


「……ジル」

マルゴは散弾銃の銃口を床に向けたまま、灰色の瞳を冷たく細めた。

「酒の席で祝杯をあげるなら、表のカジノでやりな。ここは歌い手の楽屋だよ。土足で上がり込んでいい場所じゃない」


「祝杯? ハッ、そんな呑気な用件でわざわざ地下まで降りてくるかよ」

ベルナールは鼻を鳴らし、マルゴを無視してスタスタと部屋の中央へ進んだ。

その視線は、最初からただ一点――化粧台の前に座るレアへと注がれていた。


ベルナールは外套のポケットに両手を突っ込み、レアの眼前で立ち止まった。

生温かい香水の匂いと、安物の葉巻の煙が、室内の冷えた空気を濁らせる。


「おい、レア」

ベルナールの掠れたバリトンが、低く室内に響いた。

「今夜の売上台帳をさっき確認した。……一晩で金貨四百枚だ。笑いが止まらねえよ。この帝都のどこを探したって、一晩でこれだけの現金が動く場所はねえ」


「数字の報告なら、毎朝マルゴが提出しているはずよ」

レアは振り返りもせず、鏡越しに冷ややかな視線を男へと返した。

「何の用かしら。夜更けにわざわざ、その下品な毛皮を見せびらかしに来たわけじゃないでしょう」


「相変わらず、可愛げのない口を利く娘だ」

ベルナールは口元を歪めた。

だが、その瞳の奥にある光は、以前の「対等な商談相手を面白がる実業家」のそれとは完全に変質していた。

彼は懐から一枚の真新しい契約書を引き出し、机の上に放り出した。


バサリ、と重々しい紙擦れの音が落ちる。


「契約の改定だ」

ベルナールは卓上に両手をつき、レアの顔へと身を乗り出した。


「現在の取り分――俺が三割、アンタらが七割。……この比率を変更する。明日からの公演分から、売上の『五割』を場所代として俺に納めてもらう」


「……何だい、その寝言は!」

マルゴが怒声を上げ、一歩踏み出した。

「五割だと!? ふざけるんじゃないよ! この箱の改装費も、ピアノの手配も、舞台の演出も、集客の工夫も、すべてアタシらとレアが頭を絞ってやり遂げたんだ! アンタはただ、カビの生えた地下室を貸し出して、右から左へ金をくすねてるだけじゃないか!」


「黙ってろ、ババア!」

ベルナールが怒気を含んだ声で一喝した。

「この箱が誰の土地にあると思っている? 官憲の目を眩まし、歓楽街の闇カジノの地下という治外法権の盾を提供してやってるのは誰だ? 俺がいなけりゃ、貴様らなど最初の一夜で警備隊に踏み込まれて一網打尽だったんだよ!」


ベルナールは再びレアへと向き直り、威圧的な笑みを貼り付けた。


「五割だ、レア。……嫌だとは言わせねえぞ。もしこの条件を呑まねえって言うなら――今夜限りで、この〈アリーナ・ノワール〉からアンタらを叩き出す。明日からの公演はすべて中止だ。鉄扉に鎖を巻き、入口をセメントで塞いでやる」


露骨な脅迫。

成功の果実が熟し切った瞬間を見計らい、力づくで収穫を強奪しようとする、裏社会のハイエナの常套手段。

室内が、凍りつくような沈黙に包まれた。

ノアが拳を握りしめ、ジュディットが恐怖と怒りで唇を噛む。


だが――。

ベルナールの暴挙は、それだけに留まらなかった。


「……それに、だ」


ベルナールの口元が、ねっとりとした、耐え難いほどに卑俗な笑みに歪んだ。

彼は右手を伸ばした。

手袋を嵌めたその指先が、化粧台に座るレアの華奢な肩へと、馴れ馴れしく、所有権を誇示するかのように置かれたのだ。


「以前も言ったはずだぜ、小娘。……俺の女になれ、とよ」


銀狐の毛皮が擦れ合い、男の息がレアの耳元を掠める。


「アンタのその生意気な態度も、冷たい目つきも、最初は鼻についたが……舞台の上で吼える姿を見ていたら、たまらなく欲しくなっちまった。アンタのような上等な女はな、男の腕の中で可愛がられてこそ本物になるんだよ。……俺の女になれば、売上の取り分なんざどうとでも融通してやる。帝都の一等地に屋敷を買い、召使いを十人侍らせて、アンタを歓楽街の真の女王にしてやるぜ。……悪い話じゃねえだろう?」


男の権力による包摂。

自立しようとする女の手足を折り、自らの愛玩物として囲い込もうとする、支配欲の塊。

背後の巨漢の護衛が、勝ち誇ったように下卑た笑みを浮かべていた。


だが。


――ピシリ。


部屋の空気が、絶対零度まで凍りついた。


レア・ヴァーミリオンは、肩に置かれた男の手を、ただ静かに見下ろしていた。

怯えも、狼狽も、羞恥すらもない。

そこにあるのは――自らの聖域に這い上がってきた汚らわしい害虫を前にした時のような、底知れぬ、冷酷無比な「嫌悪」。


刹那。


バシィィィィンッッ!!


鼓膜を劈くような、鋭利な破裂音が楽屋に響き渡った。


「ぐっ……!?」

ベルナールが、間の抜けた呻き声を上げて後退した。

彼の手首が、レアの小柄な掌によって、容赦のない力で弾き飛ばされていたのだ。

跳ね上げられた男の右手が、宙で無様に痙攣する。


「貴様ッ!」

背後の巨漢の護衛が怒声を上げ、懐の銃に手を伸ばしかけた。

だが、マルゴの散弾銃が、ガチャンと撃鉄を起こしてその護衛の眉間へとピタリと突きつけられた。


「動くんじゃないよ、木偶の坊! 頭蓋骨を吹き飛ばされたくなきゃ、その汚い手を懐から出しな!」

マルゴの殺気に気圧され、護衛の動きが止まる。


そして――。

レア・ヴァーミリオンは、ゆっくりと立ち上がった。


深紅のドレスの裾が、松板の床を擦ってカサリと冷たい音を立てる。

彼女は化粧台の上に置かれていた麻布を取り上げると、ベルナールの手が触れていた自らの肩口を、念入りに、力任せにゴシゴシと拭った。

まるで、ドブ川の泥水でも塗りたくられたかのような、あからさまな侮蔑の仕草。


「……何の真似だ、小娘」

ベルナールの顔から笑みが完全に消え去り、こめかみに青筋が激しく浮き上がった。

「俺の好意を踏みにじる気か? 言ったはずだぞ、この箱から叩き出すと!」


「叩き出す?」

レアの唇から、小さく、しかし酷薄極まりない嘲笑が漏れた。


彼女は卓上へと歩み寄り、引き出しから一枚の黄ばんだ羊皮紙を取り出した。

それは、半月前、煙突街の〈黒猫座〉でベルナールと交わした、最初の契約書の原本だった。


ドサッ、と。

レアはその契約書を、ベルナールが叩きつけた改定案の上に、叩きつけるようにして放り出した。


「よく見なさい、歓楽街のハイエナ」

レアの声は、氷の刃のように研ぎ澄まされていた。


「契約書の第十二条。『本契約の有効期間は、初日公演より起算して三十日間とする。期間満了時における更新は、双方の合意に基づくものとする』。……期限は、今月末までよ」


「……あ?」

ベルナールが目を眇める。


「今月末で、契約は満了よ。……契約の延長は、しないわ」


決定的な宣告。

ベルナールの呼吸が止まった。

ノアが目を見張り、ジュディットが息を呑む。


「な……何を言ってやがる? 契約延長をしないだと? ここを出て行って、一体どこで歌う気だ! 帝都中を探したって、五百人を収容できて、官憲の目が届かない地下ステージなんざ、俺のこの箱以外に一寸四方も存在しねえんだぞ!」


「あんたの箱?」

レアは一歩踏み出し、ベルナールの琥珀色の瞳を、至近距離から真っ向から射抜いた。


「勘違いしないで、ベルナール。客が集まっているのは、あんたのこの薄汚れた地下室が素晴らしいからじゃないわ。……私の喉があるからよ」


傲慢極まりない、しかし動かしようのない絶対の真実。


「私が立っている場所が、劇場になるのよ。私が口を開けば、下水溝だろうと、吹きさらしの広場だろうと、人は金貨を抱えて群がってくる。……あんたのこの箱はね、客席が五百席しかないのよ。毎夜何百人もの人間が入れずに路地に溢れかえっている現実を、あんたは見ていないの?」


レアは顎を引き、決定的な一撃を突きつけた。


「この箱はね――あんたの貧相な想像力以上に、小さすぎたのよ」


「なっ…………!」

ベルナールが絶句した。

顔面が怒りと屈辱で真っ赤に染まり、やがて土気色へと変わっていく。

男の権力で脅し、屈服させるはずだった。

売上の半分を毟り取り、自分の女にして籠の中に閉じ込めるはずだった。

それなのに――目の前の少女は、最初からこの場所を「ただの通過点」としか見做していなかったのだ。

男の庇護など毛頭求めていない。

最初から、自らの足で立ち、自らの稼ぎだけで帝国を呑み干すための足がかりとして、この地下闘技場を使い捨てにするつもりだったのだ。


「ふ、ふざけるな……!」

ベルナールの喉から、獣のような唸り声が漏れた。

「小娘が……いい気になりおって! 俺を裏切って、この歓楽街を生きて出られると思っているのか!? おい、やれッ!」


ベルナールが背後の巨漢の護衛に怒声を飛ばした、その瞬間。


「……やめておきなさい、ベルナール・ジル卿」


冷徹で、感情の交じらない男の声が、開け放たれた楽屋の入口から降ってきた。


「…………誰だ!?」

ベルナールが弾かれたように振り返る。


通路の薄暗がりに立っていたのは、一人の男だった。

濃灰色のウールコートを纏い、銀縁眼鏡の奥から怜悧なヘーゼル色の瞳を光らせている青年。

ギルバート・ヴァレンヌ。

そして――そのすぐ隣には、平民の作業着を着崩しながらも、軍人特有の隙のない体幹を保った男――警備隊第3小隊長、ユーグ・アルマンが静かに佇んでいた。


「なっ……!?」

ベルナールの顔から、一瞬で血の気が引いた。


歓楽街の裏社会を牛耳るプロモーターとして、帝都の支配階級の顔を知らぬはずがなかった。

帝国財務卿補佐官、名門ヴァレンヌ公爵家の長男。

そして、帝都警備隊きっての武闘派将校。

昼間の帝国を統治する、財政と治安の最高峰のエリートたちが、なぜこの地下深くの楽屋の前に、並んで立っているのか。


「……な、なぜ、貴方方がここに……」

ベルナールの声が、目に見えて上擦った。


「妹の恩人の楽屋に挨拶に来ただけだよ」

ギルバートは眼鏡の位置を直しながら、冷淡に歩み寄ってきた。

その歩みには、一切の躊躇いもない。


「ベルナール卿。君の闇カジノ〈ラ・ルレット〉における、過去三期にわたる帳簿の不整合について、財務省の査察局が強い関心を示していてね。……もし今夜、この部屋で何らかの『暴力的な事故』が起きるようなら、明日の一番に、君の全資産に対する差し押さえ令状が下りることになるが」


「ひっ……!」

ベルナールの喉が、引き攣った音を立てた。

さらに、その隣でユーグが、作業着の懐から警備隊の真鍮の徽章をチラリと見せ、冷酷な目で護衛の巨漢を射すくめた。


「警備隊としても、この界隈の違法賭博の摘発要件はすでに揃っている。……手を下ろせ、ゴロツキ。次に動けば、公務執行妨害でその場で斬り捨てる」


護衛の男が、恐怖で両手を挙げた。

勝負は、始める前からついていた。

ベルナールの背筋を、氷のような悪寒が駆け抜けていく。


(……化け物だ)


ベルナールは、化粧台の前で泰然自若として立つレアを見つめた。

この少女の背後には、すでに下町の荒くれ者たちだけでなく――帝国の屋台骨を支える名門貴族、官僚、そして軍人までもが、「信者」として、あるいは「共犯者」として群れを成して控えていたのだ。

手を出せるはずがない。

指一本触れた瞬間に、国家権力の巨大な鉄槌によって、自らの築き上げた歓楽街の王国ごと叩き潰される。


「……チッ」

ベルナールは屈辱に震えながら、床に落ちていた契約書を拾い上げた。

そして、レアを激しい憎悪と畏怖の目で睨みつけ、吐き捨てるように言った。


「今月末までだ。……一秒たりとも延長はしねえ。期限が切れた瞬間、アンタらを路頭に放り出してやるからな!」


「ええ、結構よ」

レアは冷たく言い放った。

「その汚い顔を二度と見なくて済むなら、せいせいするわ」


ベルナールは外套を翻し、護衛を引き連れて、逃げるように楽屋から立ち去っていった。

ドタドタと遠ざかる足音。


嵐が去った楽屋に、静寂が戻った。


「……ふうっ、肝が冷えたよ」

マルゴが散弾銃を下ろし、深く息を吐き出した。

「だが、レア。啖呵を切ったのはいいが……今月末でこの箱を出て、本当にアテはあるのかい? アタシらの手元に金はあるが、帝都で五百人規模の劇場を貸してくれる奴なんざ――」


「借りる気なんて、最初からないわ」


レアは前を向いた。

その視線の先――楽屋の入口に立つギルバート・ヴァレンヌに向かって、彼女は不敵に唇を吊り上げた。


「買い取るのよ。……私の城をね。そうでしょう、財務官僚様?」


ギルバートの口元に、冷徹で、知的な共犯者の笑みが浮かんだ。

彼が胸ポケットから取り出した一枚の登記簿の写し。

そこには、かつて火災で閉鎖され、帝室の管理下で差し押さえられていた「ある巨大な廃劇場」の図面が記されていた。


男の庇護を断ち切り、自らの足で立つ女帝の進軍。

独立劇場〈ルージュ座〉の旗揚げへ向けて、物語は決定的な飛翔の瞬間を迎えようとしていた。

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