第26話 最前列の密会(仮面たちの同盟)
二重に垂らされた漆黒の紗幕が、微かな換気の風に揺れて擦れ合う。
真紅のビロードで覆われた二階VIP回廊の最前列。そこは、すり鉢状の円形劇場〈アリーナ・ノワール〉のすべてを一望できる、わずか数席の特等席だった。
石造りの手すりの向こう、十数メートル直下には、照明を浴びて浮かび上がる円形ステージ。そして、その周囲を取り囲むように、三百人を優に超える平民たちが肩をぶつけ合い、熱気で白く濁った息を吐き散らしている。
その最前列の中央、わずか肘掛け一つを隔てて並ぶ二つの革張り席に、二人の男が腰を下ろしていた。
二人とも、顔の上半分を完全に覆い隠す白磁と銀のベネチアンマスクを装着している。
左側の男は、平民の無骨な作業着の上から、仕立ての目立たない黒いウールコートを羽織っていた。
右側の男は、同じく地味な濃灰色のコートの襟を高く立て、仮面のスリットの奥に細身の銀縁眼鏡を押し込んでいる。
互いに、一言の言葉も発していなかった。
視線すら交わさない。ただ、冷徹に、あるいは張り詰めた緊張感をもって、眼下の空虚な舞台を見据えている。
だが――その沈黙の奥底で、二人の男の研ぎ澄まされた神経は、隣り合う相手の纏う「輪郭」を、容赦のない速度で解体し、分析し合っていた。
(……隣の男、只者ではないな)
ギルバート・ヴァレンヌは、コートのポケットの中で真鍮の万年筆を弄びながら、視線を正面に向けたまま、隣席の男の挙動を余すところなく観察していた。
地味な作業着を着てはいる。服の繊維には煙突街の煤煙の匂いすら微かに染み付いている。
しかし、その姿勢の良さは尋常ではなかった。
背骨が、鋼の芯を通したように垂直に伸びている。どれほど深く腰掛けても、重心は常に下腹部の中心に据えられ、いつでも跳びかかれる獣のような復元力を保っていた。
さらに、肘掛けに無造作に置かれた右手の指先。
親指と人差し指の付け根、そして掌の外縁に刻まれた、硬く盛り上がった独特のタコ。あれは、重い資材を担ぐ港湾労働者の手ではない。何千日、何万時間と、サーベルの柄を寸分の狂いもなく握り締め続けてきた者だけが持つ、帝国軍人特有の武術の痕跡。
体躯の幅、顎の引き方、呼吸の規則正しい間隔。
(帝都警備隊……それも、現場で一個部隊を指揮する若手の実戦指揮官。……アルマン子爵家の次男、ユーグ・アルマン小隊長か)
ギルバートの怜悧な頭脳は、瞬時に隣の男の正体を割り出していた。
治安維持の急先鋒であり、潔癖と規律の権化として知られる若き模範的将校。
その男が、下町の作業着に身をやつし、金貨三枚を叩いて違法劇場の最前列に陣取っている。
そして――。
その隣で、ユーグ・アルマンもまた、冷や汗が背筋を伝い落ちるのを感じながら、隣の男の異質さに戦慄していた。
(……この男、誰だ?)
ユーグの研ぎ澄まされた軍人としての感覚は、隣席の男が放つ「知性の殺気」を、肌着越しに感じ取っていた。
身体に武術の心得はない。骨格は細く、筋肉量も事務方に過ぎない。
だが、その指先。
コートの袖口から覗く右手の中指の第一関節には、長時間の筆記によって生じる頑固なペンタコが張り付いていた。膝の上に置かれた革表紙の手帳には、帝国中央官庁が公文書にのみ用いる最高級の羊皮紙が使われており、先ほどまで走らせていた文字の配置は、幾何学的な厳密さで統制されていた。
何より、漂ってくるインクの匂い。
帝立印刷局と財務省の決裁印にのみ配合される、特注の没食子インクの微かな鉄錆の香り。
銀縁眼鏡。プラチナブロンドの几帳面な撫でつけ髪。
そして、三つ隣の席に座る小柄な少女――平民の服を着て震えている妹クラリスを、先ほどから注意深く、かつ複雑な眼差しで見守っていたその視線。
(……帝国財務卿補佐官。名門ヴァレンヌ公爵家の長男、ギルバート・ド・ヴァレンヌ卿……!)
ユーグの喉仏が、苦しげに上下した。
国家の財政と法規を冷徹に司る、エリート中のエリート官僚。
帝都の治安部隊と、帝国の金庫番。
白亜の第一区、宮廷の回廊ですれ違うことこそあれ、決して親しく交わるはずのない二つの巨大な権力の歯車が、いま、この歓楽街の最底辺にある地下劇場の最前列で、肘が触れ合うほどの距離で隣り合わせになっているのだ。
普通であれば、その場で立ち上がり、互いの素性を暴き立て、職権を盾に相手を糾弾すべき局面だった。
警備隊長が違法劇場の摘発を怠り通い詰めていることも、財務官僚が不法な地下経済の現場に潜り込んでいることも、どちらも失脚に値する重大なスキャンダルだ。
だが――二人は動かなかった。
ただの一言も交わさず、互いに他人のふりをして、正面の舞台を見つめ続けていた。
それが、この〈アリーナ・ノワール〉二階回廊を支配する、絶対的な「暗黙のルール」だったからだ。
白と銀のベネチアンマスク。
この仮面を顔にあてがった瞬間、すべての人間は名前を奪われ、階級を剥ぎ取られ、ただの「顔のない共犯者」へと成り下がる。
隣に座っているのが上官だろうと、政敵だろうと、実の肉親だろうと、その素性を暴くことは許されない。暴いた瞬間に、己自身の背徳の免罪符までもが消滅し、共倒れになるのだから。
しかし、沈黙を保ちながらも――ユーグの胸の奥底では、醜い感情が泥水のように渦巻いていた。
(……なぜ、この男がここにいる?)
ユーグは作業着のポケットの中で、拳を強く握りしめた。
自分自身に対する激しい自己嫌悪。
警備隊の巡回ルートを意図的に外させ、部下に虚偽の報告を上げさせ、職権を乱用してこの最前列の席を確保したという、軍人としての拭い去れぬ罪悪感。
だが――それ以上に。
隣に座るギルバートが、眼下のステージに向けて放っている「異様な熱気」に対して、ユーグは耐え難い苛立ちと、正体不明の焦燥感を覚えていた。
知っているのだ。
このギルバートという男は、感情を排した冷酷な合理主義者として社交界で恐れられている。
それなのに、先ほどから彼の手帳をめくる指先は微かに震え、眼鏡の奥の双眸は、飢えた獣のように舞台の登場口を凝視している。
冷徹な官僚の皮を被りながら、この男もまた、あの少女の歌声に魂を奪われようとしているのではないか。
(貴様のような、数字しか信じぬ冷血漢に……あの歌の何が分かるというのだ)
ユーグの奥歯が、ギリと鳴った。
自分はあの歌に、十数年かけて築き上げた「完璧な騎士」の鎧を粉々に打ち砕かれた。
魂の底から涙を流し、白銀貨を投げ入れ、自らの存在のすべてを捧げて共犯者になったのだ。
それを、後からやってきたこの男が、涼しい顔をして手帳に数字を書き殴り、あまつさえあの歌姫の価値を品定めするかのような視線を送っている。
許しがたい不遜。
そして――誰にも渡したくないという、泥沼のような独占欲。
二人のエリートのあいだで、目に見えない火花が散っていた。
会話はない。身じろぎ一つしない。
だが、互いの肘掛けにかかる体重の微かな変化、呼吸の鋭さの張り合いが、狭いボックス席の空気を一触即発の沸点へと押し上げていた。
その時だった。
――ふっ、と。
客席の照明が、一斉に断ち切られた。
完全なる暗転。
一階の三百人の平民たちのざわめきがピタリと止まり、地底の擂鉢が、息を呑むような静寂に包まれる。
カツン、カツン、カツン。
乾いた靴音が響き、一筋の真紅の白熱光が、円形ステージの中央を射抜いた。
そこに現れたのは――レア・ヴァーミリオン。
深紅と漆黒のシルクベルベット。
胸元から横隔膜にかけて刻まれたスリットから、息を吸うたびに鮮烈な血の色の裏地が覗く。
コルセットを脱ぎ捨て、剥き出しになった鎖骨と喉仏。
彼女はマイクも持たず、ただ傲慢に顎を上げ、暗闇に沈む客席を見渡した。
ドォォォォンッ!!
ノアのピアノが、調律の枠を打ち砕く不協和音を叩きつけた。
ドラムのロールが唸りを上げ、地底を揺るがすファンキーなビートが炸裂する。
そして――レアの喉から放たれた第一声。
「――WELL, YOU THINK YOU OWN THE WORLD, DON’T YOU?」
鼓膜を劈くような、ハイトーンの咆哮。
裏声ではない、生々しい歪みを含んだ地声の絶唱が、木製の巨大な反響板を通じて、二階席の手すりを直接揺るがした。
その刹那。
レアの黒い双眸が、カッと見開かれた。
彼女の視線が、すり鉢の客席のすべてを飛び越えて――二階最前列の中央、並んで座るユーグとギルバートの姿を、寸分の狂いもなく真正面から射抜いたのだ。
「っ…………!?」
「…………っ!」
二人の男の息が、同時に喉の奥で詰まった。
見下ろされていた。
銀の仮面など、何の目眩ましにもなっていなかった。
体制側の治安部隊を率いる騎士と、帝国財政を牛耳る冷徹な官僚。
その二人が、暗闇のなかで肩を並べ、自らの歌を前にして息を殺し、無言の張り合いを演じている滑稽さを、ステージの上の少女は最初から完全に見透かしていたのだ。
レアの口元が、歌いながら、極限まで挑発的に吊り上がった。
三日月の形を描く、酷薄極まりない嘲笑。
(――いい気味ね、私の哀れな共犯者たち)
言葉はなくとも、その視線が雄弁に語りかけていた。
昼間は高台の白亜の宮殿で秩序を気取り、規律と法を振りかざしているお前たちが、夜になれば仮面の下で醜く顔を歪め、私の足元に金を落としてひれ伏している。
どちらが上か、どちらが先に私の信者になったかなど、どうでもいい。
お前たち二人は、すでに私の手の平の上で転がされている、ただの操り人形に過ぎないのだと。
ゾクゾクとするような、甘美で残酷な屈辱。
ユーグの全身の毛穴が逆立ち、ギルバートの心臓が破裂しそうなほど跳ね上がる。
二人は手すりを握りしめたまま、金縛りに遭ったように、ステージ上の少女から目を逸らすことができなくなっていた。
狂乱の二時間が、地底の闇を焼き尽くすように過ぎ去っていった。
◇
終演後。
五百人の歓声の地鳴りが引き潮のように消え去り、客たちが退場した後の歓楽街の裏通り。
冷たい夜雨が、石畳を黒く濡らしていた。
ガス灯の明かりも届かぬ、薄暗い排水溝沿いの袋小路。
泥除けのコートの襟を立て、銀の仮面を懐へとしまい込んだユーグ・アルマンは、足早に闇の中を歩いていた。
耳の奥では、まだあの絶叫の残響が鳴り響いている。
心臓は激しく波打ち、頬は熱を持ったまま冷めやらない。
早く宿舎へ戻らねばならない。冷水を浴び、軍服を着直し、自分の中にある「秩序」を取り戻さねば、理性が完全に崩壊してしまう――。
そう思い、路地の角を曲がろうとした、その時だった。
「……随分とお急ぎのようだ、警備隊長殿」
背後の闇から、氷のように滑らかで、低く響く声が降ってきた。
「っ!?」
ユーグの全身の筋肉が一瞬で硬直した。
電光石火の早業で身を翻し、右手を作業着の裾――仕込まれた護身用の短剣の柄へと滑り込ませる。
薄暗い雨煙の向こう、崩れかけたレンガ塀の影に、ひとつの人影が佇んでいた。
濃灰色のウールコート。
雨に濡れたプラチナブロンドの髪。
銀縁眼鏡の奥から、冷徹なヘーゼル色の瞳が、ユーグの抜刀の構えを平然と見据えていた。
ギルバート・ヴァレンヌ。
「……何の真似だ」
ユーグは短剣から手を離さず、低く濁った声で威嚇した。
「人違いだ。私は煙突街の荷揚げ人夫だ。貴族の旦那に用などない」
「見苦しい芝居はやめたまえ、アルマン子爵」
ギルバートは冷淡に歩み寄ってきた。
一歩、また一歩。
水たまりを踏む革靴の音に、微塵の迷いもない。
「その足捌き、そして左手をわずかに引いて体幹を安定させる抜刀の初動。帝国騎士学校で、私が教官たちから見せられていた模範演武の型そのものだ。……それに、君の部隊が今夜、第五区の巡回警備ルートを不自然に西側へ迂回させていた理由も、これで合点がいった」
核心を突く論理の刃。
ユーグの額に、冷たい汗が滲んだ。
言い逃れは不可能だった。
目の前にいるのは、帝国のあらゆる不正経理と裏帳簿を暴き立ててきた、財務省屈指の査察の怪物なのだ。
「……貴様、私を告発する気か」
ユーグの瞳に、鋭い殺気が宿った。
「軍務違反の現行犯として、憲兵隊に突き出すとでも? ……笑わせるな。仮面を被ってあの最前列で息を呑んでいた貴様も、同罪のはずだ。ヴァレンヌ公爵家の長男が、あのような不浄の場に通い詰めていると知れれば、貴様の首も無事では済まんぞ」
互いの急所を握り合った者同士の、剥き出しの牽制。
だが――ギルバートは動じるどころか、眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、薄く冷ややかな笑みを浮かべた。
「告発? まさか。そんな非生産的な真似をするために、わざわざ雨の中で君を待っていたわけではないよ」
「……何?」
ギルバートはコートの内ポケットから、先ほど手帳に挟んでいた一枚のメモを取り出し、雨除けの傘も差さぬまま、ユーグの前へと差し出した。
「今夜、あの場所で動いていた現金の総額を計算した。……一晩で金貨四百枚。年間で金貨二万枚規模の純粋なキャッシュフローだ。死に体だった帝国の市場経済において、これほどの流動性を生み出している特異点は、帝都中を探しても他に存在しない」
「……金の話か?」
ユーグが眉をひそめる。
「金の話であり、国家の話であり――そして何より、あの歌姫の話だ」
ギルバートの声が、一段と低く、鋭利になった。
「聖歌庁が動いている。マクシミリアン伯爵が、第五区の警備隊本部に対して、あの劇場の摘発と首謀者の拘束を求める正式な照会状を送ったはずだ。……違うかね、アルマン隊長」
ユーグの息が止まった。
本部の機密文書の内容を、なぜこの男が知っているのか。
だが、否定はできなかった。
すでに警備隊上層部には、教会の圧力による特命捜査の空気が漂い始めていたのだ。
「あの歌を、あのような教条主義の老いぼれどもに潰させるわけにはいかない」
ギルバートは、はっきりと口にした。
その双眸に宿っていたのは、先ほどまで客席で見せていた、あの狂おしいまでの執念の炎だった。
「私の妹クラリスが、あの場所で息の仕方を取り戻した。そして私自身も……あの歌が持つ、破壊的なまでの真実の価値を理解した。あれは、単なる見世物小屋ではない。死にかけている帝国を、内側から叩き起こすための唯一の劇薬だ」
ギルバートは一歩踏み込み、ユーグの真っ直ぐな瞳を覗き込んだ。
「警備隊長殿。どうやら我々の利害は、完全に一致しているようだ」
雨音が、二人のあいだに落ちる。
ユーグは短剣の柄から、ゆっくりと指を離した。
激しい動揺の奥底から、信じがたい安堵と、新たな決意が湧き上がってくるのを感じていた。
自分一人では、いずれ限界が来ていた。
警備隊の巡回を誤魔化し、虚偽の報告を重ねるだけでは、聖歌庁が正規の異端審問特務班を動かせば、一晩で〈アリーナ・ノワール〉は踏み潰されていただろう。
だが――目の前にいるのは、帝国六法全書を熟知し、国家予算の蛇口を握る財務卿補佐官だ。
「……貴様に、何ができるというのだ」
ユーグが低く問う。
「法と税制の抜け穴だ」
ギルバートの口元に、策士の笑みが浮かんだ。
「劇場の営業許可、土地の所有権、教会の査察権が及ばない治外法権の特例……官僚として使える武器はいくらでもある。聖歌庁が法を盾にしてくるのなら、私はその倍の厚みの法典で殴り返してやるまでだ。……だが、それには物理的な時間と、現場の情報が必要になる」
ギルバートは右手を差し出した。
雨に濡れた、白い官僚の手。
「教会の動向、警備本部の突入計画を、私に筒抜けにしろ。現場の指揮権を持つ君が、事前に部隊の動きを遅らせ、目眩ましを作れ。……君が剣となり、私が盾となる。そうすれば、あの歌姫の城を、国家の牙から守り抜くことができる」
体制側の二大実力者。
治安の刃と、財政の頭脳。
その二人が、一人の下町の少女の喉のために、国家の規律を裏切り、手を結ぼうとしている。
狂気の沙汰だった。
発覚すれば、二人の家名も、軍歴も、官僚としての輝かしい前途も、すべて灰燼に帰す。
だが――ユーグの心に、迷いは微塵もなかった。
「……いいだろう」
ユーグは自らの手を差し出し、ギルバートの手を強く握り返した。
軍人のタコだらけの無骨な掌と、官僚の冷たい指先。
二つの手の平が重なり合った瞬間、強固で、背徳に満ちた「仮面たちの同盟」が結成された。
「次の公演の夜、通用門の裏で落ち合おう。……警備本部の内部文書の写しを持ってくる」
「頼むよ、小隊長殿」
二人は無言で手を離し、背を向け合って、雨煙の立ち込める夜の闇へと消えていった。
歓楽街の地底で燃え盛る真紅の炎は、いまや帝国の強固な防壁の内側に、最も危険で、最も頼もしい二本の楔を打ち込んでいた。




