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第25話 数字の向こうの雷鳴

二階のボックス席最前列、黒い二重紗幕の奥に設えられた真紅のビロード椅子。そこに深く腰を下ろしたギルバート・ヴァレンヌの指先は、暗がりの中でも寸分の狂いもなく、真鍮の万年筆を走らせていた。


膝の上に開かれた、厚手の羊皮紙の手帳。

定規で引かれたような端正な罫線の上に、極小の文字と数字が、冷徹な秩序をもって整然と刻み込まれていく。


『――会場構成:擂鉢型地下構造。推定容積約三千立方メートル。

一階スタンディングフロア:約三百二十名。客層は下層労働者、港湾人夫、小職人。男女比およそ八対二。入場料銀貨一枚=銀貨三百二十枚(金貨換算約三十枚)。

二階回廊VIPボックス席:全五十席。金貨三枚=金貨百五十枚。

推定客単価(酒類・軽食消費含む):一階平均銅貨十五枚、二階平均銀貨二枚。

粗利益率:推定八割五分以上。固定費(会場賃料・人件費・魔導灯燃料費)を差し引いた一晩の純キャッシュフロー、金貨にして百八十枚から二百枚。……年間百公演と仮定した場合、年商金貨約二万枚』


カリカリ、と真鍮のペン先が紙を引っ掻く微かな音だけが、ギルバートの周囲に落ちていた。

顔の上半分を覆う白磁と銀のベネチアンマスク。その目のスリット越しに覗くヘーゼル色の双眸には、感情の揺らぎなど欠片も存在しなかった。

あるのは、帝国財務卿補佐官としての、研ぎ澄まされた計算と冷酷な分析のみ。


(……呆れた数字だ)


ギルバートは眼鏡のブリッジを仮面の上から押し上げ、小さく冷たい息を吐き出した。

金貨二万枚。

それは、オルレアン帝国の中規模都市が一年間に納める地方税収の総額に匹敵する。

本来ならば、重税と長引く不況によって冷え込み、金庫の奥底に死蔵されていたはずの貴族や富豪たちの資産。そして、日々のパンを買うことすら躊躇うはずの下層民たちのポケットの底の小銭。

その両極端に位置する富が、この地下十メートルの薄暗い穴倉へと、引力に逆らうように吸い寄せられている。


視線をわずかに横へと走らせる。

三つ隣のボックス席。手すりに身を乗り出し、平民の粗末な外套のフードの下からプラチナブロンドの髪を覗かせている小柄な少女――妹のクラリスがいた。

彼女は周囲の目を気にすることすら忘れ、祈るように両手を胸の前で組み、舞台の一点を見つめて全身を震わせている。

さらに斜め向かいの席には、作業着を着ていながらも、軍人特有の寸分の狂いもない背筋を保った男の影。帝都の治安を司るエリート将校とおぼしき者までが、息を潜めてこの空間に跪いている。


(文化、か)


ギルバートの薄い唇に、嘲笑が浮かんだ。

合理主義の塊である彼にとって、音楽や芸術などというものは、国家の生産性から見れば「有閑階級の暇つぶし」か「民衆を統制するための無害な鎮痛剤」に過ぎなかった。聖歌庁が推進する純正律の賛美歌も、神の調和などという抽象的な美辞麗句で民衆の不満を去勢するための行政装置としてしか評価していない。

だが、この地下空間で起きている現象は、既存の統治理論をあざ笑うかのように異質だった。


(人々を飢餓状態に陥れ、極限まで制限した席数を奪い合わせることで、貨幣の流通速度(ベロシティ)を跳ね上げる。……下町のドブネズミどもにこれほど高度な市場心理の操作ができるはずもない。裏にいるのは歓楽街の興行師ベルナール・ジルか、それとも――)


思考を巡らせながら、手帳に新たな項目を書き加えようとした、その刹那だった。


ふっ、と。


擂鉢の天井を辛うじて照らしていた、数少ない真鍮ランプの火が一斉に落とされた。

完全なる暗転。

一階の三百人を超える労働者たちのざわめきが、まるで刃物で切り落とされたかのように途絶える。

五百人の人間が密集しているというのに、衣服の擦れ合う音ひとつ、靴底の軋みひとつ聞こえない。

ただ、密閉された地底の空間に、圧縮された五百の肺胞が吐き出す熱い湿気だけが、ねっとりと皮膚にまとわりついてくる。


(……来るか)


ギルバートは万年筆を握り直した。

妹を誑かし、社交界の富を掠め取っている元凶。

聖楽院を追放されたという、あの特待生の少女。

どれほどの詐術を用いて大衆を幻惑しているのか、官僚の冷徹な目で解剖してやろうと、視線を舞台の中央へと据えた。


――カツン。


硬質な靴音が、静寂の底を叩いた。

松の無垢材で組まれた円形ステージの中央。

闇を裂いて頭上から落とされた一筋の白熱光のなかに、彼女が立っていた。


「…………」


ギルバートの目が、わずかに細められた。

深紅(ルージュ)と漆黒(ノワール)のシルクベルベット。

胸元から横隔膜にかけて刻まれた大胆なスリット、膝上で短く切り落とされた前裾、そして背後へと長く引かれた真紅のトレーン。

コルセットの締め付けを一切排したそのドレスは、少女の骨格の動きと筋肉の躍動を、そのまま剥き出しにしていた。


(視覚的なブランディング(記号化)か。……聖歌庁の純白の法衣に対する、徹底的なアンチテーゼ。計算された色彩設計だな)


ギルバートは手帳に淡々とペンを走らせる。

『――衣装:既成秩序への反抗を象徴する深紅。扇動効果極めて高し』

まだ、彼の理性に動揺はなかった。

所詮は、下層の不満を巧みに煽り立てる、煽動家(アジテーター)の類いに過ぎない。冷静にその手法を分析し、法的な取り締まりの材料を揃えれば事足りる――そう信じて疑っていなかった。


だが。


ドロロロロロロロロ…………ッ!!


舞台奥の暗がりから、低く地を這うようなスネアドラムのロールが立ち上った。

続いて、小型グランドピアノの前に座る黒髪の男――ノア・カレヴィの腕が、高く振り上げられる。


ガァァァンッッ!!


調律の枠を力づくでへし折ったような、凶暴極まりない不協和音。

同時に、バスドラムの巨砲のような重低音と、唸りを上げるウッドベースのビートが、床板を突き破って炸裂した。


ドスッ、タアンッ! ドスッ、タアンッ!


心臓の拍動よりも早く、重く、腰の奥を直接蹴り上げるような、野生のグルーヴ。

その巨大なうねりの頂点で――レア・ヴァーミリオンが、顎を跳ね上げた。


すぅっ――。

彼女の薄い胸郭が、極限まで開く。

ドレスのスリットから、真紅の裏地が鮮血のように広がる。


そして。


「――I GOT A HURT DOWN IN MY BONES, LORD――!!」


大気そのものが、粉々に爆発した。


「ッッ――!?」


ギルバートの身体が、座席の上で大きく跳ね上がった。

万年筆を握っていた右手が、目に見えるほどの激震を伴って硬直する。

紙の上でペン先が滑り、書きかけの数字を無残に引き裂く、黒々としたインクの染みが広がった。


息が、止まった。

肺胞の中の空気が、すべて強制的に体外へと吸い出されたような錯覚。

裏声ではない。

頭蓋骨の空洞だけで綺麗に共鳴させる、あの軟弱な大聖堂のソプラノとは根本から違う。

地声。

肉体そのものの重みを乗せ、声帯を極限まで擦り合わせることで生み出された、生々しい歪み(オーバードライブ)を含んだ、暴力的極まりない咆哮。


ドォォォォンッ!!


その声は、音という情報の枠組みを完全に踏み越えていた。

耳から入ったのではない。

二階の手すりを伝い、松板の床を伝い、座っているビロードの椅子を通じて、ギルバートの背骨を、そして胸骨を直接打ち抜いたのだ。

頭蓋骨の芯が、キィンと甲高く痺れる。

肋骨の内側、心臓を取り囲む肉の壁が、激しい衝撃波に晒されて悲鳴を上げている。


(な…………何だ、これは……!?)


ギルバートの思考が、白濁した奔流に呑み込まれていく。

数字が消える。

計算式が蒸発する。

年商金貨二万枚? 粗利益率八割五分?

そんな紙の上の記号など、この地底から噴き出すマグマのような音圧の前には、一瞬で灰燼に帰す砂粒に過ぎない。


「――AIN'T NO RULES CAN HEAL MY PAIN!!」


レアが靴底を高く振り上げ、ステージの床板を力任せに踏み抜いた。


ダンッッ!!


ストンプ。

ドレスの裾が跳ね上がり、真紅の軌跡が空を薙ぐ。

ドラムの打撃音と、少女の踏み鳴らした足音が完全に同期し、擂鉢状のホール全体が、まるで巨大な鐘の内側のように共振する。


一階の平民たちが、一瞬で狂乱の濁流と化して爆発した。

「うおおおおおおおおっ!」

「レア! レア・ヴァーミリオンッ!!」

三百二十人の人間が一斉に飛び跳ね、拳を突き上げ、地鳴りのような歓声を上げる。


そして――何よりも恐ろしい異変が、ギルバート自身の肉体の内側で起きていた。


ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ……!


心拍数が、異常な跳ね上がりを見せていた。

脈拍が百四十、百五十を越え、血管が破裂しそうなほどの熱い血液が、全身の末梢神経へと一気に送り込まれていく。

首筋が熱い。

体温が、沸騰した湯のように急上昇していく。

呼吸が荒くなり、鼻腔から吐き出される呼気が、仮面の内側を熱い蒸気で満たしていく。


(……やめろ)


理性が、脳の奥底で悲鳴を上げた。

こんなものは非論理的だ。

自分は国家財政の要石であり、感情を排して冷徹に国家を導くべき最高峰の頭脳だ。

年端もいかない下町の小娘が放つ、粗野で下品な叫び声に、なぜ自らの生体機能がこれほどまでに暴走させられねばならないのか。

手帳を握り直そうとする。

ペンを動かし、客席の熱狂を「集団催眠」の一語で片付け、分析を再開しようとする。


だが――指が、動かない。

真鍮の万年筆が、汗で滑った指の間からポロリとこぼれ落ち、絨毯の上へと音もなく転がった。


「あ…………」


ギルバートの唇から、掠れた吐息が漏れた。

視線を、ステージから逸らすことができない。

照明の光の輪の中、汗に濡れた前髪を振り乱し、獲物を食い破る猛獣のように口を開いて吼え続ける、あの少女。

彼女が半音下がる気怠い節回し(ブルーノート)を繰り出すたび、ギルバートの脳髄に、針で直接突かれたような激痛と――それを一瞬で塗りつぶす、途方もない快楽の閃光が走った。


ドパミン。

エンドルフィン。

アドレナリン。

長年、冷徹な秩序と数字の規律によって抑圧され、凍りついていた彼の脳幹から、禁断の神経伝達物質がダムの決壊のように溢れ出していた。


痛快だった。

恐ろしいほどに、官能的だった。

神の調和? 純正律の秩序?

そんな無菌室の欺瞞など、生身の人間が生きていくための何の役にも立たない。

人は、痛みを抱えて生きているのだ。

過酷な現実の中で、理不尽な重税に耐え、身分という名の見えない鎖に縛られ、それでも明日を生き延びようとして爪を剥がしながら藻掻いている。

レアの歌は、その泥にまみれた人間の真実を、何一つ飾ることなく、真正面から肯定し、抱きしめ、天に向かって咆哮していた。


「――SO SHOUT IT OUT, YOU BELIEVER!!」


レアの絶唱が、天井の岩肌を突き破らんばかりの高みへと駆け上がる。

二階席の仮面の貴族たちが、次々と立ち上がっていた。

隣の席の紳士が、燕尾服の胸元を引きちぎって絶叫している。

妹クラリスが、涙で仮面を濡らしながら、狂ったように手拍子を打ち鳴らしている。

チャリンッ! ジャララララッ!!

金貨の雨が、回廊の手すりを越えて、ステージの松板の上へと滝のように降り注ぐ。


その狂乱の嵐の真ん中で。

ギルバート・ヴァレンヌは、震える両手で手すりを握りしめていた。


(……負けた)


胸の内で、すとんと何かが落ちた。

それは、完全なる敗北の受諾だった。

分析者としての優越感など、跡形もなく消え去っていた。

「莫大な経済効果を生む金の卵」を見る目から――一人の少女の喉に魂を鷲掴みにされ、理性を根こそぎ奪い去られた「哀れな虜」への、完全なる転落。


金が動くのは、当たり前だ。

貴族たちが全財産を投げ打ってでもここへ通い詰めるのは、当然の帰結だ。

この歌の前では、金貨三十枚などあまりにも安すぎる。

魂を蘇らせてくれるこの奇跡に比べれば、国家の財政など、ただの紙屑の寄せ集めに過ぎないのだから。


ガァァァンッッ……!


ノアのピアノが、すべての不協和音を呑み込んだ最後の巨大な終止符を叩きつけた。

レアの限界突破のロングトーンが、かすかな震えを伴いながら、ゆっくりと地底の闇へと溶けていく。


歌が、終わった。


一拍の空白の後。

ドォォォォォンッッ!!

耳を聾するほどの万雷の歓声が、五百人の喉から同時に爆発し、擂鉢の底を激震させた。


誰もが立ち上がり、手を叩き、叫び、泣いていた。

二階席の案内人たちが退場を促す声すら、歓声の地鳴りにかき消されて聞こえない。


その喧騒のなかで。

ギルバート・ヴァレンヌは、ただ一人、放心状態で手すりにすがったまま、立ち尽くしていた。


仮面の下、額から冷や汗が顎へと伝い落ちる。

眼鏡のレンズが、熱い呼気で白く曇っていた。

足元には、書き殴ったインクの染みだらけの手帳と、転がった万年筆。

彼は震える指先で眼鏡を外し、熱を持った目元を手の甲で乱暴に拭った。


ステージの中央。

肩で息をしながら、足元に散らばる無数の金貨を見下ろす、深紅のドレスの少女。

彼女は汗に濡れた前髪をかき上げ、傲慢に顎を上げ、二階の客席を見据えていた。

その黒い瞳の光を浴びた瞬間、ギルバートの胸の奥底で、かつてない強固で、冷徹な決意が音を立てて組み上がった。


(……消させてはならない)


聖歌庁の審問官どもが、この場所を嗅ぎ回っているという報告を思い出す。

マクシミリアン伯爵の冷酷な影。

教条主義の老人どもが、自らの権威を守るために、この唯一無二の光を「異端」として焼き払おうとしている。

あんな無能な亡霊どもに、この奇跡を潰されてたまるか。


ギルバートは、足元に落ちていた手帳を拾い上げた。

汚れを払い、胸ポケットへとしっかりとしまい込む。

そして、暗闇の中に立つレアの背中を見つめながら、誰に聞かせるでもなく、固く引き結んだ唇から低く呟いた。


「……法改正をしてでも、これを守らねばならん」


合理主義の官僚が、いま、自らの信じる秩序を裏切り、悪魔の歌姫の「最大の盾」となるための第一歩を踏み出していた。

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