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第24話 冷徹な財務官僚の尾行

夜の帳が降りた第一区「光輪地区」は、死人の眠る墓標のように静まり返っていた。


整然と区画された白亜の並木道、規則正しい間隔で据え付けられた青白い魔導街灯、そして高くそびえる各名門貴族の館を取り囲む重厚な鉄柵。風が木々を揺らす葉擦れの音すら、この区画では騒音として咎められるかのように、冷涼な空気が街全体を凍てつかせている。

そのヴァレンヌ公爵邸の裏門、搬入口へと続く薄暗い通用路の陰に、一台の飾りのない漆黒の一頭立て辻馬車が、車輪の音を殺して待機していた。


馬車の車内。

革張りのシートに深く身を沈めていたギルバート・ヴァレンヌは、細い銀縁眼鏡を押し上げ、懐中時計の蓋を音もなく開いた。

午後九時十五分。

彼が纏っているのは、日中の登庁時に着用する金ボタンのついた官吏服ではない。目立たない濃灰色のウールコートに、仕立ての良さを隠すように襟を高く立てた地味な装いだった。膝の上には、厚手の革表紙で装丁された帳簿と、真鍮の細い万年筆が置かれている。


カサリ、と通用門の軋む音が微かに夜気に響いた。


ギルバートの怜悧なヘーゼル色の双眸が、細められた窓の隙間から外の暗がりを射抜く。

裏門の鉄扉がわずかに開き、泥除けの黒い外套を頭から深く被った小柄な人影が、滑り出るように現れた。足取りは軽快で、周囲を警戒して首を巡らせる仕草には、日頃の淑女の優雅な緩慢さなど微塵もない。

外套の裾から微かに覗くのは、飾り気のない平民の茶色いワンピース。

そして、その背後から付き従うのは、外套を抱えた専属侍女のアンヌだった。


(……間違いない。クラリスだ)


ギルバートの眉根が、ミリ単位で微かに寄った。

ヴァレンヌ公爵家の直系、帝立聖楽院の首席候補。大陸中の貴族が羨望する完璧な淑女が、使用人の目を盗み、召使いの着るようなボロ布を纏って夜の街へ這い出していく。

人影は、裏門の路地に待機していた紋章のない辻馬車へと吸い込まれ、馬車は蹄鉄に巻かれたフェルトで音を殺しながら、滑るように夜の坂道を下り始めた。


「出せ」

ギルバートが短く御者に告げる。

「三車身の距離を保て。見失うな、だが絶対に悟られるな」


「かしこまりました、若旦那様」


低く乾いた車輪の回転音が響き、ギルバートの馬車が追跡を開始した。


◇


馬車は、階層化された帝都の坂を、重力に引かれるように下り続けていく。

第一区の白亜の静寂から、中層の職人街、倉庫街へ。

坂を下るにつれて、外から漂ってくる空気の成分が劇的に変質していくのを、ギルバートの鋭敏な感覚は正確に捉えていた。

白檀の香油や手入れされた薔薇の気品ある香りから、湿った石炭の煤煙、馬糞の臭気、饐えた安酒のアルコール、そして――過剰な密度で密集する生身の人間たちが吐き出す、油と汗の熱気へ。


やがて前方の馬車が速度を落とし、路地の角を曲がった。

車窓から外を覗いたギルバートの顔に、あからさまな不快感が走る。


けばけばしい紫や深紅の魔導ガス灯が濡れた石畳を舐めるように照らし、安劇場の毒々しい看板、路地に群がる酔漢と客引きの怒号。

帝都第五区――歓楽街『夜の帷(トワール)』。

帝国の秩序と法が最も希薄であり、公娼、密輸商人、闇賭博の元締めが跋扈する、都市の爛れた下腹部。


(こんな不潔な吹き溜まりに……我が妹が、一人で足を踏み入れているというのか)


名門貴族の長男としての潔癖な理性は、激しい嫌悪の警鐘を鳴らしていた。

もしこの事実が社交界に露見すれば、ヴァレンヌ家の名声は地に堕ち、父公爵は激怒のあまりクラリスを即座に修道院へ幽閉するだろう。兄としても、妹の身の破滅を看過することはできない。今すぐ馬車を止めさせ、妹の腕を掴んで連れ戻すべきだ――。


だが。

妹の乗った辻馬車が、歓楽街の目抜き通りを外れ、さらに奥深くの暗い袋小路へと消え去ったその瞬間。

ギルバートの官僚としての直感が、単なるスキャンダルへの嫌悪感を遥かに凌駕する「巨大な違和感」を捉えた。


「止まれ」


ギルバートは御者に命じ、馬車を路地の角の手前に停車させた。

コートの襟を立て、銀縁眼鏡の位置を直して馬車を降りる。


そこは、かつて違法な流血拳闘が行われていたことで知られる、地下闘技場跡地へと続く裏通りだった。

半年前に官憲の手入れが入り、完全な廃墟として放置されていたはずの路地。

本来ならば、湿ったゴミと下水の悪臭が漂い、ドブネズミと浮浪者しか寄り付かないはずの暗闇。


だが、ギルバートの眼前に広がっていたのは、廃墟の静寂などではなかった。


「おい、押すなと言っているのが聞こえんのか! 金なら持っている!」

「譲れ! 我が主人は今夜の最前列を所望されているのだ!」

「金貨二十五枚だ! 現ナマで支払う!」


怒号。密集。狂乱。

数十人もの男たちが、狭い裏路地を完全に埋め尽くしていた。

それも、下町のゴロツキばかりではない。

紋章を隠した上等なウール外套を着た老執事、名門貴族の身なりの良い従僕、さらには自ら外套のフードを目深に被って小銭入れを握りしめている裕福な商人風の男たち。

彼らが我先にと取り囲んでいるのは、壁際で煙草を燻らせるダフ屋――闇ブローカーたちだった。


(……何だ、この光景は)


ギルバートは物陰に身を潜め、冷徹な観察者の目でその異様な狂騒を見つめた。

妹の姿はすでに、裏路地に面した専用の通用門の奥へと、案内人の手引きで消え去った後だった。

だが、妹を追うことすら忘れ、ギルバートの視線は、その狭い路地の中で飛び交っている「紙片」と「金属片」へと吸い寄せられていた。


チャリン、ジャラララッ。


男たちの手から手へ、革袋が乱暴に渡される。

袋の口から溢れ出たのは、帝立造幣局の刻印が刻まれた、本物の「純金貨」だった。

一枚、二枚ではない。

二十枚、三十枚という単位の黄金が、何の領収書も介さず、帳簿にも記されず、薄汚れた路地裏のダフ屋の手の平へと濁流のように注ぎ込まれている。

そしてダフ屋が代わりに渡しているのは、たった一枚の、酒杯の上で丸くなる黒猫と唐草模様が刻まれた、安っぽい真鍮のメダルチケット。


「……金貨三十枚だと?」


ギルバートの唇から、驚愕の呟きが漏れた。

彼の脳内で、財務官僚としての研ぎ澄まされた計算機が、猛烈な速度で火花を散らし始めた。


現在、オルレアン帝国の中央財政は、深刻な停滞の極みにあった。

聖歌庁の指導による過度な道徳的統制と、貴族院による保守的な産業保護政策。その結果、市場から民間の投資意欲は失われ、金を持つ貴族や大商人は資産を金庫に溜め込んで動かそうとせず、下層の民衆は重税に喘いで消費を切り詰めている。

貨幣の流通速度(ベロシティ)は年々低下し、市場に流れるキャッシュフローは完全に干からびかけていた。

ギルバート自身、財務卿補佐官として、どうやってこの死に体の経済に流動性を取り戻すか、連日執務室で頭を抱え、胃を痛め続けていたのだ。


それなのに――。


(なんなのだ、この異常な流動性は……!?)


ギルバートの額に、冷たい汗が滲んだ。

金庫の中に死蔵されていたはずの貴族たちの金貨が。

下町の労働者が明日のパンのために握りしめていたはずの銀貨が。

この歓楽街の、わずか数十メートルの裏路地に、まるで磁石に引き寄せられる砂鉄のように雪崩れ込んでいる。


路地を行き交う現金の総額を、ギルバートの眼は瞬時に概算した。

ダフ屋が手にする金貨の山。

通用門の奥へと消えていく馬車の数。

一階の正面階段へと吸い込まれていく数百人の平民たちが握りしめる銀貨の総量。

一晩で動いている資金は、金貨にして優に三百枚から四百枚を超える。

年間に換算すれば、帝都の一個区の年間地方税収にも匹敵する規模の富が、この地下の穴倉ひとつを中心にして、目にも留まらぬ速度で回転しているのだ。


「ただの違法酒場ではない……」

ギルバートは眼鏡のブリッジを強く押し直した。

その双眸に宿ったのは、名門の長男としての怒りではなかった。

国家の血管を流れる血液たる「通貨」の異常な奔流を目の当たりにした、冷徹な経済学者としての、狂おしいまでの知的好奇心と戦慄。


「文化の皮を被った、巨大な経済のブラックホールだ。……一体、誰がこれを仕掛けている?」


妹のクラリスが、この狂乱の渦の中に飛び込んでいる。

そして、社交界の令嬢たちから集めた資金が、この地下へと吸い込まれている。

確かめねばならない。

この巨大な資金洗浄の現場で、一体何が売られ、何が人々を狂わせているのか。財務の最高責任を担う者として、その実態を暴き、国家の監視下に置かねばならない。


ギルバートは物陰から歩み出た。

コートのポケットに両手を突っ込み、迷いのない足取りで、先ほどまで金貨三十枚でチケットを売り捌いていたダフ屋の頭目の前へと立ち塞がった。


「……あァ? 何だアンタは」

頭目の男が、煙草をくわえたまま怪訝そうにギルバートを見上げた。

地味な外套を着てはいるが、隠しようもない立ち姿の気品、銀縁眼鏡の奥の氷のような眼光。男は瞬時に、相手が「上等な獲物」であることを見抜いた。


「もう今夜の二階席は売り切れだぜ、旦那。欲しけりゃ明日の昼から並びな」


「嘘を吐くな」

ギルバートの声は、冬の刃物のように平坦で、冷酷だった。

「お前の右の胸ポケットの膨らみ。厚さ三ミリ、直径四センチの真鍮板が、まだ二枚残っているな。……重心の偏りと布地の引き攣れを見れば明白だ」


「なっ……!?」

頭目がギョッとして胸元を手で覆った。

官僚特有の異常な観察眼。言い逃れの余地を一切与えない論理の刃。


「売れ」

ギルバートはコートの内ポケットから、分厚い革の財布を引き出した。

チャリン、と重々しい金属の音が鳴る。

紐を解いて中から取り出したのは、一枚、二枚……十枚、二十枚、三十枚。

帝国中央銀行の帯封が巻かれたままの、傷一つない最高純度の純金貨の束。


「き、金貨三十枚……!」

頭目の男の喉仏が、激しく上下した。

泥に塗れた裏社会のブローカーが、目の前に叩きつけられた圧倒的な富の質量に、気圧されて息を呑む。


「今夜の二階VIP席の通行証、それに顔を隠す仮面を寄越せ」

ギルバートは金貨の束を男の胸板へと力任せに押し付けた。

その眼差しには、哀願の色など微塵もない。国家権力を笠に着た徴税官が、滞納者の家財を差し押さえる時のような、絶対的な命令。


「……へ、へい! まいどあり!」

頭目は恐怖と歓喜で顔を引き攣らせながら、ポケットから真鍮のメダルと、裏路地の奥から引っ張り出してきた白磁に銀の唐草模様が彫られたベネチアンマスクを差し出した。


ギルバートは真鍮メダルを無言で奪い取った。

冷たい金属の感触。

そして、手渡された銀の仮面を一瞥する。


「……これをつけるのか」

眉間に深い皺が刻まれる。

顔を隠し、身分を捨て、暗闇の共犯者になるための道具。

規律と透明性を重んじる官僚にとって、これほど屈辱的で、これほど唾棄すべき小細工はなかった。

だが、真実を暴くためには、この泥の仮面を被ることも辞さない。


ギルバートは後頭部で絹の紐を結び、銀の仮面を自らの顔へと装着した。

視界が、二つの冷たいスリットによって切り取られる。

眼鏡の上からあてがわれた仮面の冷たさが、皮膚を刺す。


真鍮のメダルを握りしめ、ギルバートは専用の通用門へと向かった。

黒服の案内人が無言で頭を垂れ、重い鉄扉を開く。

一階の平民フロアとは完全に隔絶された、薄暗い隠し階段。

一段、また一段と石段を踏み締めて上がるたび、頭上から、地底の空気を震わせるような重低音の振動が、靴底を通じて這い上がってきた。


二重の漆黒の紗幕を潜り抜ける。

目の前に広がったのは――真紅のビロードに包まれた、二階のボックス席。

すり鉢の底を見下ろす最前列の席へと、ギルバート・ヴァレンヌは足を踏み入れた。


階下では、三百人の平民たちが密集し、舞台の中央に据えられた円形ステージを取り囲んでいる。

そして、二階の暗闇には、自分と同じように銀の仮面を被った五十人の男女が、息を潜めて座っていた。

その中には、先ほど裏門を出て行った妹クラリスの姿も、そして――見覚えのある軍人のような背筋をした男の姿もあった。


ギルバートは手帳を開き、真鍮の万年筆を構えた。

冷徹な財務官僚の頭脳が、この劇場の正体を暴くための分析態勢を整える。


(見せてもらおうか。……帝国中枢の富と人間をここまで狂わせる、その『価値』の正体とやらを)


その時。

劇場の照明が、一斉に落ちた。

完全なる暗転のなか、地底の底から、最初の音が立ち上ろうとしていた。

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