第23話 ダフ屋狂騒曲
金というものは、流れる川の幅が狭まれば狭まるほど、凄まじい水圧となって堤防を食い破る。
帝都第五区、歓楽街『夜の帷』の裏路地――かつては酔客が泥水を吐き散らし、浮浪児が小銭をかすめ取るだけの薄暗い袋小路が、いまや帝都で最も狂乱じみた「闇市場」と化していた。
日没を告げる大聖堂の鐘が鳴り響く頃、その狭い路地に集まってくるのは、泥に塗れた下層民ばかりではない。
深くフードを被った従僕。
紋章を隠した上等なウール外套を着込み、落ち着きなく懐中時計を確かめる老執事たち。
彼らは、普段であれば足を踏み入れることすら身の毛もよだつような不潔な裏通りに身を寄せ合い、壁際に陣取る目つきの鋭い男たちを取り囲んでいた。
「おい、あるんだろう! 今夜の二階席だ!」
「金ならいくらでも出す! 旦那様から、今夜の通行証を手に入れられなければ首を括れと言われているんだ!」
悲鳴にも似た執事たちの懇願を受け止めていたのは、歓楽街の路地裏を根城にするダフ屋――闇ブローカーたちだった。
男たちは黄色い歯を剥き出しにして嗤い、指先で真鍮の薄い板を弄んでいた。
酒杯の上で丸くなる黒猫と、銀の唐草模様。
〈アリーナ・ノワール〉二階VIP席、わずか五十席限定の特製メダルチケット。
正規の窓口でベルナールが設定した価格は、金貨三枚。平民の半年分の生活費に相当する、それ自体が常軌を逸した高値だった。
だが、路地裏で飛び交っていた数字は、そんな生易しい額を遥かに置き去りにしていた。
「金貨十枚だ!」
「ふざけるな、こっちは金貨十五枚出す!」
「二十枚! 公爵家の名にかけて、金貨二十枚を現ナマで支払う!」
狂乱の競り市。
貴族の屋敷から走らされた使者たちが、互いの胸ぐらを掴み合わんばかりに札束と金貨の袋を掲げて怒鳴り散らしている。
やがて、壁にもたれかかっていたダフ屋の頭目が、煙草の煙をふうと吹きかけながら、手元の真鍮メダルを高く掲げた。
「おいおい、慌てるなよ旦那方。……今夜の最前列中央席、残りはこれ一枚きりだ。金貨二十枚なんざ、昨日の相場だぜ? 今夜の歌姫様は、昨日よりもさらに凄まじい絶唱を響かせるって噂だ。……金貨三十枚から始めようじゃねえか」
「き、金貨三十枚……!?」
老執事の一人が息を呑み、血の気を引かせた。
金貨三十枚。
平民の労働者が、額に汗して十年間泥水をすすってようやく手に入るほどの巨額。馬車が一両、豪壮なサラブレッドが二頭買える額だ。
たった一夜、二時間足らずの地下の舞台を見下ろすためだけの紙切れ同然の金属片に、それだけの富が注ぎ込まれようとしている。
だが、怯みを見せたのは一瞬だった。
「……三十枚だ! 買った!」
一番奥にいた別の執事が、震える手で分厚い革袋をダフ屋の胸元へと叩きつけた。
「三十枚、今すぐ渡せ! これを持ち帰らねば、我が主人は今夜の夜会で恥をかき、私の首が飛ぶのだ!」
チャリン、と重厚な金属音が路地に響き渡り、真鍮のメダルが奪い取られるように執事の懐へと滑り込んでいく。
買えなかった者たちは悔しげに爪を噛み、次のダフ屋を求めて別の路地へと駆け出していく。
かつて拳闘士が血を流した地下闘技場の周囲は、いまや一人の少女の喉が引き起こした「欲望のバブル」によって、完全に狂い咲いていた。
◇
同時刻、〈アリーナ・ノワール〉の奥深く、石造りの支配人室。
換気扇の鈍い回転音が響く室内で、マルゴ・デルーが煙管の煙を天井へ吐き出しながら、鉄パイプで机の端を小気味よく叩いた。
「……ハッ! 傑作だね。聞いたかい、レア」
マルゴの口元には、心底から腹を抱えて笑いたいと言わんばかりの獰猛な嘲笑が浮かんでいた。
「表の路地じゃ、アンタの席が一晩で金貨三十枚で取引されてるそうだよ。十年の稼ぎを、たった一枚の真鍮の板切れと引き換えに放り出すんだとさ。それも、あのお偉い貴族様たちが、自分で行くのは体裁が悪いからって、使用人どもに大金を持たせて路地裏を這い回らせてるんだ」
机の向かいに座るレア・ヴァーミリオンは、ジュディットが淹れた濃い紅茶に口をつけ、静かにカップを置いた。
身に纏っているのは、すでに今夜のステージ用の深紅と漆黒のドレス。
胸元のスリットから微かに覗く引き締まった肌は、連日の過酷な絶唱を耐え抜き、以前よりも研ぎ澄まされた鋼のような緊張感を帯びていた。
「滑稽ね」
レアの唇から、冷たい吐息が零れ落ちる。
「昼間のサロンでは、あんな下層民の喚き声など聞くに堪えないと、扇で口元を隠して眉をひそめている連中が、よ。……あいつら、夜会でお互いの顔を見合わせながら、『今夜の席は手に入ったか』と腹の探り合いをしているのよ。手に入らなかった奴は、時代の波に乗り遅れた田舎者だと蔑まれる。だから、恥も外聞もなくダフ屋に群がるの」
「まさに喜劇だな」
部屋の隅、調律道具を片付けていたノアが、包帯の巻かれた指で煙草を燻らせながら鼻を鳴らした。
「神の調和を讃える高貴な耳をお持ちの貴族様方が、ドブネズミのダフ屋に頭を下げて、泥にまみれたチケットを買い漁ってる。大聖堂のマクシミリアン伯爵がこの光景を見たら、卒倒して泡を吹いて倒れるぜ」
室内が乾いた笑いに包まれる中、部屋の扉が乱暴に開け放たれた。
「おいおい、呑気に笑ってる場合じゃねえぞ!」
飛び込んできたのは、銀狐の毛皮外套を羽織ったベルナール・ジルだった。
彼の端正な顔は興奮と焦燥で紅潮し、手には裏通りの売上報告書が握りしめられていた。
「レア! マルゴ! 聞いたか!? チケットが金貨三十枚だぞ! 俺たちが正規で売ってるのはたったの三枚だ! 差額の二十七枚は、全部あの路地裏のハイエナどもがポケットに突っ込んでるんだぞ! 一日で金貨何百枚という大金が、俺たちの頭の上を素通りして消えていってるんだ!」
ベルナールは机の上に両手をつき、レアに向かって身を乗り出した。
強欲な興行師の琥珀色の瞳が、ギラギラとした欲望で充血している。
「定価を吊り上げるぞ! 明日から二階席は金貨二十枚にする! それでもあいつらは買う! それか、俺の息のかかった若い衆を路地に並ばせて、ダフ屋どもを締め上げて上前を半分跳ねさせる! どうだ、そうすりゃ俺たちの取り分は今の十倍に跳ね上がるぜ!」
裏社会のプロモーターとしては、至極当然の判断だった。
需要が供給を圧倒的に上回り、相場が暴騰しているのなら、元締めが価格を引き上げて利益を総取りするか、暴力で闇市場を管理する。それが歓楽街の常識だ。
だが。
レアは、紅茶のカップを指先で弄んだまま、氷のように冷ややかな視線をベルナールへと向けた。
「……三流ね、ベルナール」
「何だと……?」
ベルナールの動きが止まる。
「目の前にぶら下がった小銭に目を奪われて、興行の主導権をドブに捨てる気かしら」
レアは背筋を伸ばし、冷徹に言い放った。
「定価を金貨二十枚に吊り上げてどうするの? そうすれば、ダフ屋は五十枚で転売するだけよ。客はさらに法外な金を毟り取られ、やがて資金の尽きた者から脱落していく。何より、暴利を貪っているという悪評だけがこの〈アリーナ・ノワール〉に残り、劇場の格が落ちるわ」
「だが、現にダフ屋が儲けてるんだぞ! 指をくわえて見てろって言うのか!」
「ダフ屋に儲けさせる気なんて、最初からないわ」
レアは立ち上がった。
深紅のドレスの裾を翻し、壁に貼られた帝都の地図――第一区から第五区までが詳細に描かれた図面へと歩み寄る。
「ベルナール。あんた、興行において一番価値があるものが何だか、まだ分かっていないのね」
レアは振り返り、鋭利な黒い瞳で男を見据えた。
「金じゃないわ。……『誰が客席に座っているか』という、完全な顧客の掌握よ」
「……顧客の、掌握?」
「ええ」
レアは手元に用意してあった羊皮紙の束を、机の上に放り出した。
そこには、彼女自身の几帳面な筆跡で、新たな制度の全容がびっしりと書き込まれていた。
「ダフ屋を野放しにして一番危険なのは、客席に誰が座るかコントロールできなくなることよ。教会の放ったスパイかもしれない。私を暗殺しに来た刺客かもしれない。何より――誰がこの劇場の熱狂に依存し、誰が私の信者になったのかという、権力の糸が手に入らなくなる」
レアの言葉に、ノアが煙草をくわえたまま目を見張った。
ただの歌姫ではない。
客を熱狂させるだけでなく、その熱狂を通じて支配階級の首輪を握ろうとする、冷徹な統治者の発想。
「だから、今夜限りでこれまでの真鍮メダルはすべて廃止するわ」
レアは決定的な改革を口にした。
「明日から、二階VIP席は完全なる『会員制倶楽部』へと移行する」
「……会員制倶楽部だと?」
ベルナールが眉を寄せる。
「そうよ。名称は〈倶楽部ノワール〉。入会には、既存の会員二名以上の推薦を必要とし、入会金として金貨十枚を徴収する。そして、チケットは二度と他人に譲渡できないシステムを構築するの」
「譲渡できない……? そんなこと、どうやって実現するってんだ。顔を隠すベネチアンマスクを着けさせてる以上、誰が誰だか分かりゃしねえだろうが」
「これを使うのよ」
レアは胸ポケットから、新しく作らせた一枚の金属片を取り出した。
掌の上に置かれたのは、鈍い真鍮の表面に、魔導細工の銀の紋様が埋め込まれた楕円形のプレートだった。
中央には、微かに熱を帯びた小さな黒曜石が嵌め込まれている。
「魔導通信石の端材を加工させた、特製の指紋照合メダルよ」
「指紋照合……!?」
ベルナールが絶句した。
「宮廷の機密庫や、軍の弾薬庫で使われている技術の応用よ。入会時に、客の親指の指紋と体温の魔力をこの黒曜石に一度だけ記録させる。劇場の入口で、客が自分の親指をこの石に押し当て、魔力が一致した時だけ――裏口の閂が自動で解錠される仕組みよ」
レアは不敵に微笑んだ。
「これなら、どれだけダフ屋が大金を積もうと、他人のメダルを買ったところで扉は絶対に開かない。チケットの転売は物理的に不可能になる。ダフ屋は一晩で壊滅よ。買い占めたメダルはすべてただの真鍮のゴミ屑になるわ」
「……なんてこった」
ベルナールの口から、呆気にとられたような溜息が漏れた。
ダフ屋を暴力で取り締まるのではない。
法と技術の壁を築き、転売というビジネスモデルそのものを根底から蒸発させてしまうのだ。
「それだけじゃないわ」
レアの瞳の奥に、暗い愉悦の炎が灯った。
「会員制にして指紋を登録させるということは、私たちが『どの貴族が、何月何日の夜に、この地下へ足を運んだか』という完全な台帳を手に入れるということよ。公爵令息、近衛騎士、大臣の補佐官……あいつらの名前と登庁記録、そして裏の顔のすべてが、この支配人室の金庫に蓄積されていくの」
静寂が、部屋を包み込んだ。
マルゴが煙管を止め、ノアが息を呑む。
ベルナールは全身に鳥肌が立つのを感じながら、目の前の小柄な少女を見つめていた。
それは、チケットの転売対策などという次元を遥かに超えていた。
帝都を牛耳る支配階級の弱み(スキャンダル)を、合法的に、かつ彼ら自身の意志で差し出させる、巨大な情報網の構築。
一度会員になり、指紋を登録した貴族は、二度とレアの手の平から逃れることはできない。彼女が一声かければ、彼らの夜の背徳はいつでも白日の下に晒されるのだから。
「……アンタは、歌姫じゃないな」
ベルナールが掠れた声で呟いた。
「帝都の夜を支配する、本物のフィクサーだ」
「買い被らないで」
レアは冷淡に紅茶を飲み干した。
「私はただ、私の舞台を邪魔するハエを叩き落として、確実に勝てる盤面を整えているだけよ。……ジュディット、クラリスへの連絡は済んでいる?」
部屋の隅で、衣装のほつれを直していたジュディットが顔を上げた。
「抜かりないよ、レア! クラリス様には今朝のうちに手紙を届けてある。『社交界の令嬢たちの中から、最も口が堅く、最も金を持っている信者を十名、最初の推薦枠として選定せよ』ってね」
「上等よ」
レアは立ち上がり、鏡の前に立った。
深紅のドレスの襟元を整え、黒髪を後ろへかき上げる。
「今夜の公演が終わったら、表のダフ屋どもに宣告なさい。『明日から、お前たちの小細工は一銭の価値もなくなる』とね。……帝都の夜のルールを決めるのは、あのハイエナどもじゃない。この私よ」
開演を告げるブザーの音が、地底の奥深くで重々しく鳴り響いた。
すり鉢の客席から、今夜も五百人の熱狂の地鳴りが這い上がってくる。
何者にも支配されず、男の庇護も求めず、知略と実力だけで帝国の上流階級を包囲していく孤高のディーヴァ。
だが――その完璧な包囲網の足元へ。
いま、最も冷徹で、最も鋭利な「数字の怪物」が、音もなく近づきつつあった。




