第22話 筆頭信者と社交界の毒
帝立聖楽院の中央礼拝堂に差し込む朝の光は、相変わらず刃物のように鋭く、冷え切っていた。
白亜の講壇に並ぶ、選び抜かれた上級合唱団の生徒たち。その最前列の中央で、クラリス・ド・ヴァレンヌは息を整えていた。
純白の制服の襟元は、以前と変わらず寸分の狂いもなく留められている。プラチナブロンドの髪も完璧な夜会巻きに結い上げられ、立ち姿は誰が見ても非の打ち所のない公爵令嬢そのものだった。
だが――彼女の肉体の内側で起きている変化に、周囲の教師も同級生も、まだ誰一人として気づいていなかった。
(……首を締めない。顎を引いて、喉仏を落とす。息は、首筋ではなく背中へ吸い込む……)
クラリスは心の中で、昨夜の光景を鮮明に反芻していた。
歓楽街の地底、〈アリーナ・ノワール〉の円形ステージ。
真紅のドレスを纏い、五百人の群衆を足元に従えて歌っていたレア・ヴァーミリオン。
二階の最前列という特等席から、クラリスは穴が開くほどレアの肉体を観察し続けていた。
レアは決して、喉首の力だけであの暴風雨のような声を張り上げていたわけではない。
息を吸う瞬間、肩は一ミリも上がらない。胸の下、肋骨の下部がアコーディオンのように横へと大きく開き、骨盤の底へと空気が一気に沈み込んでいく。そして声を放つ刹那、下腹部の筋肉が内側から横隔膜を押し上げ、まるで太いパイプオルガンの送風機のように、一定の気圧を声帯へと送り届けていたのだ。
喉は、ただその空気の奔流を受け止め、柔らかく開いて音へと変換する「出口」に過ぎない。
――「あんたが、自分で『盗む』気があるなら――話は別よ」
楽屋で突きつけられたレアの冷徹な言葉が、クラリスの背骨を芯から支えていた。
手取り足取り教えられたのではない。
だが、生の絶唱を間近で浴び、その呼吸の波を全身の感覚で盗み取ったクラリスの身体は、すでに以前の「窒息寸前の人形」ではなくなっていた。
「……では、ヴァレンヌ嬢。単独発声を行いなさい」
講壇の下、パイプオルガンの脇に立つ初老の主任教授が、気怠げに合図を送った。
課題は、いつもの『白銀の祈念歌』の冒頭節。
神の調和を模倣する、起伏のない無機質な高音。
クラリスは目を伏せ、背中の肋骨を広げるようにして、深く、静かに息を吸い込んだ。
胸を締め付けるコルセットの紐は、今朝、侍女のアンヌに命じて指二本分ほど緩めさせてある。
肺の底まで満ちていく冷気。
彼女の唇が、静かに開かれた。
「――In nomine lucis, aeterna pax……」
礼拝堂の空間に、ソプラノの第一声が落ちた。
「…………!?」
オルガンの鍵盤に指を置いていた主任教授の背筋が、ビクリと跳ね上がった。
講壇に並ぶ同級生の貴族令嬢たちも、息を呑んで目を見張る。
何かが、違っていた。
音程は寸分の狂いもなく譜面通りだ。聖歌庁が定める純正律の調和を、何一つ逸脱していない。
しかし――これまでのクラリスの歌声にあった、張り詰めたガラス細工のような危うさ、息の詰まるような硬直感が、完全に消え去っていたのだ。
首筋に青筋は立っていない。
声帯の摩擦による微かな金属音の代わりに、豊かに共鳴した倍音が、大理石の石畳を伝って聴く者の足元を微かに震わせる。
冷たい氷の彫刻だったはずの賛美歌の奥底に、まるで雪解け水の下を流れる清流のような、生身の人間の「体温」と、底知れぬ「深み」が宿っていた。
「……な、何だ、今の響きは……」
教授が眼鏡のブリッジを押し上げ、信じられないものを見る目でクラリスを見上げた。
数日前まで、無理な高音発声で喉を痛め、いつ声が出なくなってもおかしくないと囁かれていた首席候補。その彼女が、一夜にして喉の負担を完全に克服し、それどころか、歴代の首席たちすら到達し得なかった圧倒的な音の太さを獲得していた。
一節を歌い終え、クラリスは静かに息を吐いた。
喉の奥に、あの焼けるような激痛はない。血の味もしない。
痛覚から解放された喉が、信じられないほど滑らかに潤っていた。
(……出た。痛くない……声が、鳴っている……!)
胸の奥で、歓喜の震えが湧き上がる。
大聖堂の教授たちが何年かけても教えられなかった正しい呼吸を、下町の泥水に咲いた悪魔の歌姫は、たった数夜のパフォーマンスで彼女の身体に刻み込んでみせたのだ。
「み、見事だ、ヴァレンヌ嬢……! これぞまさに、神の調和がもたらした奇跡の美声だ!」
教授が興奮で声を上擦らせて賞賛の言葉を口にする。
同級生たちからも、羨望と畏怖の視線が一斉に注がれる。
だが――クラリスの唇に浮かんだのは、かつてのような従順な微笑みではなかった。
教授にも見えないわずかな角度で、彼女の口元が、冷ややかに、侮蔑を孕んで歪んでいた。
(奇跡ですって? 神の調和? ……笑わせないで)
クラリスは心の中で、冷酷に吐き捨てた。
この声を救ってくれたのは、神でも、教会の教条でもない。
あなたたちが「下品なドブネズミ」と罵って追い出した、あの少女の魂だ。
大聖堂の老人たちは、自分たちが絶賛しているその歌声の根底に、いまや煙突街の血肉が流れていることすら気づいていない。
その滑稽さに、クラリスの胸はかつてない痛快な愉悦で満たされていた。
◇
その日の午後。
帝都第二区、緑豊かな並木道に面したロシュフォール公爵邸のサロン。
磨き上げられた寄木細工の床の上には豪奢なソファが並び、銀のティーセットから漂う紅茶の香りと、高価な香水の匂いが室内に満ちていた。
集まっていたのは、帝都社交界に属する十数名の若き貴族令嬢たち。
華やかなフリルとレースで飾られたパステルカラーのドレスを纏い、扇を揺らしながら優雅に談笑している。
だが、その会話の内容は、恐ろしいほどに虚無的だった。
「……ねえ、お聞きになって? 来月、ベルテ公爵家のご長男と婚約が決まったそうなの。一度もお話ししたこともない方なのに」
「まあ……お可哀想に。でも、私たちに拒む権利なんてありませんものね」
「父の言う通りに微笑んで、家格に見合うお相手に嫁ぐだけ。……ため息をつくだけで、マナー違反だと叱責されますわ」
扇の陰で交わされる、諦めと倦怠のため息。
十六、七の少女たちが、まるで生きたまま標本にされる日を待つ昆虫のように、死んだ魚の目で紅茶を見つめている。
息を詰まらせるコルセット。
家門の繁栄のための政略結婚。
聖歌庁が強いる「感情を殺した淑女の美徳」。
彼女たちの日常は、クラリスがかつて味わっていたのと同じ、豪奢な石の檻そのものだった。
その輪の中心に、クラリス・ド・ヴァレンヌは座っていた。
薄紅色のドレスを完璧に着こなし、銀のスプーンで音もなく紅茶をかき混ぜる。
これまでの彼女であれば、誰よりも従順にその運命を受け入れ、無表情に頷いていただけだったろう。
だが、今のクラリスは違った。
「……皆様。いつまで、その退屈なお人形遊びを続けられるおつもりですの?」
鈴を転がすような、しかし凛とした声がサロンの静寂に落ちた。
令嬢たちが一斉に顔を上げ、クラリスを見つめる。
クラリスは優雅にティーカップをソーサーに戻すと、扇を開き、自らの口元を半分だけ隠した。
そのサファイアの双眸に、妖しい光が宿っている。
「クラリス様……? お人形遊び、とは……?」
隣に座る伯爵令嬢が、怪訝そうに眉をひそめた。
「言われた通りの服を着て、言われた通りの相手に微笑み、言われた通りの賛美歌を歌う……。私たちは、神の調和を模倣するために生まれてきた器なのでしょうか? 本当は……皆様も、叫び出したいのではなくて?」
「ま、まあ……滅相もございませんわ! そのようなはしたないこと……!」
令嬢たちが慌てて周囲を見回す。だが、その瞳の奥には、図星を指された動揺が隠しようもなく揺らいでいた。
クラリスは身を乗り出し、声を一段、低く落とした。
それは、教会の告解室で囁かれるような、甘く、危険極まりない密談の調べ。
「……ご存知かしら。第五区の、夜の帳の奥深くにある『秘密の神殿』を」
「第五区……? 歓楽街のことですの?」
「あのような不浄な場所に、何があるとおっしゃるの……?」
「『夜の免罪符』ですわ」
クラリスの唇が、扇の陰で三日月の形に吊り上がった。
「そこでは、誰もが銀の仮面を被り、名前を捨てることが許されます。公爵令嬢も、伯爵家の息女も、誰もがただの一人の人間として、暗闇の底で魂を解放できる場所。……舞台の上に立つのは、真紅のドレスを纏った、この世で最も美しい猛毒の歌姫です」
クラリスは、自らの手で胸元を押さえた。
その仕草は、大聖堂の祈りよりも遥かに官能的で、熱烈だった。
「その方の第一声を聴いた瞬間……頭蓋骨が痺れ、全身の血が逆流するような衝撃が走りますの。コルセットで締め付けられていた胸が引き裂かれ、抑圧されていた痛みのすべてが、涙となって溢れ出る……。あそこへ行けば、息の仕方を思い出せますわ。……本当の、生きていることの歓喜を」
クラリスの言葉には、狂信者だけが持つ圧倒的な言霊が宿っていた。
令嬢たちの息が止まる。
退屈に澱んでいた彼女たちの瞳に、乾いた草原に火が放たれたかのような、強烈な飢餓感が宿り始める。
銀の仮面。
名前を捨てる自由。
魂を震わせる絶唱。
それは、彼女たちがこれまでの人生で一度たりとも触れたことのない、甘美極まりない毒の果実だった。
「そ、そんな場所が……本当に……?」
「ええ」
クラリスは微笑み、手元の豪奢なハンドバッグから、小さな真鍮のメダルを数枚、テーブルの下で滑らせるように見せた。
酒杯の上で丸くなる黒猫と、銀の唐草模様。
〈アリーナ・ノワール〉二階VIP席の予約通行証。
「今夜の席は、すでに社交界の殿方が血眼で奪い合っておりますけれど……もし、本気でご自身の魂を取り戻したいと願う方がいらっしゃるなら、私がお手配して差し上げてもよろしくてよ。……ただし、入場料は金貨三枚。ご自身の宝石をお売りになってでも、工面なさる覚悟がおありなら、ですが」
「金貨三枚……!」
令嬢たちが息を呑む。
だが、その顔に躊躇いの色はなかった。
親から与えられた宝石など、箪笥の肥やしに過ぎない。そんなものと引き換えに、窒息しそうな日常から逃れる「夜の免罪符」が手に入るのだとすれば、あまりにも安すぎる代価だった。
「わ、私……行きたいですわ、クラリス様!」
「私も! 母の形見のサファイアのブローチがありますの!」
令嬢たちが、我先にとクラリスの手を握りしめてくる。
彼女たちの頬は紅潮し、その目は、新たな信仰を見出した熱心な信徒のそれへと変貌していた。
(……ふふ)
クラリスの胸の奥底で、暗い悦楽が泡立っていた。
レアの言った通りだ。
貴族の財布と耳を毟り取り、地下の溶鉱炉へと注ぎ込む。
自分を人形として扱ってきたこの社交界の女たちを、自らの手で一人残らず「共犯者」へと仕立て上げていく。
これは、復讐だ。
神の調和を押し付けてきた偽善の世界に対する、最も優雅で、最も残酷な文化の叛乱。
そして――何よりも、レア・ヴァーミリオンという唯一無二の太陽を支える「筆頭信者」としての、至高の自己救済だった。
◇
その日の夕刻。
帝都第一区、ヴァレンヌ公爵邸の本館二階――執務室。
重厚なオーク材の机の上には、帝国全土の税収記録と、各区の予算配分案が記された分厚い帳簿が山積みにされていた。
羽ペンの先をインクに浸し、冷徹な速度で決裁の署名を走らせていたのは、一人の若い男だった。
ギルバート・ド・ヴァレンヌ。二十代後半。
帝国財務卿補佐官にして、名門ヴァレンヌ公爵家の長男。
銀縁の細い眼鏡の奥にある切れ長の瞳は、怜悧な氷の刃のように冷たく、一切の私情を差し挟まない合理主義の塊として、若くして帝国財政の実権を握りつつある俊英だった。
妹のクラリスと同じプラチナブロンドの髪を几帳面に撫でつけ、隙のない濃紺の官吏服に身を包んでいる。
コン、コン。
控えめなノックとともに、初老の家令が部屋に入ってきた。
「若旦那様。お呼びでございますか」
「ああ」
ギルバートは帳簿から視線を上げず、羽ペンを動かしたまま言った。
「クラリスのことだ」
「お嬢様、でございますか?」
「ここ数日、妹の様子がおかしい」
ギルバートの筆がピタリと止まった。
彼は眼鏡を指先で押し上げ、冷たいヘーゼルがかった瞳で家令を見据えた。
「毎朝の礼拝に向かう足取りが、以前の怯えきった様子とはまるで違う。背筋を伸ばし、召使いたちに命令を下す声にも、不自然なほどの張りと威厳が宿っている。……今朝などは、聖楽院の主任教授から『神の調和の奇跡だ』などという浮かれた賛辞の手紙が届いた」
「素晴らしいことではございませんか。お嬢様の発声の不調も、快方に向かわれたようで……」
「馬鹿を言うな」
ギルバートは冷淡に切り捨てた。
「奇跡などという非論理的な現象が、この世に存在するはずがない。人間の生体機能が劇的に回復し、精神的な態度が一変したのなら、そこには必ず明確な『外的な要因』が存在する」
ギルバートは引き出しから、一枚の紙片を取り出して卓上に置いた。
それは、ヴァレンヌ家の馬車隊の運行日誌の写しだった。
「それだけではない。昨夜、そして一昨夜……クラリスの私室の専属侍女が、夜間、裏門の通用口から辻馬車を手配させている。行き先は記録されていないが、帰着時間は午前一時を回っていた」
「なっ……!?」
家令が息を呑み、青ざめた。
「お、お嬢様が夜歩きを……!? そのようなこと、旦那様に知れれば……!」
「父上にはまだ話していない」
ギルバートは淡々と言った。
「確証のない噂で公爵家の屋敷を騒がせるのは、業務の効率を著しく落とすからな。……だが、今夜もクラリスは私室で侍女に平民の衣服を用意させているらしい」
ギルバートは立ち上がった。
窓辺へと歩み寄り、夕闇に包まれ始めた帝都の街並みを見下ろす。
彼の視線の先にあるのは、第一区の白亜の宮殿群ではない。
煙突の煙が立ち上る下層、そして――夜な夜な不穏な光を放ち始めている、第五区の歓楽街の方角だった。
「さらに不可解なのは、今週に入り、社交界の令嬢たちのあいだで、私的な預金や宝石の換金が急増しているという財務局の報告だ。……クラリスが主催した読書会の直後から、その動きが顕著になっている」
ギルバートの眼鏡の奥で、官僚としての研ぎ澄まされた計算の光が鋭く明滅した。
数字の異常。
金の流れの歪み。
そして、妹の精神的な自立と、夜の不審な外出。
そのすべての線が、帝都の闇の底にある「一点」へと収束していることを、彼の卓越した頭脳は正確に嗅ぎ取っていた。
「……裏門の馬車に、追跡の手配をしろ」
ギルバートは冷ややかに命じた。
「今夜、クラリスが屋敷を出たら、私自身が追う。……公爵家の令嬢を誑かし、我が家の財産と名誉を脅かしている元凶が何であるか、この目で直接確かめてやる」
冷徹な財務官僚の執念が、いま、動き出そうとしていた。
地下の歌姫が仕掛けた熱狂の罠は、公爵令嬢クラリスを媒介にして、ついに帝国中枢のエリート官僚までもを、逃れようのない暗闇の底へと引きずり込もうとしていた。




