第21話 楽屋のひざまずき
地下の楽屋に漂っていたのは、生々しい肉体の熱と、絞り尽くされた魂の残滓だった。
すり鉢の円形劇場〈アリーナ・ノワール〉を揺るがした五百人の歓声が、分厚い石壁の向こうでくぐもった地鳴りへと変わっていく。
舞台裏の奥深く、かつて拳闘士たちが傷口を縫い合わせるために使われていた薄暗い控室。裸電球のような真鍮ランプの煤けた灯りの下、レア・ヴァーミリオンは木製の化粧台の前に腰掛けていた。
深紅と漆黒のシルクベルベットで仕立てられたステージ衣装は、汗を吸って肌に重く張り付いている。
胸元から横隔膜にかけて刻まれたスリットの隙間から、激しく上下する肋骨の躍動が露わになっていた。
レアは荒い息を吐きながら、冷水に浸した麻布を首筋に押し当てた。
ジュウ……と音が立ちそうなほどの熱が、喉仏の奥から立ち上ってくる。声帯の限界を打ち破って放ったあのスロー・ブルースの咆哮は、客席の理性を粉々に粉砕したのと引き換えに、彼女自身の肉体をも激しく削り取っていた。
「……おいおい、今夜も無茶苦茶やりやがったな」
部屋の隅、酒樽の上に突っ伏していたノア・カレヴィが、氷水の入った桶から手を引き抜きながら、苦々しく呻いた。
十本の指先は赤黒く鬱血し、関節には新たな油布が幾重にも巻きつけられている。
だが、その指先が小刻みに震えているのは、疲労のためだけではない。レアの放ったあの暴力的なグルーヴの余波が、まだ彼の神経系を痺れさせているのだ。
ノアは火の点いていない煙草を唇に挟み、鏡の中のレアを睨みつけた。
「あのテンポで、あんな濁った長音を引っ張り続けやがって……。ピアノのフレームが歪むかと思ったぜ。お前、いつか舞台の上で喉から血を噴いて倒れる気か?」
「倒れるなら、あの五百人を全員道連れにしてからよ」
レアは麻布を桶に放り込み、水飛沫を散らした。
疲弊しきった顔のなかで、切れ長の黒い瞳だけが、獲物を狙う野獣のようにぎらぎらと光っていた。
部屋の扉の脇では、マルゴ・デルーが鉄パイプを壁に立てかけ、手慣れた手つきで煙管に刻み煙草を詰めていた。
「ま、客の食いつきは最高だったよ。二階の仮面連中なんざ、最後は総立ちで手を叩いてやがった。金貨の雨でステージの松板に傷がついたくらいさね。……ベルナールの奴、今頃鼻の下を伸ばして金庫の鍵を数えてるよ」
マルゴがマッチを擦ろうとした、その刹那だった。
ドタドタドタッ、と。
舞台裏へと続く狭い石造りの通路を、乱暴な足音が駆け下りてくるのが聞こえた。
それも、一つではない。重い男物の革靴の足音が二つ、そして、頼りなげに石畳を蹴る軽快で切迫した足音が一つ。
「おい、止まれ!」「そっちは関係者以外立ち入り禁止だと言っているだろうが!」
案内人たちの荒々しい怒声。
直後――。
バァァァンッッ!!
蝶番が軋むほどの勢いで、楽屋の木製扉が外側から蹴破るように押し開けられた。
「なっ……!?」
ノアが跳ね起き、ピアノの調律具を咄嗟に握りしめた。
マルゴの動きはさらに疾かった。マッチを放り捨て、電光石火の早業で壁の散弾銃を引っ掴むと、瞬時に撃鉄を起こして銃口を侵入者の眉間へと突きつけた。
「動くんじゃないよ! 脳天を風通し良くされたくなきゃ――」
マルゴの凄まじい恫喝が、喉の途中でピシリと凍りついた。
飛び込んできたのは、刃物を持った暗殺者でも、抜き身のサーベルを構えた憲兵でもなかった。
肩で激しく息を乱し、胸元を両手で掻き抱いた、小柄な人影。
下町の娘が着るような、飾りのない粗末なウールの茶色いワンピースに、泥除けの黒い外套。
その顔には、白磁に銀の唐草模様が彫り込まれた、二階VIP席のベネチアンマスクが嵌められていた。
「お、おい! すまねえ、マルゴさん!」
追いついてきたベルナールの部下である大男二人が、肩で息をしながら扉の隙間から顔を覗かせた。
「この客、二階からいきなり手すりを乗り越えるような勢いで走り出してよ! 制止を振り切ってここまで突っ込んできちまったんだ!」
「……客、だと?」
マルゴが銃口を向けたまま、怪訝そうに目を眇めた。
侵入者は、追っ手の言葉など耳に入っていない様子だった。
外套のフードは肩へと滑り落ち、乱れたプラチナブロンドの髪が汗で首筋に張り付いている。
その呼吸は異常なほどに浅く、速く、まるで肺胞のすべてが焼き爛れているかのように喘いでいた。
銀の仮面の目のスリット越しに覗く青い双眸が、室内の面々を狂おしく走査し――そして、化粧台の前に座るレアの姿を捉えた瞬間。
カチ、と。
華奢な指先が、後頭部の絹紐へと掛けられた。
ハラリ、と仮面が外された。
乾いた音を立てて、白磁の仮面が足元の泥水が染みた床へと転がり落ちる。
「…………ッ!?」
ノアの口から、咥え煙草がポロリと落ちた。
銃口を構えていたマルゴの太い腕が、わずかに揺らぐ。
そこに現れたのは、煙突街の地下などという泥の底には、逆立ちしても存在するはずのない顔だった。
透き通るような白磁の肌。
名門貴族の血統だけが受け継ぐ、彫刻のように均整の取れた鼻梁と、濡れたサファイアのような青い瞳。
涙と汗でぐしゃぐしゃに汚れ、赤く腫れ上がってはいたが、その気品と美貌を覆い隠すことなど不可能だった。
「……お、おい……嘘だろ……」
ノアが掠れた声を漏らした。
「あいつ、大聖堂の……ヴァレンヌ公爵家の……!?」
かつて帝立聖楽院の大聖堂で、神聖なる合唱の首席候補として君臨していた天才ソプラノ。
大陸屈指の名門、ヴァレンヌ公爵家の令嬢――クラリス・ド・ヴァレンヌ。
「何の冗談だい」
マルゴの灰色の瞳に、瞬時に冷酷な警戒心が宿った。銃口を下げず、むしろ指を引き金へと深くかける。
「光輪地区の深窓のお姫様が、何の用でこんなネズミの巣窟へ這い込んできたんだい。……聖歌庁の差し金かい? それとも、公爵家の権力でアタシらを一網打尽にしに来たスパイかい?」
一触即発の殺気。
裏社会の人間にとって、公爵家の人間がこの場にいること自体が、破滅的な破局の予兆でしかない。
背後の護衛の男たちが、懐の短銃に手を伸ばしかけた。
だが。
その殺気の渦のなかで、当のレア・ヴァーミリオンだけは、微動だにしていなかった。
彼女は首筋の汗を拭っていた麻布をゆっくりと卓上に置き、椅子を回転させてクラリスへと向き直った。
その黒い瞳の奥には、驚きの色など微塵もなかった。
冷徹で、静謐で、すべてをあらかじめ見通していた観察者の眼差し。
「……息が上がっているわね、クラリス」
静かな、低い声。
その第一声を聞いた瞬間、クラリスの肩がビクッと跳ね上がった。
「下町の階段を全力で駆け下りるなんて、公爵令嬢の作法には載っていなかったでしょうに」
レアは足を組み、顎をしゃくった。
「マルゴ、銃を下ろしなさい。案内人たちも下がらせて。……この子はスパイでもなければ、刺客でもないわ」
「おい、レア! 正気かい!?」
マルゴが怒鳴るが、レアの冷淡な眼光に射すくめられ、渋々といった様子で銃口を床へと向けた。
「……チッ。外で見張ってな。誰も通すんじゃないよ」
マルゴが扉の向こうの部下たちを怒鳴りつけ、重い扉が再びバタンと閉じられた。
密室に残されたのは、荒い息を吐くクラリスと、冷ややかなレア、そして息を詰めるノアとマルゴ。
レアは、じっとクラリスの喉元を見つめていた。
激しく波打つ白い首筋。
皮膚の薄い鎖骨のあたりに、細かな鬱血のような赤みが滲んでいる。
大聖堂で聴いた、あの無理な高音発声の軋み。
そして、今夜の客席で、二階の最前列から身を乗り出して号泣していたあの姿。
レアの鋭利な直感は、この名門令嬢が今、どのような地獄の淵に立たされているのかを、寸分の狂いもなく看破していた。
「……大聖堂の鳥籠から逃げ出してきて、私に何の用かしら」
レアが冷ややかに問う。
「『下品な悪魔の節回しを歌うドブネズミ』に、まさかサインでもねだりに来たわけじゃないでしょう?」
あの日、大聖堂の最終選考で、マクシミリアン伯爵が吐き捨てた罵詈雑言。
それを冷酷な皮肉として突きつけられた瞬間、クラリスの顔が一層蒼白になった。
唇が震え、サファイアの瞳から、大粒の涙がポロポロと溢れ出す。
そして――。
ドサッ、と。
鈍く、重い音が、楽屋の湿った石畳の上に響いた。
「…………っ!?」
ノアが息を呑み、マルゴが目を見張った。
信じがたい光景だった。
帝国の頂点に君臨する名門貴族、ヴァレンヌ公爵家の令嬢が。
泥と鋸屑と、酒の染みがこびりついた薄汚れた地下の床の上に――両膝を、ためらいもなく叩きつけていたのだ。
それだけではない。
クラリスは粗末なウールのスカートを泥水に浸したまま、両手を床につき、額を石畳へと擦り付けるようにして、深く、深く頭を垂れた。
完全なる土下座。
十七年間の教育、名門の誇り、淑女としての尊厳――そのすべてを、自らの手で粉々に踏みにじり、灰にして差し出すような、痛切極まりない屈服の姿勢。
「……お、おい……公爵令嬢が……」
ノアの掠れた呟きが、静寂に落ちる。
床に額を押し当てたまま、クラリスの背中が小刻みに波打っていた。
嗚咽が漏れる。
そして、石畳を濡らす涙の隙間から、血を吐くような掠れ声が絞り出された。
「……お願い……っ、レア……!」
声帯が擦れ合い、微かな気管の悲鳴を伴った懇願。
「私に……本物の歌を教えて……! 息の仕方を……教えてください……ッ!!」
痛切な絶叫だった。
それは、教えを請う生徒の声ではない。
深い海の底に沈められ、水面を求めて爪を剥がしながら藻掻く溺者の、命を懸けた悲鳴。
「私の喉は……もう、死にかけているの……!」
クラリスは額を上げた。
その顔は、涙と鼻水と、床の泥で無残に汚れていた。
だが、その瞳の奥には、虚飾のすべてを削ぎ落とした、剥き出しの命の光が燃え盛っていた。
「感情を殺して、神の調和を模倣して……マクシミリアン伯爵の言う通りに歌い続けてきたけれど……もう、出ないの! 歌おうとするたびに、首を絞められているみたいで……喉が焼けて、息が詰まって……! あの日、大聖堂であなたの歌を聴いてから……私は、自分が死人の歌を歌わされていたことに気づいてしまったのよ!」
クラリスは両手で自らの喉元を掻きむしった。
「偽物は嫌……! 誰かの操り人形でいるのは、もう耐えられない! 私だって……私だって、歌が好きだったの! 生きているって、叫びたかったのよ! お願い、レア……! あなたのその声の出し方を……どうすれば、あんな風に魂を叩きつけるように叫べるのか、私に教えて……! 何でもするわ……! 私の持っているものなら、命だって差し出すから……ッ!」
静寂が、楽屋を支配した。
石造りの壁の隙間から、冷たい水滴がポタリと落ちる音だけが響く。
マルゴは煙管を咥えたまま、何も言えずに立ち尽くしていた。
ノアもまた、固く唇を結び、床にひざまずく少女の痛々しい姿を見つめていた。
二人は知っていた。
この帝国の文化という名の檻が、どれほど残酷に、どれほど冷酷に、人間の生身の魂を去勢し、壊死させてきたかを。
目の前にいるのは、敵ではない。
かつて大聖堂でレアを冷ややかに見下ろす側にいたはずの少女もまた、同じ檻の中で、首を絞められて窒息しかけていた被害者の一人に過ぎなかったのだ。
だが。
ひざまずくクラリスを見下ろすレア・ヴァーミリオンの瞳には――優越感など、欠片も浮かんでいなかった。
(……惨めね)
レアは心の中で、静かに呟いた。
かつて、自分を「下層のドブネズミ」として遠巻きに見ていた首席候補が、いま、自らの足元に額を擦り付けて泣き叫んでいる。
復讐を望む人間であれば、ここで嘲笑い、唾を吐きかけ、日頃の屈辱を晴らしていただろう。
だが、レアの胸に去来したのは、そんな安っぽい快感ではなかった。
そこにあったのは――冷徹な、しかし骨の髄まで染み通るような「共感」だった。
(知っているわよ。その喉の痛みを。……その、息ができない絶望を)
神の調和という名の無菌室。
感情を殺し、音符の奴隷となることを強いられる屈辱。
自分もまた、あの鳥籠の中で三年間、同じように喉を軋ませ、同じように魂を窒息させかけていたのだ。
目の前の少女が流している涙は、嘘偽りのない、表現者としての血の涙だ。
同じ「歌の呪い」に囚われ、歌うことによってしか生きられない不器用な魂。
レアは、ゆっくりと立ち上がった。
深紅のドレスの裾が、松板の床を擦ってカサリと音を立てる。
彼女は一歩、また一歩と歩み寄り、ひざまずくクラリスのすぐ目の前で立ち止まった。
影が、クラリスの頭上を覆う。
クラリスは息を呑み、縋るような眼差しでレアを見上げた。
レアは、感情の交じらない冷たい眼差しで見下ろしたまま、唇を開いた。
「……教える気はないわ」
ピシャリと、氷水を浴びせかけるような一言。
クラリスの瞳が、絶望に大きく見開かれた。
「手取り足取り発声法を教えて、優しい先生ごっこをしてあげる暇なんて、私にはないのよ。そんな甘ったれた学校の授業がお望みなら、明日の朝一番に聖楽院の門を叩いて、マクシミリアン伯爵の靴の裏でも舐めなさい」
「レ、レア……」
「でもね、クラリス」
レアは身をかがめた。
クラリスの鼻先数寸まで顔を近づけ、その青い瞳の芯を、鋭利な黒い瞳で射抜く。
「あんたが、自分で『盗む』気があるなら――話は別よ」
「……え?」
「私の歌を、間近で聴きなさい」
レアの唇に、三日月の形をした不敵な笑みが浮かんだ。
「私がどこで息を吸い、どこで横隔膜を落とし、どうやって骨を共鳴させているか。その耳と目で、穴が開くほど観察して、骨の髄まで奪い取りなさい。客席の一番いい場所――二階の最前列の中央席を、毎夜あんたのために永久に確保してあげるわ」
クラリスの胸が、ドクンと跳ね上がった。
盗む。
客席で、生きた歌のすべてを、自分の感覚で奪い取る。
それは、聖楽院のどんな退屈な講義よりも過酷で、そして何よりも魅力的な提案だった。
「だ、だけど……私に、何ができるの……? 私には、あなたに払えるような技術も、力も……」
「馬鹿ね」
レアは冷笑を漏らし、クラリスの顎を細い指先でクイと持ち上げた。
泥に汚れたその肌の奥にある、最高峰の血統。
「あんたはヴァレンヌ公爵令嬢でしょう? 帝国で最も権力があり、最も金を持っている貴族の娘よ。……タダで私の歌を盗ませるわけがないでしょう」
レアの瞳の奥で、冷徹な興行主の計算が光った。
「取引よ、クラリス」
「……取引?」
「ええ。席を用意してあげる代わりに――貴族の財布と耳を、私に差し出しなさい」
決定的な宣告。
レアはクラリスの顎から手を離し、立ち上がって見下ろした。
「あんたの社交界のコネクションを使いなさい。退屈で窒息しかけている令嬢たち、夜会で死んだ魚の目をしている貴婦人たちに、この〈アリーナ・ノワール〉の存在を囁きなさい。チケットを売りさばき、貴族の金をこの地下へと流し込むパイプ役になりなさい。そして、聖歌庁やマクシミリアンが不穏な動きを見せたら、その情報を真っ先に私へリークしなさい」
利用してやる、という剥き出しの宣言。
公爵令嬢という肩書を、自らのカルチャー革命のための武器として差し出せという要求。
「男に守られて、親の敷いたレールの上で泣いているだけのお人形さんで終わるか。それとも――私の共犯者になって、あの腐った貴族社会に泥水をぶっかけてやるか。……選びなさい、クラリス・ド・ヴァレンヌ」
選択肢は、初めから一つしかなかった。
クラリスの胸の奥底で、かつてない熱い炎がボッと音を立てて燃え上がった。
利用されていい。
共犯者でいい。
人形として窒息するくらいなら、この猛毒の歌姫の手足となって、自分を縛り付けてきた世界のすべてを焼き尽くす薪になってやる。
クラリスは、床の泥を手の平で拭い、力強く顔を上げた。
その瞳から、迷いの色は完全に消え去っていた。
「……やるわ」
掠れていたはずの声が、芯の通った凛とした響きを取り戻していた。
「私の持っているもの、私の立場、ヴァレンヌ家の名前……使えるものは、すべてあなたに差し出す。……だから、私をこの場所へいさせて。あなたの歌のそばに、いさせてください」
クラリスは床に落ちていた銀の仮面を拾い上げた。
泥を払い、自らの手でしっかりと握りしめる。
それは、もはや身分を隠すための逃げ道の仮面ではなかった。
新たな世界へと足を踏み入れた、自立した戦士の紋章。
レアの口元に、満足げな笑みが浮かんだ。
彼女は手を差し伸べなかった。
自らの足で立ち上がったクラリスを見届け、ただ短く、一言だけ告げた。
「明日の夜も、同じ席を開けておくわ。……遅れないことね、筆頭信者さん」
地下の湿った楽屋で、二人の少女の間に、歪で、しかし何よりも強固な絆が結ばれた。
シスターフッドの同盟。
光輪地区の象徴であった首席令嬢を自らの陣営へと引き入れたレア・ヴァーミリオンは、いまや貴族社会の心臓部へ向けて、決定的な毒針を突き立てようとしていた。




