第20話 砕かれた銀の仮面
二重に張り巡らされた黒い紗幕の隙間から漏れ出る空気は、煮えたぎる鉛のように重く、熱かった。
歓楽街の地下深くに穿たれた円形劇場――〈アリーナ・ノワール〉。
二夜目を迎えたこの地底のすり鉢は、こけら落としの夜をさらに上回る密度で、人間という名の熱源を呑み込んでいた。
一階のスタンディングエリアには、定員三百の枠を力づくで押し広げるように三百数十名の平民たちがひしめき合っている。港湾の荷揚げ人夫、鉄工所の職人、煤にまみれた煙突掃除の少年たち。誰一人として整列などしていない。互いの脂汗と荒い呼気を擦り合わせながら、飢えた野犬のように舞台の一点を見つめていた。
そして――頭上を囲む二階回廊のボックス席。
金貨三枚という法外な入場料を支払い、専用の隠し通路から潜り込んできた五十名の「顔のない貴族たち」が、今夜も息を潜めて闇の中に沈んでいた。
その最前列、舞台の中央を真上から見下ろす特等席の手すりに、クラリス・ド・ヴァレンヌは両手をかけていた。
(……来られた。本当に、ここへ……)
平民の粗末なウールの外套の下で、胸が早鐘のように激しく脈打っている。
顔の上半分を覆うのは、白磁に銀の唐草模様を彫り込んだベネチアンマスク。冷たい陶器の肌触りが、上気した額を締め付けていた。
手すりの向こう、わずか十数メートル下には、張り替えられたばかりの松の無垢板が、琥珀色のオイルランプの光を浴びて円形に浮かび上がっている。
近かった。
こけら落としの夜、人目を恐れて柱の陰に隠れていた時とは違う。今夜の彼女は、入場時に受付の案内人に銀貨を余分に握らせ、強引にこの最前列の中央席を買い取ったのだ。
見渡せば、隣のボックス席にも同じように銀の仮面を被った紳士や貴婦人が座っている。誰も口を開かない。しかし、仮面の奥から放たれる視線の熱量は、一階の平民たちと何ら変わりがなかった。
退屈な社交界の仮面を脱ぎ捨て、魂を焼き尽くす劇薬を求めて集まった、五十人の共犯者たち。
不意に、天井の換気口から吹き込んできた冷気が、ふっと途切れた。
カツン。
舞台袖の暗闇から、乾いた靴音が一つ。
その瞬間、五百人を呑み込んでいた巨大な地底空間から、一切のざわめきが吸い取られた。
咳払い一つない。衣服の擦れる音すら途絶える。
ただ、数百人の人間が一斉に呼吸を止めたことによる、空間の軋みだけが微かに耳朶を打つ。
光の輪の中へと、彼女が歩み出てきた。
レア・ヴァーミリオン。
深紅と漆黒のシルクベルベットで仕立てられた、息を呑むほどに前衛的なドレス。
胸の下から横隔膜にかけて大胆に刻まれたスリットから、息を吸うたびに鮮烈な血の色の裏地が覗く。コルセットのないその肉体は、鎖骨と喉仏を剥き出しにし、一頭の美しい猛獣のようにしなやかに引き締まっていた。
彼女はマイクスタンドも持たず、ただ円形ステージの中央に仁王立ちになり、すり鉢の客席を、そして二階の仮面席を、冷徹な黒い瞳で見据えた。
クラリスの喉が、ひくりと痙攣した。
見下ろされている。
あの傲慢で、何者にも屈しない瞳に、いま自分の存在のすべてが射抜かれた――そんな錯覚が、背骨を電撃のように駆け抜ける。
ドォォン……。
舞台奥のグランドピアノから、低く引きずるような和音が落とされた。
ノア・カレヴィの指先が紡ぎ出す旋律。
だが、それは初日の夜のような、床を揺らす爆発的なファンクのビートではなかった。
重く、遅く、一拍ごとに地底の闇を深く抉り取っていくような、極限のスロー・ブルース。
短三度と長三度のあいだ。
純正律の定規では絶対に測ることのできない、哀愁の汚濁を孕んだ不協和音が、木製の巨大な反響板を通じて、すり鉢状の壁面を這い上がってくる。
ウッドベースが低く唸り、ブラシで擦られたスネアドラムが、秋の枯れ葉を踏み躙るような微かな擦れ音を重ねる。
そして――。
レアの喉仏が、ゆっくりと持ち上がった。
「――Mmm, sometimes I feel…… like a motherless child……」
最初の一声。
それは歌というよりも、冷たい泥の底から漏れ出た、生身の人間の呻きだった。
「っ…………!」
クラリスの全身の毛穴が、一斉に逆立った。
鳥肌が、腕から首筋、そして頭皮へと一瞬で駆け抜けていく。
音圧が、大聖堂の合唱とは根本から違っていた。
頭蓋骨の空洞だけで綺麗に響かせる無機質なソプラノではない。胸郭を、肋骨を、そして腹の底の粘膜までもを振動板として使い切った、生々しい肉の響き。
掠れたエッジボイスが混ざり、音程が気怠く半音下へとぶら下がるたび、クラリスの胸の真ん中に、目に見えない巨大な鉄の杭が打ち込まれていくような衝撃が走る。
「――A long way from home…… a long, long way from home……」
レアが歌っていたのは、ただの「孤独」だった。
煙突街の凍てつく冬。
石炭の煙に咽びながら死んでいった母親の冷たい手。
どれほど泣き叫んでも、神は降りてこず、貴族の馬車は泥水を跳ね上げて通り過ぎていくだけだった日々。
誰にも届かない叫びを抱え、飢えと寒さに震えながら、それでも喉を鳴らし続けて生きてきた、一人の少女の血の記憶。
その歌声が、二階の最前列で手すりを握りしめるクラリスの「心の核」を、真正面から撃ち抜いた。
(あ…………)
クラリスの視界が、急速に歪み始めた。
息が、吸えない。
なぜだ。
自分は煙突街の生まれではない。飢えたこともなければ、暖炉のない冬を過ごしたこともない。
名門ヴァレンヌ公爵家の令嬢として、何不自由のない温室の中で育ってきたはずだった。
それなのに――。
レアの放つ痛切なブルースの節回しが、クラリスの胸の奥底で、頑丈な鍵をかけて封印していたはずの「傷口」を、容赦なくこじ開けていく。
――「お前は名門の誇りであり、神の調和を体現する器だ」
耳の奥で、父の冷たい声が響く。
幼い頃、庭の小鳥のさえずりを真似て、声を弾ませて歌っていた日々の記憶。
あの頃の自分は、歌うことが好きだったはずだ。
歌うたびに胸が温かくなり、世界が色彩に満ちていくのを感じていたはずだった。
だが、いつからだっただろうか。
父の厳しい視線。
マクシミリアン伯爵の冷酷な叱責。
「感情を交えてはならない」「音程を揺らしてはならない」「完璧な人形であれ」という無菌室の教理。
笑顔を奪われ、息の自然な乱れすら罪と断じられ、喉の激痛を隠して血の味を飲み込みながら、ただ数式の記号のように音符を並べ続ける日々。
自分はいつから、神と貴族の操り人形に成り果てていたのか。
自分の声は、誰のためのものだったのか。
人形として愛されるために、自分自身の心を、命を、この手で殺し続けてきたのではないか。
「――True believer…… oh, tell me where you're bound……」
レアの声が、悲痛な唸りを伴って高みへと駆け上がる。
裏声ではない。
地声の限界を突き破り、声帯が軋む音すらも音楽の熱量に変えて放たれる、剥き出しの咆哮。
それは、教会の神への祈りなどではなかった。
神に捨てられた者が、それでもこの泥にまみれた大地の上で、自らの足で立ち上がるための、原始の叫び。
パキリ、と。
クラリスの胸の内で、何かが音を立てて砕け散った。
十七年間、彼女を縛り付けていた価値観の檻。
公爵令嬢としての矜持。
聖楽院の首席候補という虚飾の肩書。
父への服従、教会への恭順。
そのすべてが、レアの一撃の絶唱によって、木っ端微塵に吹き飛んだのだ。
「う…………っ、あ…………!」
クラリスの唇から、耐えかねたような嗚咽が漏れた。
気付いた時には、彼女の両手は、手すりから離れていた。
身につけていた上等な絹の手袋。
淑女の嗜みとして、決して人前で素肌を晒さぬよう教え込まれてきたその布地を、彼女は無我夢中で指先から引き剥がしていた。
ビリッ、と縫い目が裂ける音など気にしない。
脱ぎ捨てられた手袋が、二階の手すりを越えて、暗闇の底へとひらひらと落ちていく。
そして、素肌になった両手で、クラリスは自らの顔面を覆った。
止めどなく溢れ出る涙。
大粒の雫が、仮面の内側を伝い、顎からポタポタと絨毯の上へ、そして手すりの松板へと零れ落ちていく。
銀の仮面が、彼女の熱い涙で濡れそぼり、ぐしゃぐしゃになっていく。
呼吸が乱れ、肩が激しく波打つ。
喉が痛かった。昼間の発声で擦り減った声帯が、火を噴くように熱い。
だが、その痛みの奥から、生まれて初めて味わう狂おしいほどの「解放感」が、彼女の全身の血液を沸騰させていた。
(私は……歌いたかった……! こんな風に、命のすべてを叫びたかったんだ……!)
ステージの上のレアを見つめる。
涙で滲む視界の向こう、汗に濡れた前髪を振り乱し、真紅のドレスを翻して歌う少女。
あの子は、自分からすべてを奪っていった敵ではなかった。
自分を「悪魔」と罵り、追放した世界に対して、たった一人で中指を立て、自らの喉一つで新たな世界を創り出そうとしている、圧倒的な光。
羨望。
畏怖。
そして――魂の底から湧き上がる、狂おしいまでの憧憬と敬意。
レアの歌が、最後のクライマックスへと雪崩れ込んだ。
ドラムが激しくロールを打ち鳴らし、ノアの両手が鍵盤全体を叩き潰すような不協和音を炸裂させる。
レアが大きく胸郭を開き、顎を天に向けて突き上げた。
「――SOMETIMES I FEEL LIKE I’M ALMOST GONE――!!」
天井の岩肌を突き破らんばかりの、極限のハイトーン・シャウト。
五百人の鼓膜を震わせ、すり鉢の石造りの壁を共鳴させ、客たちの頭蓋骨を直接揺さぶる音圧の奔流。
歌い切った瞬間――レアのすべての息が吐き尽くされ、ホールに静寂が落ちた。
その静寂の中で。
――バチンッッ!!
誰よりも早く、火花が散るような激しい破裂音を鳴らしたのは、二階の最前列に立つクラリスだった。
「…………ッ!」
クラリスは、立ち上がっていた。
淑女の礼儀作法も、隣のボックス席に座る貴族たちの視線も、何一つ目に入っていなかった。
手袋を脱ぎ捨てた素手の平を、皮膚が破けんばかりの力で打ち鳴らし続ける。
バチンッ! バチンッ! バチンッ!
仮面の下から、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を晒し、声にならない嗚咽を漏らしながら、狂ったように拍手を送り続ける。
その拍手は、公爵令嬢の優雅な賞賛などではなかった。
魂を救済された信徒が、自らの神に向かって捧げる、剥き出しの感謝と熱狂の絶叫。
クラリスの手拍子が引き金となった。
ドォォォォォンッッ!!
一階の三百人の平民たちが、そして二階の五十人の仮面の貴族たちが、一斉に席を蹴って爆発したのだ。
耳を聾するほどの歓声。口笛。足踏みの地鳴り。
金貨と銀貨が、土砂降りの雨のようにステージへと投げ込まれる。
二階席の紳士たちも、淑女たちも、全員が立ち上がり、手すりに身を乗り出して叫んでいた。
だが、その誰よりも激しく、誰よりも狂おしく手を叩き続けていたのは、最前列で涙を流し続けるクラリスだった。
ステージの中央で、息を乱していたレアが、ふと顔を上げた。
彼女の鋭利な黒い瞳が、二階の最前列――狂乱の渦の中で、仮面を濡らしながら立ち尽くす小柄な少女を捉えた。
目が合った。
銀の仮面の目のスリット越しに、クラリスの濡れた青い瞳と、レアの冷徹な黒い瞳が、真っ直ぐに交錯した。
レアの唇の端が、かすかに吊り上がる。
嘲笑ではない。
己の歌で、一人の人間の魂を完全に解体し、奪い去った者だけが浮かべる、絶対的な勝者の笑み。
やがて、客席を埋め尽くすアンコールの怒号の中、舞台の照明が静かに落とされた。
終演を告げる闇。
二階のボックス席では、興奮の余韻に震えながらも、身バレを恐れる貴族たちが我先にと席を立ち、裏口の隠し階段へと足早に向かい始めていた。
ベルナールの部下である案内人たちが、仮面の客たちを誘導するために回廊を巡回し始める。
「お客様、速やかにご退場を。外に辻馬車が待機しております」
黒服の案内人が、クラリスのボックス席の前で立ち止まり、声をかけた。
だが。
クラリス・ド・ヴァレンヌは、出口へとは向かわなかった。
(……このまま、帰るわけにはいかない)
胸の中で、激しい衝動が渦巻いていた。
客席で聴くだけでは足りない。
あの少女に、会わなければならない。
あの喉を持つ者に、自分のすべてを晒し、頭を下げてでも、乞い願わなければならないのだ。
「お客様?」
案内人が不審そうに手を伸ばしかけた、その瞬間。
タッ、と。
クラリスは身を翻した。
退場用の階段とは正反対の方向――ステージ裏へと続く、関係者専用の重い扉に向かって、全速力で駆け出したのだ。
「お、おい! そっちは関係者以外立ち入り禁止だぞ!」
案内人の鋭い怒声が背後から飛んでくる。
屈強な護衛が足音を立てて追いかけてくるのが分かった。
だが、クラリスは止まらなかった。
粗末なウールのスカートを両手でたくし上げ、薄暗い地下の回廊を、風のように疾走する。
心臓が破裂しそうだった。
足がもつれ、冷たい石壁に肩をぶつけながらも、ただ一点――あの真紅の歌姫がいる場所を目指して、彼女は暗闇を駆け抜けていた。
扉を押し開け、狭い階段を駆け下りる。
目指すのは、地底の楽屋。
公爵令嬢という名の抜け殻を完全に脱ぎ捨てたクラリス・ド・ヴァレンヌは、自らの命を救うための、最後の扉へと手を伸ばそうとしていた。




